第10話:クロノスの刺客と、ひび割れた空白の記憶
黒龍会の跡目争いに絡む五十億円の金塊騒動から、三日後の深夜。
新宿・歌舞伎町の裏路地にある記憶質店『忘却堂』の地下室には、静かなクラシック音楽と、淹れたての紅茶の香りだけが漂っていた。
カウンターの奥に立つ店主・黒瀬零は、白い手袋をはめた指先で、二つの記憶結晶を並べてルーペで覗き込んでいた。
一つは、三日前に黒龍会先代組長・鬼塚巌の遺言から回収した取引記録の断片。
そしてもう一つは、黒瀬自身の脳から数年前に何者かによって強奪され、わずかな残骸だけが残された『ひび割れた透明な結晶』であった。
(……やはり一致している。鬼塚組長が裏ルートで購入していた違法記憶抽出機の製造シリアルナンバーと、三年前に私の脳から記憶を焼き切った抽出機の波長パターン。どちらも出所は同じ――巨大医療複合企業『クロノス・メディカル』の特別開発室だ)
黒瀬の感情の温度がない灰色の瞳に、氷のように冷徹な光が宿る。
三年前、黒瀬零は路地裏で血を流して倒れている状態で目を覚ました。
名前と、記憶結晶を鑑定・操作する高度な知識、そして莫大な裏口座のアクセス権だけは頭に残っていたものの、自分が本来誰であり、誰に何を奪われたのかという「核心の記憶」だけが、物理的に脳から抉り取られていたのである。
それ以来、彼はこの『忘却堂』を営みながら、持ち込まれる無数のゴミ記憶の中に混じる「黒幕の痕跡」を、冷徹なパズルのように集め続けてきたのだ。
その時だった。
チリン――。
店の入り口のベルが静かに鳴り、重厚なオーク材の扉が開いた。
店内へと足を踏み入れてきたのは、これまでの客のような「追い詰められた弱者」でもなければ、「傲慢に怒鳴り散らす悪党」でもなかった。
仕立ての良いダークグレーのコートを纏い、銀縁の眼鏡をかけた、どこか大学教授か神経外科医を思わせる理知的な中年男。
その背後には、一切の足音を立てずに歩く二人の黒服の男――極道の用心棒などとは比較にならない、軍の特殊部隊上がりの『プロの掃除屋』がピタリと控えていた。
「……いらっしゃいませ。深夜のご来店、歓迎いたしますよ」
黒瀬はルーペを外し、ひび割れた結晶を懐へと収めると、変わらぬ穏やかな笑みで男を迎え入れた。
「ここが噂の『忘却堂』か。大物政治家の鷹司誠一郎を失脚させ、ミカド・グループの御曹司を破滅させ、ついには黒龍会の跡目争いまで裏で操ったという……今、東京の裏社会で最も厄介な質屋だな」
眼鏡の男はカウンターの前の革張りの椅子に優雅に腰を下ろし、胸ポケットから一枚の白い名刺を取り出してテーブルに滑らせた。
そこに印字されていたのは、『クロノス・メディカル株式会社・特別法務監査室長 氷室蓮司』という文字だった。
「ほう。クロノス・メディカル社の監査室長様が、このような裏路地の質屋にどのようなご用件でしょうか」
「単刀直入に言おう、黒瀬零くん」
氷室は冷酷な爬虫類のような瞳で、眼鏡の奥から黒瀬を射抜いた。
「三日前の夜、君は黒龍会の闇医者・村雨から『鬼塚組長の最期の記憶結晶』を買い取り、四代目となった橘本部長に金塊のありかを売ったね。……その組長の記憶の中に映り込んでいた【我が社との違法取引データ】と、現在この店で使われている【旧式記憶抽出機のコアモジュール】を、今この場で私に引き渡してもらいたい」
「……もし、お断りしたら?」
「断るという選択肢は存在しないよ」
氷室が軽く指を鳴らすと、背後の黒服の一人が懐から「銀色の細長い円筒形の装置」を取り出し、カウンターの上に置いた。
それは拳銃ではない。半径十メートル以内のすべての電子機器と通信回線を焼き切り、同時に人間の脳の神経シナプスに直接マイクロ波を照射して「廃人」に変える、軍用規格の『高出力EMP(電磁パルス)兼・脳神経破壊装置』だった。
「鷹司の秘書や黒龍会の郷田は、君のハッタリや防犯カメラの罠に引っかかったようだが……我々は記憶技術の生みの親である『クロノス・メディカル』だ。この装置を起動すれば、君の胸ポケットにある心拍センサーも、店内の防犯カメラも、海外サーバーへの通信ラインも、コンマ一秒で全てただの鉄屑と化す」
氷室は薄く笑い、カウンターの上に一枚の黒い小切手を置いた。
「もっとも、我々は野蛮な極道ではないからね。君が大人しく鬼塚組長の記憶結晶を渡し、さらに『自分自身の頭の中にある過去三年間の営業記憶』をすべて抽出して我々に差し出すなら、立ち退き料として【一億円】を支払おう。記憶を失ってただの無害な一般人に戻れば、命だけは助けてあげるよ」
通信の遮断、防犯カメラの無効化、そして記憶そのものの完全消去。
これまでの悪党たちの甘さをすべて潰した上で、絶対的な技術力と暴力によって黒瀬を「無力化」しようとする完璧な包囲網だった。
「……なるほど。さすがにクロノス・メディカルの監査室長様だけあって、事前の調査も手際も完璧ですね」
黒瀬はカウンターの上の装置を見つめ、静かに頷いた。
「ですが氷室様。あなたは一つだけ、極めて重大な『査定ミス』を犯していらっしゃいます」
「査定ミスだと?」
「ええ。あなたは私が『三日前に鬼塚組長の記憶から御社の名前を知り、まだ何も手を打っていない』とお考えのようですが……私がこの三日間、ただ大人しく店番をしていたとでもお思いですか?」
黒瀬が白い手袋の指先で、カウンターの天板をトン、と軽く一度だけ叩いた。
――ガチャンッ!!
