Chapter.1 「桜花の騎士」
――異世界編 前編――
この日も雪が降った。
静けさの中に舞うその白い結晶は、雑踏の行き交う路地に落ちては消えていった。
人の気配がなくなる頃、結晶は積み重ね、数時間前の雑踏を覆い隠すと世界を無垢の白い絨毯へと変えていった。
それを侵すモノがあるとすれば――二つの足跡が点々と続く先に、薄幸たる少女が独り、ただそこに、なにをするでもなく、虚ろな目を、その眼の消えゆく光が失われぬように、赤い頭巾に包まれたその表情をただ曇らせて――その白い絨毯に横たわるモノであろう。
朝日のように透き通り、黄昏のように淡く、夜のように黒洞々と、夢のように儚いその姿もまた、この静寂な夜を飾る白い結晶のように、消えてしまいそうだった。
夢とは、人の見る想像の限界にすぎないものらしい。夢を超える想像を、創造を、人は為すことができないのだという。無意識の魅せる幻想を、人は何と履き違えているのだろうか。空から舞い降りてきたこの結晶もまた、地上を夢見て天を旅立ち、地に辿り着いた途端に消えゆくのである。
ただひとつこの結晶と違うのは、夢を果たせなかったことだろう。
夢とは果たすものではなく、瞼の裏に魅せる幻想に過ぎないからだろう。故に、追うものではなく見るものであると知る前に、悟るべきであったのかもしれない。しかし、人は夢にすがる。この幻影が魅せる中毒性に侵され、人は惑い、憧れ、また再び夢を見、そして追い求める。この不可思議な螺旋によって、これまでいったいどれだけの命が失われてきたのだろうか。
風が吹いていく。路地を抜け、街を抜け、空を駆ける。白い結晶を運びながら、その地へ辿り着く旅路を妨げるように、風は吹き上げる。ひとつ、またひとつと街から灯りは消えていき、街灯の光が白く輝いていた。灯火だけが道を照らす。照らされた道はより白く輝く。道と灯火は今際の命を悉く照らし、導く。
いつの間にか、二つの足跡さえ消していった。
足跡の主は二人。
白い絨毯にくるまれた結晶のような少女と、その傍らに少女を抱く黒衣の男。褐色の肌に橙の髪、左眼を朱い血で濡らし、同様に虚ろな表情を浮かべている。
慟哭も、悲痛も、慷慨も、もう何も聞こえない。そのひとつひとつ打ち鳴らす鼓動さえ弱々しく、灯火が二つ、灯っている。
街の灯りがほとんど全て消えていった頃、風が吹き抜けていった。空一面に舞う白雪は、風に踊り、まるで妖精にも似た残光を残し落ちていく。
その残光が失われた頃、灯火は全て、消えていった。
*
サンシベリア王国生誕を祝う王国祭。
その活気とは、うねりを上げた人の歓喜の波である。どこかしこにも露天が立ち並び、酒を飲んでは肉を食らう。この日のために、狩人や剣士たちが数多くの獣を狩り、その腕を競い合う。
その年の暮に行われた狩猟祭では、クリーマ・アン・ターリアが、およそ百頭のグランゴートを狩ってきた。やや小柄なものから、巨大なものまで、5トン、10トンクラスまでいたらしい。その全ては、脳天に矢を一撃で仕留められ、狩猟の腕も、数も、重さも、どの部門賞も総嘗めにした女は、既に殺されていた。
この活気も毎年のことながら、第六士団の騎士たちは一同に自粛していた。
新しい年を祝うには、あまりにも多くの犠牲を払いすぎていた。
第六士団次席、アリア・スティンフェンリルは、此度のアサシンギルド“ヘルメス”との抗争、宿場町ラ・ステラで起きた惨劇の聴取に王宮まで召還された。本来であれば、その役目は主席であるリゲル・ウィンズ・バルドが負うべきものである。しかし、その抗争の折、リゲルは精神を病んでしまった。
アサシンギルド“ヘルメス”の若頭、オルトロス・ザ・ハウンドドッグの所業である。
リゲルはうわ言のように、死んでいった第六士団騎士たちの名前を呟くのみであった。目は虚ろで、かつての力強い眼光は見る影もない。
士気も活気も失った第六士団屯所の中庭で、ただ一人だけは、その士気を失っていなかった。
桜花色の長髪を風にたなびかせ、燈花オレンジ色のマントに身を包み、清廉なる白のコートを身に纏う可憐な剣士。
ある英雄との誓いを握り締め、剣を振るっている。その誓いの剣は、鞘から刃物が抜けないよう堅く固定されており、抜き身だけでも重く扱いづらいはずのその剣は、強固な鞘のために、その重さは倍である。
しかし、その可憐な剣士の放つ一閃。唐竹、袈裟薙ぎ、刺突、身体を捻らせて舞うように外旋し、構える。どれを取っても、その重さを感じさせない技のキレを見て、体格の良い白銀のフルプレートの男は、眉間にシワを寄せていた。もちろんそれは、余すことなくその技を見極めようとする眼光である。
その眼光に気づいた剣士は、ピタっと、その動きを止めた。視線の先にいる、その男を見つめて。
*
「…私に、何か御用でしょうか」
