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『記憶質店「忘却堂」の冷徹なる査定人』  作者: beck2026


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第11話:盗まれた五線譜と、耳鳴りの正体

『クロノス・メディカル』の特別法務監査室長・氷室蓮司を返り討ちにし、黒瀬零(くろせ・れい)が自らの失われた過去――元・国家機関『記憶統制局』の特級査定官であったという事実の一端に触れてから、五日後の夜。


新宿・歌舞伎町の裏路地にある記憶質店『忘却堂』の地下室では、黒瀬が白い手袋をはめた指先で、氷室の脳から抽出した『蒼白い記憶結晶』の暗号領域を解析していた。


「……氷室が管轄していたクロノス社の『非合法記憶移植・VIP顧客リスト』。その筆頭に名を連ねているのが、世界に名を馳せる若き天才ピアニスト兼作曲家、西園寺響(さいおんじ・ひびき)、ですか」


黒瀬が感情の温度がない灰色の瞳をモニターへと向ける。


西園寺響といえば、昨年発表した交響曲『深淵の鐘』で世界の音楽賞を総なめし、来週には東京オペラシティで各国の王族やVIPを招いたチャリティー・リサイタル(チケット売上および放映権料総額・三十億円)を控えているクラシック界の絶対的カリスマだ。


その時だった。


チリン――。


店の入り口のベルが控えめに鳴り、重厚なオーク材の扉がゆっくりと開かれた。


店内へ入ってきたのは、季節外れの薄手のカーディガンを羽織り、右耳のあたりを痛ましげに手で押さえた一人の若い女性だった。


年齢は二十代前半。


透き通るような白い肌をしているが、その瞳は深い絶望に沈み、綺麗に切り揃えられた両手の爪の先には、鍵盤を叩き続けてきたピアニスト特有の硬いタコが残っている。


「……いらっしゃいませ。記憶の質入れですか、それとも売却ですか?」


黒瀬は解析画面を閉じ、穏やかな、しかしどこか冷やりとした笑みで彼女を迎え入れた。


「……売却、です。買い取り額なんて、帰りの電車賃になればそれで構いません。ただ……私の頭の中で二十四時間ずっと鳴り止まない、この『不快な耳鳴りの記憶』を抜き取ってほしいんです」


女性は革張りの椅子に腰を下ろし、震える声で名乗った。


「私の名前は、白川詩音(しらかわ・しおん)といいます。一年前までは、音楽大学の特待生としてピアノと作曲を学んでいました」


「一年前まで、ですか。今は音楽を辞められたのですか?」


黒瀬の問いに、詩音は唇を噛み締め、膝の上で細く長い指を強く握りしめた。


「……辞めたんじゃありません。奪われたんです。私が十年間、寝る間も惜しんで書き溜めたすべての楽曲の記憶と、ピアノを弾くための絶対音感の記憶を……あの『西園寺響』に」


詩音の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「一年前、西園寺財閥が主催する若手コンクールで、私は最終選考に残りました。でもその直後、私の母が原因不明の急性心不全で倒れて、クロノス・メディカルの特別病院へ運び込まれたんです。主治医からは『最新の人工心臓移植と記憶神経治療に一億円かかる』と告げられました」


そこに救いの手を差し伸べるフリをして現れたのが、コンクールの審査員長でもあった西園寺響だった。


「西園寺は私にこう言いました。『君の母上の手術費用一億円は、僕がすべて肩代わりしよう。その代わり、君がこれまで頭の中で作曲した未発表の交響曲と、絶対音感の記憶をすべて結晶化して僕に譲ってくれないか』と……。私は母の命を救うために、泣きながら同意書にサインしました」


記憶を抜かれた詩音は、翌日から五線譜の読み方すら分からなくなり、ピアノの鍵盤に触れてもただの雑音にしか聞こえない体になった。


一方、彼女の記憶を移植した西園寺響は、詩音が魂を削って作った交響曲を『深淵の鐘』と名付けて自分の作品として発表し、世界的マエストロの座へと駆け上がったのである。


「母の手術は無事に終わりました。だから後悔はしていないはずなのに……一ヶ月ほど前から、私の頭の中で、ある記憶がフラッシュバックするたびに『キィィィン』という頭が割れるような金属音の耳鳴りが響くようになったんです」


