第9話:死に際の符丁と、五十億円の裏切り
新宿・歌舞伎町の裏路地に響き渡る怒号と足音を背に、記憶質店『忘却堂』の店主・黒瀬零は、白い手袋をはめた手で静かにカウンターの下のスイッチを押した。
――ガチャン、ズズズ……。
重厚なオーク材の扉の内側に仕込まれた特殊合金製の隔壁が音もなく降り、店を外界から完全に遮断する。
同時に、入り口の階段に設置された指向性催涙ガスと高電圧スタン罠が作動し、外から扉をこじ開けようとしていた追っ手たちの悲鳴がくぐもった音となって遠ざかっていった。
「ひっ……! す、すげえ防犯設備だな……!」
脇腹の傷を押さえながら床にへたり込んでいた白衣の闇医者――村雨が、荒い息を吐きながら扉を振り返った。
「当店は高価な『記憶』を扱う質屋ですので、無粋な強盗への対策は万全にしております。……ですが、外の連中が重火器や爆薬を持ち出してくるまで、せいぜい二、三十分といったところでしょう」
黒瀬は感情の温度が一切感じられない灰色の瞳で村雨を見下ろし、傍らの救急キットを無造作に放り投げた。
「止血をしながらで結構です。あなたが先ほど仰った【黒龍会組長の最期の記憶】について、詳しくお聞かせください」
「あ、ああ……!」
村雨は震える手で脇腹に止血パッドを貼り付け、革張りの椅子へと這い上がるように腰を下ろした。
「今夜九時頃、俺は歌舞伎町の奥にある黒龍会の本家屋敷へ緊急で呼び出されたんだ。関東最大の極道組織を束ねる三代目組長・鬼塚巌が、敵対するチャイニーズ・マフィアのヒットマンに胸を撃たれたってな」
村雨は額の脂汗を拭い、声を震わせた。
「俺が屋敷の奥の寝室に着いた時、鬼塚の親父さんはすでに大動脈を損傷していて、助かる見込みはゼロだった。屋敷の外は抗争の銃声で騒がしく、部屋には俺と瀕死の組長しかいなかった。……だが、親父さんは息を引き取る直前、俺の白衣の胸ぐらを掴んで、血を吐きながらこう呟いたんだ。『金塊五十億は……龍の腹の中だ……』ってな!」
「龍の腹の中、ですか」
「そうだ! そして親父さんは、右手の指を痙攣させるように奇妙に動かした直後、そのまま絶命した。……だが運の悪いことに、その直後に部屋へ飛び込んできた黒龍会のナンバー2――若頭の『郷田』に、その場面を見られたんだよ!」
郷田といえば、黒龍会の中でも最も冷酷非道な武闘派として恐れられる男である。
「郷田の野郎、俺の頭に拳銃を突きつけて、『今、親父から五十億円の隠し場所を聞いただろう!吐け!』と迫ってきた。俺が『龍の腹の中としか聞いていない、あとは指が痙攣していただけだ』と正直に答えても、あいつは俺が金塊を独り占めしようと嘘をついていると思い込んで、『なら、お前の頭をかち割って闇技師に脳の記憶を直接吸い出させる!』って……!」
村雨は半狂乱でカウンターにしがみつき、黒瀬を見上げた。
「俺はメスを投げつけて窓から必死に逃げ出し、この『忘却堂』へ駆け込んだんだ!頼む、店主! 買い取り額なんて一円もいらない! 今すぐ俺の脳から『今夜の往診の記憶』を完全に抜き取って、俺の頭が空っぽになった証明を外の郷田に突きつけてくれ! でないと俺は殺される……っ!!」
「……なるほど。命惜しさに、五十億円の手がかりが眠る記憶をタダで捨てたい、と」
黒瀬は静かに頷き、卓上の抽出機の電源を入れた。
「承知いたしました、村雨様。まずはその記憶を抽出・査定させていただきます。……同意書にサインを」
村雨が血のついた指で電子パッドにサインを殴り書きすると、黒瀬は彼のこめかみに銀色の端子を装着し、レバーを引き下ろした。
――キィィィン……。
数秒後、トレイの上に転がり落ちたのは、どす黒い血のような色をした『深紅の記憶結晶』だった。
