第5話:百億円の公開処刑と、シャッターが切る真実
カメラマンの日下部航が記憶質店『忘却堂』を訪れてから三日後の日曜日。
東京・有楽町の国際フォーラム・メインホールは、異様なまでの熱気と無数のカメラの放列に包まれていた。
『民自党総裁選・最終公開討論会』。
事実上の次期総理大臣を決めるこのステージの模様は、地上波すべてのテレビ局とインターネット報道番組を通じて、全国へ同時生中継されている。
開演二十分前。
厳重な警備が敷かれた会場最奥のVIP控室で、次期総理の最有力候補・鷹司誠一郎は、姿見の前に立ち、新調したばかりの濃紺のビクーニャ製オーダースーツの襟元を整えていた。
「鷹司先生、最新の世論調査が出ました。第一秘書の神代を先生自らが告発されたことで、『身内の不正も許さないクリーンな指導者』として支持率は七十八パーセントに達しています。今日の討論会を無難にこなせば、来週の投開票を待たずして先生の総裁就任は確定です」
新しく任命された若手秘書の報告に、鷹司は満足げに口角を上げた。
「当然だ。神代には十億円もの裏金を質屋に奪われた挙げ句に塀の中へ落ちてもらったが……おかげで目障りな女記者も消え、私は悲劇と正義のヒーローになれた。すべて計算通りだよ」
「では、私はステージ裏の導線を確認してまいります。五分前にお迎えに上がりますので」
秘書が一礼して控室を出て行き、重厚な防音扉が閉まる。
一人になった鷹司が、ソファに腰を下ろしてミネラルウォーターに手を伸ばした――まさにその瞬間だった。
――ブゥン。
テーブルの上に置かれていた、鷹司個人の秘匿回線用スマートフォンが低く振動した。
画面に表示されたのは『非通知』の文字と、見覚えのある漆黒の封蝋のアイコン。
「……なんだ? まさか、あの歌舞伎町の質屋か」
鷹司は眉をひそめ、通話ボタンをタップしてスピーカーに切り替えた。
「どういうつもりだ、黒瀬氏。神代が支払った十億円で、あの清掃員の記憶結晶と店内の映像は完全に闇へ葬る契約だったはずだが」
『ええ、もちろんです鷹司先生。ご機嫌麗しゅうございます。神代様が落札された記憶結晶につきましては、お約束通り一点の曇りもなく処理いたしました』
スピーカーの向こうから、感情の温度が一切感じられない黒瀬零の穏やかな声が響く。
『ですが本日は、新たに当店へ持ち込まれた【別の特級商品】につきまして、一番の買い手候補である先生に優先査定のご案内を差し上げたく、ご連絡いたしました』
「別の商品だと……? くだらん。私は二十分後に全国生中継のステージに立つ身だ。手短に言え」
苛立たしげに吐き捨てる鷹司のスマートフォンの画面に、二つのホログラム映像が浮かび上がった。
「なっ……!?」
鷹司の表情が、一瞬にして凍りついた。
一つ目の映像は、ホテルのスイートルームのベッドの下を極限まで拡大した視覚データ。
そこには、角が血に濡れたクリスタル製のデキャンタと、絞殺されたはずの週刊誌記者・相沢奈緒の爪の間に食い込んだ『ロイヤルブルーのビクーニャ繊維』、そしてベッドの金属フレームの裏に血文字で記された【 F 1 . 4 】の文字列が鮮明に映し出されていた。
そして二つ目の映像は――相沢奈緒が生前に古い二眼レフカメラのレンズの奥へ隠していた『黄金色の特級記憶結晶』の中身。
防衛省の次期システム納入を巡り、鷹司誠一郎がケイマン諸島の匿名口座へ受け取った【百億円の裏金データ】と、政界買収リストの完全な視覚証拠であった。
「き、貴様……ッ! なぜそれを……!? あの女記者が持っていたデータは、ホテルの部屋にはなかったはずだぞ!!」
『ええ。相沢奈緒さんはホテルへ向かう直前、婚約者のカメラマンである日下部航氏のバッグへ、この黄金の結晶を託しておられました。そして佐伯美咲さんの記憶の片隅に残っていたデキャンタとロイヤルブルーの繊維……これらを照合すれば、最初に相沢さんの頭部を殴打して致命傷を負わせた真犯人が鷹司先生ご自身であることは、小学生でも理解できます』
「だ、黙れッ!! 神代が十億円払った時に、美咲という女の記憶はすべて渡したと言っただろうが!!」
