第36話 ロブフ村
「……殺風景な村ですわね」
ロブフ村は、パソネス家の屋敷から徒歩でおよそ三十分ほどの場所にあった。
当初は馬車で向かう案も出ていたのだが、玄関ホールでばったりとアメリアに遭遇したことで、その予定はあっさりと変更された。
「皆さんお揃いで……どちらへ行かれますの?」
少し驚いたように目を瞬かせながら、アメリアが問いかけてくる。
「イデアは村を見たことがないらしくてさ。だから、これから村を見学に行くんだよ」
答えたのはマヤだった。
悪びれる様子も、躊躇する素振りもない。
まるで最初から用意されていた台詞であるかのように、淀みなく、淡々と――見事なまでの嘘を吐いた。
「……」
――よくもまあ、そんな嘘を瞬時に思いつくものですわね。
呆れにも似た感心が、胸の奥にじわりと広がる。
それはどうやら、私だけの感想ではなかったらしい。
隣に立つアールもまた、先程まで浮かべていた呆れや嫌悪の色を消し、思わずといった様子で目を見開いていた。
アールは、身分も礼節も顧みず、自由奔放に振る舞うマヤに辟易しつつも――
彼女の“能力”そのものについては、高く評価している節がある。
嘘を嘘として成立させる胆力。
場の空気を一瞬で塗り替える度胸。
彼女は厄介で、危うくて、けれど無視できない存在だった。
「それなら……私もイデア様とご一緒したいですわ!」
胸の前で指を組み、瞳をきらきらと輝かせながら、アメリアが同行を申し出てくる。
特に断る理由もなかった。
それに、彼女自身もこの地に興味を抱いたのだろう。
もっとも――昨日まで、ひどい乗り物酔いに苦しんでいた身であることを思えば、無理はさせられない。
そのため今回は馬車を使わず、食後の軽い運動を兼ねて、徒歩で村へ向かうこととなった。
そうして辿り着いたのが――現在。
風に吹かれ、静まり返ったロブフ村の入り口で、私は立ち止まり、改めて周囲を見渡した。
山の麓に寄り添うように築かれた、小さな村。
背後にそびえる山は深い緑に覆われているはずなのに、その緑はどこか生気を拒むようで、陽光さえ吸い込んでしまうかのように影を落としていた。村全体が、薄暗い膜に包み込まれているように感じられる。
――ここが、本来なら崩壊するはずだった場所。
「……ずいぶん、静かですわね」
思わず漏れた呟きは、風にさらわれることもなく、妙に重たく足元へ落ちた。
家々は木造で、藁葺きの屋根はところどころ色あせ、長い年月と貧しさに晒されてきたことを隠そうともしない。
壁板には深いひび割れが走り、歪んだ窓枠には板が打ち付けられたままの家も多い。
――人は、いるはずなのに。
通りには人影がない。
洗濯物も干されておらず、家々から漂うのは生活の匂いではなく、ただ湿った空気だけだった。
――ゴホッ、ゴホ……。
不意に、喉を裂くような湿った咳の音が耳に届く。
道の脇に腰を下ろした老人が、布切れで口元を押さえながら、苦しそうに背を丸めていた。
その背中は小さく、今にも風に折れてしまいそうだ。
傍らには、痩せた子どもが立っている。
幼い指で老人の背をさすりながら、じっと顔を見上げているその瞳には、年齢にそぐわぬ諦観が宿っていた。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「……他の場所も見たい」
か細い声で呟くマヤ。
彼女からは先程までの元気が消えていた。
マヤについていく形でさらに奥へと足を進めると、家の軒先や、閉ざされた扉の向こうからも、同じような咳が漏れ聞こえてきた。
「……おかしい」
独りごちるマヤ。
誰かが外へ出てくる気配はない。
ただ、壁越しに伝わってくる弱々しい呼吸だけが、この村に“生きている人間がいる”という事実を辛うじて証明している。
風が吹くたび、道端の草むらがざわりと揺れ、乾いた音を立てる。
だが、その音すら――この村を覆う沈鬱な静けさを打ち破るには、あまりにも力不足だった。
――ここは、本当に崩壊を免れた村ですの?
