第23話:盗まれた「奇跡の歌声」と、時計塔が鳴らす子守唄
表参道ヒルズでの四百億円のグローバル調印式が、神楽坂レオンの自白暴走によって崩壊し、その背後にいた『記憶統制局』の第六統制官・ナイトから三つ目の生体暗号キーを奪取してから、五日後の深夜。
新宿・歌舞伎町の裏路地にある記憶質店『忘却堂』の地下室には、今夜も冷たく澄み切った静寂が満ちていた。
カウンターの奥に立つ店主・黒瀬零は、白い手袋をはめた指先で、台座の上で共鳴する四つの記憶結晶――自身の『透明な球体結晶』、ビショップの『紫色の結晶』、ルークの『エメラルドグリーンの結晶』、そしてナイトの『黄金色の結晶』を見つめていた。
空間に投影されたホログラムの中心には、十年前の夏、双子の兄・黒瀬一によって『神の記憶結晶』の核とされ、現在も直轄施設【時計塔】の最深部で冷凍睡眠状態にある少女――天宮詩織の儚げな横顔が浮かび上がっている。
「……時計塔。東京のどこかにあるはずのその施設の正確な座標は、まだ四つの結晶だけでは特定できない、か」
黒瀬の感情の温度がない灰色の瞳が、ホログラムに浮かび上がった『四つ目の紋章』を捉えた。
それは、七人の特級統制官の一角――日本のメディア・芸能界および巨大音響インフラを裏から支配する『第七統制官:コードネーム・ポーン』の刻印だった。
その時。
チリン――。
店の入り口のベルが静かに鳴り、重厚なオーク材の扉がゆっくりと開かれた。
冷たい夜風と共に店内へと足を踏み入れてきたのは、首元に厚手のマフラーを幾重にも巻きつけ、手にした小型の筆談用タブレットを胸に抱えた、一人の若い女性だった。
年齢は二十歳前後。
大きな瞳をした可憐な顔立ちをしているが、その唇は固く閉じられ、どこか怯えたように視線を伏せている。
「……いらっしゃいませ。記憶の質入れですか、それとも売却ですか?」
黒瀬はホログラムを消し、氷のように穏やかな笑みで彼女を迎え入れた。
女性は革張りの椅子に腰を下ろすと、声を発する代わりに、手元のタブレットに震える指で文字を打ち込み、黒瀬へと見せた。
『売却です。買い取り額は百円でも構いません。私の頭の中に残っている、十年前の夏に聴いた「ある少女が口ずさんでいた子守唄の記憶」を……今すぐ抜き取って消してほしいのです』
「筆談、ですか。喉を痛めておられるのですか?」
黒瀬が静かに問いかけると、女性は首を横に振り、再びタブレットに文字を綴った。
『私の名前は、星野カナタといいます。一ヶ月前までは、インディーズで活動するシンガーソングライターをしていました。……私の「声」と「歌唱の記憶」はすべて、あの【天音ルカ】に奪われたのです』
天音ルカといえば、大手芸能プロダクション『ステラ・エンターテインメント』が擁する十九歳の国民的歌姫である。
聴く者の涙腺と自律神経を直接揺さぶる『奇跡のファルセット(倍音)』を武器に世界中のチャートを席巻し、来週には新国立競技場に八万人の観客を集め、全世界へ同時有料配信される【総興行収入・六百億円のワールド・ドームツアー最終公演】を控えている時代の寵児だ。
『一ヶ月前、私の弟が交通事故に遭い、クロノス・メディカルの救急病院へ運ばれました。脊髄損傷で一生歩けなくなるかもしれないと言われ、特殊な神経再生手術に二億円が必要だと告げられたのです。……そこに現れたのが、ステラ社の社長と天音ルカでした』
カナタが打ち込む文字には、血を吐くような悔しさと絶望が滲んでいた。
『ルカは私にこう言いました。「あなたの弟の手術代二億円は私が払ってあげる。その代わり、あなたが生まれつき持っている【一万分の一の超倍音(1/fゆらぎと超高周波の複合発声)】の運動記憶と、あなたが作った未発表のバラード曲の記憶をすべて結晶化して私に譲りなさい」と』
弟の足を治すため、カナタは涙を呑んで契約書にサインした。
記憶を抜かれた翌日から、カナタの脳は声帯を震わせる神経命令の出し方を完全に忘れ去り、かすれた吐息しか出せない【完全失声症】になってしまった。
一方、彼女の声帯制御記憶を脳に移植した天音ルカは、カナタが作った曲を『時計塔のアリア』と名付けて発表し、六百億円のドームツアーの目玉に据えたのである。