『私が神代様に売却したのは、神代様が映り込んでいた本編の結晶です。デキャンタと繊維が映っていた数秒間の断片は、神代様の犯行とは無関係な【別商品】として、あらかじめ切り離して保管しておりました。……質屋が商品の真贋を見極めるためにサンプルを採取するのは、当然の商習慣ですので』
黒瀬のどこまでも丁寧で冷徹な声に、鷹司の額からどす黒い血管が浮き上がった。
「ふ、ふざけるなよ、ドブネズミが……! それを今さら持ち出して、私からいくら毟り取るつもりだ!?」
『お値段は【百億円】です』
「ひゃ、百億円だと……!?」
『はい。相沢奈緒さんの黄金の結晶に記録されている、ケイマン諸島の秘密口座の残高そのままの金額です。ステージが始まるまでの残り十五分以内に、指定の暗号資産中継口座へ百億円を一括送金していただければ、この黄金の結晶と微細繊維の映像データの所有権はすべて鷹司先生へ譲渡いたします。もちろん、私がその二つのデータを外部へ流出させることは永久にございません』
鷹司はギリッと奥歯を噛み締めた。
ケイマン諸島の百億円は、来週の総裁選で議員票を買い占め、総理の座に就いた後の長期政権を維持するための「命綱」とも言える最高機密資金だ。
だが、もしここで支払わなければ、十五分後の生中継の真っ最中にその百億円の存在と殺人未遂の証拠が全国に晒され、総理の椅子どころか塀の中へ直行することになる。
(……待てよ。黒瀬の奴は『忘却堂は絶対の信用を売りにする質屋だ』と言っていたな。実際、神代が十億円を払った時も、奴は約束通り美咲のサーバーデータを消去した)
鷹司の脳裏に、冷酷な計算が閃いた。
(ならば、ここは一度だけ奴に百億円を払って、黄金の結晶とデータを完全に買い取って消去させればいい! 私が来週、内閣総理大臣に就任してしまえば、警察庁も公安調査庁もすべて私の手足となる。総理の特権で『忘却堂』をテロ組織として非公式に急襲させ、黒瀬の脳から記憶ごと百億円を回収して死体も東京湾に沈めてしまえばいいのだ!)
「……いいだろう、黒瀬氏。その取引、乗ってやる」
鷹司は懐から専用の量子認証キーを取り出し、ケイマン諸島の秘密口座へとアクセスした。
「百億円、今ここで一括送金してやる。ただし条件がある。私が送金した瞬間に、その『黄金の結晶』と『繊維の断片結晶』の二つを、私のサーバーから完全に抹消し、実物は地下駐車場で待機している私の私設秘書へ即座に引き渡せ。一秒でも遅れれば契約違反と見なすぞ!」
『承知いたしました。当店は契約を何よりも重んじる質屋です。百億円の着金と同時に、その二つの結晶は間違いなく先生の私設秘書様へお渡しし、当店のサーバーからも完全抹消することをお約束いたします』
「フン、賢明な判断だ!」
鷹司は獰猛な笑みを浮かべ、百億円の送金承認ボタンを強く押し込んだ。
画面のメーターが回転し、数秒後――『送金完了:10,000,000,000 JPY』の文字が表示される。
『――毎度ありがとうございます、鷹司先生。確かに百億円、領収いたしました。ただいま地下駐車場にて、先生の私設秘書様へ二つの結晶の引き渡しが完了し、当店のデータも完全に消去されました』
その報告と共に、鷹司の別のスマートフォンへ、地下駐車場の私設秘書から『間違いなく実物の結晶二つを回収しました』というメッセージが届いた。
「ハッ……ハハハハハッ! 馬鹿め、本当に渡しおったわ!」
鷹司は勝利を確信し、通信の向こうの黒瀬に嘲笑を浴びせた。
「ご苦労だったな、質屋。せいぜい来週私が総理大臣になるまでの数日間、その百億円を抱いて震えて眠るがいい。……もっとも、総理になった私が、国家の邪魔者をいつまで生かしておくかは分からんがな!」
『ええ、先生の輝かしい晴れ舞台を心より楽しみにしております。……それでは、どうぞステージへお進みください』
プツン、と通信が切れた。
ちょうどその時、控室のドアがノックされ、若手秘書が顔を出した。
「鷹司先生、本番の時間です!」
「うむ。行こうか」
鷹司は一切の不安が消え去った堂々たる足取りで控室を出ると、眩いスポットライトが照らすメインホールの壇上へと歩み出た。
◇
パチパチパチパチッ!!