「……あ……れ? 俺、なんでこんなところで血を流してるんだ……?」
直近二時間の記憶が綺麗さっぱり消去され、キョトンと瞬きをする村雨。
黒瀬は彼に鎮痛剤入りの紅茶を差し出すと、ピンセットで『深紅の記憶結晶』をつまみ上げ、専用の投影レンズへとセットした。
空間に浮かび上がるホログラム映像。
そこには、純和風の豪奢な寝室で、布団の上でおびただしい血を流して横たわる老組長・鬼塚巌の姿が鮮明に再現されていた。
『……金塊、五十億は……龍の、腹の中だ……』
鬼塚組長が血を吐きながら呟き、村雨の白衣を掴んでいた右手を宙に浮かせる。
村雨はそれを「死に際の苦悶による指の痙攣」だと思い込んでいた。
だが――記憶映像をスローモーションで拡大解析した黒瀬の灰色の瞳が、鋭く細められた。
(……痙攣ではない。親指と小指を折り曲げ、人差し指を二回叩き、続いて中指を裏返す……。これは昭和の昔、関東の古い丁半博打の賭場で使われていた、壺振り師たちの【手話(符丁)】だ)
黒瀬の脳内にある裏社会の膨大なデータベースが、組長の指の動きを一文字ずつ正確な「言葉」へと翻訳していく。
『ウ・ラ・ギ・リ・モ・ノ・ハ・ゴ・ウ・ダ(裏切り者は郷田)』
『シ・ヨ・ウ・コ・ハ・リ・ユ・ウ・ノ・ハ・ラ(証拠は龍の腹)』
「……ほう。そういうことですか」
黒瀬はさらに映像の隅々――組長の胸の銃創の角度、畳の上に落ちていた薬莢、そして障子の隙間にわずかに映り込んでいた「廊下の影」を極限まで拡大した。
(組長の胸の銃創は、至近距離から斜め下へ向かって撃ち抜かれている。外から侵入したヒットマンではなく、組長の前に座って盃を交わしていた身内の犯行だ。そして、村雨が部屋で組長を看取っている間……障子の外で最初から息を潜めて立ち聞きしていたのは、後から駆けつけたフリをした若頭の【郷田】自身だな)
すべてが一本の線で繋がった。
チャイニーズ・マフィアの襲撃など、最初から郷田が仕組んだ狂言だったのだ。
自分が四代目組長の座と組の隠し財産である五十億円の金塊を簒奪するため、郷田は自らの手で鬼塚組長を撃ち、マフィアの仕業に偽装した。
しかし、組長がすぐには絶命せず、金庫の暗証番号を知る唯一の手段として闇医者の村雨を部屋へ入れ、死に際に金塊のありかを吐かせようと障子の外で待ち構えていたのである。
「そして組長の言った『龍の腹』とは……」
黒瀬の視線が、映像の中の寝室の床の間に飾られていた、全長二メートルを超える見事な【木彫りの黒龍の置物】へと向けられた。
その黒龍の腹の部分には、巧妙な寄せ木細工の継ぎ目があり、さらには組長の指の符丁が示した『四・九・八・九(四苦八苦)』という四桁のダイヤル錠が隠し込まれていたのだ。
その時、店内の外扉に設置されたインターホンカメラが激しく鳴り響いた。
モニターに映し出されたのは、顔面に刀傷のある凶悪な男――黒龍会若頭の郷田と、ロケットランチャーやプラスチック爆弾を手にした十数名の組員たちの姿だった。
『おい、『忘却堂』の店主! 中に村雨の野郎が逃げ込んだのは分かってんだ! あと五分以内に扉を開けて村雨と記憶結晶を差し出さねえと、このビルごと爆破して生き埋めにしてやるぞォッ!!』
モニター越しに響く郷田の怒号に、記憶を失っている村雨が「ひぃぃっ!?」と椅子から転げ落ちる。
しかし、黒瀬は眉一つ動かさず、カウンターのマイクのスイッチを入れた。
「いらっしゃいませ、黒龍会若頭・郷田様。わざわざ扉を壊さずとも、当店はお客様を拒みはいたしませんよ。……村雨様の脳からは、すでに鬼塚組長の最期の記憶を完全に抽出いたしました」
『なに!? もう抜いたのか!?』
