第六章 集合的無意識とサヨナラグッバイまたあした 1 ケータ
「やっぱり死んじゃったんですか?」
その声にまぶたを開けると、目の前にヨーコの顔があった。目を覚ましたケータを見て、ヨーコはにっこりと微笑んだ。ヨーコの目が腫れぼったい。今までヨーコが泣いているところを見たことなんてなかったから、余計心配してしまう。
「よかった。死んじゃったかと思った」
それにしてもやっぱりタチバナヨーコは可愛らしい。問答無用に可愛い。
大学生活をエンジョイするぞって思ってたのに、志半ばにして、いつの間にか僕は末期ガンになっていた。度のきつそうな眼鏡を掛けた先生に余命半年って宣告されたけど、それほど一年ほど生きながらえたんだ。でも、それ以上は生きられなかった。
それにしても、ガンで死んだ僕に対して、「やっぱり死んじゃったんですか?」って声を掛けてくるなんて、あんまりだ。太った人に向かって『キミ、太ってるね』なんて言ったら、後ろから包丁で刺されちゃうかもしれないのに。
ま、それに答えるように、僕も目を覚ましちゃうし。何が何でも非現実的。キミの世界は本当に自由なのかもしれないね。
「それで、ここはどこ?」
ケータは狭い箱の中で仰向けになって寝そべっていた。ヨーコの後ろは真っ白だ。遠近感がない空間がヨーコの背後に広がっている。
「ここはケータのお墓」
ケータはびっくりして上半身を起こした。そこは何もない空間だった。どこまでも真っ白で、塵も埃も絨毯にからみついたら取りにくい髪の毛も落ちていない。空も床も全てが真っ白だから、その境界が曖昧で、まるで四方八方を真っ白な壁で塞がれてしまったような圧迫感を感じたり、逆に本当に何もない開放感を感じることさえあった。
ケータはお墓の縁に手をかけ、立ち上がる。自分のお墓から抜け出ると、墓石を見て感慨に浸った。オーヤマケータ。享年21歳。大学三年生。大学生活にも慣れ、授業を手を抜く方法を知り尽くしていた。四年生でもないから就職のプレッシャーも卒業論文に対する教授からの圧力もなく、自由奔放な恋愛にいそしむ生活だった。ヨーコとの半同棲生活なんてももう最高。
ゆっくりと首を回し、肩をもみほぐすと、先ほどまでの記憶がよみがえってくる。
悪意の塔から去り、今ヨーコに起こされるまで、一体どこにいたのか分からない。オーヤマに諭したように、天国で戦国時代の武将相手に京都旅行の話をしていたかどうか、ヨーコの言うとおり韓流ブームにあやかってチャン・ドンゴンの話をしていたかどうか、全く記憶にない。
やっぱり死人の記憶なんて当てにならないんだ。まあつまりそういうこと。
「とにかく生き返って良かった」
そう呟いて、いきなりヨーコが抱きついてきたから、そっとヨーコを押しのけた。
「もう分かってると思う――ここがどこなのか」
ケータの言葉に、ヨーコは当然のように頷いた。
つまり、ここはユングが提唱した集合的無意識なんだ。集合的無意識は人間の無意識の深層に存在する個人の経験を越えた先天的構造領域。個人を越えた、集団や民族、人類いや哺乳類の心に普遍的に存在する先天的な元型の作用力動。
悪魔の力を持ったあのブルドッグにも、天使の力を持ったヨーコにも存在する場所だ。ヨーコが願い事が成就し、ヨーコもブルドッグも普段は意識できない集合的無意識へと入り込んでしまった。
そこになぜ僕がいるのかって?
