第22話:四百億円の自白フェロモンと、暴かれた少女の名前
独立系調香師・香坂湊が記憶質店『忘却堂』を訪れてから六日後の金曜日。
東京・表参道ヒルズの吹き抜けを貸し切った巨大特設ステージは、パリ本社の重役や世界中のファッション誌の編集長、セレブリティ、そして無数の報道陣の熱気に包まれていた。
『シャルル・グループ主催――究極のフレグランス「エデン(楽園の吐息)」四百億円グローバル・ライセンス調印式およびワールド・発表会』。
ステージ中央のクリスタル製の台座には、黄金色の液体が満たされた特大の香水ボトルが鎮座しており、その横では、純白のシルクのタキシードに身を包んだ『香りの魔術師』こと神楽坂レオンが、恍惚とした笑みを浮かべて両手を広げていた。
「皆様、ようこそ楽園の入り口へ。私、神楽坂レオンが天才的嗅覚のすべてを注ぎ込んで完成させたこの『エデン・完全版』は、一嗅ぎしただけで人間の脳からあらゆるストレスとトラウマを消し去る、まさに神の雫です!」
会場から割れんばかりの拍手が沸き起こる。
神楽坂はステージ上のマイクの前で優雅に一礼しながら、内心で下卑た笑みを浮かべた。
(ハッ、馬鹿なセレブどもめ。この香水が、二ヶ月前に香坂湊の妹の肺にクロノス社製のナノ毒素を盛って倒れさせ、三億円のはした金で買い叩いた『超域嗅覚と調香記憶』で作られたものだとも知らずにな! あいつは今頃、鼻の利かないゴミになって路地裏で泣いているだろうが、その処方箋は俺に四百億円をもたらす金のなる木になったぜ!)
そして神楽坂は、会場最上階のVIPラウンジ――スモークガラスの向こうで調印式を見下ろしている一人の人物へと密かに視線を送った。
そこに座っているのは、白銀の騎士の仮面で顔を覆った冷酷な女。
国家機関『記憶統制局』の最高幹部の一角であり、世界の製薬・化粧品コングロマリットを裏から支配する『第六統制官:コードネーム・ナイト』であった。
(ナイト様との密約通り、この『エデン』を世界中の王族やVIPに流行らせれば、中に仕込まれた記憶暗示触媒によって、世界中の権力者の脳をいつでも統制局の思い通りに洗脳できるようになる。俺はその功績で、シャルル・グループの全世界総裁の座を手に入れるんだ!)
神楽坂は調印書のサインペンを手に取り、さらに台座の上の『エデン・完全版』のアトマイザー(噴霧器)を掴むと、デモンストレーションとして自らの首筋と胸元へ、たっぷりと十プッシュ以上も吹きかけた。
「さあ、まずは私自身がこの至高の香りを纏いましょう! 十五分後、この香りがトップノートからミドルノートへと変化する時、会場の皆様も真の楽園を体験することになります!」
だが――自信満々に微笑む神楽坂は気づいていなかった。
ステージ真下の最前列、フランス本社の特別監査役席に、漆黒のスーツに白い手袋をはめた『忘却堂』の店主・黒瀬零と、その隣で医療用マスクを外した本来の天才調香師・香坂湊が静かに腰掛けていることに。
「……黒瀬さん。神楽坂の奴、いま自分の首筋に大量の『エデン』を吹きかけました。しかも、会場全体の空調ダクトからも香りを拡散させようとしています」
すでに黒瀬の手によって『超域嗅覚と調香記憶の原本結晶(前夜にシャルル社の極秘ラボから回収済み)』と『十七歳の少女の香りの記憶』をすべて脳へと戻された湊が、鋭い眼差しでステージを見上げた。
「ご安心ください、香坂様。会場の空調ダクトには、先ほど私が『あなた本来の基準キー(月下氷美人の天然鏡像異性体)』を用いた中和フィルターをセットしておきましたので、客席の皆様には無害で美しい花の香りしか届きません」
黒瀬は感情の温度がない灰色の瞳でステージを見据え、懐の銀色の懐中時計をパチンと開いた。
「ですが、ステージ上で直接原液を浴び、さらに頭上のハロゲンライトの熱で体温が上昇している神楽坂レオンただ一人には……ちょうど今、空気に触れてから十五分が経過し、分子構造が反転(ラセミ化)した【悪魔の自白フェロモン】が牙を剥きますよ」
時計の秒針が、十五分を刻んだ――まさにその瞬間だった。
「――さあ、フランス本社の会長、四百億円のライセンス契約書にサインを……ん?あれ……?」
調印テーブルの前でペンを走らせようとしていた神楽坂の手が、ピタリと止まった。
神楽坂の首筋から立ち昇っていた甘美な香りが、スポットライトの熱と汗の成分に反応し、突如として脳の理性中枢(前頭前野)のブレーキを完全に破壊する『神経暴走ガス』へと変貌したのだ。
ドクンッ、ドクンッ!!