「ええ。組長が遺された『五十億円の金塊の隠し場所』が刻まれた記憶結晶は、今私の手元にございます。……ただし、お渡しするには二つの条件がございます」
黒瀬は白い手袋の指先で、深紅の記憶結晶をカメラの前へとかざした。
「一つ目。武器を持った部下の方々を全員地上に残し、郷田様お一人で店内へお入りいただくこと。二つ目……組長の遺言の鑑定料として、現金または即時送金で【五億円】をお支払いいただくことです。もし爆薬で扉を破られれば、この結晶は即座に粉砕処分いたします。五億円を払って五十億円を手に入れるか、それとも一円も得られずに帰られるか、お選びください」
モニターの向こうで、郷田の目が欲望にぎらついた。
相手は裏路地でたった一人で店番をしているひ弱な質屋だ。一人で中に入り、結晶の場所さえ確かめれば、その場で質屋の首をへし折って五億円ごと奪い取ればいい――郷田の浅ましい計算が、画面越しにも手に取るように透けて見えた。
『……いいだろう、質屋! 五億円くれてやる! お前ら、外で待ってろ。俺一人で中に入って結晶を受け取ってくる!』
黒瀬が隔壁のロックを解除すると、重厚なオーク材の扉が開き、懐に大型のサバイバルナイフと拳銃を忍ばせた郷田が、獰猛な笑みを浮かべて店内へと足を踏み入れてきた。
「フン、噂には聞いていたが、随分と粋がったガキが店主をやってるじゃねえか。……おい、村雨は本当に何も覚えてねえんだろうな?」
「ええ。彼には今から裏口よりお帰りいただきます」
黒瀬はカウンターの下から【五千万円】の小切手を取り出し、震える村雨の白衣のポケットへと滑り込ませた。
「村雨様、こちらが今回の記憶の買い取り代金です。今夜中に街を出て、しばらく海外で静養されることをお勧めいたしますよ」
「ご、五千万円……!? あ、ああ、ありがとう店主……っ!」
何も分からないまま大金を手にした村雨は、黒瀬が開けた裏口の非常階段から、脱兎のごとく地上へと逃げ去っていった。
バタン、と裏口が閉まる。
店内に残されたのは、冷徹な査定人・黒瀬零と、極道の若頭・郷田の二人きりとなった。
「ククク……馬鹿な質屋だ。唯一の証人まで逃がしちまってよ」
郷田はすぐさま懐から大型の自動拳銃を引き抜き、黒瀬の顔面へと銃口を突きつけた。
「五億円だァ? そんな金、貴様に払うわけがねえだろうが! 鬼塚の老いぼれは俺が自分の手で撃ち殺したんだ! さあ、その赤い結晶を今すぐ寄越せ! おとなしく渡せば、苦しまずに一発で脳天をぶち抜いてやるぜ!!」
勝ち誇って引き金に指をかける郷田。
だが――黒瀬は銃口を見つめたまま、心底呆れたように小さく息を吐いた。
「……やはり、その程度ですか。大物政治家の秘書といい、あなたといい、どうして悪党というのは『密室で自分の罪を得意げに自白する』という悪癖が抜けないのでしょうね」
「あぁ?今から死ぬ貴様に何を喋ろうが関係ねえだろうが!」
「関係大ありですよ、郷田様。……なぜなら今、あなたの背後にあるマジックミラーの向こうの特別室には、あなたが一番聞かれたくなかった『お客様』がいらっしゃいますので」
黒瀬がパチン、と白い手袋の指を鳴らした。
瞬間。
店内の壁一面を覆っていたアンティークな本棚が左右へとスライドし、強化防弾ガラスの向こう側に設けられた『別室』が姿を現した。
そこに立っていたのは――鬼塚組長に誰よりも深く忠誠を誓い、組の武力の八割を統括する黒龍会本部長・『橘』と、抜刀した日本刀やサブマシンガンを構えた三十名もの直参幹部たちだった。
「なっ……!? た、橘の本部長……!? な、なぜあんたたちが、こんなところに……!?」
郷田の顔から、一瞬にしてすべての血の気が引き、全身が氷りついた。
