第21話:盗まれた「奇跡の香り」と、空白の少女の残り香
六本木の国立新美術館で開催された五百億円の国際美術オークションが、一条院蓮の過去の殺人記憶の露呈によって大崩壊し、その背後にいた『記憶統制局』の第四統制官・ルークから二つ目の生体暗号キーを奪取してから、四日後の深夜。
新宿・歌舞伎町の裏路地にある記憶質店『忘却堂』の地下室には、雨音に混じって静かな時計の秒針の音だけが響いていた。
カウンターの奥に立つ店主・黒瀬零は、白い手袋をはめた指先で、台座の上で共鳴する三つの記憶結晶――自身の『透明な球体結晶』、ビショップの『紫色の結晶』、そしてルークの『エメラルドグリーンの結晶』が描き出すホログラム映像をじっと見つめていた。
『――やめろ、一! 彼女を「神の記憶結晶」の生贄にする気か!?』
十年前の夏、新宿の三万人から記憶が消去されたあの日。
まだ二十歳前後だった黒瀬零が、双子の兄である第一統制官・黒瀬一に向かって叫んでいた記憶の断片。
「……十年前のあの日、兄さんが『アカシック・コア』の核として脳の記憶構造を利用した一人の少女。私が命懸けで守ろうとしていた彼女の名前と顔だけが、まだ暗号ロックの奥に隠されている、か」
黒瀬の感情の温度がない灰色の瞳が、ホログラムに浮かび上がった『三つ目の紋章』を捉えた。
それは、七人の特級統制官の一角――世界の製薬・化粧品コングロマリットと化学プラントを裏から支配する『第六統制官:コードネーム・ナイト』の刻印だった。
その時。
チリン――。
店の入り口のベルが静かに鳴り、重厚なオーク材の扉がゆっくりと開かれた。
店内へと足を踏み入れてきたのは、洗いざらしの白いラボコート(研究衣)を着て、鼻と口元を分厚い医療用防塵マスクで覆った、一人の細身の青年だった。
年齢は二十代後半ほどだろうか。
整った目元をしているが、その瞳には深い虚無感が漂い、白衣のポケットからは空になった点鼻薬のボトルがいくつも覗いている。
「……いらっしゃいませ。記憶の質入れですか、それとも売却ですか?」
黒瀬はホログラムを消し、氷のように穏やかな笑みで青年を迎え入れた。
「……売却です。買い取り額なんて百円でも構いません。ただ……僕の頭の中に一つだけ残っている、『十年前の夏、雨上がりの路地裏で嗅いだ白い花の香りの記憶』を……今すぐ抜き取って消してほしいんです」
青年は革張りの椅子に腰を下ろし、マスクの上から自らの鼻筋を痛ましげに押さえた。
「お名前と、その記憶を手放されたい理由をお伺いしても?」
「……香坂といいます。香坂湊。二ヶ月前までは、グラース(香水の本場フランス)と東京にラボを持つ独立系の調香師をしていました」
湊は自嘲するように細く息を吐いた。
「二ヶ月前、世界の化粧品・フレグランス市場を独占する巨大企業『シャルル・グループ』の日本支社長であり、いま世界中のセレブから『香りの魔術師』ともてはやされている【神楽坂レオン】が、僕のラボを訪ねてきたんです」
神楽坂レオンといえば、先月発表した究極のフレグランス『エデン(楽園の吐息)』が、嗅いだ瞬間にあらゆるストレスとトラウマを消し去る「奇跡の香水」として世界中で爆発的なブームを巻き起こし、来週にはパリと東京を結ぶ【四百億円のグローバル・ライセンス調印式】を控えている業界のカリスマである。
「その直前、僕の妹が原因不明の劇症型アレルギー性肺水腫で倒れ、クロノス・メディカルの無菌病棟へ運び込まれました。主治医からは『特殊なナノ人工肺の移植と継続治療に三億円かかる』と告げられて……。途方に暮れていた僕に、神楽坂はこう言ったんです。『君の妹さんの治療費三億円は僕が全額払おう。その代わり、君が生まれつき持っている【超域嗅覚】の記憶データと、これまで調合したすべての香料の配合記憶を結晶化して、僕に譲ってくれ』と」
常人の数万倍、犬すらも凌駕する分子識別能力を持つ『超域嗅覚』。
湊は一滴の香水の中に含まれる数千種類の芳香分子の構造式を、鼻で嗅ぐだけで一ミリグラム単位まで完全に分解・記憶できる希代の天才調香師だったのだ。
