第六章 集合的無意識とサヨナラグッバイまたあした 3 シリル
体を動かすと、全身が悲鳴を上げた。シリルはゆっくりと顔だけ上げた。
ゴールデンレトリバーから金髪の男が放たれ、ヨーコに向かっている。その男のエネルギーは見た目にも激しく、シリルにはヨーコももう無理だろうと感じてしまう。
ゴールデンレトリバーは問答無用に強い。
だが、ヨーコもまた、ゴールデンレトリバー同様に背後に力が集まり始めている。それはヨーコがこれまでに使っていた天使の力でも、シリルが使っていた悪魔の力でもない。全く別の力だ。ゴールデンレトリバーが使っている力と同様の力だ。
ヨーコの背後にも一人の男が現れる。
リーゼントヘアにサングラス、ブラックのスーツを着た、やくざのような見てくれのおっさんが、ゴールデンレトリバーの作り出した金髪の男と激しくぶつかり合う。リーゼントヘアのおっさんと金髪の男は一歩も引かず、お互いが放ったかめはめ波によって相打ちになり、激しい爆発が起こり、キノコ雲ができる。
「シリルさんよぅ」
アフガンハウンドが耳元に座っていた。
「楽しく行こうぜ。お前さんが死んじまったらよぅ、俺の楽しみもなくなるってわけだからな。あんな犬、蹴散らしてしまえ。あのお嬢ちゃんみたいに楽しくいこうぜ、Vシネマのスターの競演再来ってやつよ」
シリルはゆっくりと立ち上がった。ふらつきはするが、まだ戦える。
ヨーコの力は天使の力から変異し、目の前のゴールデンレトリバーと同じ種類の力になった。この場所で一緒に戦っている俺だって、新しい力を使いこなせるはずだ。
そう思うとシリルの背後にアフガンハウンドが出現する。
心にアフガンハウンドとチワワがいた理由は何か? なぜ戦いが終わったにもかかわらず悪魔の力が残っていたのか? なぜ願い事を言うことができなかったのか?
一年前の戦いで、シリルは家族を守ることができなかった。あのとき、悪意の塔から落下したヨーコを助けたように、シリルの家族を助けることができていたら――その思いがずっとシリルの心に滞っていた。それは時間により癒されることはなく、気楽な新生活をすればするほど、後悔の念はむしろ増幅していった。
だから、シリルは執着していた。一年前の戦いに、天使と悪魔の戦いに、自分自身の愚かさに。アフガンハウンドとチワワと同居することで、まだ戦いは終わっていないと思いこませ、少しだけでも心の傷を和らげようと思っていた。
「シリルさん。そろそろけじめを付けるいい機会なのかもしれませんね」
チワワが目の前でゴロゴロしていた。
「あのバカみたいなアフガンハウンドとの共同生活ももう充分楽しんだつもり。だから、こんどはシリルさんが自分の人生を楽しむべきなの」
チワワの存在自体をシリルは作り出していた。だから、チワワの言葉が自分の思いなのだと言うことも十分分かっていた。
アフガンハウンドの隣にチワワが出現する。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ。そんなに急いでどうするんだ」
アフガンハウンドが慌てた口調だ。
「こいつはけじめ付けりゃいいかもしれねえが、俺はもう少しおまえさんと楽しみたいんだ。もう少しだけ待ってくれ」
シリルは笑った。もう決心は付いていた。目の前にいるゴールデンレトリバーはシリルの心の闇に付け込んだ存在。アフガンハウンドとシリルとの別れが、シリルが心の闇を癒し、ゴールデンレトリバーの入る余地をなくすことになる。負けることは許されない。
「決心は固いみたいね」
チワワがゆっくりと回りながら上昇していく。
「まあ、これもまた一興ってやつか」
アフガンハウンドがチワワの後を追って上昇する。二匹の犬はぴたりと止まると、激しい光と共に一つのエネルギー体へと変化した。シリルの背後に、一匹のブルドックが出現する。その姿は漆黒一色ではなく、ブルドックの鼻の周りから首、胸元までが純白で、目の周りや耳、前足、後ろ足と体全体が漆黒だ。
それはシリル自身を模した力、シリルの固い決意を現した力。善や悪を超越したシリルという生命体の生きる意志だ。今のシリルの心を砕くことのできる力でなければ、シリルの背後のブルドッグを破壊することはできない。
「あばよ」
アフガンハウンドの声と共に、シリルの産み出したブルドッグが、ゴールデンレトリバーへと駆け抜ける
「全ての生命体が共有する無意識――」
ゴールデンレトリバーが口を開く。
「たった一匹のブルドッグの意志だけで、その巨大な無意識の海の主を倒せるという考えは馬鹿げている。それは不可能だ。シリルという生命体の作り出したブルドッグの力により、神を、我を、破壊することは不可能。不可能だ。不可能だ」
ゴールデンレトリバーの顎が更に大きく開かれ、その喉の多くに居る緑色の目がぎらりと妖しく光る。
シリルの作り出したブルドッグが、ゴールデンレトリバーに近づくにつれ、悪魔の力と同様に粉となり、周囲に散らばっていき、ゴールデンレトリバーには届かずに消滅する。
