第6話:奪われた「神の舌」と、焦げた卵焼きの査定
次期総理候補であった鷹司誠一郎が、全国生中継のステージで百億円の裏金と殺人教唆の罪を暴かれ、東京地検特捜部に逮捕されてから一週間が経った。
政界を揺るがす戦後最大の疑獄事件として連日ワイドショーが騒ぎ立てる中、その引き金を引いた新宿・歌舞伎町の記憶質店『忘却堂』は、何事もなかったかのように深い地下の静寂の中にあった。
チリン――。
雨上がりの冷たい夜風と共に、重厚なオーク材の扉がゆっくりと開かれた。
店内へ入ってきたのは、擦り切れた灰色のコートを羽織り、背中を丸めた一人の中年男だった。
年齢は四十代前半ほどだろうか。
頬は不健康にこけ、目の下には深い隈が刻まれている。しかし、そのだらりと垂れた両手の指先には、長年にわたって熱いフライパンと包丁を握り続けてきた者特有の、無数の古い火傷の跡と分厚いタコがはっきりと残っていた。
「いらっしゃいませ。……今夜は、どのような『記憶』をお売りになられますか?」
カウンターの奥で銀のティーストレーナーを置いていた店主・黒瀬零が、感情の温度がない灰色の瞳を静かに男へと向けた。
「……あ、あんたが、ここの店主かい」
男は店内の重厚な空気と、黒瀬の整いすぎた冷徹な貌に気圧されたように息を呑み、革張りの椅子へと恐る恐る腰を下ろした。
「俺の名前は、久我山誠という。……実はもう、三日もまともに飯を食っていなくてね。今夜をしのぐ数百円のパン代にでもなればと思って、俺の頭の中に残っている『最後の料理の記憶』を売りに来たんだ」
「最後の料理の記憶、ですか」
黒瀬は白い手袋をはめた手で男の指先を一瞥し、静かに問いかけた。
「久我山様。あなたのお手元を見る限り、相当な修練を積まれた一流の料理人とお見受けいたしますが……ご自身の料理の記憶は、すでにどこかで手放されたのですか?」
その問いに、久我山の肩がビクリと震えた。
男は自分の節くれだった両手を眺め、乾いた、自嘲するような笑い声を漏らした。
「……ああ。半年前までは、銀座の路地裏で『オーベルジュ・クガヤマ』という小さなフレンチの店をやってたよ。自分で言うのもなんだが、予約は三年先まで埋まっていて、次のミシュランでは三ツ星確実だなんて持て囃されていた」
「ほう。銀座の『クガヤマ』といえば、美食家の間で【神の舌】を持つと謳われた孤高のシェフではありませんか。確か半年前、厨房の漏電火災で店を畳まれたと記憶しておりますが」
「火災なんかじゃない……! あれは全部、ハメられたんだよ……!」
久我山はギリッと奥歯を噛み締め、膝の上のコートの裾を強く握りしめた。
「外食産業最大手の『ミカド・ダイニング・グループ』の御曹司……いまテレビや雑誌で『二十五歳の若きカリスマ天才シェフ』として世界中から脚光を浴びている、皇綾人を知っているか?」
「ええ、存じております。半年前に突如として頭角を現し、伝統的なフレンチの技法と完璧なスパイス調合で、料理界の寵児となった青年ですね」
「あいつが今、自分のオリジナルとして発表している料理は……全部、俺が二十五年かけて血を吐くような思いで作り上げたレシピなんだ……!」
久我山の目から、悔しさと絶望の入り混じった涙がぽろぽろと零れ落ちた。
半年前、自分の名声を得るために「本物の天才の技術」を欲した御曹司の皇綾人は、久我山の店に目をつけた。
皇は親会社の莫大な資金力を使って久我山の仕入れルートを次々と買収して妨害し、さらに裏社会の人間を使って厨房に偽装火災を起こさせ、近隣店舗への延焼賠償を含めて『三億円』もの不当な負債を久我山に背負わせたのだ。
「借金で首が回らなくなった俺の前に、皇は闇の記憶技師を連れて現れた。そしてこう言ったんだ。『三億円の借金をチャラにしてやる代わりに、お前が過去二十五年間に培ったすべての料理技術と味覚経験の記憶を、結晶化して俺に譲れ』ってな……!」
記憶の抽出とは、すなわち脳内の神経結合からの「切り取り」である。
皇によって二十五年分の料理の記憶を根こそぎ抜き取られた久我山は、翌日から包丁の正しい握り方すら分からなくなり、コンソメスープの作り方どころか、自分がどんな料理を作っていたのかさえ思い出せない「抜け殻」と化した。
