第13話:死刑囚の空白と、硝煙のない銃声
世界的マエストロ・西園寺響が東京オペラシティのステージ上で自滅し、違法記憶取引の容疑で逮捕されてから四日後の夜。
新宿・歌舞伎町の裏路地には、季節外れの冷たい霧雨が音もなく降り注いでいた。
雑居ビルの地下一階、記憶質店『忘却堂』。
カウンターの奥に立つ店主・黒瀬零は、白い手袋をはめた指先で、半分以上が美しく修復された『透明な記憶結晶』を光にかざしていた。
(……十年前、新宿で三万人の記憶を消去した音響兵器の周波数。それを手がかりに、クロノス・メディカルの非合法顧客リストの暗号をさらに一段階深く解読できた)
黒瀬の感情の温度がない灰色の瞳が、手元の端末画面へと向けられる。
そこに浮かび上がっていたのは、政府の秘密機関『記憶統制局』と直接パイプを持つ、司法・警察界の最上層部のリストだった。
その時。
チリン――。
乾いたベルの音と共に重厚なオーク材の扉が開き、黒い喪服のようなスーツを着た、小柄で痩せこけた一人の老人がゆっくりと店内へ足を踏み入れてきた。
年齢は六十代後半ほどだろうか。
深く刻まれた皺の間には長年積み重なった疲労と絶望が張り付き、その手には古びた革製のブリーフケースがしっかりと握りしめられていた。
「……いらっしゃいませ。記憶の質入れですか、それとも売却ですか?」
黒瀬は端末の画面を消し、氷のように穏やかな笑みで老人を迎え入れた。
「……売却、そして『鑑定』をお願いしたいのです。あなたが、大物政治家の鷹司や西園寺の隠蔽を暴いたという、裏社会の査定人・黒瀬さんですね」
老人は革張りの椅子に腰を下ろすと、震える手で懐から一枚の身分証を取り出し、カウンターの上に置いた。
そこに記されていたのは、『元・東京高等裁判所判事/現・弁護士 榊原宗一郎』という文字だった。
「元高裁の判事様が、このような裏路地の質屋にどのようなご用件でしょうか」
「……私の、一人息子の命を救っていただきたいのです」
榊原は枯れた瞳から一筋の涙を零し、ブリーフケースの中から『鉛色の小さな記憶結晶』を取り出してカウンターに置いた。
「私の息子・榊原透は、かつて警視庁捜査一課の刑事を務めておりました。ですが三年前……ある密室殺人事件の犯人として逮捕され、先週、最高裁で死刑判決が確定しました。そして本日、法務大臣の異例のスピード命令により、明後日の朝八時に【死刑が執行】されることが決まったのです」
「死刑確定からわずか一週間での執行命令、ですか。随分とまた、お急ぎのようですね」
黒瀬が冷ややかに相槌を打つと、榊原は悔しそうに拳を握りしめた。
「ええ。息子が殺したとされているのは、当時『十年前の新宿集団記憶喪失事件』の真相を独自に調査していた、元・内閣情報調査室の分析官でした。……息子はあの日、分析官の自宅マンションへ情報提供を受けに向かい、その部屋の中で、拳銃を手にしたまま意識を失っているところを突入してきた公安警察に現行犯逮捕されたのです」
「なるほど。そして息子さんご本人の記憶は?」
「……無いのです」
榊原は鉛色の結晶を指差した。
「息子は『部屋に入った瞬間に頭が割れるような閃光を浴び、気がついたら拳銃を握って被害者の死体の前に立っていた』と主張しました。しかし裁判所は、それを刑を逃れるための詐病だと断定したのです。……これは昨日、私が特別面会許可を得て、東京拘置所の息子から合法的に抽出した【事件前後の記憶結晶】です。息子の頭の中には、自分が引き金を引いたかどうかの記憶すら残っておらず、『もし本当に自分が無意識に人を殺していたのなら、せめてその罪の記憶すら消して死にたい』と、震えながら私に託したのです」
榊原は椅子から滑り落ちるように床に膝をつき、カウンターに向かって深く額を擦りつけた。
「黒瀬さん、どうかお願いします! 私の退職金も、自宅を売却した金もすべて差し出します! この鉛色の結晶の中に、息子の無実を証明する手がかりが一つでも残っていないか、あなたの眼で査定していただけないでしょうか……! もう、明後日の朝には息子の首に縄がかけられてしまうのです……っ!!」
