第六章 集合的無意識とサヨナラグッバイまたあした 2 ヨーコ
この純白の世界が崩壊してしまう前に、最後に一回だけケータを抱きしめて、全身を震わせるような淡いキスをしようと近づいていったのに、ケータは最期の挨拶もせずに消えてしまった。ケータの消失と共に、この世界が本格的に崩れ始める。境目の見えない真っ白な空間は、アイスが溶けるようにどろどろに崩れ落ちていき、暗い空間が見えた。
真っ白な空間が消え、新たに出現した世界は、宇宙だった。無数の星々がきらめき、いくつもの銀河が、広がっている。こんなにたくさんお星様が見えてしまうと、地球上で覚えた星座なんてただのおとぎ話にしか思えなくなる。
必死で流れ星を探し、この戦いに勝つんだと願おうとするけれど、小天体が地球の大気に衝突するときにプラズマ化したガスが発光するんだと思いなおす。
そんな宇宙の真ん中に、ヨーコは立っていた。床はない。だけど、ヨーコはしっかりと地面に立ち、重力も感じていた。右も左も上も下も、しっかりと確認できている。
目の前にいるのは一匹のゴールデンレトリバー。
「がう」
ゴールデンレトリバーが吠えた。
天使が現れ、悪魔が現れ、悪意の塔がそびえ立ち、純白の空間へと誘われた。そして、最後に待っていたのがゴールデンレトリバー。何度も言うようだけど、猫派のわたしはゴールデンレトリバーは嫌いじゃないけど、最愛のオーヤマケータとの再会したロマンティックなシチュエーションには相応しくない。
「わんちゃん!」
ヨーコは目の前にいるゴールデンレトリバーに対してではなく、きっと集合的無意識により別の世界に捕らわれているシリルに向かって叫んだ。
「きっと分かっていないと思うけど、わたしが会いたいと思った神様なんていないのよ」
ゴールデンレトリバーは十九世紀前半にスコットランドのトゥイードマウス卿によって飼われた子犬が始祖であると言われている。明朗で温順、人懐こいから、番犬には向かない。他のわんちゃんに対しても友好的な態度を取ることが多い。
そんなゴールデンレトリバーが生命の無意識の中に居座って、この天使と悪魔との戦いの黒幕だなんて、どうしても理解できない。だけど、それが事実なら、どんなに突拍子もない現実にだって真っ向勝負しなくっちゃいけない。
「なぜわたしがこんなだだっ広い空間にいるのか、わんちゃんと別々なのか」
ヨーコはシリルの気配を感じた。シリルもまたこの空間に向かっている。
「がう!」
足元には青い地球が浮かんでいて、遠くの方に太陽が見えた。
「ヨーコ」
シリルの声がすると、右隣にお座りしていた。
「あいつは誰だ?」
「ゴールデンレトリバー、質問しなくたって、見れば分かるでしょ。わんちゃんはわんちゃんなんだから、わんちゃんにはどんな犬種があるのかくらい分からないと、わんちゃんの行く末真っ暗ね。どうやってプロポーズするの。もう。しっかりして、あれはゴールデンレトリバー。クリル・アイランド・ボブテイルに告白したってしょうがない」
「クリル・アイランド・ボブテイル?」
「千島列島期限の猫種」
シリルは全身が傷ついていた。悪意の塔で最後に会った時には元気そうだった。だから、ヨーコと別れ、別の集合的無意識にいる時に何かあったに違いない。でも、シリルから感じる悪魔の力は弱っていない。まだいつでも戦えるよってオーラがみなぎっている。
「わんちゃん、傷ついてるみたいだけど、戦える?」
「問題ない」
当たり前だ。わんちゃんが弱っていたら、そんなのわんちゃんじゃない。
がう――
ゴールデンレトリバーが震えた。ゆっくりと口が開いていく。口が開き続けるのが、止まらない。めりめりっと顎の骨が破壊される音が響き、口が裂け始める。大きく開いた喉の奥に、緑色の目が二つ見えた。
「我は神」
生身の人間の声ではなく、機械で合成したようなピコピコした音だった。ゴールデンレトリバーの体に、その中に生息した緑色の目を持つ生命体、声は機械のピコピコ音。友達に神様はこんな犬だったよって伝えてもきっと信じてもらえない。
「神は万人を愛する」
ゴールデンレトリバーの全身からふわりと力が出現する。その力は今まで相手にしてきた天使の力でも、悪魔の力でもない。喜びとか、怒りとか、哀しみとか、楽しみとか、そういった感情ではない。もっと無機質な、ただそこにある強大な力。さっきまで戦っていたケータや悪魔と天使とは比べものにならない。力を直視するだけで、恐怖心から一瞬判断が鈍ってしまう。
「ゴールデンレトリバーのくせに力は強力なんだから。でも、言ってることとやってることに齟齬がありすぎじゃない。ゴールデンレトリバーは番犬には向かないの」
ヨーコとシリルは力を解放し、いつ攻撃が来ても対処できるよう備える。
一体どういった理由で目の前にいる自称神がこの集合的無意識にいるのか分からない。必死に生きる生命というより、感情を持たない機械といった印象が強い。生命の心に居座って、何のために天使と悪魔とを戦わせているの?