「確かにわんちゃんの小さな脳味噌から生まれたブルドッグの力なんて、あなたに比べたら、ちっぽけな力かもしれない」
ヨーコがアーチェリーを生み出し、ゴールデンレトリバーに向かって、構える。
「まあ、それでもここは日本なんだから、個人の自由は憲法で保護されている。だからさ、あなたもわんちゃんの自由を認めるべきよ。それにわたしの自由もね」
アーチェリーの矢に激しいエネルギーが集まり始めているのが分かる。それはゴールデンレトリバーを倒すという正義感でもなく、悪意でもなく、勿論シリルを助けたいという騎士道精神でもない。
純粋な、ただ目の前にいるヨーコ自身の精神を利用して、心の隙を見つけ、付け入った集合的無意識に住む神を叩き壊し、再び自由を手に入れたいと思う希望――
ヨーコがアーチェリーのストリングを引くと、アーチェリーの矢が光り輝く。その色は、純白でも、漆黒でもなく、ヨーコの自由意思を具現化し、七色に、虹色に輝きながら、無限の可能性を秘めて、ゴールデンレトリバーに向かっていく。
「我は神、すべての生命体が共有する集合的無意識の主であり、二体の生命体の意志ごときに屈することはない」
ゴールデンレトリバーの背後に二体の金色に輝くレプリカントが現れる。
二体のレプリカントは、ゴールデンレトリバーの前に立つと、右肩にロケットランチャーを担ぎ、ロケット弾を放つ。二体のロケット弾とヨーコの虹色に輝くアーチェリーの矢が衝突し、激しく爆発する。
「人間だって、わんちゃんだって、自分勝手な生き物なのよ!」
ヨーコが叫んだ。
「自分自身のために生きる! そして、自分の気に入らないことは排除する! そして、自由を得る。希望を掴む!」
ヨーコは、ヨーコは再びアーチェリーのストリングを引くと、虹色の輝くアーチェリーの矢が現れ、そして、ヨーコの背後にも複数の虹色のアーチェリーの矢が発現し、矢の先端はゴールデンレトリバーを狙う。
「私はただあなたを許さない! 絶対に許さない! わたしのオーヤマケータをケータを愛する気持ちに付け入ったあなたは絶対に許さない! わんちゃんだって、そうでしょ!」
「ああ、その通りだ! お前が神であろうとも、俺みたいな犬っころ、ヨーコみたいな元気いっぱい花丸女の心をもてあそぶ程度の存在が、この世界を破壊したいと思う、俺やヨーコよりも強い存在であるはずがない!」
シリルの背後にもシリルに似た白と黒のブルドッグが複数体発現する。
「無駄だ。集合的無意識においては、すべての生命体の意志を我が制御する」
「できるもんならやってみなさいよ!」
ヨーコがアーチェリーの矢を放つつともに、シリルのブルドッグたちもゴールデンレトリバーに向けて、走っていく。
「無駄だ。無駄だ。無駄だぁ」
「あんたなんかの意志なんかより、わたしたちの意志の方が強い!」
ヨーコの虹色の矢がレプリカントに何本も刺さり、レプリカントが消滅する。
そして、残りの矢はゴールデンレトリバーに向かっていくにつれ、粉々になり、矢はゴールデンレトリバーの手前で消える。しかし、何本もの矢がヨーコから放たれ、徐々に、徐々に、矢が消滅する場所がゴールデンレトリバーに近づいていく。
シリルのブルドッグが加わり、ブルドッグも最初はゴールデンレトリバーの二メートルほど手前で消滅していたが、それが、徐々に、一メートル半、一メートルと,ゴールデンレトリバーに近づいていく。
ヨーコの虹色の矢も、シリルのブルドッグも、二人から無数に放たれ、途切れない。
五十センチ――
三十センチ――
十センチ――――
遂に、ヨーコの虹色の矢が、ゴールデンレトリバーの喉の奥に突き刺さった。ゴールデンレトリバーが大きくのけぞると、二人の攻撃を押し返していた力が、一瞬にして消失する。
無数の虹色の矢、シリルのブルドッグがゴールデンレトリバーへと突っ込んでいく。
「ありえない。我は神――」
ゴールデンレトリバーという外装がはがれ落ちていた。顔の半分は削り取られ、右前足と、左後ろ足は跡形もなくなっていた。毛は所々剥げ、地肌が見えている。
「我は望んで無意識に漂い、精神を巣くっているわけではない。シリルという犬の心の隙間が我を呼び寄せ、ヨーコという人間の心の叫びこそが、この命を誕生させ、存続させ、戦いを繰り返している。今ここで、倒れようとも、生命が我を望むかぎり、神は再来する」
ゴールデンレトリバーが、徐々に散り始めている。粉が渦を巻き、上昇し、宇宙の彼方へと吸いこまれていく。
「あっそ」
ヨーコが呟いた。
「呼び寄せちゃったなら、帰ってもらうのが一番ね」
「ああ。その通りだ」
ダメージが大きすぎて、シリルはその場に倒れこんだ。ヨーコが地面に座り込み、シリルの背中を優しくさすった。
世界が、宇宙が消えていく。世界全体が真っ白になり、そして、再び、二人は時計台の前に戻った。




