第12話:深淵の鐘と、狂気のリサイタル
東京・初台にそびえ立つ国内屈指の音楽の殿堂、東京オペラシティ・コンサートホール。
世界各国から集まった王族、駐日大使、政財界の重鎮、そして名だたる音楽評論家たちで満員となった場内には、開演前から張り詰めた熱気が満ちていた。
『若き天才マエストロ・西園寺響 チャリティー・リサイタル』。
チケットの即日完売による興行収入と、世界同時衛星生中継の放映権料を合わせた総額は【三十億円】。
その莫大な利益と名声を一身に背負い、舞台袖のピアノの脇に立つ西園寺響は、特注の純白の燕尾服の袖口を整えながら、傲慢な笑みを口元に浮かべていた。
「……ふん、愚民どもが。高い金を払って、他人の脳から買い取った音楽を有り難がって聴きに来るとはな」
西園寺は誰にも聞こえない声で呟き、自らの額を指先でなぞった。
一年前、西園寺財閥の権力と医療複合企業『クロノス・メディカル』の裏工作を使い、白川詩音の母親を人為的な心不全に追い込んで奪い取った【未発表交響曲と絶対音感の記憶】。
その記憶を自らの脳へと移植したことで、凡庸なピアニストに過ぎなかった西園寺は、一夜にして「神に愛されたマエストロ」へと仕立て上げられたのだ。
だが――ここ一ヶ月ほど、その移植された記憶に不穏な変調が生じていた。
ピアノを弾くたび、耳の奥で激しい金属音の耳鳴りが響き、脳の奥底が焼けるように熱くなるのだ。
「響先生、出番の五分前です」
スタッフの声に、西園寺は眉をひそめて小さく舌打ちをした。
「分かっている。……おい、先ほど控室に届けられた『クロノス・メディカルからの特別調整アンプル』はどこだ?」
「あ、こちらです。先ほど、クロノス社の特任調律師と名乗る黒瀬という男性が直接お届けにいらっしゃいました。『これを飲めば、演奏中の耳鳴りと神経ノイズは完全に消え去り、最高の共鳴が得られる』とのことです」
スタッフから渡された遮光瓶のアンプルを、西園寺は疑いもせず一気に飲み干した。
喉を焼くような微かな苦味の直後、耳の奥で疼いていた耳鳴りが嘘のように鎮まる。
「……素晴らしい効き目だ。やはりクロノス社の技術は本物だな」
西園寺は満悦の笑みを浮かべ、胸を張ってスポットライトの降り注ぐステージへと歩み出た。
◇
ワァァァッ!!
二千人のVIP聴衆から、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こる。
ステージ中央に鎮座する最高峰のグランドピアノ、スタインウェイの前で優雅に一礼した西園寺は、静かに鍵盤の前に腰を下ろした。
その二階席の中央――関係者専用の貴賓ボックス席には、漆黒のスーツを纏った黒瀬零と、濃紺のシックなドレスに身を包んだ白川詩音が、並んでステージを見下ろしていた。
詩音の両耳には、黒瀬が手渡した『特殊偏光ノイズキャンセラー』が装着されている。
「……本当に、あいつが自滅するんですか、黒瀬さん」
詩音が膝の上で拳を握りしめ、低く囁いた。
「ええ。西園寺響が先ほど飲んだアンプルは、神経の痛覚を一時的に麻痺させただけです。……そして今、このホールの音響反射板の角度は、事前に私が『調律』した通り、特定の高調波だけを中央の演奏席へ集中的に跳ね返すよう設定されております」
黒瀬の感情の温度がない灰色の瞳が、冷徹な光を放つ。
「あなたが十二歳の夏、新宿中央公園で聴いた『十年前の三万人記憶消去パルス』――その悪魔の周波数をピアノの和音へと翻訳した交響曲『深淵の鐘』。……逆位相の中和波形を持たない彼がそれを弾き切れば、彼自身の耳と脳が、最初の犠牲者となるでしょう」
ステージの照明が暗転し、西園寺響の指先が、静かに鍵盤へと振り下ろされた。
――重く、深く、そして不気味なほど美しい重低音の和音が、ホールの静寂を切り裂いた。
交響曲『深淵の鐘』、第1楽章。
聴衆はその圧倒的な音響空間に一瞬で息を呑み、静まり返った。
まるで深海の底から響いてくるかのような、この世のものとは思えない神秘的な旋律。
西園寺の指先は、脳内に移植された詩音の記憶通りに、機械のように正確に、かつ情熱的に鍵盤を叩き続けていく。
しかし――演奏が第3楽章の終盤、クライマックスである「第4楽章」へと突入した、まさにその瞬間だった。
ドォォォォォン……ッ!!