胸の奥に芽生えた疑念を振り払えぬまま、隣を歩くマヤへと視線を向ける。
彼女もまた、いつもの軽薄さを鳴り潜め、言葉少なに周囲へと視線を走らせていた。
眉間に刻まれたわずかな皺が、彼女自身もこの光景に違和感を覚えていることを、雄弁に物語っている。
――やはり、何かがおかしいですわ。
この静けさは、平穏の証ではない。
それは、ゆっくりと衰えていく音を、無理やり押し殺した末の――沈黙のようだった。
「スト――――ップ!」
張り裂けるような声が、沈鬱な村の空気を切り裂いた。
次の瞬間、マヤが跳ね出し、目の前を横切ろうとした子どもの肩をがしりと掴んだ。
「ちょっと、それ見せて」
有無を言わせぬ調子で、マヤは子どもが抱えていた籠に手を伸ばす。
中には、笠の大きな茸がいくつも詰め込まれていた。
色も形も、ごくありふれている。
森で採れる、どこにでもある茸――少なくとも、見た目だけなら。
「この茸、どこで手に入れたのかな?」
マヤは同い年くらいの子どもに問いかける。
「えっとね、いっぱい手に入ったから――分けてくれたんだ」
「――ポポス!」
子どもの言葉を遮るように、掠れた声が割り込んだ。
咳き込みながら、先ほど道端に座り込んでいた老人がこちらへ歩み寄ってくる。
一歩一歩が重く、地面を引きずるような足取りだった。
「……お貴族様でいらっしゃいますか」
老人は深く頭を下げたまま、名乗る。
「私はこの村で村長を務めております、ラバと申します。……大変申し上げにくいのですが、ここは何もない寒村でございます。どうか、お引き取りください」
それだけ告げると、彼は再び深く頭を下げ、子どもの手を取って足早に立ち去ろうとする。
――あまりにも、露骨な拒絶。
「ひとつ、聞いてもいい?」
その背中を、マヤの声が引き止めた。
村長は一瞬だけ身を強張らせ、恐る恐る振り返る。
その表情には、隠しきれない警戒の色が浮かんでいた。
「……何でございましょうか」
「最近、税がまた上がったりした?」
村長は、わずかに目を見開いた後、首を横に振る。
「いえ。数年前に一度上がったきりで、それ以降、増税はございません。パソネス家の皆様は、とてもお優しい御方です」
その言葉に、私は胸の奥で小さく息を吐いた。
――それは事実なのだろう。
絹糸の収益を見込んだパソネス家は、村への負担を増やさなかった。
それは、私とマヤが望んだ未来でもある。
――それなのに。
マヤの顔から、疑念は消えない。
そして私自身も、この村を覆う不穏な空気に、説明のつかない違和感を覚えていた。
「そっか……じゃあ、あと一つだけ」
マヤは籠の茸から視線を離さぬまま、言葉を続ける。
「村の人たち、あんまり体調が良くなさそうだけど。いつ頃から?」
村長の表情が、一瞬だけ凍りついた。
「……そのようなことは、ございません。皆、この通り、健康に暮らしております」
――先ほどまで、苦しそうに咳き込んでいた口から出た言葉とは思えない。
その不自然さに、アメリアが思わず口を挟む。
「でも、先ほど――」
「歳のせいでございますよ」
村長は苦笑しながら言葉を被せた。
だが、その笑みは硬く、どこか怯えを含んでいるように見えた。
――何かを隠している。
しかも、それは善意ではない。
私はマヤの手に握られた茸を見つめながら、静かに確信していた。
「この茸、貰ってもいいかな?」
「うん、いっぱいあるから。あげる」
子どもはそう言って、屈託のない笑顔を向けた。
マヤが軽く礼を述べると、子どもは手を振り、村長に急かされるようにして歩き去っていく。
その背中は、先ほどよりもどこか小さく、風に押し戻される枯葉のように頼りなかった。
村の通りには、再び沈黙が戻る。
ざわめいていた空気さえ、息を潜めたかのようだった。
「……マヤ?」
私は彼女の隣へ一歩近づき、声を潜めて呼びかける。
マヤは手にした茸を、じっと見つめていた。
指先で軽く笠を撫で、裏側を確かめる。その横顔は、いつもの軽薄さを完全に失っている。
「……女神様はさ」
ぽつり、と。
独り言のように、しかし確信を孕んだ声音で、彼女は言った。
「何がなんでも、この村を滅ぼしたいのかもね」
「……」
その瞬間、胸の奥を冷たい手で鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
言葉の意味を理解するよりも先に、身体が強張る。
血の巡りが止まり、世界の音が一段、遠のいた。
――滅ぼす。
私は無意識のうちに、背後の山を振り返っていた。
陽を拒むように影を落とす、あの深い緑の塊。
この村に覆い被さる不穏は、ただの貧困でも、疫病でもない。
もっと根源的で、抗いようのない――運命そのものなのではないかと。




