Chapter.9 「眠れる獅子」
現代文明には浮いてしまうほどの中世風の格好の女。同様に、素性の知れぬ、黒ずくめのローブを身にまとった仮面の従者。
“魔笛の奏者”の宗師たるレーヴェ・クリュエルは、その狂気じみた性格に似つかわしくないほど、冷静に饒舌に優雅に、時折、やはり奥行の妖しい笑みを零しながら、本題というものを話していた。
事の内容は単純だった。
まず、レーヴェの指定する場所に行くこと。そこが、誘拐犯の一人がいる場所らしい。次に、その場所で一人の人物に会って欲しいと言われた。その人物に会えば、全て理解るから、と。
最後に、妙な話を持ちかけられた。
「さすがにここまで噛み砕いて説明してあげたんだからぁ、今のオルちゃんでも理解はできたと思うけど……タダで教えてあげたというわけではないんだよねぇ」
悪魔のような微笑みが、俺の顔面に歪な形相で近づいてくる。「代償を支払え、とでも?」と、俺は聞いた。「さすが、話が早いね!」と、ご機嫌そうに藁う狂人は、再び俺の顔を覗き込むようにして言った。
「僕と、交わってくれないかな?」
沈黙がその場を包んだ。レーヴェだけが、顔を赤らめながら落ち着かない素振りを見せていた。あまりにも不自然な告白に、俺は呆然とするしかなかった。
レーヴェは椅子に座っている俺に飛び乗ってきた。その拍子に「うわっ」と声をあげながら俺は転倒してしまった。俺の上に馬乗りになるレーヴェを見て、クエスは歯を剥き出しにして怒っている。レーヴェに詰め寄ろうとするクエスを、仮面の従者が取り押さえていた。
あまりにも突然のできごとに、俺は為すすべもなく、されるがままの状態だった。というのも、レーヴェの俺を押さえつける力が、こんな細腕の、小柄な女のどこに眠っているのかと思うくらい、微動だにしないためである。
俺は着ていたワイシャツのボタンを全て、一つ一つ外されていく……。
交わりって……もしかして……コイツ、本気で?
と、思っていたのも束の間、レーヴェははだけた俺の胸を手で押さえつけながら、呪文を唱え始めた。
此に出でて我に知徳と術とを与え給え――
汝は我が主にして世の全てを司りし虚の結晶――
此に虚の契を交わし――汝我が望みに応えよ――
俺とレーヴェを中心に、魔法陣が発生していた。邪悪な、禍々しい気を放ちながら、紫黒の紋様を浮かび上がらせて、部屋の中の明かりを全て飲み込んでいった。その姿は、さながら暗黒物質。ブラックホールのように全てを漆黒に染め上げていった。
天秤の担い手よ――其の傍らに屍を侍るべし――此れ汝への貢とす――
これまでいたはずの部屋ではなく、気が付けばただ暗闇が支配する世界に、部屋に居た4人だけが目に映っていた。レーヴェの詠唱の途中に、クエスを押さえていた仮面の従者が、溶け込むように、天井に発生した暗黒物質の生む闇の中へ吸い込まれていった。仮面が、天井から落ちてきた。それと同時に、巨大な金色の天秤が、暗黒物質の中から産み落とされるかのように現れて、宙に浮かんでいた。
左の器を以て此の者の生を――右の器を以て我が身の死を――
左の皿が傾く……俺の体から青白い光を放つ何かが吸い取られていった。
右の皿が傾く……レーヴェの体から赤黒いドロッとした、血を思わせる何かに似たものが吸い取られていった。
天秤の軸を担うは此の乙女の鮮血を以てせん――
それらが吸い取られた後に、天秤はしばらく揺れた。均衡を保った天秤は、左に青白い光を、右に赤黒い闇を乗せ、クエスの胸の中に沈み込むように入っていった。苦痛に悶えるクエスが、宙に浮かび上がる。
我らの運命は――共にあり――されど道を違えるもの――
死生を司りし我らが王よ――之を以て此処に契らん――
暗黒物質の中から、影が忍び寄る。影は人の形をしていた。
あれは……。
闇を帯びた人影が、真っ直ぐに俺の方に降りてくる……。
