第三章 京都大学時計台と真っ黒タワー 3 シリル
暖かかった。
自転車の揺れを激しく感じていたが、女の作り出した天使の力でできたベッドは完璧だった。天使によって傷つけられた体はある程度癒え、自分で歩くことができたが、目的地までは自転車の前かごに載ったまま、居眠りをしていた。
「あら、シリルさん、惚れちゃった?」
ぐっすりと眠りたいのに、チワワが居座っている。
「でも、それは非現実的。相手は人間なんだから。それにあの女を新しい飼い主にするには、学生だしちょっと生活力が欠如していますよ。美味しい餌をいっぱい食べて貰わないと、あなたも満足な精神状態でいられないでしょ。満足な精神状態でいられないってことは、わたしに影響してくることなんだから、あんな女が飼い主になるなんて、信じられない」
一年前の戦いで、シリルは家族を失った。傷ついたシリルを拾い、飼い犬として受け入れてくれたのが、今の家族だった。だから、シリルがふらりと消え、どこか別の場所で暮らしていても問題はない。それに、今の家族で一番の問題なのは、シリルの名前だった。シリルは前の家族が付けたシリルという名をとても気に入っていたが、傷ついたシリルを拾ってきた今の家族は別の名前を付けていた。俺の名はシリルだと直接伝えるのも気が引けてしまい、未だにその名前で呼ばれている。
「まだ俺の戦いは終わっていないんだ。邪魔をするなら、消えてくれ」
「あなたにはわたしたちもいるんだから、よく考えてね」
チワワは消えていった。全くいけ好かないやつだ。チワワの言い分に満足したのか、今回はアフガンハウンドのやつは出てこなかった。
悪魔の力は使用者の大罪の大きさに起因する。大学のキャンパスに入った瞬間に感じた悪意の大きさは、昨年のシリルの悪意よりも遙かに大きな悪意だった。悪魔の力を所持しているはずのシリルでさえ、自分の身を切り裂くような悪魔の力が切り込んでくる。
いきなり変な生物を見るような目をしたかと思うと、蹴り飛ばしてくるなんて最低の女だ。
「そう、俺の名はシリルだ。シリル・ザ・ブルドッグだ!」
俺の言葉に対し、人間の音階を苦労して絞り出したのに、ケダモノ呼ばわりするとは、大物なのかもしれないが、いつか出し抜かれるような気がする。
「俺の名はシリルだ」
人間であっても、犬であっても、脊椎動物であるなら、声帯がある。結局、声帯の振動によって声が出る。犬だから吠えることしかできないなんてのは、人間の思い過ごしなのだ。訓練を積むことにより、(それは相当厳しい訓練だが)犬にだって、人間の言葉を使うことができる。ただ、普段使う必要がないだけ。
「俺には悪魔の力がある。察しているように、俺は一年前悪魔に選ばれた」
シリルは、ヨーコに抱きかかえられたまま、塔に足を踏み入れた。
塔の内部は薄暗かった。電気のような光源はなく、漆黒の壁に不規則に四角い穴が開いていて、そこから採光できるようになっている。
「それでどうして、今年の戦いにも混ざっちゃったわけ?」
漆黒の塔の内部は空洞だった。見上げてみても、天井が見えない。どこまでも続く、円筒状の建造物。壁際に螺旋階段が設置され、下からではどこまで螺旋階段が伸びているのか分からない。
「今すぐにでも戦いを止めてもらいたい。それを言いにやって来た」
「あ、そう」
ヨーコは、シリルを床に降ろすと、塔の壁面に触れてみた。つんとする憎悪が壁に触れた手のひらから、ヨーコの心に入り込んでくる。塔は悪魔に選ばれた敵対者の憎しみによって作り出されていた。突き抜けるような高層の塔が、敵対者の悪意の大きさを如実に現している。
「戦いを止める気はないよ」
ヨーコは、その憎しみを許すように優しく壁を撫でると、ゆっくりと手を離した。
「俺は一年前の戦いに勝利した。しかし、得られた物は何もなかった」
階段を上り始めたヨーコをシリルは追いかける。
ヨーコに癒されたとはいえ、まだ体の芯に痛みが残っていた。階段の先まで、ヨーコに抱きかかえられたかった。
「でも、内容はどうあれ、敵対者に勝ったってことは、何でも願いが叶うんでしょ? あなたはこれからバラ色のわんころ生活なんじゃないの? それとも勿体なくて、願い事を言いたくない? それなら、わたしがすぐに思いついてあげる。たとえばさ――」
「どうせ、もっと身長を高くしてほしいだとか、胸を大きくしてほしいだとか、その程度の願い事しかないんだろう」
ヨーコの足がぴたりと止まった。
「今日初めて会ったわんちゃんのくせに、言いたいことはきっぱりと言うんだ。そういう性格って好きだけど、残念ながらわんちゃんをフィアンセにはできない。それとも、実は魔女に魔法をかけられた王子様だったりする? 願い事を言えば、今すぐにでも人間の姿に戻れちゃうのに、自力で人間の姿に戻る手段を探していて、今願い事を言うことができなかったり」
「それでは、今すぐにでも、あんた好みの美男子にしてくださいって願い事でも言ってやろうか」
「うん。それも悪くない」
そんな願い事はお断りだ。
シリルの執拗な説得に折れることなく、ヨーコは一歩一歩階段を上っていく。
「お前は何を目的に戦う」
