第8話:崩壊のフルコースと、蘇る神の舌
黒瀬零が六本木の三ツ星レストランを訪れてから三日後の日曜日。
お台場の巨大特設アリーナは、世界中から集まった美食家、投資家、そして百台を超えるテレビカメラの熱気に包まれていた。
世界最高峰の料理コンクール『グラン・シェフ・ワールドカップ』決勝戦。
その模様は衛星生中継を通じて世界三十カ国へと同時配信され、審査員席の中央には、皇綾人への五十億円の出資を内定させたフランスの巨大投資ファンド代表、ベルナール氏の姿もあった。
本番開始三十分前。
会場最奥のVIP控室で、純白のシェフコートに身を包んだ皇綾人は、苛立たしげに貧乏ゆすりを繰り返していた。
コン、コン。
静かなノックの音と共に扉が開き、漆黒のスーツに白い手袋をはめた『忘却堂』の店主・黒瀬零が、小型のアタッシェケースを手に姿を現した。
「遅いぞ、黒瀬! 本番まであと三十分しかないんだぞ!」
血走った目で立ち上がる皇に対し、黒瀬は感情の温度が一切ない灰色の瞳で優雅に一礼した。
「申し訳ございません、皇シェフ。万全の調整を施しておりましたので。……して、お約束の品はお持ちいただけましたか?」
「ああ。誰にも見られず、店の地下の生体認証金庫から直接持ち出してきた」
皇は懐からベルベット調のケースを取り出し、テーブルの上に置いた。
蓋を開けると、そこには幾重もの光の層が複雑に絡み合う、大粒の『虹色の記憶結晶』が収められていた。
半年前に久我山誠の脳から強制的に抜き取られた、二十五年分の料理技術と味覚経験の原本である。
「また、お約束の代金【五億円】につきましても、先ほど私の指定口座への着金を確認いたしました。毎度ありがとうございます」
黒瀬はアタッシェケースを開き、小型の波長同調器と、久我山から預かった七歳の記憶――『温かみのある黄色の結晶』を取り出した。
「では、あなたの脳内のバグを鎮める変換キーを同調させます。その原本結晶をこちらのスロットへセットし、端子をこめかみに当ててください」
皇は疑う様子もなく虹色の原本結晶を機器にセットし、銀色の端子を自らのこめかみに装着した。
――キィィィン……。
微かな駆動音が響き、数秒後、皇の視界の端にちらついていた不快な色のノイズがピタリと消え失せた。
「お、おお……! 頭痛が消えたぞ! 頭の中が嘘みたいにクリアだ!」
「ええ。これで本番中、どれほど強い照明や高周波音を浴びても、あなたが頭痛に苦しむことはございません」
黒瀬は白い手袋の指先で、機器の内部から『虹色の原本結晶』を鮮やかな手つきで回収し、代わりに見た目が全く同じ【ダミーのガラス結晶】をケースへと戻して皇に手渡した。
もちろん、自分の脳が治ったと有頂天になっている皇は、手元のケースの中身がすり替えられたことに微塵も気づいていない。
「フン、最初からこうすればよかったんだ。……言っておくがな、黒瀬。俺が今日この大会で優勝し、五十億円を手に入れた後、もしまた俺の前に姿を現したら……その時はミカド・グループの総力を挙げて貴様を東京湾の底に沈めてやるからな」
「肝に銘じておきますよ、皇シェフ。どうぞ、世界中の記憶に残る最高のステージを」
黒瀬が静かに道を開けると、皇は勝ち誇った笑みを浮かべて控室を出て行った。
◇
『――さあ、制限時間の六十分が経過いたしました! 日本代表、若きカリスマ天才シェフ・皇綾人選手の最終課題、「琥珀のコンソメと黒毛和牛のロティ」が完成いたしました!』
メインアリーナの特設キッチンに、実況アナウンサーの興奮した声が響き渡る。
会場を埋め尽くす無数の青白いスポットライトと、フライパンやスチームコンベクションオーブンが発する高周波の駆動音。
その中で調理を終えた皇綾人は、満面の笑みを浮かべ、完成した五皿の料理を審査員席へと運ばせた。
だが――審査員席の端、特別ゲスト枠として招かれていた二人の人物の姿に、皇は全く気づいていなかった。
一人は、フランスの投資家ベルナール氏の通訳兼アドバイザーとして隣に座る黒瀬零。