老弁護士の悲痛な慟哭が地下室に響く。
黒瀬は一切の同情を交えない冷徹な瞳で榊原を見下ろしていたが、やがて白い手袋の指先で、カウンターの上の『鉛色の記憶結晶』を静かに拾い上げた。
(……三年前。私が記憶統制局によって記憶を奪われ、路地裏に捨てられたのと全く同じ時期だ。しかも被害者は『十年前の空白の一日』を調べていた分析官、か)
「お顔を上げてください、榊原様。私は慈善事業家ではなく質屋ですので、涙では動きません。……ですが、持ち込まれた商品が『本物のダイヤ』であるならば、話は別です」
黒瀬はピンセットで鉛色の結晶をつまみ、卓上の超高精細投影レンズへとセットした。
――キィィィン……。
空間に浮かび上がるホログラム映像。
そこには、三年前の夜――都内のマンションの一室へ足を踏み入れる、若き刑事・榊原透の視点が再現されていた。
『分析官殿、榊原です! お話があるというのは――』
透がリビングの扉を開けた、まさにその瞬間。
部屋の奥の窓ガラスが外側から弾け飛び、眩いばかりの『白い閃光』と高周波のパルス音が室内を満たした。
「っ……!!」
映像の中の透の視界が真っ白に塗り潰され、約三分間にわたって、映像も音声も完全に途絶えた【砂嵐の空白】が続く。
そして三分後。
透の意識が戻り、視界のピントが合った時には――目の前の床に、胸から血を流して絶命している分析官の遺体が転がり、透自身の右手には、硝煙の匂いを漂わせる自身の官給拳銃(ニューナンブM60)が握られていたのである。
「……やはり、駄目なのでしょうか」
ホログラムを見つめる榊原の肩が、絶望に震える。
「裁判でも、検察側はこの空白の三分間を『犯行時の極度の興奮による一時的な健忘』だと主張しました。息子の右手からは硝煙反応が検出され、被害者の胸から摘出された銃弾の線条痕も、息子の拳銃と完全に一致したのです……。これでは、誰が見ても息子が犯人だと……」
「――いいえ、榊原様。この記憶は、これ以上ないほど明確に『あなたの息子さんが無実であること』、そして『真犯人の正体』を証明していますよ」
黒瀬の静かな、しかし絶対の確信に満ちた声が店内に響いた。
「え……っ!? ほ、本当ですか!? ですが、肝心の三分間は真っ白な砂嵐で何も映っていないではありませんか!」
「ええ、視覚と聴覚は閃光弾によって完全に麻痺しています。ですが榊原様……人間の脳が記憶しているのは、目と耳の情報だけではありません。【嗅覚】と【固有覚(筋肉の反動記憶)】、そして意識が戻るコンマ一秒前の網膜の残像です」
黒瀬は白い手袋の指先で、ホログラム映像の『空白が明ける直前のフレーム』を極限まで拡大し、三つの決定的な矛盾を指し示した。
「まず一つ目。透さんが意識を取り戻し、自分の右手に握られた回転式拳銃を見つめるこの瞬間をご覧ください。彼の右手の人差し指と親指の筋肉には、発砲時の強い反動を受け止めた際の微細な筋繊維の緊張が一切記録されていません。彼は気絶している間に、誰かの手によって『発砲済みの自分の拳銃』を握らされただけです」
「なっ……!?」
「二つ目。被害者の胸の銃創です。検察の調書では『室内の至近距離から透さんの38口径リボルバーで撃たれた』とされていますが……被害者のワイシャツの胸元を拡大してみましょう。布地の繊維が『外側』ではなく、猛烈な運動エネルギーによって『内側へ深くめり込む形』で千切れています。これは亜音速の38口径拳銃の傷ではなく、百メートル以上離れた向かいのビルから、サプレッサー付きの【超音速ライフル】で狙撃された際の特有の創傷です」
「そ、狙撃だと……!? じゃあ、なぜ被害者の体内から、息子の拳銃の弾が出たのですか!?」
「簡単です。狙撃手が特殊な『氷の弾頭』、あるいは貫通性の高い弾で心臓を撃ち抜いた後、部屋に侵入した工作員が、気絶している透さんの拳銃を使って窓の外へ一発空撃ちし、あらかじめ用意していた『透さんの拳銃から発射した変形弾頭』を、被害者の傷口へピンセットで押し込んだのですよ」