その瞬間。
氷室の背後に立っていた二人の屈強な『プロの掃除屋』が、突如として自身の首筋を押さえ、白目を剥いて床へと崩れ落ちた。
「なっ……!? お、おい、どうした貴様ら!?」
氷室が驚愕して振り返る。
だが、床に倒れた二人の掃除屋はピクリとも動かない。死んではいないが、強力な即効性の神経麻酔によって完全に意識を刈り取られていた。
「無駄ですよ、氷室様。彼らがこの地下室へ降りてくる階段で吸い込んだ『紅茶の香り』……あれは、彼らが普段服用しているクロノス社製の戦闘用興奮剤の成分と化学反応を起こした時だけ、脳の覚醒中枢を強制シャットダウンする特殊な合成アロマです。一般人やあなたにはただのダージリンの香りにしか感じられませんがね」
「ば、馬鹿な……! 我々が今日ここへ来ることを、最初から予期して罠を張っていたというのか!?」
氷室は顔を歪め、すぐさまカウンターの上の『EMP兼・脳神経破壊装置』の起動スイッチへ指を伸ばした。
「くそっ、ならば一人で貴様の脳を焼き切ってやる――!」
バチィッ!!
氷室がスイッチを押し込んだ。
だが――店内の照明は消えず、黒瀬の心拍センサーも壊れない。
それどころか、銀色の円筒装置から放たれた微弱なパルス波は、氷室自身がかけている『銀縁の眼鏡』のフレームへと逆流し、氷室のこめかみに激しい電撃を走らせたのである。
「ぎゃあああああっ!!?」
氷室は悲鳴を上げて椅子から転げ落ち、焼け焦げた眼鏡をむしり取って床を転がった。
「な、なぜだ!? なぜ我が社の最新鋭EMP装置が逆流した!?」
「それが二つ目の査定ミスです、氷室様」
黒瀬はカウンターの奥から静かに歩み出て、床に這いつくばる氷室を絶対零度の灰色の瞳で見下ろした。
「あなたが今お使いになったその特注のEMP装置……製造番号『CM-09』。それは三日前、鬼塚組長の金塊保管庫の隣にあった武器庫から発見され、黒龍会の橘四代目組長から『忘却堂へのプレゼント』として私が譲り受けた品と、全く同じロットの製品ですよ」
「なに……っ!?」
「橘組長は義理堅い方でしてね。『クロノス・メディカルの監査室が、組長の記憶を回収するために近いうちに忘却堂を襲撃するはずだ』という極秘情報と、御社の装置の設計図をすべて私に提供してくださいました。……ですから私は昨日、御社のメンテナンス部門の下請け業者を買収し、あなたが今日持ち出す予定だったその装置の内部回路を『起動した瞬間に使用者自身の生体インプラントへ指向性パルスを逆流させる』よう、あらかじめ書き換えさせていただいたのです」
「き、貴様……ッ! 我が社の内部にまで手を回して……!」
全身の痺れで指一本動かせなくなった氷室は、恐怖に引きつった目で黒瀬を見上げた。
自分の前に立っているのは、ただの裏路地の質屋ではない。政治家も、大企業も、そして関東最大の極道組織すらも手駒として操る、底知れぬ怪物だったのだ。
「さて、氷室蓮司様。ここからが本題の『査定』です」
黒瀬は白い手袋の手で、卓上の記憶抽出機から伸びる銀色の端子を、動けない氷室のこめかみへと容赦なく装着した。
「や、やめろ! 私には同意書にサインする意思などないぞ! 違法抽出だ!」
「ご安心ください。あなたが先ほどカウンターに置かれた『一億円の小切手』の裏面に、すでにあなたの指紋と生体反応による包括同意サインが転写されるよう細工してありました。契約は完全に合法です」
黒瀬の声には、これまでどの悪党に対しても見せたことのない、氷の刃のような鋭い殺気が宿っていた。
「氷室様。あなたの脳内にある『クロノス・メディカル特別法務監査室』の機密記憶……そして三年前、私の脳から記憶を奪い去った【真の依頼主】に関する記憶を、今ここで一滴残らず査定させていただきます」
