第三章 京都大学時計台と真っ黒タワー 2 ヨーコ
背後からわんちゃんに仕返しした天使は満足して空へ帰っていった。
鴨川デルタで初めて合った時には容姿端麗でかっこいいかもと思ったけど、どうやら性格は最低らしい。天使のくせに悪魔みたいな性格のやつ。
ヨーコはそっとシリルを抱え上げた。シリルは傷ついているものの、死んでいる様子はなかった。ヨーコは自転車の前かごに、天使の力でふわふわの敷き布団を敷くと、シリルを載せ、さらにシリルの上に天使の力を優しくかけた。
「まったく世話が焼けるんだから」
ヨーコは、百万遍に向かって、坂を下り始めた。
前かごの中で、横になるブルドックを見ながら、ヨーコはこの犬が一体何のために、自分に付きまとうのか考えてみる。
鴨川デルタ、落下してきた天使、激しく吹き飛ばされたケータ、天使に果敢にも噛みついたブルドック、逃げ出したわたし、追ってきたブルドックと再生した天使、ブルドックに仕返しした悪魔のような天使、ブルドックを介護するわたし――
実は全ての出来事を目の前のブルドッグが画策していて、ヨーコの愛玩犬として共同生活するためってこと? あたかも天使に傷つけられ、助けてくださいって状況にして、わたしの同情を誘っているとか。か弱いところを見せつけておいて、わたしを油断させておき、実はわたしを殺しに来た暗殺者だとか。
ヨーコは思わず、シリルを放り投げたくなったが、あまりにも可愛らしい横顔に、その思いは消え去っていく。
やっぱりこのわんちゃんはわたしを悩殺しようとしているんだ。
何かがおかしくなり始めていて、大学のキャンパスからわんちゃんと同じ力を感じ始めている。その力はわんちゃんみたいに丸い力ではなく、もっと尖った鋭い刀のような殺気を伴っている。きっと大学にいるのは悪魔に選ばれた敵対者で、わたしはその人を倒さなくちゃいけない。
そこまで分かれば、ヨーコのするべきことは、有利に戦いを進めるため力強い味方を仲間にすることだ。ヨーコの天使の力で、シリルの傷がゆっくりと癒え始めているから、もう少ししたら少しは役に立つようになる。シリルが今回悪魔に選ばれた犬だったら、本末転倒だけれども、多分そうじゃない。だから、シリルは昔から力を持っていて、こういった戦いには場慣れしているはずだとヨーコは確信する。
あとは役に立つかどうか分からないけど、いないよりはましって言ったところのケータだけ。ブルドックに噛みつかれても平気だったし、天使の攻撃に吹き飛ばされても平気そうだった。そんなケータのタフを利用すれば、敵対者の攻撃を受ける壁くらいにはなってくれそう。しかも、ケータの家は大学から歩いていける距離にあるし、ちょっとくらい家に寄ってもそんな時間のロスにはならない。
ヨーコは、ケータのアパートの前に自転車を乗り捨てると、急いで玄関まで走っていき、ドアを叩いた。ブルドッグは自転車の前かごに入れたままだ。
「ケータいないの?」
何度かドアを叩いてみたけれど、ケータはすでに外出中だった。
会いたい時に会えないなんてホント使えない男。がちゃがちゃとドアノブをひねっても、玄関は開く様子はない。家の前で待ち伏せようかと思ったものの、ヨーコは敵対者との戦いがあることを思いだし、大学へ向かうために、自転車へ戻ろうとした時、モデル系の美人とすれ違った。ヨーコが、自転車にまたがり、アパートをちらりと見ると、その美人がケータの家に入ろうとしている。しかも、鍵を使って。
「もう、あなたなんかに用はない!」
思わず、声を荒げてしまった。
美人がその声に驚いて、振り返ったけど、目を合わせたくなかったから、ヨーコは自転車を急いでこぎ始めた。
それにしても、ケータはいつの間にあんな美人としけ込んでいたんだろう。
「くぅ」
シリルの声が聞こえた。
