第14話:午前八時の絞首台と、断罪の逆転執行
元高等裁判所判事・榊原宗一郎が記憶質店『忘却堂』を訪れてから三十六時間後の、午前七時四十五分。
東京・小菅にある東京拘置所の最奥部――厚いコンクリート壁に囲まれた『死刑執行場(刑場)』には、氷のように冷たく重苦しい静寂が立ち込めていた。
執行室の中央、踏み板の上には、目隠しをされ、両手両足を拘束された元警視庁捜査一課の刑事・榊原透が立たされている。
その首にはすでに、分厚い麻縄がかけられていた。
そして、強化ガラスを隔てた隣の「立会人室」には、濃紺の警察官僚の制服に身を包んだ【警視庁公安部長・氷川】が腕を組んで立ち、壁際のモニターには、法務省の特別室からオンラインで執行を見守る【検事総長・九十九院厳】の冷酷な顔が映し出されていた。
「……氷川くん。時間まであと十分だが、周囲に変わった動きはないかね?」
モニター越しに問いかける九十九院に対し、氷川は薄く残忍な笑みを浮かべた。
「ご安心ください、九十九院総長。昨日、父親である榊原宗一郎から最高裁へ『新証拠に基づく緊急再審請求および執行停止の申し立て』が出されましたが……私の部下に命じて、担当書記官のデスクの奥へ書類ごと封印させました。午前八時を過ぎてこの男の首の骨が折れてしまえば、すべては『手続き上の行き違い』で処理されます」
『うむ。三年前、十年前の新宿の記憶消去事件を嗅ぎ回っていた内調の分析官を始末した際、この小僧を身代わりに仕立て上げておいて正解だったな。……死人に口なし。これで我々と「記憶統制局」の繋がりを知る者は、完全にこの世から消え去る』
「ええ。では、執行官たちにボタンの準備をさせます」
氷川が頷き、隣室のボタン室にいる三人の刑務官へ視線を向けた――まさにその時だった。
――コン、コン。
立会人室の重厚な鉄扉が静かにノックされ、拘置所長が青ざめた顔で室内へと入ってきた。
「な、なんだ所長。執行中は誰も入れるなと命じたはずだぞ!」
「も、申し訳ありません氷川部長! ですが、死刑囚の父親である榊原宗一郎弁護士が、『死刑囚の最後の遺産相続および記憶結晶の廃棄立ち会い』に関する法務大臣特命の特別弁護人を連れて到着されまして……拒めば法務省の内規違反になると……!」
所長の背後から、立会人室へと足を踏み入れてきた二人の人物。
一人は、鋭い眼光を取り戻した老弁護士・榊原宗一郎。
そしてもう一人は、漆黒の仕立ての良いスーツに白い手袋をはめ、銀色の小型アタッシェケースを手にした青年――『忘却堂』の店主、黒瀬零であった。
「……ほう。最後の悪あがきに来たというわけか、榊原先生」
氷川は二人を一瞥し、鼻で笑って腕時計を見た。
「だが残念だったな。現在時刻は午前七時五十二分。再審請求の受理通知は届いておらん。……君たちがここで見届けられるのは、あと八分後に息子が床の下へ落ちてぶら下がる姿だけだ」
「いいえ、氷川公安部長。そして画面の向こうの九十九院検事総長」
黒瀬は一歩前に出ると、感情の温度が一切感じられない灰色の瞳で二人を見据えた。
「本日、この午前八時に執行されるのは、榊原透様の死刑ではございません。……三年前に分析官を殺害し、無実の刑事に罪を着せた【真犯人お二人の社会的死刑】です」
「……なんだと? 貴様、何者だ!」
氷川の眉がピクリと跳ね上がる。
黒瀬は白い手袋の指先でアタッシェケースを開き、中から一つの『鉛色の記憶結晶』と、特注の量子波形プロジェクターを取り出してテーブルの上に置いた。