「今の俺は、定食屋の皿洗いすらまともにできずにクビになる始末だ。なのに、俺の記憶を脳に移植した皇の奴は、俺が人生を懸けて完成させた幻のスペシャリテ『琥珀のコンソメ』を自分の発明として発表し、来週開催される世界最高峰の料理コンクール『グラン・シェフ・ワールドカップ』の日本代表に選ばれた……! 優勝すれば、フランスの投資ファンドから【五十億円】の出資を受ける契約まで決まっているそうだ……!」
「他人の人生を金と暴力で買い叩き、自らの才能として身に纏う……。表の記憶市場では、よく見かける胸糞の悪い喜劇ですね」
黒瀬は冷ややかに相槌を打ち、久我山の顔を真っ直ぐに見つめた。
「それで、久我山様。二十五年分の料理の記憶をすべて奪われたあなたが、今夜当店へ売りに来られた『最後の料理の記憶』とは、一体どのようなものなのですか?」
「……俺が料理人になるずっと前、七歳の冬の記憶だ」
久我山はかすれた声で答えた。
「女手一つで俺を育ててくれたお袋が、高熱を出して寝込んでいた俺のために作ってくれた『真っ黒に焦げた卵焼き』の記憶だよ。皇の奴も、俺が十代後半から修行したプロの記憶だけを抜き取って、そんなガキの頃のゴミ記憶には見向きもしなかった」
久我山は胸ポケットから、一枚の古びた家族写真を取り出して撫でた。
「だけどな、店主。料理の技術も誇りも全部奪われて、ゴミ箱を漁るような暮らしをしてるのに……頭の中に、あの時のお袋の卵焼きを『美味しい』と思った記憶だけが残ってるのが、たまらなく辛いんだ。目を閉じるたびに、料理が好きだった頃の自分が蘇って、今の惨めな自分に吐き気がする……! 頼む、三百円でもいい。この最後の記憶を抜いて、俺から『味』というものを完全に消してくれ……!」
カウンターに突っ伏して嗚咽を漏らす久我山を、黒瀬は一切の感情を交えず、ただ冷徹な鑑定人の目で見下ろしていた。
「承知いたしました。では、まずはその『七歳の冬の記憶』を査定させていただきます。……同意書にサインを」
久我山が震える手で電子パッドにサインを書き込むと、黒瀬は彼のこめかみに銀色の端子を装着し、卓上の抽出機のレバーを静かに引き下ろした。
――キィィィン……。
微かな駆動音と共に、抽出機のトレイの上に、小指の先ほどの『温かみのある黄色の結晶』がコトリと転がり落ちた。
「……あ……れ? 俺は、何の話を……」
記憶が抜けて呆然と瞬きをする久我山の前で、黒瀬はピンセットで黄色の結晶をつまみ上げ、専用の投影レンズへとセットした。
空間に浮かび上がるホログラム映像。
そこには、三十五年前の冬――隙間風の吹く六畳一間のアパートで、布団にくるまる七歳の久我山少年の視点が映し出されていた。
『誠、ごめんねぇ。お母さん、お砂糖を入れすぎて卵焼き焦がしちゃったわ』
若き日の母親が、申し訳なさそうに笑いながら、皿に乗った不格好で真っ黒な卵焼きを少年の口元へと運ぶ。
四十度の高熱にうなされていた少年が、その焦げた卵焼きを一口、口に含んだ――まさにその瞬間だった。
「……ほう」
黒瀬の灰色の瞳が、鋭く細められた。
ホログラム映像の視界いっぱいに、通常の記憶結晶ではあり得ない『異様な光景』が弾けるように広がったのである。
少年の舌の上に卵焼きが乗った途端、薄暗かったアパートの部屋の空間に、無数の【鮮やかな色彩と幾何学模様】が万華鏡のように浮かび上がったのだ。
焦げた卵の苦味は『鋭い紫色のトゲ』として。
多すぎる砂糖の甘味は『温かく発光する黄金色の正六面体』として。
そして隠し味の醤油の塩気と出汁の旨味は『澄み切った青色の同心円の波紋』として。
「な、なんだこれ……!? なんで部屋の中に、こんな色や図形が浮いてるんだ……!?」
記憶を抜かれた久我山自身が、ホログラムの映像を見て驚愕に目を見開いた。
幼い頃から当たり前にその景色を見ていた本人は、記憶を外部に投影されて初めて、自分の視界が「常人と決定的に異なっていた」という事実に気づいたのだ。
「……なるほど。そういうカラクリでしたか」
黒瀬は投影レンズのスイッチを切り、静かに、しかし確信に満ちた笑みを浮かべた。
「久我山様。世間はあなたのことを、百年に一人の【神の舌】を持つ天才と呼んでいましたね。そして皇綾人は、あなたの『二十五年間の料理の記憶』を奪い取れば、その神の舌もそのまま自分のものになると考えました。……ですが、彼は根本的な査定を誤っています」
