第2話:真夜中の招待状と、傲慢なる秘書の誤算
新宿・歌舞伎町の裏路地に冷たい雨が降り続く夜。
記憶質店『忘却堂』から佐伯美咲が立ち去っておよそ二時間後。
東京・永田町の一角にある高級議員宿舎の特別室で、民自党の若きプリンス・鷹司議員の第一秘書を務める神代は、グラスの琥珀色のウイスキーを揺らしながら満足げに微笑んでいた。
「……そうか。あの清掃員の小娘、言われた通りに『忘却堂』へ入って、記憶を抜いたのだな」
スマートフォンの向こうから聞こえる見張り役の報告に、神代は深く頷いた。
左手の薬指にはめられた、特注のプラチナリングが室内のシャンデリアの光を反射して鈍く煌めく。
三日前の夜、都内の高級ホテルのスイートルームで起きた「不慮の事故」。
鷹司議員の違法献金疑惑を嗅ぎ回っていた週刊誌のフリー記者の女を、神代が自らの手で絞め殺したあの現場に、派遣清掃員の佐伯美咲が偶然鉢合わせてしまった時は、さすがに肝が冷えた。
だが、その場で美咲まで殺してしまえば、ホテルの部屋から死体を二つ運び出すことになり、警察やホテル側の警備網に引っかかるリスクが跳ね上がる。
だからこそ神代は、美咲に百万円の高級腕時計を握らせ、「窃盗の共犯」という心理的な枷をはめた上で、裏社会の記憶質店『忘却堂』で自発的に記憶を消去させる道を選んだのだ。
「人間の脳から抽出された記憶は、二度と元には戻らない。……これで目撃者は消えた。あとは明日、適当なチンピラを『忘却堂』に送り込んで、二、三十万の端金で質屋の店主から結晶を買い叩いて粉々に砕けば、すべてが完全に闇の中だ」
電話を切り、神代は勝利を確信してグラスを傾けた。
権力と知略を持つ自分にとって、歌舞伎町の地下に巣食う質屋など、都合よく汚物を処理させるための「便利なゴミ箱」に過ぎない――そう高を括っていた。
その時だった。
コン、コン。
深夜にもかかわらず、特別室の扉が静かにノックされた。
神代が眉をひそめてドアを開けると、廊下には誰もいない。ただ、足元の絨毯の上に、封蝋で閉じられた『漆黒の封筒』と、一台の薄型タブレット端末が置かれていた。
「……なんだ、これは? 警備は何をしている」
不審に思いながらも、神代はタブレット端末を拾い上げ、画面をタップした。
瞬間。
画面から青白いホログラムが立ち上がり、神代の目の前に「ある映像」が投影された。
「なっ……!?」
神代の手からウイスキーのグラスが滑り落ち、絨毯の上で砕け散った。
空間に浮かび上がっていたのは、三日前のスイートルームの惨状。
ベッドの下に広がるおびただしい血溜まりと、首を絞められて絶命している女性記者の遺体。
そして何より――バスルームの曇りガラス越しに映り込んだ神代自身の横顔と、背後から美咲の口を塞ぐ神代の左手の薬指に光る『特注のプラチナリングの紋章』が、超高精細な拡大画像として鮮明に抜き出されていたのである。
『……おい、今の現場を誰かに喋ったら、お前の家族ごと消すぞ。いいか、この百万円の時計をやる。お前はすぐさま「忘却堂」へ行って、自分の意思でこの記憶を売って消せ』
タブレットのスピーカーから、自分自身の脅迫音声が一言一句違わずに再生される。
「ば、馬鹿な……! なぜだ!? あの質屋、ただのトラウマ記憶として廃棄するはずではなかったのか……!」
血の気の引いた顔で黒い封筒を破り開けると、中から一枚の重厚なカードが現れた。
『今夜零時、記憶質店「忘却堂」にて、特別映画の上映会および秘密競売を開催する。
出品物:次期総理候補・鷹司議員の第一秘書による殺人および証拠隠滅教唆の完全視覚記憶。
開始価格:一億円。
なお、本招待状は鷹司議員と次期総裁の座を争う政敵各所にも同時に送付されている。――忘却堂店主・黒瀬零』
「ふ、ふざけるなよ……ッ! たかが裏路地の質屋風情が、この俺を強請る気かァッ!!」
神代の顔がどす黒い怒りと焦燥に歪んだ。
時計の針は、午後十一時二十分を指している。零時のオークション開始まで、残り四十分しかない。
「……いいだろう。そこまで死にたいなら、直接出向いてあの結晶を力ずくで奪い取ってやる!」
神代はすぐさま裏社会で雇っている屈強な「掃除屋」二人を呼び出すと、黒塗りのセダンを暴走させ、雨の新宿・歌舞伎町へと向かった。
◇
午後十一時五十分。
ネオンの届かない歌舞伎町の裏路地、雑居ビルの地下一階。
バンッ!!