「ひっ……! ま、待て、それだけは……私の脳にある機密領域には、会社のプロテクトが……あ、あああああああっ!!」
黒瀬が抽出機のレバーを引き下ろした。
――キィィィン……。
通常の数倍もの高出力で回転する抽出機のトレイの上に、氷室の脳から引きずり出された『蒼白い光を放つ角柱状の記憶結晶』が転がり落ちる。
黒瀬は気絶した氷室を一瞥もせず、ピンセットでその『蒼白い結晶』をつまみ上げると、すぐさま投影レンズへとセットした。
空間に浮かび上がる、氷室の機密記憶のホログラム映像。
そこには、クロノス・メディカル本社ビルの地下深くにある無菌室で、数多くの政財界のVIPや犯罪者の記憶を非合法に改ざん・消去してきたおぞましい実験記録が並んでいた。
そして――映像の最深部。
強固な暗号プロテクトがかけられた三年前のファイルに、黒瀬の灰色の瞳が釘付けになった。
『特別案件コード:ZERO』
『対象者:黒瀬零。元・国家機関【記憶統制局】特級査定官』
「……記憶統制局の、特級査定官……?」
黒瀬が自身の失われた肩書きを呟いた直後。
映像の中のファイルがノイズと共に激しく乱れ、三年前、血まみれで拘束された黒瀬自身の脳から記憶を抜き取っていた『白衣の責任者』の後ろ姿が映し出された。
その人物は、抜き取ったばかりの黒瀬の記憶結晶を手に持ち、モニター越しの何者かに向かってこう報告していたのだ。
『――ええ、完了しました。彼が偶然突き止めてしまった【十年前、東京の三万人から一斉に消去された空白の一日】の記憶は、これで完全に封印されました。ただし、彼自身の鑑定眼と知識は利用価値が高いため、記憶を抜いた上で新宿の地下に泳がせ、裏社会のゴミ記憶を集める「集積装置」として監視下に置きます』
「っ……!!」
そこで氷室の記憶データは強制的なブロックに阻まれ、プツンと途切れた。
氷室ほどの幹部であっても、その「白衣の責任者」の素顔や、国家機関である『記憶統制局』の中枢情報まではアクセス権を与えられていなかったのだ。
だが、黒瀬零にとっては、それだけで十分すぎるほどの収穫だった。
「……私が、国家機関の特級査定官だった、ですか。そして私を殺さずにこの『忘却堂』に泳がせていたのは、私に裏社会の記憶を集めさせるためだった、と」
黒瀬は懐から、自分の『ひび割れた透明な結晶』を取り出し、先ほど氷室から抜いた『蒼白い結晶』と重ね合わせた。
カチリ、と二つの結晶の波長が共鳴し、ひび割れていた透明な結晶の欠片が、ほんのわずかだけ修復されて鋭い輝きを取り戻す。
「……面白い。私を便利な集積装置として利用しているつもりですか、クロノス・メディカル、そして『記憶統制局』の黒幕たち」
黒瀬の唇が、かつてないほど冷酷で、そして美しい弧を描いて釣り上がった。
「よろしいでしょう。ならばその期待通り、この東京に眠るすべての特級記憶を買い集め、あなた方が十年前、三万人の国民の脳から消し去った『空白の一日』の真実を暴き出して差し上げます。……そして最後には、あなた方の命と国家のすべてに、支払いきれないほどの高値をつけて破滅させてあげましょう」
黒瀬は床で眠る氷室と二人の掃除屋を、連絡を受けて駆けつけた黒龍会の組員たちに「クロノス社への送還(という名の身代金一億円の回収)」として引き渡すと、再び静かになったカウンターの奥へと戻った。
チリン――。
夜明け前の新宿・歌舞伎町。
自らの失われた過去の一端に触れ、巨大な国家の闇という真の獲物をロックオンした冷徹なる査定人は、新しい紅茶を淹れながら、次なる客の訪れを静かに待ち続けていた。
(第1章・第3幕 完 / 次回、第11話より新たな依頼人エピソード開幕!)
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