緋い、真っ赤な空洞に見える二つの穴と、真っ赤な三日月のような形をした輪郭の部位……不気味に嗤う悍ましい悪霊のような影が、俺の顔を覗き込んできた。
俺の顔を、その人影が両手で掴んだと思ったら、顔から覗き込むようにして一気に俺の中へと入り込んできた。
その代わり、俺の中から何かが出ていった。青白い光を持った球体となって、レーヴェの胸の中へと入っていった――。
意識が遠のいていく――何か、膨大な量の知識や光景が頭の中に流れ込んでくる……お前は、誰だ……誰の記憶だ……。
頭痛に耐え兼ねる俺を見下ろしながら、レーヴェが何か言っているのが聞こえた。
――忘れないでねぇ、オルちゃん。さっき話したこと。
*
気が付くと、部屋の中にいた。
何事もなかったかのように、さきほどの、取調室の中にいた。周囲には陰険な顔つきの刑事たちが俺を取り囲んでいた。
「それで、その知り合いが行方不明になっていたので、こんな時間に不良と喧嘩して、そのうえ未成年と遊んでいたってわけか」
俺は立ち上がっていた。自分の身の周りで起こったことの奇怪さに。
さっきとまるで同じセリフが、自分に発せられていたこともそうだが……。
突然立ち上がった俺を見て、刑事たちは何事かと、狐につままれたような表情を向けていた。
あれは……夢だったのだろうか……。
ドクン……
脈打つ鼓動が、いきなり俺の胸を締め付け始めていた。
熱い……灼けるような熱さで、何かが胸を焼いている。
ドクン…… ドクン……
「ぐっ……」と、俺はあまりの苦しさに、机の上に突っ伏した。右手で胸を押さえた。熱い……何かが胸に浮かび上がっているのを感じた。
――忘れないでねぇ、オルちゃん。さっき話したこと。
頭に谺するアイツの声が、妙に響いていた。
そうだ……俺は、会いに行かなければならない人がいた。レーヴェが指定した場所に、クエスを連れて……。
頭が、心が、そうするのが当然と言わんばかりに、俺を突き動かそうとしていた。
「き、君……? どうしたのかね?」
刑事が俺の背中をさすりながら安否を訪ねてきていた。
「…だ……だいじょう……ぐっ……」
ドクン……!!
一際大きな鼓動を感じた瞬間、俺は、胸の熱さが引いていくのを感じた。
その代わり、妙に冷静な知覚というか、周囲にいる人間の動きや、呼吸音、心拍数、あらゆる気配が手に取るように理解できた。本当に、妙な感覚だった。研ぎ澄まされた精神力が成せる技なのか、人知をも超えた五感、六感とも言うべき感覚なのか、ともあれ、これまでの自分にはなかったものが芽生えていた。
そして……俺は……。
「なぁ、様子が変だ。医務室に連れて行こう」
「誰か呼んできます」
「あぁ、頼む」
そう言って、警察官の一人がドアを開けた瞬間だった。
「……それには及ばない」
俺は、冷ややかな視線をその場にいる全てに、向けていた。
*
「だーかーらーーー、ウチは被害者なんだってば!!」
「こんな時間に外を出歩いているからそうなるんだ。ほら、親御さんの連絡先を教えなさい。もしくは、学校の名前を言いなさい」
桜花は警察官二人と女性警官に取り調べを受けていた。現場に倒れていた少年のことや、現場に着いた時にいがみ合っていた男性のことについて根掘り葉掘り聞かれていた。桜花は頑なに「ウチは被害者だから早く解放しろ」の一点張りを貫いていた。
そんな時だった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
隣の部屋からだった。声はしゃがれていたが、恐らく50代くらいの男性の声だろう。
また、叫び声と同時に、こちらの部屋を響かせる打撃音が聞こえた。誰かが、壁にぶつかったような、そんな鈍く重みのある音だった。そして、隣の部屋のドアが開く音がした。それは、開くというにはあまりにも荒々しく、激しく、そして……何か、恐ろしいことが起こっているような、そんな雰囲気を持っていた。