会場を埋め尽くす千人の聴衆と報道陣から、割れんばかりの拍手が沸き起こる。
ステージ中央の演台に立った鷹司誠一郎は、テレビカメラの赤いタリーランプに向かって、慈愛と正義に満ちた完璧な笑顔で手を振った。
そのステージの真下――最前列のカメラマン席の中央には、擦り切れたベストを着た日下部航が、年季の入ったカメラを構えて静かに鷹司を見上げていた。
『それでは、民自党総裁選・最終公開討論会を開始いたします。まずは支持率トップを走る鷹司誠一郎候補より、国民の皆様へ「政治とカネ、および法の正義」についての決意表明をお願いいたします』
司会者のアナウンスを受け、鷹司はマイクの前に進み出た。
「国民の皆様。先日は、私の元第一秘書が起こした前代未聞の不祥事により、多大なるご心配をおかけいたしました」
鷹司はよく通るバリトンボイスを会場中に響かせ、胸に手を当てた。
「ですが、私は誓います! どれほど親しい側近であろうと、一円の裏金も、いかなる暴力も、この鷹司誠一郎は断じて許しません! 私が内閣総理大臣となった暁には、すべての隠蔽体質を破壊し、一点の曇りもない透明な政治を――」
鷹司が拳を振り上げた、まさにその瞬間だった。
――バチィッ!!
メインホールの照明が一斉に暗転し、鷹司の背後に設置された縦十メートル・横二十メートルの超巨大LEDスクリーンが、突如として不気味な青白い光を放った。
「な、なんだ!? 機材トラブルか!?」
会場がざわめき、司会者が慌てて調整室を見上げる。
だが、全国五千万人の視聴者が見守る巨大スクリーンに映し出されたのは、番組のテロップではなかった。
『――記録対象者:東京拘置所・単独房収容、神代(元第一秘書)。記憶抽出時刻:本日午前八時十五分』
無機質な文字と共に、スクリーンいっぱいに超高精細な【記憶映像】が再生されたのである。
「なっ……!? か、神代の記憶だと……!?」
壇上の鷹司が、驚愕に目を見開いて振り返った。
自分が十億円で買い取った美咲の記憶でもなければ、今しがた百億円で買い取った相沢奈緒の黄金の結晶でもない。
スクリーンに映し出されたのは――三日前の夜、殺人現場のスイートルームへと駆けつける直前の『神代自身の脳内の記憶』だった。
映像の中で、神代のスマートフォンにビデオ通話が着信する。
画面の向こうに映っていたのは、ホテルのスイートルームのベッドの脇に立ち、返り血のついた『ロイヤルブルーのビクーニャのスーツ』を着て、角が血に濡れたクリスタル製のデキャンタを手に荒い息を吐いている【鷹司誠一郎本人】の姿だった。
『――おい神代! 今すぐホテルのスイートへ来い!』
会場の大音響スピーカーから、テレビカメラのマイクを通じて、鷹司自身の焦り切った肉声が日本中へと轟き渡る。
『相沢という女記者が、防衛省の百億円の裏金口座を嗅ぎつけて部屋に乗り込んできた! 口論になって、後ろからデキャンタで頭を殴りつけてやったが……まだベッドの下で息があるかもしれん! 私は今からVIPエレベーターで逃げる! お前が部屋へ行って、あの女の首を絞めて確実に息の根を止め、証拠をすべて回収しろ! これは次期総理である私の絶対命令だ!!』
「「「な、なんだってえええええええっ!!?」」」
静まり返っていたメインホールが、一瞬にして蜂の巣を突いたような大パニックと怒号の渦へと叩き込まれた。
「う、嘘だ!! これはディープフェイクだ!! 合成映像だあああっ!!」
顔面を蒼白にしてマイクにしがみつく鷹司。
しかし、スクリーンの映像はさらに残酷な「第二の証拠」を映し出した。
それは、今朝、東京拘置所の接見室で弁護士を通じて記憶抽出機に繋がれた神代が、血の涙を流しながらカメラに向かって叫ぶ姿だった。