「どのような記憶ですか?」


「……十年前、私がまだ十二歳だった頃の夏の日、新宿の中央公園のベンチで一人、古いメトロノームを見つめていた時の記憶です。音楽の記憶は全部抜かれたはずなのに、なぜかその『止まったメトロノームを見つめていた数分間の記憶』だけが頭に残っていて……それを思い出すたびに、耳の奥で不気味な鐘の音と耳鳴りが鳴り響いて、夜も眠れないんです……! お願いです、この気味の悪いゴミ記憶を、私の頭から消してください……!」


机に突っ伏して泣きじゃくる詩音を、黒瀬は黙って見下ろしていた。


しかし、彼女の口から『十年前』『新宿』という言葉が出た瞬間、黒瀬の灰色の瞳の奥に、鋭い火花が散った。


(十年前、新宿……。まさか、氷室の記憶にあった【十年前、東京の三万人から一斉に消去された空白の一日】の現場か……!?)


「承知いたしました、白川詩音様。では、まずはその『十年前の夏、止まったメトロノームの記憶』を抽出・査定させていただきます。……同意書にサインを」


詩音が電子パッドにサインを書き込むと、黒瀬は彼女のこめかみに銀色の端子を装着し、抽出機のレバーを静かに引き下ろした。


――キィィィン……。


微かな駆動音と共に、トレイの上に転がり落ちたのは、透き通った水の中に一筋の銀線が走るような『銀青色の記憶結晶』だった。


「……あ……れ? 私、なんで耳を押さえてたのかしら……耳鳴りが、ピタリと止んでる……」


憑き物が落ちたように顔を上げる詩音の前で、黒瀬はピンセットで『銀青色の結晶』をつまみ上げ、専用の投影レンズへとセットした。


空間に浮かび上がるホログラム映像。


そこには、十年前の夏――蝉の声が響く新宿中央公園のベンチで、十二歳の詩音少女が小さな木製のメトロノームを膝に乗せている光景が映し出されていた。


だが、映像が再生されて数秒後。


黒瀬の背筋に、かつてないほどの戦慄が走った。


カチ、カチ、カチ……と一定のテンポで揺れていたメトロノームの振り子が、突如として『真横の角度』でピタリと空中に静止したのだ。


いや、メトロノームだけではない。


公園の噴水から飛び散っていた水しぶきも、空を飛んでいた鳩の羽ばたきも、周囲を歩いていた無数の通行人たちの足取りも――まるで世界そのものが一時停止ボタンを押されたかのように、完全に動きを止めていたのである。


「な、なにこれ……!? 噴水の水が、空中で止まってる……!?」


記憶を抜かれた詩音自身が、ホログラムの映像を見て息を呑んだ。


「……止まっているのではありません。これほど極限まで引き伸ばされた時間の中で、あなたの『聴覚野』だけが稼働していたのです」


黒瀬はホログラムの音響波形データを最大まで拡大した。


映像の中で、空を見上げる少女の耳に、遥か上空の雲の上――あるいは地下深くの施設から放たれたと思しき、重低音の『巨大な鐘のような共鳴波(広域記憶消去パルス)』が轟いていた。


その特殊な音波パルスを浴びた周囲の通行人たちは、全員が立ったまま白目を剥き、その日の記憶を脳から一斉にフォーマット(初期化)されていたのだ。


「白川様。あなたは生まれつき、常人の数千倍の周波数帯域を聞き分ける【超域絶対音感】を持っていらっしゃった。十年前、この新宿一帯の三万人の記憶を強制消去するために放たれた『国家機密の音響パルス』を、十二歳のあなたの耳と脳は、記憶消去の命令としてではなく――そのまま【一曲の巨大な交響曲の楽譜(周波数データ)】として丸ごと暗記・録音してしまったのです」


「え……っ!? 私が、記憶を消す音波を、音楽として暗記した……!?」


「はい。あなたが作曲した世界最高峰の交響曲『深淵の鐘』。あれはあなたの空想ではなく、十年前に三万人の記憶を消し去った【悪魔の周波数】を、ピアノの和音へと翻訳した再現データだったのですよ」


