第3話:十億円の落札と、逃れ得ぬ断罪の刻印
深夜零時を告げる柱時計の鐘の音が、地下室の重苦しい空気の中に溶けて消えた。
新宿・歌舞伎町の裏路地にある記憶質店『忘却堂』。
革張りの椅子に崩れ落ちるように座り込んだ民自党・鷹司議員の第一秘書、神代は、カウンターの上に浮かぶ三つのホログラム・ウィンドウを血走った目で睨みつけていた。
出品されているのは、三日前の夜に都内の高級ホテルのスイートルームで神代が週刊誌の女性記者を絞殺し、偶然それを目撃した派遣清掃員の少女・佐伯美咲を脅迫した一部始終の『完全視覚記憶』。
現在、空間に浮かぶ右側のウィンドウ――『東都新報』の特別調査班の女によって、すでに【七億円】の値がつけられている。
「……さあ、神代第一秘書。ご自身の命と政治生命を買い戻すお値段は、おいくらになさいますか?」
カウンターの奥に立つ店主・黒瀬零が、感情の温度が一切感じられない灰色の瞳で静かに問いかけた。
「な、七億五千万円だ……ッ!」
神代は乾ききった喉から、掠れた声を絞り出した。
だが、その声を嘲笑うかのように、中央のウィンドウから低く威厳のある老人の声――党内最大派閥を率いる剛山幹事長の声が響き渡る。
『ふむ、七億五千万か。ならば私は【八億五千万円】を出そう。来月の民自党総裁選で、若きプリンス・鷹司の首を確実に狩れるのだ。政権を握るための必要経費と考えれば、実に安い買い物だよ』
「く、くそっ……! 剛山幹事長、あんた同じ党の同志だろうが……!」
『政治の世界に同志などおらんよ、神代君。あるのは利用価値か、排除すべき障害か、その二つだけだ』
さらに右側のウィンドウから、東都新報の女が涼しげな声で追撃する。
『でしたら、私ども東都新報は【九億円】を提示いたします。政権交代の歴史的スクープと、発行部数の独占。十分に元は取れますので』
『ほう、言うではないか。ならば【九億五千万円】だ』
画面越しの二人が、まるで美術品の競りでも楽しむかのように淡々と金額を吊り上げていく。
神代の額から、滝のような脂汗が流れ落ちた。
(くそっ、くそっ、くそったれがァッ!! なぜ俺がこんな目に遭わなければならない!?)
神代が今この場で、誰の稟議も通さずに即座に動かせる資金には限界があった。
それは、鷹司議員の後援会および政治資金管理団体が集めた莫大な裏金の中から、神代が長年にわたって海外のペーパーカンパニー(トンネル会社)へ密かに横領し、私的にプールしていた秘密資金――総額『十億円』。
それが、神代という男が持つ文字通りの全財産だった。
もしここで九億五千万円を上回る額を提示できなければ、記憶結晶は剛山幹事長の手に渡り、明日の朝には神代は殺人容疑で逮捕され、すべてが終わる。
「――十億円だッ!!」
神代は椅子から立ち上がり、カウンターを両手でバンッと叩いて絶叫した。
「十億円出すッ!! 即金で今すぐ一括送金してやる!! どうだ、これ以上出せる奴はいるかァッ!?」
荒い息を吐きながらホログラムを睨みつける神代。
数秒の沈黙の後、中央のウィンドウから剛山幹事長がやれやれと肩をすくめる気配が伝わってきた。
『……十億円か。さすがに一介の第一秘書の首一つに、十億は出せんな。私は降りよう』
『ええ、私どもの稟議上限も九億円までです。……残念ですが、今回は見送らせていただきますわ』
東都新報の女も静かに手を引いた。
その瞬間、黒瀬は白い手袋をはめた手で、カウンターの小さなベルをチリン、と一度だけ鳴らした。
「――他にご提示はございませんね。それでは本商品、佐伯美咲様の記憶結晶は、【十億円】にて神代第一秘書が落札されました」
黒瀬が穏やかに微笑み、手元のタブレット端末を操作する。
神代の目の前に、振込先となる暗号化された匿名口座のコードが投影された。
「神代様。こちらの指定口座へ、ただいまより五分以内に十億円の送金をお願いいたします。着金が確認でき次第、都内の無人貸金庫の電子ロック解除キーをお渡しし、海外の秘匿サーバーに保管されているバックアップデータを完全に消去いたします」
「……わ、分かった。今すぐ送ってやる!」
神代は懐からスマートフォンと専用の生体認証トークンを取り出し、震える親指で海外のトンネル会社の秘密口座へアクセスした。
