第4話:裏切りのスキャンダルと、百億円の遺言
嵐のような雨が過ぎ去った翌朝、東京の街は一色のニュースで塗り潰されていた。
『次期総理候補・鷹司誠一郎議員の第一秘書・神代容疑者を逮捕。週刊誌記者の女性殺害、および政治資金十億円の業務上横領の疑い』
街頭ビジョンに映し出されているのは、記者会見場の無数のフラッシュを浴びながら、深々と頭を下げる若き政治家――鷹司誠一郎の姿だった。
濃紺の最高級オーダースーツに身を包んだ鷹司は、ハンカチで目元を押さえ、痛ましげに声を震わせていた。
『長年信頼してきた第一秘書が、私の知らないところで裏金を私物化し、あまつさえそれを取材していた記者の方の尊い命を奪っていたなど……断腸の思いであります。私自身が警察および検察へすべての証拠を提出し、厳正なる処罰を求めました。どれほど身内の恥を晒すことになろうとも、私は一切の不正を許さず、クリーンな政治を貫くことを国民の皆様にお約束いたします!』
テレビのコメンテーターたちが、こぞって「身内の犯罪を自ら告発した鷹司議員の潔さ」を称賛する。
スキャンダルで失脚するどころか、神代というトカゲの尻尾を完璧なタイミングで切り捨てたことで、鷹司の支持率は一夜にして急騰し、来月の民自党総裁選での勝利を事実上決定づけていた。
だが――その華やかな表社会の熱狂が冷め、夜の帳が下りた午後十時。
新宿・歌舞伎町の裏路地、雑居ビルの地下一階にある記憶質店『忘却堂』の扉が、重苦しい音を立てて開かれた。
チリン――。
店内へと足を踏み入れてきたのは、無精髭を生やし、目の焦点が定まっていない一人の若い男だった。
年齢は二十代半ば。擦り切れたカメラマンベストを着て、肩からは年季の入った黒いカメラバッグを下げている。
「……いらっしゃいませ。記憶の質入れですか、それとも売却ですか?」
カウンターの奥で紅茶の茶葉を計量していた店主・黒瀬零が、感情の温度がない灰色の瞳を静かに向けた。
「……売却だ。買い取り額なんて一円もいらない。ただ、今すぐ俺の頭から『あの女』に関する記憶を……四日前の夕方の記憶を、すべて抜き取って消してくれ」
男は革張りの椅子にドサリと腰を下ろし、顔を両手で覆って呻くように言った。
「お名前と、その記憶の内容をお伺いしても?」
「……日下部航。フリーの報道カメラマンだ」
男――日下部航は、血の滲むほど唇を噛み締めながら、掠れた声で語り始めた。
「俺が消したいのは、ニュースで騒がれている被害者の女……週刊誌記者の『相沢奈緒』と最後に会った日の記憶だ。あいつは俺の仕事の相棒で、来月には籍を入れる約束をしていた婚約者だった」
日下部の拳が、膝の上でカタカタと震える。
「だが、今朝の警察の発表とネットのニュースで全部分かった。奈緒が殺されたのは、一泊数十万円もする高級ホテルのスイートルームだ。あいつは俺に『今夜は実家に帰る』と嘘をついて、胸元の開いたドレスを着てあのホテルへ行き、スクープや金のために鷹司の秘書と密会して……痴情のもつれで絞め殺されたんだ!」
「なるほど。婚約者に裏切られていたという事実が耐えられない、と」
「それだけじゃない……!」
日下部は顔を歪め、悔しそうに涙を零した。
「四日前の夕方、俺たちの暗室を兼ねたアパートから出て行く奈緒の態度がよそよそしくて、俺は浮気を疑ってあいつを怒鳴りつけたんだ。『お前みたいな打算的な女、もう顔も見たくない』ってな……! 裏切られた惨めさと、最後に汚い言葉を吐き捨ててしまった後悔で、頭がおかしくなりそうなんだよ! 頼む、あの日の記憶を消してくれ……!」
机に突っ伏して肩を震わせる日下部を、黒瀬は一切の同情を交えない冷徹な観察者の目で見下ろしていた。
「分かりました。では、まずはその『四日前の夕方の記憶』を抽出・査定させていただきます。……同意書にサインを」
日下部が電子パッドにサインを書き込むと、黒瀬は彼のこめかみに銀色の端子を装着し、抽出機のレバーを引き下ろした。
――キィィィン……。