「神こそ真実なり」
ヨーコは天使の力によって、アーチェリーを作り出す。シリルの背後には漆黒の犬が出現する。
自称神様の存在意義なんて、一般市民には分からないかもしれない。だけど、目の前の敵が攻撃してこようとしているのであれば、それを排除するのが生き物ってやつ。窮鼠猫を噛むって言葉もあるじゃない。この状況では、どっちが猫で、どっちが鼠かなんて判断できないけれど、やられるくらいならやらなきゃ女が廃る。それとも、わたしたちが攻撃しようと思っているから、目の前のわんちゃんも敵意を剥き出しにしているのかも。
「人の心を利用するなんて、最低。あなたなんか、神様でも何でもない」
ゴールデンレトリバーの喉い緑色の目が瞬きする。本当に神様なのか、神を騙った別物なのか訳が分からない。きっと弱点はゴールデンレトリバーの体ではなく、あの緑色の目ね。
ヨーコはアーチェリーの矢をゴールデンレトリバーの喉に向かって射出する。アーチェリーの矢はゴールデンレトリバーの五十センチほど手前でぴたりと止まった。矢がゆっくりと百八十度回転すると、ヨーコに向かって飛んでくる。
アーチェリーの矢がヨーコの胸に突き刺さり、ヨーコは後方へはじき飛ばされる。
「ヨーコ!」
シリルが叫び、漆黒の犬をゴールデンレトリバーに向かって、放つ。漆黒の犬がゴールデンレトリバーに近づくにつれ、徐々に漆黒の犬が粉となって周囲に散り始め、ゴールデンレトリバーの手前で跡形もなくなっていた。
「大丈夫」
ヨーコは立ち上がった。
「何人も創造主に刃向かうことはできない」
ゴールデンレトリバーの背後が激しく輝き始める。光と闇が徐々に収束し始め、一人の人間を形成する
――チャン・ドンゴン。
「がう!」
ゴールデンレトリバーが吠えると、チャン・ドンゴンが猛スピードでシリルに向かって、放出される。スーパーマンのようにチャン・ドンゴンが宇宙を飛ぶ。シリルは頭から向かってくるチャン・ドンゴンをかわすことができず、チャン・ドンゴンはシリルに激突する瞬間、激しく爆発した。シリルは防御のために、悪魔の力を行使しようとしたが、悪魔の力が動かない。激しい爆発に巻き込まれ、シリルは倒れた。
ヨーコはゴールデンレトリバーに近づいていった。
集合的無意識。チャン・ドンゴン。財布に入ったプロマイド。ヨーコに襲いかかったアーチェリーの矢。粉々に散らばっていった漆黒の犬。目の前にいるゴールデンレトリバーは明らかにヨーコの精神に巣くい、力を思い通りに行使できている。
「戦いは終り、世界は平穏を取り戻した。すでにシリルの願いも、ヨーコの願いも叶えられ、我は次の希望に向かって移動していかなければならない。ムダな戦いを止め、降伏せよ」
「絶対やだ。絶対に! ヤーダ!」
ヨーコは叫んだ。
人の弱みに付け込んで、善意と悪意を戦わせることをして、生きていく生命なんてあってはならない。わたしたちの集合的無意識に入り込んで、人の心を好き勝手に覗き込むなんて許せない。
死んでしまったケータに会いたいという弱みに付け込んで、良いケータと悪いケータを作り出し、わたしと対決させようなんてありえない。
一体どんな理由で、目の前にいる生命体が、集合的無意識の中を自由に動きまわり、善意と悪意の力を具現化しているのかさっぱり分からない。でも、やっていることはきっと単純なことだと思う。目の前にいるゴールデンレトリバーが簡単に天使の力だとか、悪魔の力だとかを生み出せるなら、きっとわたしにだって同じように力を生み出せる。
だって、わたしはオーヤマケータに愛された唯一の人間なんだから。
「愚かなる生命体は、精神の海に一生漂っているがいい」
ゴールデンレトリバーの背後に再び光と闇が収束している。
次は誰?
ゴールデンレトリバーの背後に人の姿が形成される。
――哀川翔だ。髪の毛を金髪に染め、アンドロイドじゃなくって、この姿は、ああ、何だったっけ? 思い出せない。
哀川翔の体の表面を何秒かに一回電流が流れる。
ゴールデンレトリバーから哀川翔が解き放たれた。
「今のわたしに天使の力が出ないかもしれない」
ヨーコは少し足を広げた。
「でも、こんな戦い、絶対に許さない!」
この空間が集団的無意識であるなら、目の前にいる意味不明な生命体が有利である理由はない。集合的無意識は、人類、いや、地球上すべての生命体の個々の意識のさらに奥底にある共通した無意識のプラットフォームだ。ヨーコがすでに天使の力を操れるのであれば、目の前のゴールデンレトリバーと同じように、ヨーコもまた新しい力を操れる。
そう念じた瞬間、ヨーコが力に包まれた――
あ、そうだ。レプリカントだった。