「私は新宿で『忘却堂』という小さな質屋を営む、黒瀬零と申します。……昨日、私は透様の脳から抽出された『事件当夜の記憶結晶』を査定いたしました。あなた方は閃光弾で彼の視覚と聴覚を奪い、三分間の空白を作ったことで完全犯罪が成立したとお考えのようですが……記憶の査定において、素人の浅知恵ほど見苦しいものはありませんね」
黒瀬がスイッチを入れると、立会人室の空間に、前話で解析した『三つの矛盾データ』がホログラムとして鮮明に浮かび上がった。
「透さんの右手の固有覚に発砲の反動が一切記録されていないこと。被害者の胸のワイシャツの繊維が、室内の38口径リボルバーではなく、百メートル先のビルからの超音速ライフル狙撃によって内側へめり込んでいること。……そして何より、気絶していた透さんの嗅覚野と網膜の端に残されていた、現場指揮官の『白檀と神経鎮静剤の特注フレグランス』および『最高幹部専用の特注革靴のヒール刻印』です」
「っ……!?」
氷川がハッとして自分の足元――特注の革靴を見下ろし、同時に自身の首筋から漂う白檀の香りに気づいて息を呑んだ。
『……フン、くだらんこじつけだ!』
モニターの向こうから、九十九院検事総長が吐き捨てるように怒鳴った。
『匂いや靴の跡など、状況証拠にすらならん! 被害者の心臓からは、間違いなくその死刑囚の拳銃から発射された銃弾が摘出されているのだ! 決定的な物証を覆すことなど誰にもできんよ! おい氷川、こんな詐欺師どもの戯言は無視して、さっさと八時の執行ボタンを押させろ!』
「ええ、仰る通りです総長! おい刑務官、配置につけ!」
氷川が怒号を飛ばし、ボタン室の三人の刑務官が、壁に並んだ三つの『赤い執行ボタン』の前に立った。
時計の針は、午前七時五十六分を指している。
「……状況証拠に過ぎない、ですか。ええ、私もそう言われると思っておりましたよ」
黒瀬は微塵も動じることなく、懐から銀色の懐中時計を取り出し、静かに蓋を開けた。
「ですから私は昨日、その『百メートル先の向かいのビル』から超音速ライフルで分析官を狙撃し、特殊な貫通弾の傷跡に透さんの拳銃の弾頭を押し込んだ【実行犯の男】から、直接『犯行当時の記憶結晶』を買い取ってまいりました」
「なに……っ!?」
氷川と九十九院の顔色が変わった。
「馬鹿を言え! 三年前のあの夜、ライフルを撃った公安の極秘工作員・コードネーム『ハウンド』は、口封じのために翌週の海外任務で事故死させたはずだぞ……!」
氷川が思わず口を滑らせた、その瞬間。
「ええ、公式記録ではそうなっておりますね。ですが氷川部長……あなたが『ハウンド』の死体処理と記憶抹消を委託した医療複合企業【クロノス・メディカル】は、優秀な狙撃手の技能記憶を捨てるのを惜しみ、彼の脳から『暗殺の記憶結晶』を抜き取って地下金庫に保管していたのですよ」
黒瀬の唇が、氷のように冷酷で美しい弧を描いた。
「そして先日、当店の常連客となったクロノス社の氷室監査室長から得たアクセス権を使い、私はその『ハウンドの記憶結晶』を正式に回収いたしました。……さあ、ご覧ください。これが三年前の夜、あなた方が命じた殺人の【完全視覚映像】です」
――ピピッ。
黒瀬が二つ目の結晶をプロジェクターにセットすると、空間に驚くべき映像が再生された。
それは、暗視スコープ越しに分析官のマンションの窓を覗き込む狙撃手『ハウンド』の視点。
そしてその耳元の無線機には、間違いなく【氷川公安部長】と【九十九院検事総長】の肉声が、量子署名付きの生体波形と共に録音されていたのである。
『――よし、榊原の息子が部屋に入ったぞ、ハウンド! 閃光弾を撃ち込め!』
『――分析官の心臓を撃ち抜いたら、すぐさま部屋へ突入しろ! 気絶している榊原の拳銃を一発空撃ちさせ、用意しておいた変形弾頭を死体の胸の傷口へ押し込むのだ! すべてをあの生意気な判事の息子の犯行に仕立て上げろ!!』