「何が起こった?」と、警察官の二人がドアから出ていった。
確か、左側の部屋は……大河? 桜花はその時、例の倉庫で少年たちに囚われていたときのことを思い出していた。
一見弱そうな、普通の男性が突然雰囲気を変えたと思ったら、どこからそんな力が湧くのか、というような蹴りで不良を仕留めた。
怖い雰囲気を持っていたけれど、どこか、その奥に優しそうな目をしていた。
本当は――怖くて仕方が無かった。不良に捕まった時も、強がってみてはいたけれど、心細かった。そんな時に助けに来てくれた、不思議な男性――。
それが、大河の第一印象だった。
「何をしているんだ! ……う、うわぁぁぁぁ」
さきほど出ていった警察官の一人が右側に吹っ飛ぶ姿が、ドアの隙間から見えた。
――まさか。
桜花は、迷いはなかった。もちろん、これが、凶悪犯の仕業によるものかもしれないということは理解していた。身に危険が及ぶ可能性も。それでも、女性警官の静止を振り切って、ドアを開けた。
――その時、その目に映ったのは、目の前を横切ろうとしていた男の姿。雰囲気どころではない、全身から冷徹な、冷酷な殺気を放つ、大河の姿だった。
大河と目が合った。時間が遅滞しているかのように感じた。ゆっくりとこちらを向く大河の目が、緋色に染まっていた。その緋色の瞳から放たれる視線が桜花に注がれると、それについていくかのように、顔が桜花へ向いた。無表情な彼の左頬には、べったりと返り血がついていた。
桜花はぞっとした。その返り血を見たからではない。それまで、優しく語りかけていた目が、悍ましい獣のように思えたからである。
獣はそこに立ち止まると、ゆっくりと右手を桜花に差し出していた。桜花は全く動けなかった。その瞳に見入られて、まるで金縛りにでもあったかのように、指先からつま先まで痺れ、力が入らないでいた。
その差し出される手が、桜花の顔面に迫っていた。掴まれる――その一瞬に、桜花は不意に左側から押し出された。
女性警官だった。
女性警官は桜花を体で突き飛ばすと、大河に頭を掴まれていた。
……本当に、何者なのだろうか。どこからそんな力が湧いてくるのだろうか。
女性警官を片手で、顔を掴んだまま持ち上げながら、何かを聞いていた。
桜花は、聴覚さえ奪われたように、地面にへばりつきながらその様子をただ見ていた。
女性警官は、あまりの苦痛にその腕を両手で掴みながら、足をばたつかせていた。時折、恐ろしい獣のような男を蹴ってはいたものの、全く動じていない様子だった。観念した女性警官はどこか場所を告げると、大河は掴んでいた顔を離した。そして、その腹部に拳を入れ、女性警官を気絶させた。
桜花は、震えていた。少し、涙を流していたかもしれない。これまでに、こんな凄みのある人間と出くわしたことはない。この世の闇を体現したかのような、圧倒的な強さと悪を感じさせる雰囲気に睨まれて、ただ凍りつく時間の中を、止まりそうになる呼吸を、心臓を、ただ動かしているのがやっとだった。大河は桜花に視線を向けると、興味を失った玩具を見るような目で見つめた。しかし、すぐに体を反転させ、部屋を出ていった。
桜花は、突然起こった出来事に、息をするのさえ忘れかけていた。開け放たれたドアと、うずくまっている警察官たちの姿が目に焼き付いて離れない。それでも、彼女を何かが突き動かしていた。
怖い、怖いに決まっている。それでも、桜花には、あの時魅せられた優しい眼差しが忘れられなかった。震える体を、足を、鞭打ちながら立ち上がらせた。
それから数分の後である。起き上がった女性警官は辺りを見回した。しかし、そこにあるのは、未だに気を失って倒れている警察官たちと、既に誰もいなくなっていた部屋だけであった。