『声が出なくなったことは、弟が歩けるようになったから我慢できます。でも……歌の記憶は全部抜かれたはずなのに、十年前、私が十歳だった夏の日、新宿の地下道で迷子になって泣いていた私に、白いワンピースのお姉さんが頭を撫でながら歌ってくれた「優しい子守唄の記憶」だけが頭に残っているんです』
カナタの大きな瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ち、タブレットの画面を濡らした。
『目を閉じるたび、頭の中であの美しい子守唄のメロディが響くのに、今の私の喉からはヒュウヒュウという空気の音しか出ません……! 歌いたくても歌えない苦しみで、胸が張り裂けそうなんです! お願いです、この最後の子守唄の記憶を消して、私から「歌」というものを完全に忘れさせてください……!』
カウンターに突っ伏して声のない嗚咽を漏らすカナタを、黒瀬は一切の同情を交えない冷徹な鑑定人の目で見下ろしていた。
しかし、彼女のタブレットに記された『十年前の夏、新宿の地下道で白いワンピースの少女が歌ってくれた子守唄』という文字を見た瞬間、黒瀬の灰色の瞳が鋭い光を放った。
(十年前の新宿、白いワンピースの少女……。間違いなく、天宮詩織だ!)
「承知いたしました、星野カナタ様。では、まずはその『十年前の子守唄の記憶』を抽出・査定させていただきます。……同意書にサインを」
カナタが電子パッドにサインを書き込むと、黒瀬は彼女のこめかみに銀色の端子を装着し、卓上の抽出機のレバーを静かに引き下ろした。
――キィィィン……。
微かな駆動音と共に、抽出機のトレイの上に、澄み切った水晶の中に金色の音符が浮かぶような『琥珀金の記憶結晶』がコトリと転がり落ちた。
カナタがキョトンと瞬きをする前で、黒瀬はピンセットで『琥珀金の結晶』をつまみ上げ、専用の超高精細投影レンズおよび音響ソナー解析機へとセットした。
空間に浮かび上がるホログラム映像と、美しい音波のさざ波。
そこには、十年前の夏――新宿駅の薄暗い地下連絡通路の隅で、膝を抱えて泣いていた十歳のカナタ少女の前にしゃがみ込む、白いワンピース姿の黒髪の少女――【天宮詩織】の優しい笑顔が、正面から鮮明に映し出されていた。
『――大丈夫よ、泣かないで。お姉ちゃんが、怖い夢が飛んでいく魔法の歌を歌ってあげるね』
映像の中の詩織が、カナタの頭を撫でながら、透き通るようなハミングで静かな子守唄を口ずさむ。
その歌声を音響ソナーで解析した黒瀬の灰色の瞳が、驚愕に細められた。
「……この子守唄の倍音構造、そして背後に混じっている規則正しい機械音の反響は……!」
詩織が口ずさんでいた子守唄は、単なる童謡ではなかった。
第11話で白川詩音が暗記していた『三万人記憶消去パルス』の破壊音波から、目の前の幼いカナタの脳を守るために、詩織自身が自らの声で即興で編み出した【脳神経保護用の聖なる中和アリア】だったのだ。
しかも――その記憶映像の背景音には、直前まで詩織が監禁されていたと思しき『巨大な歯車と振り子が駆動する地下時計塔の環境音』が、十歳のカナタの超感覚的な聴覚と声帯共鳴によって、一ヘルツの狂いもなく録音されていたのである。
「……なるほど。地下の水脈と地下鉄の振動音、そして大時計の低周波……。この反響データを逆算すれば、天宮詩織が眠る『時計塔』の正確な地下座標が割り出せる!」
黒瀬は解析データを保存すると、目の前のカナタに向かって、確信に満ちた穏やかな笑みを向けた。
「星野カナタ様。あなたが『百円でいいから消してほしい』と仰ったこの子守唄の記憶……これこそが、十年前にあなたを救った少女の魂の記録であり、同時に、あなたから声を奪った天音ルカを六百億円のステージから引きずり下ろすための【究極の共鳴爆弾】です」
カナタが驚いて目を見開き、タブレットに『どういうことですか?』と打ち込む。