「「なっ……!? ば、馬鹿なあああああっ!!?」」
立会人室に、二人の権力者の絶叫が木霊した。
言い逃れの余地など一ミリも存在しない、殺人教唆と証拠捏造の完全なるマスターデータだった。
「く、くそっ!! 外を見張っている公安の部下どもを呼べ!! 今すぐこの質屋と榊原を射殺して、その結晶を奪い取れェッ!!」
パニックに陥った氷川が、腰のホルスターから拳銃を引き抜こうとした、その刹那。
「――おやめください、氷川部長。そして、そこの三つの執行ボタンを押そうとしている刑務官の方々も、手を止められた方がよろしいですよ」
黒瀬の絶対零度の声が、室内の空気を凍りつかせた。
「昨日の深夜、私はこの東京拘置所のシステム改修を請け負っている通信業者を【一億円】で買収し、あの壁にある『三つの死刑執行ボタン』の配線を、少しばかり繋ぎ変えさせていただきました」
「は、配線を繋ぎ変えただと……!?」
「はい。現在、あの三つの赤いボタンは、透さんが立つ踏み板のロックには繋がっておりません。……その代わり、一つ目のボタンは『最高裁判所および全報道機関への、今ご覧いただいたハウンドの記憶映像の一斉送信スイッチ』。二つ目のボタンは『九十九院検事総長と氷川部長が、クロノス社から受け取っていた三十億円の賄賂口座の国庫強制没収スイッチ』に繋がっております」
「な、なんだと……!?」
「そして三つ目のボタンは――」
黒瀬は白い手袋の指先で、モニターの中の九十九院と、目の前の氷川を真っ直ぐに指し示した。
「あなた方が十年前の『新宿三万人記憶消去事件』に関与したことを示す極秘リストを、現在あなた方の首を狙っている国家機関【記憶統制局の粛清部隊】のサーバーへ直接通報するスイッチとなっております」
「「ひっ……!!?」」
九十九院と氷川の顔から、すべての血の気が失せた。
もし『記憶統制局』の本部に、自分たちが当時の極秘リストを漏洩させたと知られれば、逮捕どころでは済まない。一族郎党ごと記憶を焼き切られ、この世から存在そのものを抹消されてしまう。
「な、なぜだ……!? なぜボタンの場所を教えない! どれがどのスイッチなんだ!?」
「死刑執行ボタンというものは、三人の刑務官の誰が本当のボタンを押したか分からないようにして、心理的負担を軽減するシステムでしょう? ……ですが、午前八時ちょうどまでに、氷川部長ご自身が『死刑執行の即時停止命令書』にサインをし、さらに無実の透様への国家賠償および慰謝料として、お二人の裏金口座から【三十億円】を当店の指定口座へ送金されなければ……タイマーによって、三つのボタンすべてが自動的に押されます」
ボーン、ボーン……。
拘置所の時計が、午前七時五十九分を告げた。
タイムリミットまで、残り六十秒。
『は、払う!!払うから、統制局への送信だけは止めろォォッ!!』
モニターの向こうで、九十九院検事総長が威厳も何もかも投げ捨てて絶叫した。
「わ、分かった! 今すぐ執行停止命令書にサインする! 三十億円も今この場で送金するから、タイマーを止めろ、黒瀬ええええっ!!」
氷川は銃を床に投げ捨て、震える手でデスクの上の『死刑執行停止および即時釈放命令書』にサインと拇印を押し、さらにスマートフォンの秘密口座から三十億円の即時送金ボタンを連打した。
――ピピッ。
午前七時五十九分五十五秒。
黒瀬の端末に『着金完了:3,000,000,000 JPY』の文字が表示される。
同時に、執行室の扉が開かれ、榊原宗一郎弁護士が駆け込んで、踏み板の上に立つ息子・透の目隠しと麻縄を涙ながらに解き放った。