別室の天井には、先ほど黒瀬が解析した『鬼塚組長の死に際の手話(裏切り者は郷田・証拠は龍の腹)』のホログラム映像と、たった今、郷田自身が「鬼塚の老いぼれは俺が自分の手で撃ち殺した」と自白した音声波形が、くっきりと投影されていたのである。
「……郷田ァッ!! 貴様、よくも三代目の親父さんを裏切って撃ち殺してくれたなァッ!!」
防弾ガラスの向こうから、橘本部長の鬼神のごとき怒号が響き渡る。
「ま、待て橘! なぜお前らがここにいるんだ!? 俺は十分前にこの店を包囲したばかりだぞ!?」
「十分前、村雨様の記憶を査定した直後に、私が裏口から橘本部長へ直接ご連絡を差し上げたのですよ」
黒瀬は氷のように冷ややかな声で告げた。
「『親父様を撃った真犯人と、五十億円の金塊のありかが判明した。今すぐ裏口から特別室へお入りいただきたい』とね。……なお、表の路地裏にいたあなたの部下十数名は、すでに橘本部長の精鋭部隊によって全員武装解除され、縛り上げられております」
「う、嘘だ……! そんな、ハメたのか貴様ァッ!!」
「ええ。そして橘本部長には、組長の遺言の査定料、および裏切り者の特定報酬として、屋敷の黒龍の置物の中から発見された五十億円の金塊のうち――二割にあたる【十億円】を、すでに当店の口座へお支払いいただいております」
ガラスの向こうで、橘本部長が黒瀬に向かって深く義理堅い一礼を返した。
『黒瀬殿、先代組長の無念を晴らしていただいた恩義、黒龍会一同、生涯忘れません。代金十億円は、確かに支払わせていただきました。……あとは、我々の方で「極道のけじめ」をつけさせていただきます』
ガチャンッ!
別室の強化扉が開き、鬼の形相をした三十名の幹部たちが、日本刀の白刃を煌めかせて郷田の周囲を完全に取り囲んだ。
「ひっ……! ま、待ってくれ橘! 俺は組のために……うわああああああっ!!」
拳銃を叩き落とされ、幹部たちにズルズルと裏口へと引きずられていく郷田の絶叫が、地下室の奥へと消えていく。
五億円の鑑定料を踏み倒そうとした愚かな裏切り者は、五十億円の金塊も、四代目の座も、そして自らの命すらも失い、東京湾の暗い海の底へと沈められる運命が確定した。
◇
チリン――。
嵐のような極道たちが去り、再び静寂を取り戻した『忘却堂』の店内。
黒瀬零は、白い手袋をはめた手でカウンターの上の紅茶を一口ふくみ、懐中時計の文字盤へ静かに視線を落とした。
「……仕入れ値が五千万円。売上が十億円。今夜も実に健全な商いでしたね」
黒瀬は抽出機から取り出した『深紅の記憶結晶』を専用の保管ケースへと収め、店の奥にある鍵付きのコレクションルームへと足を運んだ。
政治家、カリスマシェフ、そして極道の組長。
様々な人間の記憶を査定し、莫大な利益を積み上げていく黒瀬だったが――そのコレクションルームの最奥、黒いベルベットの台座の上に置かれた『一つのひび割れた透明な結晶』の前で、彼の足がピタリと止まった。
それは、他人から買い取った記憶ではない。
数年前、黒瀬零自身の脳から何者かによって強奪され、わずかな残骸だけが残された【彼自身の失われた過去の記憶】であった。
「……先代組長が隠し持っていた金塊の取引記録の中に、一つだけ興味深い名前が混ざっていましたね」
黒瀬の灰色の瞳が、かつてないほど深く、鋭い光を宿す。
「表向きはクリーンな医療ベンチャーでありながら、裏社会へ違法な記憶抽出機を流している巨大複合企業――『クロノス・メディカル』、か」
パズルの一片が、静かに音を立てて嵌まった。
新宿・歌舞伎町の地下室から始まった冷徹なる査定人の物語は、いよいよ彼自身の「空白の記憶」を巡る、さらに巨大な闇の領域へと足を踏み入れようとしていた。
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