「え……? どういうことだい、店主……」
「あなたは、舌で味を測っていたのではない。『目』で味を見ていたのですよ」
黒瀬は白い手袋の人差し指を立て、論理的に解き明かしいていく。
「今の映像の解析データを見れば一目瞭然です。あなたは七歳の冬、ウイルス性の高熱によって脳の感覚野に軽度の炎症を起こした。その回復過程で、味覚神経と視覚野が異常結合を起こし、百万人に一人と言われる後天性の突然変異――味を色彩と立体図形として知覚する【味覚・視覚共感覚】が発現したのです」
「きょ、共感覚……!?」
「はい。あなたが銀座で三ツ星確実と謳われた『琥珀のコンソメ』や絶妙なスパイス調合は、舌の感覚ではなく、脳内に浮かぶ『黄金色の立方体と青い波紋が、一ミリの隙間もなく完璧な球体として噛み合う瞬間』を視覚的に調整して作られたものでした。つまり、この七歳の卵焼きの記憶こそが、あなたのすべての料理記憶を正しく読み解くための【変換回路】だったのです」
黒瀬の灰色の瞳が、氷のような冷徹な光を放つ。
「では、この『七歳の変換回路』を持たない凡庸な脳の持ち主――皇綾人が、色と図形で記録されたあなたの二十五年分の料理記憶だけを無理やり自分の脳に移植すると、一体どうなると思いますか?」
「ど、どうなるんだ……?」
「今の彼は、記憶された手の動きをそのままなぞる『自動人形』としてレシピを再現しているに過ぎません。彼自身の脳では、記憶の中の『青い波紋=塩分〇・一グラム』という変換ができないため、実は自分が作っている料理の本当の味すら分かっていないのです」
黒瀬の唇が、獰猛な弧を描いて釣り上がった。
「しかも、変換キーのない脳に異質な共感覚データを無理やり定着させているため、彼の脳内は常にギリギリの過負荷状態にあります。……もし、来週の『グラン・シェフ・ワールドカップ』の生放送のキッチンで、あなたの共感覚と共鳴する【特定波長の青紫色のストロボ光】と【高周波の金属音】を彼に浴びせれば……彼の脳内の記憶データは激しい感覚混線を起こし、塩と砂糖、最高級のコンソメと泥水の区別すらつかなくなります」
「なっ……!! じゃあ、皇の奴は……!」
「ええ。世界中の審査員とテレビカメラの前で、文字通り『豚の餌以下の汚物』を自信満々の笑顔で提供し、カリスマの座から一気呵成に転落することになるでしょう」
黒瀬はカウンターの下から重厚なジュラルミンケースを取り出し、パチンと留め金を外して蓋を開けた。
そこには、帯封のついた一万円札の束が、眩いばかりにぎっしりと敷き詰められていた。
「久我山誠様。あなたが『三百円のパン代になればいい』と仰ったその七歳の冬の記憶ですが……偽りの天才のメッキを剥がし、五十億円の投資契約とあなたの二十五年分の記憶結晶を取り戻すための特級爆弾として、当店の査定額は【五千万円】となります」
「ご、ごせんまんえん……っ!?」
呆然と立ち尽くす久我山の前へ、黒瀬は『温かみのある黄色の結晶』をそっと差し出した。
「この五千万円を受け取って、このまま料理のことを忘れて余生を過ごされるのもあなたの自由です。……ですが、もし私からこの『お母様の卵焼きの記憶』を【一円】で買い戻し、私と共に皇綾人からすべての記憶と五十億円の違約金を毟り取る『特別審査員』になってくださるのなら、話は別ですが」
久我山は震える手で自らのコートのポケットを探り、なけなしの小銭の中から「一円玉」を一枚取り出すと、火傷跡だらけの指でカウンターへと力強く叩きつけた。
「……お袋の卵焼きの味を忘れたままじゃ、死んでも死にきれねえ。頼む、店主……俺の原点の記憶を戻してくれ。あの泥棒野郎に、本物の『料理の恐ろしさ』を骨の髄まで味あわせてやる……!」
「――契約成立です」
黒瀬は白い手袋の手で一円玉を回収し、静かに微笑んだ。
「では、来週のワールドカップ決勝ステージに向けて、最高の『下ごしらえ』を始めましょうか。他人の人生を盗んで三ツ星を気取る偽物のシェフに、人生で最も苦いメインディッシュを振る舞って差し上げましょう」
新宿の地下室で結ばれた、新たな一円の契約。
偽りの天才を奈落の底へと叩き落とす、冷徹なる査定人の第二の晩餐が幕を開けた。
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