『忘却堂』と彫られた真鍮のプレートが揺れるほど乱暴に、重厚なオーク材の扉が蹴り開けられた。
チリン――と乾いたベルの音が響く中、肩で息をする神代と、黒いスーツの下に拳銃を忍ばせた二人の巨漢が店内へと雪崩れ込んでくる。
「貴様が店主の黒瀬零かッ!」
神代の怒号が狭い店内に反響した。
しかし、カウンターの奥に立つ青年――黒瀬零は、白い手袋をはめた手で静かにティーカップをソーサーに置くと、感情の温度が一切ない灰色の瞳をゆっくりと神代に向けた。
「いらっしゃいませ、神代第一秘書。上映会の開始時刻まであと十分ですが……随分と熱心なご来場ですね。後ろのお二人は、ボディーガードの方ですか?」
「惚けるなッ! あの清掃員の女から抜いた記憶結晶を今すぐここへ出せ!」
神代はカウンターの前まで歩み寄ると、懐から帯封のついた百万円の札束を三つ取り出し、黒瀬の目の前に叩きつけた。
「三百万円だ。本来ならゴミ同然のトラウマ記憶に、これだけ払ってやると言っているんだ。……言っておくが、俺のバックには次期総理の鷹司先生がついている。ここで大人しく結晶を渡せば、貴様のちっぽけな店と命だけは助けてやる!」
神代が顎で合図すると、背後の巨漢二人が無言で前に進み出て、スーツの懐からサプレッサー(消音器)付きの自動拳銃を抜き放った。
黒く冷たい銃口が、カウンター越しの黒瀬の眉間へとピタリと向けられる。
「もし拒めば……今ここで貴様の脳天に風穴を開け、店ごと火をつけて全てを灰にする。さあ選べ、質屋! 三百万円で生き延びるか、ここでゴミと一緒に焼かれるかだ!」
絶対の暴力を背景に、勝ち誇った笑みを浮かべる神代。
だが――銃口を突きつけられた黒瀬は、瞬き一つしなかった。
「……三百万円、ですか」
黒瀬はカウンターに積まれた三つの札束を一瞥し、心底つまらなさそうにため息をついた。
「神代様。私は質屋ですよ。『三千万円』で仕入れた特級の商品に、その十分の一の値段しかつけられないようでは、あなたの査定眼は三流以下と言わざるを得ませんね」
「なに……? 仕入れ値が、三千万円だと……!?」
神代が目を見開く。
あの薄汚れた派遣清掃員の女に、この店主が三千万円もの大金を払ったというのか。
「な、なぜそんな大金をあの女に払った!? 百円でも喜んで記憶を売ったはずだろうが!」
「ええ、ご本人はそう仰っていましたよ。ですが、彼女が持ち込んだ記憶には、あなたという権力者が犯した『殺人と脅迫の完全な視覚証拠』が刻まれていた。……商品の真の価値に見合った正当な対価を支払うのが、ここ『忘却堂』の流儀なのです」
黒瀬は白い手袋の指先で、カウンターの上に置かれた投影レンズのスイッチを軽く弾いた。
――ピピッ。
空間にホログラムのウィンドウが三つ展開される。
そこに映し出されたのは、顔にモザイク処理が施された三人の人物のシルエットと、『音声接続中』という赤い文字だった。
「……な、なんだこれは!?」
「少しお行儀が悪すぎますよ、神代様。すでに今夜のオークションに参加される『他のお客様』が、オンラインで特等席に着いていらっしゃるというのに」