数秒後、トレイの上に『淡い琥珀色の結晶』がコトリと転がり落ちた。
「……ふぅ。あ……れ? 俺は、何をそんなに怒ってたんだっけ……」
記憶が抜けて呆然とする日下部の前で、黒瀬は白い手袋の指先でピンセットを操り、抽出されたばかりの『琥珀色の結晶』を投影レンズへとセットした。
そして同時に、カウンターの奥の暗がりから小さなガラス瓶を取り出す。
その中に入っていたのは、昨夜、神代秘書に本体の結晶を引き渡す前に黒瀬が密かに切り離して保管しておいた『青白く光る極小の結晶』――派遣清掃員・佐伯美咲の記憶の片隅に映り込んでいた「違和感」の断片だった。
「さて、日下部様。あなたがゴミ同然だと思って手放した記憶の『査定結果』を、実際の映像と共にご覧いただきましょう」
黒瀬がスイッチを入れると、店内の空間に二つのホログラム映像が並んで浮かび上がった。
まず左側に映し出されたのは、日下部自身の記憶――四日前の夕方、薄暗いアパートの玄関で言い争う日下部と、婚約者である相沢奈緒の姿だった。
映像の中の奈緒は、確かに華やかなドレスの上にコートを羽織り、ひどく怯えたように視線を泳がせていた。
怒鳴り散らす日下部に対し、奈緒は何一つ言い訳をしなかった。
ただ、日下部が背を向けた一瞬の隙に――彼女は玄関の棚に置かれていた日下部のカメラバッグのポケットへ、一台の『壊れた旧式の二眼レフカメラ』をそっと滑り込ませていたのだ。
「え……? なんだこれ……奈緒が俺のバッグに、あの壊れたカメラを……?」
記憶を抜かれた日下部が、自分の視点の隅に映っていたその光景を見て目を丸くする。
当時、怒りに我を忘れていた日下部は、視界の端で奈緒がバッグに触れていたことに全く気づいていなかった。しかし、人間の視覚野は網膜に映った情報を無意識のうちにすべて記録している。
そして映像の中の奈緒は、ドアを開けて出て行く直前、振り返ることなく小さな声でこう呟いていた。
『……ごめんね、航。もし私が明日になっても帰らなかったら、いつもみたいに、そのカメラのレンズの奥を覗いて。……私が世間からどれだけ汚い女に見えても、私が愛していたのは、あなたの撮る真っ直ぐな写真だけだから』
「な……っ、奈緒……!?」
日下部の目から、再び熱い涙が溢れ出した。
その隣で、黒瀬は感情を一切動かさず、右側のホログラム――佐伯美咲の記憶から抜き出した『スイートルームの殺害現場』の超高精細拡大映像を再生した。
「日下部様。世間も警察も、相沢奈緒さんは『神代秘書と密会し、神代に首を絞められて殺された』と断定しています。神代本人も自分が絞め殺したと自白しました。……ですが、この現場の映像には、最初から三つの決定的な【矛盾】が存在していました」
黒瀬は白い手袋の指先で、空中のホログラム映像を順に指し示した。
「一つ目。相沢さんの死因は頸部圧迫による窒息死――つまり絞殺です。にもかかわらず、なぜベッドの下にはこれほど『おびただしい血溜まり』が広がっていたのか。首を絞められただけでは、このような大量出血は絶対に起こりません」
「……言われてみれば、なぜ血が……?」
「二つ目。テーブルの上に置かれた二つのウイスキーグラスです。片方のグラスの氷は完全に溶けて水になっていましたが、もう片方のグラスの氷はまだ半分以上残っていました。そして三つ目……相沢さんの遺体の指先に絡みついていた、この『微細な繊維』と『ベッドの下の血文字』です」
黒瀬が映像を極限まで拡大する。
ベッドの下、血溜まりの奥の暗がりに転がっていたのは、角が血に濡れた重厚なクリスタル製のデキャンタ。
そして被害者・相沢奈緒の爪の間には、神代秘書が着ていた黒いスーツのものではない、鮮やかな『濃紺のビクーニャ繊維』が食い込んでいた。
「ロイヤルブルーのビクーニャ……。最高級の希少羊毛で仕立てられたそのオーダースーツを愛用している人物を、あなたは今朝のニュースでご覧になったはずです。……ええ、涙ながらに神代秘書を告発していた【鷹司誠一郎議員】その人ですよ」