自分が何年もかけて血の滲むような裏工作で貯め込んだ、十億円という全財産。
残高が『0円』になる画面を見つめながら、神代は奥歯が砕けそうなほど強く噛み締め、送金完了のボタンをタップした。
――ピピッ。
黒瀬のタブレットに『着金完了:1,000,000,000 JPY』の文字が浮かび上がる。
「毎度ありがとうございます、神代様。確かに十億円、領収いたしました」
黒瀬は深々と一礼すると、タブレットの画面をスワイプした。
「ただいま、あなたのスマートフォンへ新宿駅前の無人貸金庫の電子キーを送信いたしました。実物の『赤黒い結晶』は、その金庫の中に保管されております。そしてお約束通り、海外の秘匿サーバーにある佐伯美咲さんの記憶データは――これにて完全消去いたします」
黒瀬がエンターキーを押すと、ホログラム画面の中央に『サーバー内記憶データ:完全抹消完了』という赤いステータスが表示され、剛山幹事長と東都新報の二つのウィンドウがプツンと消えた。
「……消えた。本当に、サーバーのデータが消えたぞ……!」
その表示を確認した瞬間。
それまで恐怖と焦燥に引きつっていた神代の顔に、突如としてどす黒く獰猛な笑みが甦った。
「ハッ……ハハハハハハハッ!! 馬鹿め、質屋が! 本当にバックアップを消しやがったな!!」
神代は狂ったように高笑いを上げ、背後に控えていた二人の屈強な護衛――裏社会の『掃除屋』に振り返った。
「おい、聞いたかお前ら! サーバーのデータは消え、実物の結晶がある貸金庫の鍵はすでに俺のスマホの中だ! この男の胸ポケットにある心拍センサーとやらも、送金すべきデータそのものが消滅した今となっては、ただのハッタリ道具に過ぎん!!」
神代はカウンター越しの黒瀬をビシリと指差し、唾を飛ばして吠えた。
「念のため、この男を殺すなよ! だが、両手両足の骨をすべてへし折り、舌を引き抜いて一生喋れなくしてやれ! そして俺が今送金した十億円も、明日の朝一番で金融庁と銀行の上層部に圧力をかけ、『悪質なハッキングによる不正送金』として口座ごと強制凍結して全額取り戻す! 貴様は一円も得られず、一生ベッドの上でチューブに繋がれて生きるんだァッ!!」
「……なるほど。証拠が消えたから暴力で全てを踏み倒し、支払った代金も権力で巻き上げる、と」
黒瀬は一歩も引かず、白い手袋をはめた手で懐中時計を取り出し、静かに文字盤を見つめた。
「神代様。あなたは先ほどから、二つの致命的な思い違いをしていらっしゃいますよ」
「あぁ?負け惜しみか、質屋!」
「いいえ、厳然たる事実です。……まず一つ目。私が消去したのは、あくまで『佐伯美咲さんの脳から抽出した記憶データ』だけです。ですが――あなたがこの店に押し入ってから今この瞬間まで、『自分が記者を殺した』『十億円を送金した』『私の手足を砕いて口座を凍結させる』と大声で自白した【この店内の防犯カメラとマイクの映像】は、まだ消去しておりません」
「……なっ!?」
神代の笑い声が、ピタリと止まった。
「そして二つ目。神代様、あなたは先ほどから一度も声を発していなかった『三つ目のウィンドウ』のお客様が、一体どなたなのか気になりませんでしたか?」
黒瀬が視線を向けると、空間に一つだけ残っていた左側のホログラム・ウィンドウが淡く輝き、かかっていたモザイク処理がスッと解除された。
そこに映し出されたのは、高級マンションの一室で冷酷な瞳を細め、画面を見下ろしている一人の若き政治家の姿。
民自党のプリンスであり、神代が仕える主君――『鷹司議員』その人であった。
「た、鷹司、先生……!? な、なぜ先生が、そこに……!?」
神代の顔から、今度こそ完全に血の気が失せた。
ホログラムの向こうから、鷹司議員の氷のように冷たい声が店内に響き渡る。
『……見苦しいぞ、神代。黒瀬氏から匿名で招待状と映像が送られてきた時は半信半疑だったが、まさか私の知らないところで勝手に週刊誌の記者を絞め殺し、あまつさえそれを揉み消すために十億円もの金を動かすとはな』
「ち、違います先生!! あの女記者は、先生の違法献金の証拠を嗅ぎ回っていたから、俺が先生を守るために……!」
『黙れと言っている。私は誰も殺せなどと命じていない。すべて貴様が単独で起こした殺人事件だ』
