第1話:百円のトラウマと、一億円の嘘
雨が降りしきる新宿・歌舞伎町の裏路地。
ネオンの光すら届かない雑居ビルの地下一階に、看板のない一軒の質屋がある。
重厚なオーク材の扉に掲げられた真鍮のプレートには、ただ一言、「忘却堂」とだけ彫られていた。
チリン――。
乾いたベルの音と共に扉が開き、ずぶ濡れの傘を引きずりながら、一人の若い女がよろめくように入ってきた。
年の頃は二十歳前後。安物のコートは泥に汚れ、目の下には濃い隈が張り付いている。
「……あの。ここで『記憶』を買い取ってくれるって、ネットで見たんですけど」
震える声で問いかける女に、カウンターの奥で古い懐中時計を磨いていた店主――黒瀬零は、ゆっくりと顔を上げた。
整いすぎた顔立ちに、感情の温度が一切感じられない灰色の瞳。
黒瀬は白い手袋をはめた手でルーペを外すと、女に穏やかな、しかしどこか冷やりとした笑みを向けた。
「ええ、買い取りますよ。初恋の思い出から、熟練のピアノの技術、あるいは……今夜すぐにでも消し去りたい『最悪のトラウマ』まで。……どうぞ、そちらの椅子にお掛けください」
黒瀬が促すと、女――佐伯美咲は、逃げるように革張りの椅子へと腰を下ろした。
この時代、脳科学と量子記録技術の暴走により、人間の「記憶」は専用の抽出機によって結晶化(メモリ・クリスタル化)し、他人に移植・売買することが可能な「商品」となっていた。
表の市場では富裕層が「東大合格者の暗記記憶」や「一流シェフの味覚経験」を数千万円で買い漁り、ここ「忘却堂」のような裏の質屋には、金に困った人間や、過去に押し潰されそうな人間が夜な夜な足を運んでくる。
「何を売りに来られましたか?」
「……三日前の夜の記憶です。私、派遣で都内の高級ホテルの清掃員をしてるんですけど……その夜、スイートルームの清掃に入った時からの記憶を、全部抜いてほしいんです」
美咲は唇を噛み締め、爪が食い込むほど強く両手を握りしめた。
「どうしてまた? よほど恐ろしい目に遭われたのですか」
「……部屋の中で、人が死んでたんです。血の海の中で、若い女の人が……。私、怖くなってそのまま逃げ出したんですけど、それから一睡もできなくて! 目を閉じるたびに、あの血の匂いと死体の顔が浮かんでくるんです……!」
美咲の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「警察には行けないんです。だって私、その部屋に落ちてた高級腕時計を、出来心でポケットに入れちゃったから……! お兄さん、お願いです。買い取り額なんて百円でも構いません。この記憶を、私の頭から消してください……!」
机に突っ伏して泣きじゃくる美咲を、黒瀬は黙って見下ろしていた。
同情の色はない。ただ、持ち込まれた骨董品の真贋を見極めるような、冷徹な観察者の目だった。
「分かりました。では、まずは『査定』をさせていただきます。……抽出された記憶はあなたの脳から完全に消去され、二度と思い出すことはできません。同意書にサインを」
美咲は震える手で電子パッドにサインを書き殴った。
黒瀬は彼女のこめかみに銀色の端子を装着し、卓上の抽出機のレバーを静かに引き下ろす。
――キィィィン……。
微かな駆動音と共に、美咲の全身がビクリと跳ねた。
数秒後。抽出機のトレイの上に、小指の先ほどの「赤黒い結晶」がコトリと転がり落ちた。
「……あ……れ? 私、なんで泣いてたんだっけ……?」
端子を外された美咲は、憑き物が落ちたようにキョトンと瞬きをした。
記憶が抜けたことで、彼女を苦しめていた恐怖も罪悪感も、きれいさっぱり消え去ったのだ。
「さて、査定結果をお伝えしましょう」
黒瀬はピンセットで赤黒い結晶をつまみ上げ、専用の投影レンズへとセットした。
空間に浮かび上がるホログラム映像。
そこには、美咲の視点から見た「三日前のスイートルーム」の光景が、一ミリの狂いもなく再現されていた。
ベッドの下に広がるおびただしい血溜まり。
首を絞められて絶命している若い女性の遺体。