黒瀬の灰色の瞳が、氷のように冷徹な輝きを放つ。


「そして、西園寺響が一年前にクロノス・メディカルを使ってあなたの母上に『急性心不全』を起こさせたのも、偶然ではありません。すべては、あなたの脳内に眠るその『十年前の周波数データ』を合法的に奪い取るための、仕組まれた罠だったのです」


「なっ……!? じゃあ、お母さんが倒れたのも、西園寺と病院がグルになって……!?」


詩音の顔が、激しい怒りと戦慄に震えた。


「ですが、西園寺響は致命的なミスを犯しました」


黒瀬は白い手袋の指先で、空中に浮かぶメトロノームの映像を指し示した。


「あなたが作った交響曲『深淵の鐘』の最終楽章には、聴衆の脳を強制的に破壊する『致死性の高調波ノイズ』が含まれていました。あなたは無意識のうちに、この十年前の『メトロノームの規則正しいクリック音(逆位相の打ち消し波形)』を重ねることで、その毒を中和して美しい音楽へと昇華させていたのです」


「逆位相の、打ち消し波形……」


「ええ。西園寺はあなたの『十代以降の音楽記憶』だけを奪い、十二歳の頃のこの『メトロノームのゴミ記憶』をあなたの脳に置き去りにしました。その結果、彼の脳内に移植された楽曲データは現在、安全装置の外れた【音響時限爆弾】と化しています」


黒瀬の唇が、獰猛な弧を描いて釣り上がった。


「もし来週、世界各国のVIPが集まる東京オペラシティのチャリティー・リサイタルで、西園寺響がこの『メトロノームの中和波形』を持たないまま『深淵の鐘』の完全版を弾き切ればどうなるか。……ホール音響の反響によって逆流した高調波が、演奏者である西園寺自身の聴覚神経と運動野をステージ上で完全に焼き切り、彼は二度と指一本動かせない廃人へと転落します」


「っ……!!」


黒瀬はカウンターの下から重厚なジュラルミンケースを取り出し、パチンと留め金を外して蓋を開けた。


そこには、帯封のついた一万円札の束が、眩いばかりにぎっしりと敷き詰められていた。


「白川詩音様。あなたが『帰りの電車賃になればいい』と仰ったその十年前の耳鳴りの記憶ですが……当店の失われた過去を繋ぐ特級の歴史資料、および偽りのマエストロから三十億円の興行収入とあなたの音楽記憶をすべて奪い返すための切り札として、査定額は【三億円】となります」


「さ、さんおくえん……!?」


目を丸くする詩音の前へ、黒瀬は『銀青色の記憶結晶』をそっと差し出した。


「この三億円を受け取って、お母様と共に音楽のない世界で静かに暮らされるのも自由です。……ですが、もし私からこの記憶を【一円】で買い戻し、来週のオペラシティの舞台で、西園寺響という泥棒に『本物の深淵の鐘』を鳴らしに行く共犯者になってくださるのなら、大歓迎いたしますが」


詩音は震える手で自らの涙を拭うと、カーディガンのポケットから「一円玉」を一枚取り出し、ピアニストのタコが刻まれた指先でカウンターへと力強く叩きつけた。


「……お母さんを傷つけ、私の音楽を盗んだあの男を、絶対に許さない。……店主さん、私にその記憶を買い戻させてください。私の本当の音楽で、あの偽物の仮面を粉々に叩き割ってやります!」


「――契約成立(ディール)です」


黒瀬は白い手袋の手で一円玉を回収し、氷のように美しい笑みを浮かべた。


「では、来週のリサイタルに向けて、最高の『調律』を始めましょうか。十年前の空白の真実を奏でるその旋律で、傲慢な簒奪者に一生鳴り止まない破滅の耳鳴りをプレゼントして差し上げましょう」


新宿の地下室に響く、静かなメトロノームの鼓動。


十年前の国家犯罪の核心へと迫りながら、冷徹なる査定人の華麗なる復讐の協奏曲が幕を開けた。


読んでいただき、本当にありがとうございます!


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次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。


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