「この塔は、この先に待ってる人の悪意によってできてる。だから、この悪意を癒してあげないといけないの。塔の壁に触った時にも感じた敵対者の悪意。それは悪意だからといって単純に私が憎むべきものではなく、私が敵対者の悪意を取り除いてあげなければいけないの」
ヨーコの言うとおり、この塔は悪意という糸でできた敵対者の繭だった。ヨーコは右手の指先で、壁をなぞりながら、数歩階段を上った。シリルも肉球を通じて、敵対者の悪意をひしひしと感じていた。
「なぜあんたが?」
「それはきっと待ってる人はわたしの大切な人だから」
どれくらい上ったのか分からない。シリルの視線の先にようやく天井が見えてきた。下を見ても、もう地面が見えないくらいになっていて、落ちたらどうなるかを考えるだけで、背筋が凍り付いた。大学のキャンパスで、どこに敵対者がいるのか分からなかったのは、その気配を濁していたからではなく、単純に敵対者が高い塔の上にいたため、感じ取れなかっただけだった。
階段を上りきると、円形の広い空間に出た。そのフロアには敵対者の姿はなく、シリルが上を見上げると、まだ塔は先へ伸び、天井は見えない。そして、今までと同様に螺旋階段が壁側にある。
「ちょっとだけ休もう」
ヨーコが、そう言って座り込み、シリルもまたべったりとお腹を床に着けて伏せた。
「シリルさんよぅ、そう簡単には休ませてもらえないみたいだぜ」
アフガンハウンドの声が聞こえた。シリルは警戒して起きあがると、その様子を見てヨーコも周囲を見回す。
「わんちゃん、急にどうしたの」
「俺の名はわんちゃんじゃなくって、シリ――」
天井から悪魔の力が降り注いできた。シリルは、用意していた悪魔の力で瞬時にバリアを形成すると、ヨーコとシリルの頭上に張り巡らす。数え切れないほどの悪魔の力が、シリルの作り出したバリアに突き刺さり、融合し、消失する。
シリルは、悪魔の力を行使しながら、押しつけられるような圧力を体中に感じていた。この力の行使者がヨーコの敵対者ではないことが分かった。もっと根本的な悪の原因。
馬にまたがった甲冑男が、悪魔の力と共にゆっくりと天井から降りてくる。
「去年のチャンピオンがお出ましとは、それはルール違反すれすれの行為なんじゃないのか。どうだ。そう思わないか?」
悪魔が地面に降り立つ。
「そっちが二人でタッグを組んでやってきたのに、こっちはそれを一人で対抗しようなんてのは、天使さまの考えることなんかじゃない。悪魔の考えだ」
悪魔は明らかにシリルに向かって喋っていた。
「まあ、お前は悪魔に選ばれた悪魔犬だから問題なしってやつか」
シリルの力は悪魔には及ばない。悪魔は悪魔が与えた力を吸収してしまう。悪魔に対抗するなら、悪魔の力を使わずに戦うか、それともヨーコに戦ってもらうかしかない。
「あなた誰?」
ヨーコはすでに天使の力を解き放ち、臨戦状態となっている。
「おっと、危ないぜ、お嬢ちゃん。お前の相手は俺様じゃない。上で待ってるライバルだ。この場で俺様がお前と戦うのはルール違反だ。それにそんなことをしようとしただけで、いたいけな俺様に天使さまの天罰が下るってもんよ。俺様が言いがかりを付けているのはそこにいるブルドックに対してだけだ。正式にリングの上に立っているお前はとっとと上へ行ってライバルと戦ってきな」
「こいつの言うとおりだ。先に行け」
ヨーコに先に行かれたら、この場を打開する手段は残されていない。絶体絶命ってやつだ。しかし、この俺も正式な戦いを邪魔するためにやってきたわけじゃない。言われたとおりに道をあけるのが筋だ。
シリルの心臓は緊張により激しく鼓動し始めていたが、どうせ悪魔にもヨーコにも犬が緊張している表情なんて見抜けないに違いない。究極のポーカーフェイスだ。そう思うと、人間相手にカードでもやっていた方が人生楽しかったんじゃないかって思えてくる。
「ブルドックも賛成だってよ。大人しく従っておいた方が利口じゃないか? えぇ?」
「分かった」
ヨーコの力が収まっていくのを感じる。
ヨーコにとっては正解の答えかもしれないが、シリルの頭はすでにどうやって悪魔と戦っていくかに捕らわれている。
「頑張ってね」
ヨーコは身をかがめ、シリルの頭を撫で、首を掻いた。
「これ、あげるから」
ヨーコはシリルの両前足に手袋のような物をはめた。
「任せろ」
ヨーコが階段を上っていくのを、悪魔とシリルはじっと見届けていた。ヨーコの姿が視界から消えると、悪魔がゆっくりとシリルを見る。
「それでお前は何をたくらんでいる。なぜあの女の戦いに加わった。お前は部外者だぜ」
「復讐さ。天使と悪魔への。そうお前たちへの復讐で俺はここにいる」
シリルは悪魔に飛びかかる。
「ムダだ。悪魔に選ばれたモノの力は、悪魔自身には通用しない。それとも肉弾戦でもするってのか」
シリルの右足の一振りが悪魔の鉄仮面を切り裂いた。鉄仮面がはじき飛ばされ、悪魔の見にくい顔が顕わになる。その顔目掛けて、シリルは左前足を繰り出す。悪魔の顔が大きく歪み、悪魔は痛みに馬から地面へと落下した。
「ぱっとでの素人にしちゃ、いい出来映えだ」
ヨーコがシリルに渡した物は、ヨーコの天使の力を固体化した手袋だった。シリルの思い通りの形に変形してくれる特殊機能付きだった。