そして――バスルームの曇りガラスの向こうに映り込んでいた、血のついたワイシャツを着た「一人の男」の横顔。
「……ほう」
黒瀬の灰色の瞳が、わずかに細められた。
映像の隅々、被害者の指先に残された微細な繊維、テーブルの上に置かれたグラスの氷の溶け具合、そしてバスルームの男が左手の薬指にしていた「特注のプラチナリングの紋章」。
黒瀬の脳内で、裏社会の膨大なデータベースと記憶の映像が、瞬時に照合されていく。
(……バスルームの男は、次期総理候補と目される民自党の若きプリンス・鷹司議員の第一秘書、神代だな。そして死んでいる女性は、先週から行方不明になっている週刊誌のフリー記者か)
ただの殺人事件ではない。
しかも、さらに面白い「事実」が映像の最後に映っていた。
美咲は「怖くなって時計を盗んで逃げた」と言っていた。
だが、結晶の中の映像では――美咲が部屋に入った瞬間、バスルームから出てきた神代秘書に背後から口を塞がれ、こう脅迫されていたのだ。
「……おい、今の現場を誰かに喋ったら、お前の家族ごと消すぞ。いいか、この百万円の時計をやる。お前はすぐさま『忘却堂』へ行って、自分の意思でこの記憶を売って消せ。記憶さえ消えれば、お前を殺さずに生かしてやる」
「……ふっ、なるほど」
黒瀬は静かに笑い、投影レンズの電源を切った。
神代秘書は、目撃者である美咲を殺して死体を二つに増やすリスクを嫌い、彼女に「自分が窃盗を犯した」という偽の言い訳を吹き込んで、この「忘却堂」で記憶を抹消させようとしたのだ。
質屋の黒瀬が、ただのゴミ記憶として結晶を廃棄処分することを見越して。
「あの……お兄さん? その記憶、やっぱり気持ち悪くて値段なんてつきませんよね……? 処分費用、払った方がいいですか……?」
何も覚えていない美咲が、不安そうに財布を取り出そうとする。
黒瀬はゆっくりと首を横に振り、カウンターの下から分厚いジュラルミンケースを取り出した。
パチン、と留め金を外し、蓋を開ける。
中にぎっしりと詰まっていたのは、帯封のついた一万円札の束だった。
「え……っ?」
目を丸くする美咲の前へ、黒瀬は札束を三つ――「三千万円」を無造作に積み上げた。
「佐伯美咲さん。あなたが持ち込まれた記憶の査定額は、三千万円です。非課税の現金でお渡しします。……残りの二千七百万円は、あなたが指定する銀行口座へ、ダミーの宝くじ当選金名目で今夜中に振り込みましょう」
「さ、さんぜんまん……!? ちょ、ちょっと待ってください! 私、本当にただの清掃員で、そんな価値のある記憶なんて持ってるはずじゃ……!」
パニックになる美咲に、黒瀬は人差し指を唇に当てて微笑んだ。
「質屋というものはね、お客様が『ゴミ』だと思って持ち込んだガラクタの中から、本物のダイヤを見つけ出すのが仕事なのですよ。……あなたは何も知る必要はありません。そのお金で、明日からは泥のついたコートを捨てて、温かい部屋で暮らしなさい」
黒瀬が領収書を差し出すと、美咲は夢でも見ているかのような顔で、震えながら三千万円の入った紙袋を抱きしめ、深々と頭を下げて店を出て行った。
チリン――。
扉が閉まり、再び静寂が戻った店内で。
黒瀬はピンセットでつまんだ「赤黒い結晶」を、照明の光にかざした。
「……さて。仕入れ値は三千万円か」
黒瀬の唇が、獰猛な弧を描いて釣り上がる。
「次期総理候補のスキャンダルと、殺人教唆の完全な視覚証拠。……これを買い取りたがる政敵や、当の鷹司議員本人にオークションをかければ、最低でも『十億円』の値がつくな」
自分をただの便利なゴミ箱程度に利用しようとした権力者たちの顔を思い浮かべ、黒瀬は静かに黒電話の受話器を取った。
「……もしもし、私だ。今夜、永田町の連中に『極上の映画』の上映会を開いてやろう。招待状の準備をしてくれ」
記憶は嘘をつかない。
どれほど巧妙に隠蔽された完全犯罪であろうと、人が見た「景色」の値段を決めるのは――この地下室の査定人だけなのだから。
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