「まず、あなたの声帯や喉の筋肉は一切傷ついていません。天音ルカがあなたの記憶を抜いた際、脳の言語野(ブローカ野)にある『発声トリガー回路』を切り離しただけです。……そして、天音ルカと、彼女の背後にいる記憶統制局の『第七統制官』がなぜあなたの声を奪ったのか。彼らは、あなたがこの十年前の子守唄をベースに作った『時計塔のアリア』の中に、八万人の聴衆の脳波を強制的に同調させて一斉に洗脳する【集団催眠の周波数】が秘められていることに気づき、それをドームツアーで利用するために強奪したのです」
カナタの顔が、激しい怒りとショックで青ざめた。
「ええ。ですが、天音ルカは致命的な査定ミスを犯しました」
黒瀬は白い手袋の指先で、ホログラムの中の声帯振動データを指し示した。
「あなたが持つ『一万分の一の超倍音』は、通常の人間の声帯では数十秒で粘膜が摩擦熱で焼き切れてしまうほどの高周波振動を伴います。本来のあなたは、十歳の時にこの『少女の子守唄』を真似して口ずさんだ際に身につけた【特殊な腹式呼吸と声帯の脱力制御(ゼロ・テンション発声法)】を安全弁としていたからこそ、喉を壊さずに歌うことができていました」
黒瀬の唇が、氷のように冷酷で美しい弧を描いて釣り上がった。
「しかし、天音ルカはこの十歳の『子守唄のゴミ記憶(安全弁)』をあなたの脳に置き去りにしたまま、あなたの歌唱記憶だけを自分の脳と喉に移植しました。これまでのテレビ収録やMVは、すべて事前に録音した音源を流す【口パク(リップシンク)】で誤魔化していましたが……来週の新国立競技場での六百億円の最終公演では、世界配信の規約上、生歌で披露しなければなりません。……もしそのステージのマイクの返し(イヤモニ)に、ある特殊な周波数を混ぜてやればどうなると思いますか?」
カナタがゴクリと息を呑む。
「彼女の脳内の記憶データは暴走し、安全弁のない喉で限界を超えた超高周波を無理やり発声しようとして、一曲目のサビの途中で【声帯が完全に不全麻痺】を起こします。さらに、パニックになった彼女がマイクの前で喘げば、彼女が裏で掛けていた『違法記憶移植の音声補正エフェクト』がハウリングを起こし、彼女本来のガラガラ声と、過去の口パクおよび暴力事件の隠し録音データが八万人の観客の目の前で大音量で再生されることになるでしょう」
黒瀬はカウンターの下から重厚なジュラルミンケースを取り出し、パチンと留め金を外して蓋を開けた。
そこには、帯封のついた一万円札の束が眩いばかりにぎっしりと敷き詰められていた。
「星野カナタ様。あなたがゴミ同然だと思って手放そうとしたその十年前の子守唄の記憶ですが……当店の最重要座標データ、および偽りの歌姫から六百億円のステージとあなたの『本当の声』を取り戻すための特級チケットとして、査定額は【五億円】となります」
目を丸くして震えるカナタの前へ、黒瀬は『琥珀金の記憶結晶』をそっと差し出した。
「この五億円を受け取って、弟さんと共に声のない世界で静かに暮らされるのも自由です。……ですが、もし私からこの記憶を【一円】で買い戻し、来週の新国立競技場のステージで、天音ルカという泥棒からマイクを奪い返す共犯者になってくださるのなら、大歓迎いたしますが」
カナタは涙を拭い、迷うことなくマフラーのポケットから財布を取り出すと、一枚の「一円玉」をつまみ上げ、カウンターの上へと力強く叩きつけた。
そしてタブレットに、太く力強い文字でこう書き記した。
『あの日、私を救ってくれたお姉さんの優しい歌を、洗脳の道具なんかには絶対させません! 黒瀬さん、私にその記憶を買い戻させてください! 私の本当の声で、あの偽物の歌姫をステージから叩き落としてやります!』
「――契約成立です」
黒瀬は白い手袋の指先で一円玉を回収し、静かに微笑んだ。
「では、来週の六百億円のドームツアー最終公演に向けて、最高の『音響セッティング』を始めましょうか。他人の喉を盗んで歌姫を気取る哀れなカラスに、八万人の前で声を失う絶望のアンコールをプレゼントして差し上げましょう」
新宿の地下室に響く、十年前の一人の少女が歌った子守唄。
ついに『時計塔』の座標の糸口を掴み、四人目の特級統制官・ポーンをロックオンした冷徹なる査定人の、六百億円のライブ処刑劇が幕を開けた。
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