「なっ……!? じゃあ、あの部屋にいたのは神代じゃなくて、鷹司本人だったっていうのか!?」
「正確には、こういうことです。相沢奈緒さんは、鷹司議員が防衛省の次期システム納入を巡って受け取った『百億円の裏金と政界買収リスト』の決定的な証拠を掴んだ。彼女はあなたに危険が及ばないよう、わざとあなたと喧嘩別れする演技をして一人でホテルへ向かい、鷹司議員と直接対峙したのです」
黒瀬の灰色の瞳が、冷たく鋭い光を放つ。
「追い詰められた鷹司議員は、後ろからデキャンタで相沢さんの頭部を殴打し、大出血させた上で VIP 専用エレベーターから逃走しました。そして直後に第一秘書の神代へ『女記者が部屋に侵入して暴れている、私のスキャンダルを守るために始末しろ』と連絡を入れた。……現場に駆けつけた神代は、ベッドの下でまだ微かに息のあった相沢さんの首を絞めてトドメを刺し、自分が単独で殺したと思い込んだ上で、昨日のうちに鷹司議員にすべての罪を被せられて切り捨てられたのですよ」
「なん……てことだ……。奈緒は、俺を裏切ったんじゃなくて……俺を守るために、たった一人で……!」
日下部は胸を掻きむしり、そしてハッとしたようにホログラムの中の『奈緒の左手』を見つめた。
頭を割られ、神代に首を絞められて意識が途絶える直前。
ベッドの下に倒れた相沢奈緒の血まみれの指先は、ベッドの金属フレームの裏側に、震える指で【 F 1 . 4 】という文字を書き残していた。
「F1.4……! 俺が昔使っていた、この壊れた二眼レフのレンズの開放F値だ……!」
日下部は震える手で、足元のカメラバッグから古い二眼レフカメラを取り出し、開放値が『1.4』の目盛りに合わされたレンズの鏡筒をひねって外した。
カチャリ、と金属の留め具が外れる。
そのレンズの奥の空洞から転がり出てきたのは――週刊誌記者の相沢奈緒が命と引き換えに守り抜いた、眩い黄金色の光を放つ『特級記憶結晶』だった。
「……あった。これだ……奈緒が命懸けで隠した、鷹司の証人喚問の内部告発記憶と、百億円の裏金口座の完全な視覚データだ……!」
黄金色の結晶を両手で包み込み、嗚咽を漏らす日下部。
その目の前へ、黒瀬はカウンターの下から取り出した黒い小切手帳を滑らせ、サラサラとペンを走らせた。
「日下部航様。あなたが先ほど『一円もいらない』と仰った四日前の記憶ですが……あの中に映っていたカメラの隠し場所のヒントを含め、当店の査定額は【一億円】となります」
「い、一億円……!?」
「そして、今あなたの手の中にあるその黄金の結晶。来週に迫った民自党総裁選の投開票日を前に、これを裏市場のオークションにかければ……あなたの婚約者の命を奪い、今もテレビの中で正義の仮面を被って笑っている鷹司誠一郎から、文字通り【百億円】のすべてと、総理大臣の椅子を完全に剥ぎ取ることができます」
黒瀬は抽出機から『淡い琥珀色の結晶』をつまみ上げ、日下部の目の前に差し出した。
「さあ、お選びください。このまま彼女の記憶を忘れて一億円を受け取り、平穏に暮らすか。……それとも、私からこの記憶を『一円』で買い戻して脳に戻し、私と共に鷹司誠一郎を地獄へ突き落とす共犯者になるか」
日下部は涙を拭い、迷うことなくポケットから一円玉を取り出してカウンターに叩きつけると、琥珀色の結晶を強く握りしめた。
「……決まってるだろう、店主。俺の記憶を今すぐ戻してくれ。あいつの最期の想いを一秒たりとも忘れたままじゃ、カメラマンとしてシャッターが切れねえんだよ」
「――契約成立です」
黒瀬の唇が、氷のように美しく、そして獰猛な弧を描いた。
「では、準備に取り掛かりましょうか。次期総理大臣の誕生を祝う全国生中継のステージで……『百億円の遺言』を上映する、最高に華やかな処刑台の準備を」
地下室の査定人が仕掛けた第二幕。
真の巨悪を奈落の底へと引きずり下ろす、百億円のカウントダウンが静かに動き出した。
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