神楽坂の視界が真っ赤に染まり、激しい動悸と共に、脳の奥底で必死に抑え込んでいた「絶対に口にしてはならない罪悪感と秘密」が、マグマのように喉元へとせり上がってきた。
「な、なんだこれ……!? 頭が熱い……口が、口が勝手に動くぞ……っ!?」
『ムッシュ・カグラザカ? どうされましたか?』
フランス本社の会長が怪訝そうに覗き込んだ、その刹那。
神楽坂は自らの両手でマイクを鷲掴みにすると、世界中の生中継カメラに向かって、引きつった満面の笑みで絶叫したのである。
「――ハハハハハッ!! サインしろよ早く、フランスのおっさんども!! この香水『エデン』はな、俺が作ったんじゃねえ!! 二ヶ月前に香坂湊の妹の点滴にクロノス社の毒を混ぜて呼吸不全にし、三億円で脅し取った『盗作の記憶』で作った偽物なんだよォォォッ!!」
「「「な、なんだってえええええええっ!!?」」」
静まり返っていた表参道ヒルズの会場が、一瞬にしてパニックとどよめきの渦へと叩き込まれた。
(え!? な、何を言ってるんだ俺は!? やめろ、止まれ、なぜ俺の口が勝手に秘密を喋りまくってるんだあああっ!?)
神楽坂本人の意識は恐怖で凍りついているのに、ラセミ化した『エデン』の神経毒によって前頭葉の抑制回路が完全に麻痺しているため、脳内の記憶が洗いざらい声帯を通じて噴き出していく。
「それだけじゃねえぞォッ!! 俺は三年前、自分の無能さを隠すために、当時のチーフ調香師だった先輩を薬品タンクに突き落として事故死に見せかけて殺したんだ!! しかもこの『エデン』には、記憶統制局の第六統制官・ナイト様から預かった【違法な脳神経洗脳ウイルス】が混ぜてある!! これをつけた世界中のセレブや政治家を全員ロボットにして、四百億円どころか世界中から金を巻き上げてやる計画なんだよォォォッ!!」
パニックになって自分の手で自分の口を塞ごうとする神楽坂だが、指先すら痙攣して言うことを聞かない。
そこへ、最前列から立ち上がった黒瀬零と香坂湊が、静かな足取りでステージの上へと歩み出た。
「――見事な『ラストノート(最後の香り)』ですね、神楽坂レオン様」
黒瀬の氷のように冷徹な声が、会場のスピーカーを通じて響き渡る。
「き、貴様……誰だ!? それに香坂湊!? う、うわあああっ、口が止まらん、助けてくれえええっ!!」
「止まるはずがありませんよ。あなたは香坂様から調香の記憶を奪った際、彼の超域嗅覚の基準点であった『十年前の少女の香りの記憶』をゴミとして抜き忘れました。……基準を失ったあなたの脳が調合したその香水は、開始から十五分後に分子構造が反転し、使用者自身の理性中枢を破壊してすべての罪を自白させる【特製の自白剤】へと変わったのです」
黒瀬が白い手袋の指先でタブレットを操作すると、会場の巨大スクリーンに、シャルル社日本支社の極秘サーバーから回収した『妹への毒物混入指示書』『三年前の先輩殺害の防犯カメラデータ』、そして『違法洗脳触媒の成分分析表』がデカデカと映し出された。
そして神楽坂の前に立った香坂湊が、ポケットから取り出した『本物の月下氷美人のエッセンス(中和剤)』を、床に転がる神楽坂の顔面へと一吹き浴びせかけた。
「……神楽坂。香りは人の心を救うためにあるんだ。人の命や記憶を弄ぶお前には、一生、豚小屋の悪臭でも嗅いでいるのがお似合いだよ」
湊の中和剤を浴びてようやく自白の暴走が止まった神楽坂だったが、同時に、前夜のうちに黒瀬が仕掛けていた記憶定着解除の反動により、脳内からすべての『香りの記憶』が音を立てて崩壊していった。
「あ……あれ……? 匂いが……自分の香水の匂いすら、全くしねえ……!? いやだ、鼻が、俺の鼻がバカになったあああああっ!!」