そしてもう一人は、真新しい漆黒のシェフコートに身を包み、かつての鋭い眼光を取り戻した男――たった今、バックヤードで黒瀬から『二十五年分の記憶結晶(原本)』と『七歳の卵焼きの記憶』をすべて脳へと返還されたばかりの、本物の天才・久我山誠であった。
「さあ、ベルナール様、そして審査員の皆様。私の魂の結晶である『琥珀のコンソメ』と、絶妙なスパイスで焼き上げたロティをどうぞお召し上がりください!」
皇がステージの中央で胸を張り、両手を広げた。
ベルナール氏をはじめとする五人の審査員が、銀のスプーンでスープをすくい、口へと運ぶ。
しかし、その料理の色を見た瞬間――審査員席の久我山は、悲しげに目を閉じて首を横に振った。
ガラスのボウルに注がれていたのは、透き通るような黄金色のコンソメではない。
灰色のアクと焦げた油脂がドロドロに分離し、鼻を突く異臭を放つ『赤黒い泥水』のような液体だったのである。
「「「っ!? ぐ、ぶふぅぅぅっ!!?」」」
次の瞬間。
一口スープを含んだ審査員たちが、一斉に顔を真っ青にしてテーブルの上にそれを吐き出した。
「ガ、ゴホッ、ゴホッ!! な、なんだこの汚物はァッ!! 舌が焼けるような大量の岩塩と、焦げ付いた獣の血と、腐ったスパイスの塊じゃないか!! こんなものは人間の食い物ではない、豚の餌以下だッ!!」
ベルナール氏がナプキンで口を拭いながら、激昂して立ち上がった。
会場中が騒然となり、カメラのフラッシュが一斉に皇へと集中する。
「え……? な、何を言っているんですか、ベルナール氏! そんなはずはありません、私はいつも通り、寸分の狂いもなく完璧なレシピで――」
蒼白になってキッチンへ駆け戻り、鍋の中の残りのスープを自らのスプーンですくって口に入れた皇は。
「――お、おえぇぇぇぇぇっ!!?」
その場に膝から崩れ落ち、胃液と共に泥のようなスープを床へと吐き散らかした。
「な、なんだこれは!? しょっぱい、苦い、臭い!! な、なぜだ!? 俺は間違いなく、脳内の記憶通りに塩とスパイスを入れたはずなのに……っ!!」
パニックに陥り、震える手で自分の頭を抱える皇。
その目の前へ、審査員席から立ち上がった黒瀬零と久我山誠が、静かな足取りで歩み出た。
「理由は簡単ですよ、皇綾人様。……いいえ、他人の記憶をなぞることしかできない『自動人形』さん」
黒瀬の冷徹な声が、ピンマイクを通じて会場のスピーカーから世界中へと響き渡る。
「く、黒瀬……!? それに、なぜ久我山がここに……!?」
「皇様。私は先ほど控室で、『あなたが頭痛に苦しむことはなくなる』と申し上げました。ええ、嘘はついておりません。三日前にあなたがお飲みになった水に仕込んだ薬物と、先ほどの波長調整により、あなたの脳内で暴走しかけていた久我山様の共感覚を鎮めるどころか――ステージの青白い照明を浴びた瞬間、【甘味と苦味、旨味と悪臭の神経シグナルが完全に逆転する】よう、感覚回路を書き換えさせていただいたのです」
「なっ……!? じゃあ、俺が最高に美味い黄金のスープだと思って作っていたものは……!?」
「ええ。あなたの脳には『完璧な琥珀色』に見えていたでしょうが、実際には岩塩を通常の二十倍も放り込み、焦げた内臓のアクを煮詰めただけの汚物でした」
黒瀬が白い手袋の指先を振るうと、会場の巨大スクリーンに、先ほどVIP控室で隠し撮りされていた映像が映し出された。
『――ああ。誰にも見られず、店の地下の生体認証金庫から直接持ち出してきた』
『――俺が今日この大会で優勝し、五十億円を手に入れた後、もしまた俺の前に姿を現したら……ミカド・グループの総力を挙げて貴様を東京湾の底に沈めてやるからな』
それだけではない。
皇が控え室に持参した『虹色の原本結晶』のケースの底に付着していた、半年前の偽装火災の実行犯との取引データおよび違法な強制記憶抽出のログが、すべて白日の下に晒されたのである。
「あ……あ、ああ……っ!?」