『鷹司誠一郎! 俺にすべての罪をなすりつけて切り捨てたな! 俺の脳から抜いたこの記憶結晶には、量子署名による「改ざん不可能証明」が刻まれている! 俺と一緒に地獄へ落ちろォォッ!!』
そしてその横には、たった五分前に鷹司自身がケイマン諸島の秘密口座から動かしたばかりの『百億円の不正送金・資金洗浄のリアルタイム追跡ログ』が、東京地検特捜部の強制捜査承認印と共にデカデカと表示されたのである。
「あ……あ、ああ……っ!?」
鷹司の膝から力が抜け、演台に崩れ落ちそうになる。
同時に、ポケットの中のスマートフォンが震え、黒瀬零からの最後の音声メッセージが耳元のイヤホンへと静かに再生された。
『――鷹司先生。私が百億円で売却した「相沢さんの結晶」と「美咲さんの断片結晶」は、お約束通り一切流出させておりません』
黒瀬の氷のように冷徹で美しい声が、絶望の淵に立つ鷹司の脳髄を貫く。
『ですが……あなたに裏切られてすべてを失った神代様は、今朝、拘置所の中でご自身の記憶を【一円】で当店に売却されました。そしてその神代様の記憶結晶を、私が昨夜カメラマンの日下部様にお支払いした査定額――【一億円】で日下部様が正式に買い取られ、今、報道陣の特権で会場の放送回線へと接続されたのです』
「く、黒瀬えええええっ!! 貴様、最初からそのために私に百億円の口座を動かさせたのかあああっ!!」
『はい。あなたが百億円を動かしたことで、休眠口座だったケイマン諸島の裏金ルートが現行犯で確定しました。……ご安心ください、あなたが支払われた百億円は、相沢奈緒さんが遺した不正被害者救済リストへの寄付と、当店の正当な仲介手数料として、一円残らず有効に活用させていただきます』
ホールの後方扉がバンッと蹴り開けられ、東京地検特捜部の検事たちと警視庁捜査一課の刑事たちが、逮捕状を掲げて雪崩れ込んでくる。
「待て、やめろ! 私は次期総理だぞ! 離せ、離せえええええっ!!」
半狂乱で喚き散らし、演台から引きずり下ろされる鷹司誠一郎。
その目の前――ステージの真正面で、日下部航が一台の古びた『二眼レフカメラ』を静かに構えた。
レンズの開放値は【 F 1 . 4 】。
亡き婚約者・相沢奈緒が命懸けで遺したそのレンズの奥で、権力の頂点から奈落の底へと墜ちていく殺人者の醜悪な絶望顔を、日下部は一ミリのブレもなく捉えていた。
「――奈緒。撮ったぞ、俺たちのスクープだ」
カシャリ。
無数のフラッシュが焚かれる中、日下部が切った静かなシャッター音が、巨悪の完全なる終焉を告げていた。
◇
その夜、新宿・歌舞伎町の裏路地。
記憶質店『忘却堂』の地下室では、店主の黒瀬零が、テレビの特別報道番組を消して静かに紅茶のカップを傾けていた。
「……百億円の裏金口座の完全解体と、次期総理候補の公開処刑。カメラマンの日下部様にとっても、まずまず満足のいく現像になったようですね」
黒瀬は白い手袋をはめた手で古い懐中時計を撫で、誰もいない店の扉へと灰色の瞳を向けた。
チリン――。
雨上がりの夜風と共に、重厚なオーク材の扉が再びゆっくりと開かれる。
政治家の腐敗が片付いたこの都会の闇には、まだ「他人の才能を盗んだ偽りの天才」や「死に際の記憶を抱えた裏社会の住人」が、数え切れないほど蠢いている。
「いらっしゃいませ。……今夜は、どのような『記憶』をお売りになられますか?」
地下室の冷徹なる査定人は、今夜もまた、変わらぬ穏やかな笑みで新たな客を迎え入れた。
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