ヨーコに聞いてみるのが一番手っ取り早いけど、折角だから教えてあげてもいい。
ケータは力を解放すると、今までケータだった男の風貌が徐々に変化し、鴨川デルタで出会った天使の姿へと変化していく。
「これで満足?」
真っ白い空間に亀裂が走ったかと思うと、その裂け目から馬の首が現れた。そして、その後ろから甲冑をまとった悪魔が現れた。真っ白けの空間にはケータのような天使は似合うけど、おっきな馬に乗った悪魔はちょっと浮いてしまう。空間の白と悪魔の黒のコントラストが悪魔をより一層悪魔らしく見せていた。
「よお、また会ったな、天使さま」
悪魔は気さくな感じでケータに手を振ると、首だけ動かしてヨーコを見つめる。
「おっと、お嬢ちゃん。必要なのはケータだけって顔をしないでくれよ。別に来たくて来たわけじゃないんだからよ」
ヨーコもそんなこと十二分に分かっている。
「オーヤマケータは一年前にガンで死んだ。だから、さっきまで敵対者だったオーヤマケータは本物のオーヤマケータじゃない。それくらいのこと分かってる」
ヨーコは目をこすった。
「わたしは願った。このゲームに興じている神様に会いに行くこと。そして、ここに来た」
だったら答えは明白だ。僕の存在も、僕の姿も、僕の考えも、明白だし、隣にいる悪魔の存在も、悪魔の姿も、悪魔の考えも明白だってこと。
だから、ヨーコは次の答えを追い求めている。
ケータという天使とオーヤマという悪魔。ケータは天使の力を持ち、オーヤマは悪魔の力を持っている。つまり、これは単純にヨーコにとっての善の存在と、悪の存在。末期ガンと宣告され希望も未来も失ったオーヤマはヨーコが倒すべき悪魔であり、反対にケータはオーヤマから切り離されたオーヤマケータの善意だった。
「つまり天使も悪魔も、お嬢ちゃんのそーぞーの産物ってことだよなぁ」
悪魔はケラケラと笑った。
「本当に人騒がせなお嬢ちゃんだぜ。灰となったオーヤマケータに会いたいっていう執着心から、偉大なる古都京都を巻きこんじまうんだからよ」
ケータは悪魔に近づくと、グーで殴った。ヨーコにしてみれば、今のケータの姿は天使だし、きっと今自分の気持ちを整理することだけで精一杯なんだろう。だけど、きっとヨーコなら正しい答えを導き出せる。
ヨーコは自分の手を胸に当てて、目を瞑った。
「天使と悪魔がわたしの心が生み出した想像の産物って可能性は否定できない。この戦いが頭のおかしくなったタチバナヨーコの一人舞台なのかもしれない。ふと目が覚めると天使と悪魔の戦いなんてものはなくって、病院のベッドで寝ていただけなのかもしれない。だけど、わんちゃんは悪魔の力を持っていた。わたしの人生でシリルに会ったことはなかったし、何でも良いから好きな動物を想像してごらんって言われたとしても、あんな可愛くないブルドッグを想像するとも思えない。だってそうじゃない。愛しのケータを生み出そうと思うことは普通かもしれないけど、猫派のわたしがケータの次にブルドッグを生み出そうだなんてどうかしてる」
その答えで合ってるよ。
「このゲームを興じているのはわたしの心。それは認めないといけない。だから、神様に会いたいと願った時、この空間に来た。そう、ケータが死んだ悲しみからちょうど一年経ち、わたしはケータに会いたくなった。だから、願いが叶って、ケータはわたしの前に現れた。勿論、そのケータはわたしの心が生み出した産物なのかもしれない。だけど、今、彼はわたしの目の前に立っている」
そろそろ本当のお別れなんだ。ヨーコは自分の欲望のため、僕を生み出し、僕と再会を果たした。
「わたしは普通の大学生だから、ケータを生み出すなんてこと、絶対にわたしの力でできることじゃない。だって、そうじゃない。一年前にわんちゃんが同じように天使と悪魔と戦っていた。もしわたしが黒幕なら、わんちゃんの事件もわたしが影で糸をひいていたってことになる。そんなことはありえない」
ヨーコはゆっくりと目を開け、空を見上げた。
「もっと強大な力がどこかに存在している。それはわんちゃんにも起こった。わたしにもわんちゃんにも共通している心の弱み。そこに付け込んだ何かがきっといる。それがわたしが会いに来た、神様。早く出てきなさいよ!」
ぴきぃっと大きな音が響き、壁に大きな亀裂が走った。世界がゆっくりと崩壊し始める。いや、崩壊なんかじゃない。真の世界へとヨーコを導いているんだ。ヨーコは本当に優秀なファイターだった。もし、この戦いを仕組んだ人間が、シリルみたいな単純なブルドッグだったら、彼もこんなに追いつめられることはなかったに違いない。