黒瀬が静かに微笑むと、ホログラムの中央のウィンドウから、低く威厳のある老人の声が響いた。
『――おいおい、鷹司のところの第一秘書じゃないか。随分と野蛮な真似をするものだな。黒瀬君、この無粋な男が今すぐ銃を下ろさないようなら、私が即決で「五億円」で買おう。来月の民自党総裁選の前に、鷹司の首を飛ばすには最高の爆弾だ』
「こ、この声は……党内最大派閥の、剛山幹事長……!? なぜあんたがここに……!」
神代の顔から、一気に血の気が失せた。
さらに右側のウィンドウからは、冷徹な女の声が続く。
『あら、五億円なんてケチなことを言わないでくださいな、幹事長。私ども「東都新報」の特別調査班は、その記憶結晶に「七億円」出しますよ。次期総理候補の秘書による記者殺害なんて、世紀の大スクープですからね』
「ま、待て! やめろ! これは罠だ!!」
パニックに陥った神代が、護衛の男たちに向かって狂ったように叫んだ。
「撃てッ! 今すぐこの店主を撃ち殺して、店内の通信機器と結晶をすべて破壊しろッ!!」
護衛の男が引き金に指をかけた、その刹那。
「――おやめになった方がいい」
黒瀬の灰色の瞳が、絶対零度の光を放った。
黒瀬は自らのベストの胸ポケットから、青く点滅する小型のセンサーを半分だけ覗かせる。
「このセンサーは、私の心拍数と連動しています。もし私が撃たれて心拍が停止するか、店内で火薬の爆発反応が検知された瞬間……海外の秘匿サーバーに保管されている佐伯美咲さんの『記憶データ』が、剛山幹事長や東都新報はもちろん、検察庁および全国のテレビ局へ『無料』で一斉送信されます」
「っ……!!」
護衛の男の指が、引き金の上で凍りついた。
「そして実物の『赤黒い結晶』は、この店内にはありません。オークションの落札額が私の指定口座に着金した瞬間にだけ、ロックが解除される貸金庫に眠っています。……さあ、神代様。私を殺して今すぐ無料で日本中に自分の犯罪をばら撒きますか? それとも、銃をしまってオークションの席に着きますか?」
黒瀬の静かな問いかけに、店内の空気が張り詰める。
力ずくで奪うことも、口を封じることも、すべてこの質屋の店主には最初から計算し尽くされていたのだ。
ボーン、ボーン……。
店の奥にある古い柱時計が、深夜零時を告げる重く低い鐘の音を響かせた。
「……く、くそっ……! 下がれ、お前ら……!」
神代は全身から噴き出す脂汗を拭うこともできず、震える声で護衛に銃を収めさせると、先ほど佐伯美咲が座っていた革張りの椅子へと、崩れ落ちるように腰を下ろした。
「結構。それでは定刻となりましたので、記憶質店『忘却堂』の特別オークションを開始いたします」
黒瀬は懐中時計をパチンと閉じ、震える神代を冷ややかに見下ろした。
「現在、東都新報様より『七億円』の値がついております。……さあ、神代第一秘書。ご自身の命と政治生命を買い戻すお値段は、おいくらになさいますか?」
地下室の冷徹なる査定人を前に、傲慢な権力者がすべてをむしり取られる断罪の夜が、今まさに幕を開けた。
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