第三章 京都大学時計台と真っ黒タワー 4 オーヤマ
一年間に自殺をする人間はおよそ三万人になる。
この数字が多いのか、少ないのか分からない。ただ、死んではいけないという倫理があるこの世界で、この数字が小さくないことは確かだ。
こんなこと考えるなんて、このオーヤマという悪魔の力を授けられた人間にも『みんな死んじゃだめだ』っていう良心があるってことだと思う?
それは大きな考え違いだ。俺はそんなことは考えない。
もし仮に俺が自分の人生に苦悩して自殺をしたとしても、統計学的には三万人という母数に一という数字が足されるだけ。どれだけ多くの人間が哀しみ、数少ない知り合いの中の一人が自殺者撲滅のために民衆に訴えたとしても、統計上は何の変化もない。
オーヤマは毎年死んでいる三万人の死者の中の一人ってことだけでしかない。世界を揺るがす著名人の仲間入りはできないってことだ。
世界をもっと冷静な視線で見てみるんだ。
別に自殺者数に限ったことじゃない。交通事故による死者の件数だって、どんなに人間が安全運転しようと心がけていたとしても、極端に事故件数が減るわけでもなく、それに伴って死者の数が少なくなるって訳でもない。
だって、そうだろう。
社会というシステムが統計学というアカデミックな枠組みで表現されていないならば、選挙の時に出口調査だけで当選確実って言葉が表示されるはずなどないんじゃないか。
世界はガウス曲線に支配され、そして、それを知った人間は統計学という学問を通じて、人間社会を感情のまじわらない正確な視野で見つめることができる。
人間が作り出した枠組みで世界を把握できているのか、それとも把握できていると感じてしまう結果に導くような論理が働いているのか、実際は分からない。
天国から人間社会を見下ろしている神様の仕業だとか、孫悟空のようにお釈迦様の手の平の上にいるだとか、人々が考えたっておかしくはない。最終的に各個人が判断するべき境界線なのかもしれない。
一億人にいる日本人の中の一人の人間が起こした行動の結果が、統計上の一人で整理されなかったのだとすれば、それはきっとすごいことなんだろう。
オーヤマはまだ階段を登り続けている。まるで川の中を歩いているように、ねっとりとした悪意が憎悪の塔からにじみ出し、オーヤマの足にからみつくように重く重く足取りを重くする。
オーヤマ自身、自分の憎悪が作り出した塔の行き着く先が見えなかった。それほど深い悪意を持っていたのかと、オーヤマは改めて自分自身を見つめ直す。その自分自身の心に対する正直な解答を目の当たりにすることで、オーヤマの精神状態は安定し始めていた。
オーヤマの背後を鼻歌交じりについてくる悪魔にしてみれば、敵対者同士が戦い会う機会さえ作り出せれば、あとは自動的に事は進む。憎悪の塔がこれほど見事に完成し、大学キャンパスに悪魔の力が次々と人々に感染している。憎悪の闇の範囲が広がっていけば、いつか敵対者も憎悪の塔に対決すべき敵がいることに気付き、オーヤマに戦いを挑んでくるだろう。
オーヤマはただこの階段を頂上に向かって登っていけばいい。頂上にたどり着けば、玉座にでも座って待ち、現れる敵対者を迎え撃つだけだ。
「ふっふふ~♪ オーヤマ兄ちゃんよぅ、天使さまに選ばれたライバルがこの塔にやってきたみたいだぜ。あんたが必死になって登ってる階段を同じように踏みしめてるようだな」
悪魔の言葉にオーヤマは頷く。
「でも、ちょっと気になることがある。そいつとは別に悪魔の力を持ったやつも一緒に来ているみたいだ。天使に選ばれたライバルが悪魔の力を持ったのと仲良くするなんて、俺にしてみりゃお門違いも甚だしいことだなぁ」
「俺の戦う必要のない相手なら、あんたが始末してきてくれよ。当然、そのくらいはやってくれるんだろう?」
オーヤマの申し出に、悪魔は笑った。
「ああ。言われなくてもやってやるぜ。楽しみだぜ。戦いは大好きだ。キャハァ」
そう言うと悪魔は一気に塔を降下していった。
オーヤマは一人きりになる。
ただひたすら階段を上るだけだ。
すでに階下では、悪魔と悪魔の力を持ったモノの戦いが始まっていた。それとは別に天使の力を持ったモノが戦いには加わらず、塔を上へと目指し始めたことも感じとれた。
「くっ」
突然、オーヤマの体が激しく痛み出した。激しい痛みにに噛み堪えながら、確実に一歩一歩オーヤマは階段を踏みしめる。途中でバランスを崩し、吹き抜けから地面に落ちそうになって、慌てて膝をついた。胃の奥から酸っぱい物が込み上げてくると、我慢できずに床にまき散らす。
オーヤマ自身、全て分かっている。
大学の講義中に意識を失い、病院へ搬送され、脳腫瘍が見つかった。すでに末期で、余命3ヶ月と診断された。
ただ思った……この年齢なのに……
それでも二十代で病に倒れ死んでいく人間はいくらでもいる。その瞬間、オーヤマは統計学の一部となり、ただ数万人に一人に変化した。結局、オーヤマ自身、当選確実の政治家と同様、ガウス曲線から逃れることができなかった。
激しい痛みの波が過ぎ去ると、再びオーヤマは壁に手を当てながらゆっくりと立ち上がった。足が震えている。天使に選ばれたライバルと戦う前にこんな状況では満足に戦うことができないかもしれない。ただし、自分自身を襲った病こそが自分の憎悪の源であることだけははっきりしている。この痛みに耐えることができれば、平々凡々とした人生を送った人間に負けるわけがない。
オーヤマはライバルに勝ち、与えられた願いを言わなければならない。
この俺を病から助けてくれと。
見上げると、目の前に天井が見えた。オーヤマは最後の一段を上りきると、そこは平坦なフロアが広がっていた。憎悪の塔の側壁以外に何もない円形の空間に、オーヤマが座るべき玉座だけがあった。
オーヤマは休息を求め、玉座に向かって歩き出す。
しかし、すでに何者かがその玉座に座っていた。玉座を中心として天使の力が広がっている。
優男がにっこりと笑顔を浮かべて、右手を挙げた。
「お前が天使か」
天使に選ばれた敵対者は女だと聞いた。だから、目の前にいる優男が敵対者ではありえない。俺の知っている容姿に男装しているなんてトリックなんて話は無しだ。それに悪魔から聞いた天使の姿とはかけ離れている。
「ハロー、マイフレンド」
優男は玉座から立ち上がり、オーヤマに向かって手を振った。
彼の周囲には球体が二つほど周りにふわふわと浮遊していたが、オーヤマが睨み付けると、球体は優男の背後に消えていった。球体は天使の力を宿しているものの、それからは強い力を感じない。
「あれ、僕のこと忘れちゃった? 悔しいな。僕は君のこと覚えてるのに。忘れたいけどさ、忘れられないんだよ」
優男は天使でも、敵対者でもありえない。だが、目的のためには排除すべき存在だってことだけははっきりしている。
「俺もお前のことをよく知っている。他人じゃないってくらいに。だが、なぜお前が玉座に座っている。その席は俺が座るべきところだ」
優男は玉座から離れると、
「どうぞ、お座りになって」
そうオーヤマに向かって、天使の力を放出する。オーヤマは悪魔の力で優男の力を中和する。
「ケータ、俺にそんな攻撃は通用しない。もっと本気になったらどうだ?」