桜花の剣士は、一心にその白銀のフルプレートの男を捉えてそう言った。その男は、徐ろに甲を脱ぐと、その茶色い短髪をかきあげて、その鋭い眼光を剣士につきつけた。
「すまん。邪魔をするつもりはなかったのだが……あまりにも美しい剣技に酔いしれてしまってな。フラフラと千鳥足で出てきてしまった」
「…私をからかっているのなら、お引取り願いたいのですが」
眼光の力強さを取り上げれば、この女剣士も負けてはいない。
むしろ、本来であれば恐れ慄くほどの存在を前にして、たじろがないでいることのほうが一般的ではない。この男こそ、王国最強クラスの戦士であり、全ての騎士団を統括する第一士団主席、ビオラント・イエグイッシュであるからだ。
「俺の威圧をまともに受けて、そこまで涼しい顔をするたぁ恐れ入る。しかもそれが、一見か弱そうな女剣士とくれば、なおさらだ」
女剣士の周りを、まるで彫像でも鑑賞するかのようにグルグルと周り始めた。
そして、その動きを止めると、何か考え込むように腕を組み始めた。剣士はその様子を冷静に眺めていた。
「なぁ君……私と手合わせしてもらえないかね?」
剣士が戸惑ったのは無理もない。
怒りも憎しみも向けられない、通りすがりの屈強な戦士と剣を交えたことなどないのだから。
「どうかね?」
剣士は軽く下唇を噛みながら、「…わかりました」と答えた。
それまで握っていた誓いの剣を更に握り締め、体の前に構える。
ビオラントは、背中に掛けたその刀身をゆっくりと顕にしていった。幅の広い両手剣の一種を、ビオラントは片手で軽く構えながら、剣士を挑発していた。
「久しぶりに……楽しめそうだな」
ビオラントと女剣士の剣戟が衝突する。両手でその美しい鞘に包まれた剣を振り、ビオラントの両手剣をギリギリと音を上げさせながら、金属音をその庭内に響かせていた。剣士は身を翻して、体の靭やかなバネを存分に活かしながら横回転すると、ビオラントの剣撃をいなしながら、その鋭い眼光を放つ頭部目掛けて攻撃した。
その攻撃を、ビオラントの視線は確実に捉えていた。
剣撃の行方を見守るかのように、攻撃が来ることを見越したように視線をあらかじめそこに置いている。攻撃が見切られていた――。
その剣撃が、頭部に触れるか触れないかの紙一重を見極めて、剣士は攻撃を止めた。もう少し腰が入っていたら、あともう少し奥に足を踏み込んでいたら、確実にその頭部を打ち抜いていただろう。
しかし、その手を止めたのは、更に踏み込もうとしていたその足先にビオラントの剣が突き刺さっていたからであった。
剣士は視線を落とした。
彼を本気で攻撃しようとしていれば、剣士の足は先端から切り裂かれていただろう。でもそれは、剣士自身が本気でその頭部めがけて撃ち抜こうとしていないことを見抜いている証拠にほかならない。
彼もまた、剣士を本気で攻撃しようとはしていないのだから。
微動だにしない二人を、いつのまにか騎士たちが集まり、見守っていた。
「少々目立ちすぎたか。私の技を魅せるのは、またの機会にしよう」
その白銀のフルプレートの大きな背中を剣士に見せつけた。
「…待って、勝負はまだ――!」
「自惚れるな、小娘」
背中から発せられる、強大な存在感。そして、こちらを振り向いた時、さきほど向けられていた鋭い眼光を、さらに鋭利な刃物のような目つきに変えながら、ビオラントは威圧した。
さすがに、その視線を凌ぐには、その男の実力を剣士は知りすぎてしまっていた。
「お前は美しすぎる――」
――騎士になれ。小娘。
――ここまで来れれば、またいつでも稽古をつけてやろう。
いつの間にか、雨が降っていた。
雲間から光も差し込んでいた。全く、不可解な天気であることに相違ない。
未熟である己を痛感しながら、剣士は雨を浴びていた。真っ直ぐに、その空を見つめていた。
私はまだ、あの人には遠く及ばない。
あの時、傍に立てたような気がしていたのに。
強く――強くなりたい――。
その姿を見守っていた騎士たちも、いつの間にかその場から皆立ち去っていた。
その代わり、最近馴染みとなっていた、ローブに身を包んだ女が、中庭の入口からこちらを眺めていた。
「こんなところにいたのね」
「…アリアさん」
「風邪引くわよ。今日もうちに泊まっていきなさい」
剣士は、視線をアリアに送ると、再びその空を見上げながら、下唇を噛み締めていた。
「全く……大したものよ」
「…え?」
「相手は第一主席……王国最強の騎士なの。悔しい思いをしたのはわかるけど、それ以上にあなたの剣技のセンスを認めてくれていたから、あの人はあなたと戦ってくれたのよ」
「…第一主席……」
雨は大地も心も潤しながら、ざぁっという音を集めて降り注ぐ。それは、誰にとっても冷たいものではない。
「さ、今日も美味しいものでも食べに行きましょうか! その前に、まずは着替えなさい。いつもの店で待ってるから、早く来てね――」
――ミリヤ。