ピアノの筐体全体が共振を起こし、ホール内の空気が目に見えて歪んだ。
通常の楽器演奏では絶対に生じ得ない、超低周波と超高周波が重なり合った『破壊的な定在波』が、ステージの中央に渦を巻き始めたのだ。
「ぐっ……!? な、なんだ……!?」
演奏している西園寺の視界が、突如として激しく揺らいだ。
耳の奥で、先ほどのアンプルで消えていたはずの耳鳴りが、数百倍の暴風となって爆発したのである。
キィィィィィィィィィィン……ッ!!
「う、あ……あぁぁぁっ!?」
西園寺の脳内で、移植された詩音の記憶データが激しいオーバーフローを起こした。
音波の反響が、演奏者である西園寺自身の頭蓋骨を直接揺さぶり、聴覚神経と運動神経のシナプスを焼き切っていく。
指を止めたいのに、止まらない。
脳内に強固に焼き付けられた『完璧な演奏記憶』が、肉体の激痛を無視して、自動人形のように西園寺の指を鍵盤へ叩きつけさせているのだ。
(と、止まれ! 指よ、止まれッ!! 耳が……耳が千切れるッ!! 頭が、頭が割れるぅぅぅっ!!)
西園寺の鼻から、たらりと一筋の鮮血が垂れ落ちた。
鍵盤の白鍵が、西園寺自身の鼻血で赤く染まっていく。
客席の聴衆が、異様な異変に気づいてざわめき始めた。
美しいはずのピアノの音が、徐々に狂気と悲鳴を孕んだ、耳を塞ぎたくなるような不快な不協和音へと変貌していく。
そして、楽曲が最大のクライマックス――【三万人の記憶を消去した破壊コード】へと到達しようとした、その刹那。
カチッ、カチッ、カチッ、カチッ……。
ホール全体に、規則正しく、澄み切った『木製の音』が響き渡った。
「な、なんだあの音は……!?」
騒然とする聴衆が一斉に見上げたのは、二階の貴賓ボックス席。
スポットライトを浴びて立ち上がった白川詩音が、ステージ上の西園寺を見下ろしながら、両手で一台の『古びた木製メトロノーム』を抱えていた。
十年前の夏、新宿の公園で時を止めた、あのメトロノーム。
黒瀬がホールの音響マイクを遠隔ハックし、詩オンが鳴らすメトロノームのクリック音を、超高精度の【逆位相キャンセラー波】としてホール全体へとスピーカーから一斉放射したのだ。
――フッ……。
メトロノームの規則正しい乾いた音が重なった瞬間、客席へ向かっていた破壊的な音波ノイズは完全に中和され、消滅した。
だが――その中和波形によって、行き場を失ったすべてのエネルギーが、反射板を通じて『ステージ上の西園寺響ただ一人』へと集中したのである。
バチィィィィィッ!!