鷹司議員は吐き捨てるように言うと、冷酷な笑みを浮かべた。
『それに神代……貴様が今、その質屋に送金した十億円の出所を、私が気づかないとでも思ったか?私の後援会の裏金を、海外のトンネル会社を使って密かに横領していた口座だな。私に忠誠を誓うふりをして、十億円もの大金を私物化していたとは、いい度胸だ』
「ひっ……! そ、それは、いざという時のための工作資金として……!」
「補足させていただきますね、神代様」
黒瀬が一歩前に出て、凍りつく神代に穏やかな声で告げた。
「あなたが先ほど十億円を送金した私の指定口座ですが……あれは海外の複数の暗号資産取引所を瞬時に経由し、あなたのトンネル会社の『不正送金および横領のアクセスログ』だけを、東京地検特捜部と金融庁の監視サーバーへ自動的に記録・通報する特殊な中継口座となっております。もちろん、私の取り分である十億円はすでに追跡不可能な形で回収済みですが……銀行に圧力をかけて口座を凍結しようとすれば、その瞬間にあなた自身の業務上横領と資金洗浄の証拠が確定します」
「ば、ばかな……! じゃあ俺の十億円は……!?」
『戻ってくるはずがないだろう、馬鹿者が』
鷹司議員が冷たく言い放つ。
『そして神代、貴様には最後の仕事をしてもらう。来月の総裁選に向けて、「暴走して殺人と横領に手を染めた第一秘書を、クリーンな鷹司議員自らが涙を呑んで警察と検察に告発した」という美談の生贄になるのだ。……おい、後ろの二人』
鷹司議員が画面越しに呼びかけると、神代の背後に立っていた二人の屈強な『掃除屋』が、無言で顔を見合わせた。
「お、おい、お前ら!何を突っ立っている、早くこの質屋を……っ!」
チャキッ。
冷たい金属音が二つ重なった。
だが、サプレッサー付きの自動拳銃の銃口が突きつけられたのは、黒瀬の眉間ではない。
神代自身の、脂汗にまみれたこめかみだった。
「え……? お、お前ら、なぜ俺に銃を……!?」
『当たり前だろう。その掃除屋たちに毎月金を払っている真のスポンサーは、私なのだからな。……黒瀬氏、約束通り、その男の記憶結晶と今の店内映像は、どこにも流出させないと誓えるな?』
鷹司議員の問いに、黒瀬は胸に手を当てて優雅に一礼した。
「ええ、もちろんです鷹司先生。『忘却堂』は絶対の信用を売りにする質屋ですので。神代様が支払われた十億円の対価として、今回の殺人事件に先生が関与していたという疑念は、完全に闇へと葬り去りましょう」
「う、うわあああああっ!? 嘘だ、待ってくれ先生! 俺は先生のために手を汚したんだぞ! 十億円も奪われて、刑務所になんか行きたくないぃぃっ!!」
泣き叫びながら床を這いずる神代の耳に、雨音を切り裂いて近づいてくる無数のパトカーのサイレン音が届いた。
鷹司議員がすでに警視庁捜査一課と特捜部へ「第一秘書による単独犯行」として通報を済ませていたのだ。
「お引き取りください、神代様。……あなたが佐伯美咲さんに渡した百万円の腕時計よりも、随分と高くつく夜になりましたね」
黒瀬の冷ややかな声に見送られながら、神代は護衛の男たちに両脇を抱えられ、半狂乱で喚き散らしながら地上へと引きずり出されていった。
◇
チリン――。
重厚なオーク材の扉が閉まり、地下の『忘却堂』に再び静寂が戻った。
黒瀬はカウンターの上に残されていた、神代が最初に叩きつけた「三百万円の札束」を白い手袋の指先で拾い上げ、無造作に引き出しへと放り込んだ。
「……仕入れ値が三千万円。売上が十億と三百万円、ですか」
黒瀬は淹れ直したばかりの紅茶を一口ふくみ、灰色の瞳を細めた。
「悪くない利回りですね。……もっとも、あの鷹司という議員も、自分の尻尾を切って生き延びたつもりでいるようですが」
黒瀬の視線の先、カウンターの奥の暗がりには、まだ誰の手にも渡っていない『もう一つの極小の結晶』が、ガラス瓶の中で青白く不気味な光を放っていた。
佐伯美咲の記憶の片隅に映り込んでいた、小さな『矛盾』。
それを解き明かすのは、また別の夜のお話である。
記憶質店『忘却堂』。
今夜もまた、都会の闇に沈む誰かの記憶を査定するため、地下室の扉は静かに次の客を待ち続けていた。
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