黒瀬の灰色の瞳が、氷の刃のように鋭く細められた。
「そして三つ目。その工作員が部屋から立ち去る直前、気絶していた透さんの嗅覚野が捉えていた『香りの記憶』と、網膜の端に映り込んだ『靴底の刻印』です」
黒瀬が嗅覚データを化学式へと変換して表示する。
「最高級の白檀と、特殊な神経鎮静剤をブレンドした特注のフレグランス。そして、日本でわずか五人しか支給されていない、法務省および警察庁の最高幹部専用の特注革靴のヒール刻印……。この偽装工作を現場で直接指揮していた真犯人は、現在、あなたの息子さんの死刑執行命令書にサインをした張本人――【検事総長・九十九院厳】、あるいはその直属の懐刀である【警視庁公安部長・氷川】のどちらかです」
「け、検事総長と、公安部長だと……!? そ、そんな……司法と警察のトップが、なぜわざわざ現場に来てまで息子の罪を捏造したのですか!?」
愕然とする榊原に、黒瀬は冷徹な真実を告げた。
「殺された分析官は、十年前の『新宿三万人記憶消去事件』の実行部隊リストを持っていました。そのリストの中に、当時まだ現場の指揮官だった九十九院と氷川の名前があったのです。彼らは分析官を口封じのために抹殺し、その罪を、偶然にも元高裁判事であるあなたの息子――透さんに被せることで、司法界全体への見せしめと完全な事件の幕引きを図ったのでしょう」
「な、なんて連中だ……! 自分の出世と保身のために、何の罪もない私の息子を死刑台へ送るというのか……!」
榊原は全身を震わせて怒りに唇を噛み締めたが、すぐにハッとしたように顔を青ざめさせた。
「で、ですが黒瀬さん! 相手が検事総長と公安部長では、今から再審請求を出しても間違いなく握り潰されます! 明後日の朝八時には、拘置所の刑場で死刑が執行されてしまうのですよ!?」
「ええ。通常の法廷闘争では、明後日の朝には間に合いませんね」
黒瀬はカウンターの下から重厚なジュラルミンケースを取り出し、パチンと蓋を開けた。
そこには、帯封のついた一万円札の束が整然と並んでいる。
「榊原宗一郎様。あなたが持ち込まれたご子息の『空白の三分間の記憶結晶』。そこに含まれる国家最高幹部の犯罪証拠と、十年前の事件へ繋がる手がかりの対価として、当店の査定額は【五億円】となります」
「ご、五億円……!?」
「私はあなたの退職金もご自宅もいただきません。逆に、私があなたに五億円をお支払いします。……ただし、あなたが私からこの記憶結晶の複製権を【一円】で買い戻し、明後日の朝八時、ご子息の死刑執行を止めるための『特別弁護人』として私を東京拘置所へ同行させてくださるのなら、ですが」
黒瀬は懐中時計を取り出し、静かに文字盤を見つめた。
「明後日の朝、東京拘置所の死刑執行室には、息子さんの最期を確実に確認するため、公安部長の氷川自身が立ち会う手筈になっております。……ならば、その死刑執行室のボタンが押されるまさにその瞬間を、彼ら自身の【公開処刑場】へと書き換えて差し上げましょう」
榊原は涙を拭い、震える手で財布から一枚の「一円玉」を取り出すと、元判事としての誇りと覚悟を込めてカウンターへと置いた。
「……よろしくお願いいたします、黒瀬さん。私の法服の誇りにかけて、あなたの隣で奴らに真実の鉄槌を下しましょう!」
「――契約成立です」
黒瀬は白い手袋の指先で一円玉を拾い上げ、冷酷で美しい弧を描いて微笑んだ。
「では、タイムリミットは三十六時間。……腐りきった司法と警察の頂点に君臨する権力者たちに、無実の人間を絞首台へ送ることの『本当の値段』を教えて差し上げましょう」
残された時間は、あと三十六時間。
冷徹なる査定人は、国家機関『記憶統制局』の喉元へと繋がる警察・検察の巨悪を狩るため、死刑執行室という名の断頭台へと歩みを進めた。
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