「ぎゃあああああああああああっ!!!」
西園寺は絶叫を上げ、ピアノの椅子から転げ落ちてステージの床をのたうち回った。
両耳から鮮血を噴き出し、痙攣する右手を抱えて床を掻きむしる西園寺。
脳内の聴覚中枢と指の神経回路が完全に焼き切れ、彼が一生をかけて奪ったはずの『絶対音感』と『ピアノの技術』は、火花と共に永久に消滅した。
「う、嘘だ……! 音が……何も聞こえない! 俺の耳が……指が、動かないぃぃっ!!」
半狂乱で喚き散らす西園寺の頭上に、天井の巨大モニターが突如として点灯した。
そこに映し出されたのは、一年前、西園寺がクロノス・メディカルの担当者と交わした【白川詩音の母への意図的心不全誘発と、記憶強制奪取の密約音声】。
そして、西園寺の個人口座からクロノス社へ支払われた『一億円の工作資金ログ』であった。
『――ええ、詩音の才能と記憶はすべて僕が買い取りました。あの女はもう五線譜すら読めないゴミですよ』
西園寺自身の冷酷な肉声が、ホールいっぱいに轟き渡る。
「「「な、なんだってえええええええっ!!?」」」
各国の王族やVIP、そして生中継を見守る世界中の視聴者が、怒号とパニックに包まれた。
詐欺、傷害、そして違法な記憶強奪。
三十億円のチャリティー・リサイタルは、世界最高峰のマエストロによる前代未聞の完全犯罪の自爆ショーへと成り果てたのだ。
ステージ袖から警視庁の捜査員たちが駆け込み、床で血を流して震える西園寺に手錠を打ち込む。
「西園寺響、傷害および不正競争防止法違反、ならびに違法記憶取引の容疑で逮捕する!」
「離せ! 俺は世界的な天才作曲家だぞ! 俺の『深淵の鐘』を返せええええっ!!」
二度と音を聞くことも、ピアノを弾くこともできない廃人となった西園寺は、世界中のカメラのフラッシュを浴びながら、引きずられるように退場していった。
◇
深夜の初台。
熱狂と混乱が去ったオペラシティの裏口に、黒瀬零と白川詩音が静かに佇んでいた。
黒瀬は懐から、先ほど西園寺の身柄拘束の混乱に乗じて回収した『虹色に輝く記憶結晶』――詩音が奪われていた【十年間の音楽記憶と絶対音感の原本】を取り出し、彼女の手のひらへとそっと乗せた。
「白川様。あなたから盗まれたすべての記憶と才能です。……当店でお預かりしていた十年前のメトロノームの記憶と共に、あなたの脳へお戻しいたします」
「……ありがとう、ございます……!」
詩音は涙を流しながら結晶を胸に抱きしめた。
さらに黒瀬は、スマートフォンを操作し、西園寺財閥から差し押さえられたリサイタルの興行信託口座から、損害賠償金として引き出された【十億円の着金通知】を詩オンの端末へと転送した。
「お母様の今後の治療費と、あなたが新しく音楽活動を再開するための資金として、十億円の賠償金が確定いたしました。……これからは、誰にも奪われないあなた自身の音楽を奏でてください」
「はい……! 私、もう一度、ピアノを弾きます……!」
深々と頭を下げる詩音を見送り、黒瀬はタクシーに乗り込んで新宿・歌舞伎町の地下へと戻った。
◇
チリン――。
深夜二時、記憶質店『忘却堂』。
カウンターの奥で一人、黒瀬零は手元の端末に映し出された『深淵の鐘』の周波数解析データをじっと見つめていた。
「……白川詩音の記憶を通じて、ついに手に入りましたね」
十年前、新宿で三万人もの記憶を一瞬で消去した、あの【悪魔の音響兵器の周波数パターン】。
国家機関『記憶統制局』と巨大複合企業『クロノス・メディカル』が隠蔽し続けてきた、国家最大級の犯罪の決定的な物証。
黒瀬は自らの胸ポケットから『ひび割れた透明な結晶』を取り出し、手に入れた周波数データと同調させた。
キィィィン……と透明な結晶が青白く発光し、ひび割れの半分以上が、美しく修復されていく。
その瞬間――黒瀬の脳裏に、封印されていた記憶の断片が、鮮烈なフラッシュバックとなって甦った。
『――逃げろ、黒瀬査定官!統制局の連中は、この記憶結晶を回収するために街ごと焼き払う気だ!』
『――黒瀬、お前の記憶を消すのは、お前を処分するためではない。"鍵"として保管するためだ……!』
燃え盛る研究施設と、自分に向かって叫んでいた誰かの声。
「……なるほど。やはり私の失われた記憶は、統制局の犯罪を暴くための『最後の鍵』だったわけですか」
黒瀬の灰色の瞳に、絶対零度の冷徹な炎が宿る。
新宿の裏路地の質屋に持ち込まれる無数のゴミ記憶。
それらを紡ぎ合わせ、パズルのピースが揃うたび、冷徹なる査定人は自らを陥れた国家という巨大な怪物への包囲網を、着実に、そして確実に狭めていた。
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