第五章 時計台の崩壊とゴールデンレトリバー 2 ヨーコ
「バイバイ」
ケータが死を選ぶことは分かっていた。だけど、なぜか止める気にはなれなかった。きっと別のシチュエーションだったら、好きな人が自殺をしようとしたら、止めたはずだ。だけど、この悪意の塔の上でのケータの行動を止めようという感情が全く働かなかった。ぐったりと頭を垂れているケータを見ても、その感情は変わらない。別に涙も出なかった。自分の行動が正しいか間違っているかその判断は難しい。だけど、その行為に対して後悔していないなら、その人にとってその行為は正しかったって見方はできる。
「ダメだ!」
階段からシリルが飛び出してきた。玉座に座り込んだケータに近づいていくと、すでにケータが事切れていることを確認する。
「決着は付けてもいい。だが、悪魔の力を持つものを殺してはダメだった」
「どうして」
わたしにはわんちゃんがそんなことをいう理由が理解できなかった。
「それは――」
わんちゃんが答えようとしたその瞬間だった。塔がぐらりと揺れた。ヨーコは瞬時に理解した。ケータが自殺を図った悪魔の力でできた拳銃がケータが死んだタイミングで消失した。だから、このケータが作り出した悪意の塔もまた同じように消えていく。
時計台はそもそもこんなに高くそびえ立ってなんかいないし、悪意の塔がケータの悪意以外の素材でできているとも思えない。だから――
落ちる――
海へ出かけ、砂浜で作った砂の城が風になびかれて崩れていくように、悪意の塔が崩れていく。シリルはおぼつかない足で跳躍し、ヨーコの胸に飛び込んでいた。ヨーコはシリルをキャッチする。
しかし、すでにヨーコは落ち始めていた。
地球上で無重力を感じるなら、自由落下するしかない。飛行機を一気に降下させて、無重力状態を作り出しているのだってあるんだから。きっとケータならそんなことを言うだろう。だけど、今はそんなことを言っている場合じゃなかった。
ヨーコは天使の力を使用しようとしたが、力が出てこない。
「こんなバカなこと――」
「バカなことなんかではない」
シリルが喋り出す。
「予定通りのストーリー展開だ。この状況で助かりたいのであれば、やるべきことはただ一つ」
じれったい。地面に向けて急降下しているのに、わんちゃん、早く答えを言いなさい。
その時、ヨーコの脳細胞が働き、助かる方法が分かった。
「そうか。この戦いで勝利した方が叶えることができる願いごとを言えばいいんだ。わたしを助けてくださいって。でも、そんなのって」
「戦いに勝利したものには願い事が一つ叶えられる。だが、自分の好きな願い事を叶えることなんてできない戦いだった。オーヤマケータは悪意の塔の最上階でお前との戦いを挑んだ。それはオーヤマケータの意志であり、悪魔の意志でもあった。そして、お前が勝ったことによって、悪意の塔は崩壊し、俺とお前は落下する。だから、生き残るために願い事を言わなければならない。初めから仕組まれた戦いなんだ」
そんな理不尽なことってある? 頑張って、ケータとの戦いに勝ったのに、一攫千金も、モデルばりのプロポーションも、セレブリティな生活も、達成できないなんて。
「でも、わんちゃんはまだ願い事を叶えていないでしょ」
「俺の時も、今回と同様に、願い事を言わなければ、家族が助からないという状況だったんだ。だが、俺は――」
「自分が幸せになるために、わたしみたいにうら若き乙女を見殺しにしたってことね」
「違う!」
シリルの口調が強まる。
「願い事を叶えなければ、家族が助からないことを理解できなかった。ブルドッグのちっぽけな脳味噌では、自分が生き残ることに必死になりすぎて、周りのことなんか全く見えていなかった。だから、天使と悪魔に復讐を誓った」
「うん。分かったよ、わんちゃんの脳味噌がちっぽけってことは知ってるから。いたぁ」
シリルがヨーコの腕に噛みついた。