「僕は妹の命を救うために、自分の『嗅覚の記憶』と『調香の技術』をすべて神楽坂に売り渡しました。……記憶を抜かれた翌日から、僕の鼻はコーヒーの匂いも、花の香りも、焦げた煙の匂いすら全く分からない【完全無嗅覚症】になってしまいました」
湊の瞳から、透明な涙が一筋こぼれ落ちた。
「神楽坂は僕から奪った記憶を使って、僕が一番大切にしていた未発表の処方箋を『エデン』として発表し、四百億円を手に入れようとしています。……でも、僕が今夜消してほしいのは、神楽坂が『子供の頃の雑多な匂いの記憶なんてゴミだ』と抜き取らずに放置していった、たった一つの記憶なんです」
「それが、十年前の白い花の香りの記憶、ですか」
「はい……。十年前、僕が十七歳だった夏の日、新宿の裏路地で雨宿りをしていた時に、僕の横を駆け抜けていった『一人の少女』から漂った、見たこともない白い花の香りの記憶です。今の僕の鼻は、現実のどんな匂いも全く感じないのに……目を閉じるたび、頭の中であの日の『胸が締め付けられるほど甘く切ない白い花の香り』だけが鮮明に蘇ってくるんです……! 二度と香りを作れない体になったのに、あの幻の香りだけが頭の中で香っているのが辛くて、息ができなくなるんです! お願いです、この最後の香りの記憶を消してください……!」
カウンターに突っ伏して肩を震わせる湊を、黒瀬は一切の感情を交えない冷徹な鑑定人の目で見下ろしていた。
しかし、湊の口から『十年前の夏、新宿の裏路地を駆け抜けていった一人の少女』という言葉が出た瞬間、黒瀬の灰色の瞳の奥に、かつてないほど鋭い閃光が走った。
(十年前の新宿……あの日、私の兄・黒瀬一から逃げるように裏路地を走っていた『あの少女』か……!?)
「承知いたしました、香坂湊様。では、まずはその『十年前の白い花の香りの記憶』を抽出・査定させていただきます。……同意書にサインを」
湊が震える手で電子パッドにサインを書き込むと、黒瀬は彼のこめかみに銀色の端子を装着し、卓上の抽出機のレバーを静かに引き下ろした。
――キィィィン……。
微かな駆動音と共に、抽出機のトレイの上に、真珠のような淡い乳白色の輝きを放つ『白銀色の記憶結晶』がコトリと転がり落ちた。
「……あ……れ? 頭の中の香りが、消えてる……」
記憶が抜けて呆然とする湊の前で、黒瀬はピンセットで『白銀色の結晶』をつまみ上げ、専用の超高精細投影レンズおよび嗅覚分子アナライザーへとセットした。
空間に浮かび上がるホログラム映像と、立体的な分子構造式。
そこには、十年前の夏――新宿の路地裏で、ずぶ濡れになりながら誰かに追われて走っていた、白いワンピース姿の『黒髪の少女』の後ろ姿が映し出されていた。
そしてその少女が、自分の後ろを追いかけてきていた一人の青年(二十歳前後の黒瀬零)に向かって振り返り、「零くん、早く逃げて!」と叫んだ瞬間、彼女の長い黒髪からふわりと漂った『芳香分子の完全な化学構造データ』が、湊の超域嗅覚によって一分子の狂いもなく記録されていたのである。
「……この分子構造は……!」
黒瀬の灰色の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
少女から漂っていたのは、ただの花の香りではなかった。
人間の脳の海馬と扁桃体に直接作用し、失われた記憶の神経結合を保護・再生させる伝説の希少植物『月下氷美人』の天然アルカロイドと、少女自身の固有フェロモンが結合した、【神の記憶結晶の生体認証キーそのものとなる香り】だったのだ。
「……なるほど。そういうカラクリでしたか」
黒瀬は分子アナライザーの解析データを拡大し、静かに、しかし絶対の確信に満ちた笑みを浮かべた。
「香坂様。あなたが『ただの白い花の香り』だと思っていたこの記憶……これこそが、十年前の新宿の事件の核心である『少女』の生存証明であり、同時に、あなたからすべてを奪った神楽坂レオンを奈落の底へ突き落とすための【究極の劇薬】です」
「え……? どういうことですか、店主さん……」