ケータを失ったわたしに残された希望はあなただけ。もしこれであなたが実は悪魔に選ばれた犬でしたとか言ったら、ただじゃおかない。全てのブルドッグに対して、今でもだぶだぶな皮を二倍に広げちゃってくださいって神様にお願いしちゃうんだから。
大学のキャンパスに入った瞬間、明らかに異質の空間にヨーコは驚いた。その場にいるだけで、自己否定したくなるような陰気な空気が辺り一体に滞っている。多くの人間が倒れ、人々から呻き声が聞こえ、もぞもぞと人間が動いている。
雲一つない青空に太陽は出ているはずなのに、太陽の光を完全に吸収してしまっているように暗い。時計台があったはずの場所に時計台はなく、粘液のようなぬらぬらとテカった材質でできた塔が建っている。
敵対者が塔にいなくてどこにいるだろう。
「ああぅ」
呻き声が聞こえたと思ったら、いきなり男が飛びかかってきた。ヨーコは自転車ごと地面に押し倒され、シリルが前かごから飛び出した。でも、わんちゃんの体全体をわたしの天使の力が優しく包み込んでいるから大丈夫だ。
仰向けに倒れたヨーコの体の上に、男がのし掛かっていた。顔が頬こけ、白目がない。よく見ると、白目がないわけではなく、漆黒の闇が瞳に渦巻いているってことが分かる。男は嫌気がさす呻き声を上げながら、大きく口を開いた。その喉の奥に悪魔の力が巣くっているのが見えた。
ヨーコは、両手で男の肩をつかむと、男を引き剥がすために全力で両腕を伸ばす。
あ、ヤマモトマサルだ。
わたしにのし掛かってきた男は、よく見ると同じアーチェリー部の先輩のヤマモトマサルじゃない。わたしに基礎練習ばかり勧めてくるとても嫌いな先輩だ。
ヤマモトマサルの喉の奥にある漆黒の力が大きく動いた瞬間、ヨーコはヤマモトマサルの左肩を掴んでいた右手を離すと、右手の手のひら全体でヤマモトマサルの顔を掴むと、指先で顔を締め上げる。
必殺のアイアンクローよ!
ヨーコは、右手の手のひらから天使の力を一気に放出した。
ヤマモトマサルの体が飛んだ。
ゆっくりと五、六メートルは飛び上がると、地球の重力から逃れることなんてできるはずがなく、足から地面に落ちた。ヨーコの耳にぼきっと骨の折れるような大きな音が聞こえたけれど、部活の練習の報復よ,報復と、ここぞとばかりに追い打ちをかけるためにヤマモトマサルに対して、天使の力で作ったボールを放つ。
「うぐぅ」
ヤマモトマサルは、もぞもぞと動いていたが、ヨーコの作ったボールを体に当たると、ぴくりとも動かなくなった。
「一件落着!」
ヨーコは,両手の手のひらをパンパンと叩き、砂を落とすと、洋服とズボンも着崩れを直した。
「ばう!」
シリルが吠え、ヨーコは天使の力で傷の癒えた元気なブルドックの姿を見つけた。
「よかった」
シリルはその小さなしっぽを物凄いスピードでふりふりし、
「ばう!」
ともう一回吠えた。そして、今度は口を変な風に歪ませ、
「――ジ――リ――ル――」
と、ヨーコの耳には聞こえた。
「ジリル?」
「そう、俺の名はシリルだ。シリル・ザ・ブルドッグだ!」
今度は流暢にはっきりとブルドッグの口からその言葉が聞こえた。
「もう,やだ! 信じられない。喋る犬なんて、YouTubeで飼い主にしか「おかわり」って聞こえない親バカ、いや犬バカの特権なんじゃないの」
ヨーコはブルドッグに背を向け、駆ける。
しかし,逃げようとするヨーコのズボンの裾をシリルはがっちりとくわえて離さない。
「やめてよ、このケダモノ」
シリルは、ヨーコのいいように口を緩めてしまい、その隙を見てヨーコが足元にいたシリルを蹴飛ばした。シリルが三メートルほど飛んだ。
「もう、こんな世の中何も信じられない」
ヨーコは地面に伸びたシリルを持ち上げると、塔に向かって歩き出していた。
「喋れるなら、最初からそう言いなさいよ」