「ムッシュ・スメラギ!! 貴様、孤高の天才と呼ばれたクガヤマ氏の店に火をつけ、彼の二十五年分の記憶を違法に強奪して自分の手柄にしていたのか!! 五十億円の出資は当然白紙だ! それどころか、我がファンドの顔に泥を塗った詐欺罪とブランド毀損で、ミカド・グループに【五十億円の損害賠償】を請求してやる!!」
ベルナール氏の怒号が会場を揺らす。
さらにステージの袖からは、通報を受けて待機していた警視庁の捜査員たちがなだれ込んできた。
「う、嘘だ……! 待て、俺はカリスマシェフだぞ! 俺の頭の中には、まだ久我山の記憶が……っ!」
半狂乱で叫ぶ皇の前に、久我山誠が静かに立ち塞がった。
久我山は、横の調理台にあった余り物の卵と砂糖、そして醤油をフライパンへと流し込み、目にも止まらぬ鮮やかな手捌きで、一皿の『黄金色の卵焼き』を焼き上げてみせた。
会場中が息を呑むほど美しい、寸分の焦げもない完璧な職人芸。
そして芳醇な出汁の香りが、先ほどまでの悪臭を一瞬にして塗り替えていく。
「……皇。お前がさっき控室で黒瀬さんに渡した『俺の二十五年分の記憶』は、もう俺の頭の中に全部戻ってるよ」
久我山は包丁を置き、床に這いつくばる皇を冷ややかに見下ろした。
「それに気づけなかったのは、お前が最初から自分の舌で一度も味見をしていなかった証拠だ。……他人の人生を盗んで作った料理なんてな、お袋が俺のために焼いてくれた『焦げた卵焼き』の足元にも及ばねえんだよ」
「あ……俺の頭から、レシピが……包丁の使い方が、消えていく……っ!? いやだ、返せ、俺の才能を返せえええええっ!!」
先ほどの控室での作業中、黒瀬は皇の脳内に移植されていたコピー記憶の定着結合をも完全に解除していたのだ。
急速に薄れていく記憶の喪失感に泣き叫びながら、皇綾人は警察官たちに両脇を抱えられ、世界中のカメラのフラッシュを浴びながらステージから引きずり出されていった。
◇
その夜、新宿・歌舞伎町の裏路地。
記憶質店『忘却堂』の地下室では、店主の黒瀬零が、淹れたてのダージリンティーの香りを楽しみながら静かに帳簿を閉じていた。
「……久我山様には、フランス投資ファンドから正式に『銀座の新店舗設立資金』として十億円の出資が決まり、皇綾人から回収した五億円のうち三億円を慰謝料としてお渡しした、と。当店の純利益は二億円ですか」
黒瀬は白い手袋をはめた手で銀の懐中時計を撫で、満足げに目を細めた。
「百億円の政治家に比べればささやかな商いでしたが、最高級の卵焼きを拝見できたのですから、良しとしましょう」
その時だった。
ドォンッ!!
重厚なオーク材の扉が、今にも蝶番から外れんばかりの激しい音を立てて外側から叩かれた。
チリン――とベルが悲鳴のように鳴り響き、扉の隙間から転がり込んできたのは、脇腹から血を流した『白衣姿の男』だった。
「た、助けてくれ……っ! あんたが『忘却堂』の店主だな……!?」
男は歌舞伎町の裏社会で知られる闇医者だった。
その顔は死人のように青ざめ、背後からは複数の荒々しい足音と怒号が雨の路地裏に迫ってきている。
「頼む、俺の頭から……さっき看取ったばかりの【関東最大の暴力団・黒龍会組長の最期の記憶】を、今すぐ抜き取って消してくれ!! あの老いぼれが死に際に残した『五十億円の金塊の隠し場所』のせいで、跡目を狙う若頭たちに殺される……っ!!」
血まみれの闇医者がカウンターにしがみつく中、黒瀬零は一切動じることなくティーカップをソーサーに置くと、感情の温度がない灰色の瞳を静かに細めた。
「いらっしゃいませ。……死に際の遺言の査定、ですか。どうぞ、お掛けください。裏社会のゴミ掃除も、質屋の大切な仕事ですので」
新宿の地下室に転がり込んできた、血と金塊の記憶。
冷徹なる査定人の次なる夜は、暴力と裏切りが渦巻く極道の闇へと幕を開けた。
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