「待って待って。今は緊急時代なんだから。わんちゃんの過去のことはとりあえず置いておいて。この状況を切り抜けるために、願い事を言う。死ぬよりはまし」
ヨーコは命が助かりつつ、若さとプロポーションを保てるような一挙両得の願い事がないか考えていた。思いつく頃には墜落死して、肉体も腐敗しているだろう。
「任せろ。俺の願い事で、ヨーコも助けてやる」
シリルが吠えた。
――その願い事、叶えよう
どこからともなく声が聞こえてくる。
ヨーコの落下速度が徐々に緩くなっていくことが分かった。そして、一メートルくらいの高さから落ちたくらいのスピードになった時、ヨーコは頭から時計台の天井に落ちた。
「なんて願い事を言ったの。せっかく願い事を言うんだから、優しく降りられるようにいいなさいよ。本当になんて願い事を言ったの?」
「ヒミツだ」
ヨーコが起きあがり、周囲を見渡した。大学のキャンパスはいつものキャンパスに戻っていた。まだ何人か地面に倒れている人間はいるが、ケータのことだ、どんなに苦しみを与えたって人を殺すような力の使い方をしているとは思えない。
ヨーコはシリルを抱きしめながら、自分の願い事を考え、思いついていた。
「わんちゃん」
シリルがヨーコの顔を見つめる。
「一緒に神様に会いに行かない?」
「神様に会いに行く?」
「そう。このゲームを始めた神様の所まで行ってみようよ。一緒に」
ヨーコの決意は固かった。もしこの願い事が神様のお気に召さなくって、ヨーコの願い事が向こうにされたって構わない。どうせケータのいない人生は心に穴が開いた状態だったんだから――
ヨーコがポケットに手を突っ込むと、ケータのジッポをきつく握りしめ、さらに神様に会いに行く決意が強まった。
「わたしの願い事は、わんちゃんと一緒にこのゲームに興じている神様に会いに行くこと」
――その願い事
ヨーコはシリルを抱きしめる。
――叶えよう
眩い光がヨーコとシリルを包み込んでいく。
ホワイトアウト――
ヨーコは立っていた。そこは真っ白い空間だった。いきなり電気が切れ、目が慣れず、真っ暗になった時のような暗闇に似た真っ白な世界だ。水平線まで何もない。それどころか遠近感がさっぱり分からない。壁なのか、天井なのか、ただ白い床だけがある。
腕に抱きしめていたはずのシリルの姿はなぜかない。
「誰かいませんか?」
ヨーコは両手でメガホンを作って叫んだ。しかし、返事はない。
一体ここはどこなのだろう。わたしはゲームを取り仕切っている神様に会いたいと願った。つまりここは俗に言う天国で、そろそろ真っ白な空間に神様が出現するか、神様が体を持たないのであれば、神の声が聞こえてくるはずなんだ。
時間の経過も分からない空間で、ヨーコは歩き出した。真っ直ぐに歩いているかどうかすら分からない。ただ一歩一歩足を動かしていく。
ひんやりとした床だ。どんなに強く足を踏みつけても、音は鳴らない。白すぎて、壁があるのか、何もないのか、分からない。
「あ、いたっ」
スタート地点もゴール地点も分からなくなり、不安に襲われた時、ヨーコは何かにつまずいて転んだ。床は完璧に平だと思っていたから、出っ張りがある何て夢にも思わなかった。それともここは夢の世界なのかしら。お願い神様、真実を教えてよ。
つまずいたものの正体を明らかにするために、ヨーコがしゃがみ込んだ。それは四角く成形された石だった。文字が彫り込まれ、その言葉を一字一字読んでいく。
オーヤマケータ 1985-2006
それは墓石だった。綺麗に掃除されたオーヤマケータの墓石。
そうだ。オーヤマケータは一年前に死んでいたんだった。
ヨーコはその場にうずくまり、墓石を抱え込んだ。ヨーコは泣いた。ケータが自殺をした時に涙は流れなかったのに、今は涙が止まらない。
一年ぶりのオーヤマケータとの短い再開に、お互いの力を出し切った戦いに、そして、オーヤマケータの最後の優しさが一気に沸き起こってくる。
忘れてた。
わたしはただオーヤマケータに会いたかっただけだったんだ。