「カグラザカ!! 貴様、我がシャルル・グループの伝統を汚し、違法な洗脳毒で世界中の顧客を騙そうとしたのか!! 四百億円の契約は即時破棄、さらにブランド毀損の損害賠償として貴様の全資産を差し押さえる!!」
フランス本社の会長が激昂して叫び、ステージ袖からなだれ込んできた警視庁捜査一課と麻薬取締部の捜査官たちが、泡を吹いて泣き叫ぶ神楽坂に手錠を打ち込んだ。
◇
一方、その頃。
会場最上階のVIPラウンジでは、すでに黒瀬零によって退路を完全に断たれた『第六統制官:コードネーム・ナイト』が、床に膝をついて荒い息を吐いていた。
神楽坂がステージへ上がる五分前、黒瀬は空調ダクトを通じてラウンジへ『少女の香りを応用した特殊神経麻痺フレグランス』を送り込み、ナイトと護衛たちの運動神経を完全にロックしていたのである。
「……くっ、黒瀬零……! ビショップとルークに続き、私の『ナイト』の鍵まで奪うつもりか……!」
白銀の騎士の仮面を剥ぎ取られた女――厚生労働省の薬務局最高審議官でもある美貌の女官僚のこめかみに、黒瀬は携帯用抽出機の端子を冷徹に装着した。
「ええ。あなたが管理しておられる三つ目の生体暗号キーと、シャルル社の裏工作資金【四十億円】を、当店の査定手数料として回収させていただきます。……そしてナイト様、あなたの脳には、十年前に私の兄・黒瀬一が『アカシック・コア』の核として利用した【あの黒髪の少女の名前】が記録されていますね?」
「なっ……!? ま、待て、それだけは第一統制官の直轄機密だ! もしそれを抜けば、私の脳は――あ、あああああああっ!!」
――キィィィン……。
黒瀬が容赦なくレバーを引き下ろすと、ナイトの脳から、眩い黄金色の輝きを放つ『第六統制官の生体暗号キー結晶』がコトリと抽出された。
◇
その夜、新宿・歌舞伎町の裏路地。
記憶質店『忘却堂』の地下室に戻った黒瀬零は、コレクションルームの台座の上に、自身の『透明な球体結晶』、ビショップの『紫色の結晶』、ルークの『エメラルドグリーンの結晶』、そして今夜手に入れたナイトの『黄金色の結晶』を並べた。
「……香坂湊様には、神楽坂から差し押さえた【十五億円】の賠償金をお渡しし、妹さんも無事に退院された、と。当店の純利益は四十億円ですか」
四つの結晶が共鳴し、空間に浮かび上がったホログラムの封印が、音を立てて次々と解除されていく。
そして――そこにはついに、十年前、新宿の裏路地を白いワンピース姿で走り、「零くん、早く逃げて!」と振り返ったあの少女の【素顔】と【名前】が、鮮明な映像として映し出されたのである。
少女の顔は、透き通るような白い肌に、どこか儚げで凛とした、黒瀬零が心の奥底でずっと探し求めていた面影そのものだった。
そして、ファイルに刻まれていた少女の名前は――
『被験体コード:EVE――本名:天宮詩織』
『現況:十年前、脳内の全記憶を「神の記憶結晶」へと変換された後、肉体は生存したまま、記憶統制局・第一統制官(黒瀬一)の直轄施設【時計塔】の最深部にて冷凍睡眠状態で保管中』
「……天宮、詩織。そして彼女は、まだ生きている……!!」
黒瀬零の白い手袋をはめた手が、微かに、しかし強く握りしめられた。
感情の温度が一切なかった灰色の瞳の奥に、かつてないほど激しい、絶対零度の蒼い炎が燃え上がる。
「七人の特級統制官のうち、三人が陥落し、残る鍵はあと四つ。……待っていてください、詩織さん。兄さんがどれほど強固な檻にあなたを閉じ込めていようと、この質屋が必ず、あなたの記憶と命をすべて買い戻しに行きます」
チリン――。
十年前の少女の生存と名前が判明し、物語が最大の核心へと加速する中、地下室の扉のベルが再び静かに鳴り響いた。冷徹なる査定人の戦いは、残る四人の統制官を狩り尽くす、さらなる激闘の幕を開けようとしていた。
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