「まず、あなたの鼻の嗅覚受容体は壊れていません。神楽坂があなたの記憶を抜いた際、脳の嗅球にある『芳香デコード回路』を切り離しただけです。……そして、神楽坂レオンと、彼の背後にいる記憶統制局の『第六統制官』がなぜあなたの記憶を奪ったのか。彼らは、あなたがこの十年前の少女の香り(月下氷美人の分子構造)を再現しようとして作り上げた香水『エデン』の中に、人間の脳を無防備に開かせる【記憶暗示(洗脳)の触媒成分】が含まれていることに気づき、それを世界中のVIPにばら撒くために強奪したのです」
「なっ……!? じゃあ、神楽坂は僕の香水を、世界中の人を洗脳するための道具に……!?」
「ええ。ですが、神楽坂レオンは致命的な査定ミスを犯しました」
黒瀬は白い手袋の指先で、ホログラムの中の分子構造式を指し示した。
「あなたが調合した『エデン』のベースノートには、クロノス・メディカル社が開発した揮発性の神経伝達物質が使われています。本来のあなたは、この十七歳の時に嗅いだ『少女の天然フェロモンの記憶(キラル分子の鏡像異性体バランス)』を基準にして、その神経物質が【多幸感と癒やし】になるよう一千万分の一グラムの精度で中和・調合していました」
黒瀬の唇が、氷のように冷酷で美しい弧を描いて釣り上がった。
「しかし、神楽坂はこの十七歳の『基準の香りの記憶』をゴミとしてあなたの脳に置き去りにしたまま、あなたの調香記憶だけを自分の脳に移植し、来週の四百億円の調印式で披露する『エデン・完全版』を大量生産しました。……基準キーを持たない彼の脳が調合したその香水は、空気に触れてから十五分後に、分子構造が反転(ラセミ化)を起こします」
「ぶ、分子構造が反転したら、どうなるんですか……!?」
「癒やしの香水から、脳の理性中枢(前頭前野)のブレーキを完全に麻痺させ、人間が心の奥底に隠している【最も醜悪な秘密と恐怖を、大声で叫ばずにはいられなくなる自白ガス(悪魔のフェロモン)】へと変貌します。……もし来週の調印式のステージで、神楽坂自身がその香水を全身に纏ってスポットライトの熱を浴びれば、彼は世界中のカメラの前で自ら脳を暴走させ、自白と狂乱の果てに破滅することになるでしょう」
「っ……!!」
黒瀬はカウンターの下から重厚なジュラルミンケースを取り出し、パチンと留め金を外して蓋を開けた。
そこには、帯封のついた一万円札の束が眩いばかりにぎっしりと敷き詰められていた。
「香坂湊様。あなたが『百円でいいから消してほしい』と仰ったその十年前の少女の香りの記憶ですが……私の失われた過去を解く最重要の手がかり、および偽りの魔術師から四百億円の契約とあなたの嗅覚を取り戻すための特級触媒として、当店の査定額は【五億円】となります」
「ご、五億円……!?」
息を呑む湊の前へ、黒瀬は『白銀色の記憶結晶』をそっと差し出した。
「この五億円を受け取って、妹さんと共に匂いのない世界で静かに暮らされるのも自由です。……ですが、もし私からこの記憶を【一円】で買い戻し、来週の四百億円のグローバル調印式の会場で、神楽坂レオンという泥棒に『本物の破滅の香り』を嗅がせに行く共犯者になってくださるのなら、大歓迎いたしますが」
湊は震える手で防塵マスクを外し、虚無が消えて強い光を取り戻した瞳で黒瀬を見つめると、白衣のポケットから「一円玉」を一枚取り出し、カウンターへと力強く叩きつけた。
「……妹を傷つけ、僕が命を懸けて愛した『香り』を洗脳の道具に汚したあいつを、絶対に許さない。……黒瀬さん、僕にその記憶を買い戻させてください。僕の本当の調香で、あの偽物の化けの皮を剥がしてやります!」
「――契約成立です」
黒瀬は白い手袋の指先で一円玉を回収し、静かに微笑んだ。
「では、来週の表参道ヒルズ・特設ステージに向けて、最高の『トップノート』を調合しましょうか。他人の鼻を盗んでカリスマを気取る哀れな道化師に、一生消えない悪臭と破滅のラストノートを纏わせて差し上げましょう」
新宿の地下室に漂う、十年前の一人の少女の残り香。
三人目の特級統制官・ナイトの首と、失われた少女の真実をロックオンし、冷徹なる査定人の芳醇にして残酷な復讐劇が幕を開けた。
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