「透……! もう大丈夫だ、お前の無実が証明されたぞ……!」
「父さん……? 俺、助かったのか……?」
抱き合う父子の姿をガラス越しに見届け、氷川は床にへたり込んで安堵の息を吐いた。
「はぁ、はぁ……! さあ黒瀬、約束通り三十億円も払い、死刑も止めたぞ! これで三つのスイッチはすべて解除されたんだろうな!?」
「ええ、もちろんです氷川様。『忘却堂』は契約を絶対とする質屋ですので。……『二つ目の賄賂没収スイッチ(すでに任意でお支払いいただきましたので)』と、『三つ目の記憶統制局への通報スイッチ』は、お約束通り完全に解除いたしました」
黒瀬は優雅に一礼し、懐中時計をパチンと閉じた。
「……え? おい、ちょっと待て。今、『二つ目と三つ目』と言ったか……? じゃあ、『一つ目の報道機関と最高裁への一斉送信スイッチ』は……!?」
「おや、氷川様。私は先ほど、『タイマーを止める条件として三十億円をいただく』とは申し上げましたが、冤罪の真実を最高裁とマスコミへ提出しないとは、一言も契約しておりませんよ? ……それどころか、一つ目のスイッチは、あなたが先ほど『死刑執行停止命令書』に拇印を押されたその瞬間に、連動して発信される仕組みになっておりました」
「なっ……!? き、貴様ァッ!!」
その瞬間、立会人室のモニターに映っていた法務省の九十九院検事総長の背後の扉がバンッと蹴り開けられ、最高検察庁の特別監察官たちがなだれ込む映像が映し出された。
『な、なんだ君たちは!? 私は検事総長だぞ! 離せ、離せええええっ!!』
そして同時に、ここ東京拘置所の立会人室にも、黒瀬から事前に通報を受けていた警視庁捜査一課――かつて透の同僚だった正義感あふれる刑事たちが、氷川への逮捕状を掲げて突入してきたのである。
「氷川公安部長! 三年前の内調分析官殺害教唆、および特別公務員職権濫用罪で緊急逮捕する!!」
「う、うわあああああっ!? 待て、俺は三十億円払ったんだぞ! ハメたな、質屋あああああっ!!」
自らが用意した午前八時の処刑台で、逆に手錠をかけられて引きずり出されていく氷川。
その惨めな背中を、黒瀬は一切の感情を交えない冷ややかな瞳で見送った。
◇
その日の夕方、新宿・歌舞伎町の裏路地。
記憶質店『忘却堂』の地下室には、無罪放免となった榊原透と、父の宗一郎から正式に譲渡された『分析官の遺品のデータチップ』が届けられていた。
「……三十億円のうち、十億円を榊原様ご一家への冤罪被害補償金としてお渡しし、五億円を当店の査定代金に充当。差引十五億円の純利益、ですか」
黒瀬は白い手袋の指先で、殺された内調分析官が死の直前まで調べていた『十年前の新宿三万人記憶消去事件』の極秘調査ファイルを投影した。
そこには、九十九院や氷川といった現場の駒たちのさらに上に君臨する、国家機関『記憶統制局』の最高幹部――七人の【特級統制官】のコードネームが記されていた。
そして、その筆頭に記された『第一統制官』の署名を見た瞬間。
黒瀬の懐にあった『透明な記憶結晶』が、激しい光を放って共鳴した。
「……この筆跡は、私の字と全く同じ……?」
黒瀬の灰色の瞳が、かつてないほどの驚愕と、深い闇の色に染まる。
十年前、三万人の記憶を消し去り、三年前に黒瀬零の記憶を奪って新宿の地下へと突き落とした『記憶統制局』のトップ。
その黒幕の正体へと繋がる禁断の扉が、今、地下室の査定人の目の前で静かに開かれようとしていた。
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