第17話:神の記憶結晶と、盗まれた天才棋士の百手先
『クロノス・メディカル記念病院』の院長・天城院龍一が、百億円の公開ライブ手術の場で過去の違法記憶強奪をすべて暴かれ、失脚してから四日後の深夜。
新宿・歌舞伎町の裏路地にある記憶質店『忘却堂』の地下室には、雨音すら届かない絶対的な静寂が満ちていた。
カウンターの奥で、店主の黒瀬零は白い手袋をはめた指先で、ついに一点の傷もない【完全な球体】へと修復された『透明な記憶結晶』を投影レンズへとセットしていた。
――キィィィン……。
空間に浮かび上がったのは、黒瀬零自身の脳から三年前に切り離されていた「封印の記憶」の深層データ。
そこには、彼の双子の兄であり、国家機関『記憶統制局』の頂点に君臨する第一統制官・黒瀬一が、十年前に新宿の三万人から記憶を消去して隠し去った究極の遺産――【神の記憶結晶】の保管場所を示す暗号マップが刻まれていた。
「……アカシック・コアの封印を解くには、統制局の七人の特級統制官がそれぞれ管理する『七つの生体暗号キー』が必要、ですか」
黒瀬の感情の温度がない灰色の瞳が、ホログラムの中に浮かぶ一つの紋章を捉えた。
それは、七人の統制官の一人――日本のIT・AI産業と頭脳ゲーム界を裏から支配する『第五統制官:コードネーム・ビショップ』の刻印だった。
その時。
チリン――。
店の入り口のベルが静かに鳴り、重厚なオーク材の扉がゆっくりと開かれた。
店内へと足を踏み入れてきたのは、古びた紺色の和服(着物)を着崩し、右手の扇子を杖代わりに壁をつたいながら歩く、一人の白髪の老人だった。
年齢は七十歳前後。
かつては鋭い威光を放っていたであろうその双眸は虚ろに濁り、足取りは今にも崩れ落ちそうなほど覚束ない。
「……いらっしゃいませ。記憶の質入れですか、それとも売却ですか?」
黒瀬はホログラムを消し、氷のように穏やかな笑みで老人を迎え入れた。
「……売却じゃよ。買い取り額など、一文もいらん。ただ……わしの頭の中に残っておる『五十年前の初陣で負けた将棋の記憶』を、今すぐ抜き取って消してくれんか」
老人は革張りの椅子に深く腰を下ろし、枯れ枝のような指先で自らの額を押さえた。
「お名前と、その記憶を手放されたい理由をお伺いしても?」
「……わしは、御神楽という。御神楽玄斎。一ヶ月前までは、将棋界で『永世名人』の称号を預かっておった老いぼれじゃ」
『御神楽玄斎』という名前に、黒瀬の灰色の瞳がわずかに細められた。
「永世名人・御神楽玄斎様といえば、六十年にわたって将棋界の頂点に君臨し、通算二千勝を達成された生ける伝説ではありませんか。確か先月、突如として現役引退を発表されましたが」
「引退などではない……! わしの六十年分の棋譜の記憶と、百手先を読む大局観のすべてを、あの『獅子王院凱』のクソガキに根こそぎ奪われたのじゃ……!」
玄斎老人は扇子を握りしめ、血を吐くような掠れた声で語り始めた。
獅子王院凱――国内最大手の量子AI企業『レギオン・テクノロジーズ』の若きCEOであり、半年前に突如としてプロ棋士の世界へ参入するやいなや、無敗の連勝記録を打ち立ててタイトルを独占した二十八歳のIT長者である。
「一ヶ月前、わしの一人孫である愛梨が、原因不明の脳神経疾患で倒れてな。クロノス・メディカルの関連施設へ入院したのじゃが、治療には特殊な記憶神経の再生医療が必要で、五億円かかると言われた。……そこに現れたのが、将棋連盟の最大スポンサーでもあった獅子王院凱じゃった」
獅子王院は、孫娘を救いたい一心だった玄斎老人に、悪魔の契約を突きつけた。
『玄斎先生、お孫さんの治療費五億円は私が全額出しましょう。その代わり、あなたが過去六十年間に対局したすべての将棋の記憶と、終盤の読みの記憶を結晶化して私に譲ってください。私は来週、自社の量子将棋AI「ゼウス」と人間代表として戦う世紀のタイトル戦を控えている。そこに勝利し、政府の防衛AI開発プロジェクト【三百億円】の独占契約を勝ち取るには、あなたの頭脳が必要なのです』
「わしは孫の命のために、六十年の将棋人生をすべてあいつに売り渡した。……記憶を抜かれた今のわしは、桂馬の跳び方すら満足に思い出せん。なのに獅子王院の奴は、わしの記憶を自分の脳に移植して『人類史上最高の天才棋士』としてテレビでふんぞり返っておる……!」
玄斎老人の目から、悔し涙がポロポロと畳んだ着物の上に零れ落ちた。
「それだけならまだ我慢もできた。じゃが……将棋の記憶はすべて抜かれたはずなのに、なぜか五十年前の二十歳の頃、わしが亡き師匠とのタイトル戦で『たった一手のポカ(悪手)を指して負けた惨めな記憶』だけが頭の中に残っておるのじゃ。将棋の指し方も忘れてしまったのに、盤の前で頭を下げて泣いたあの悔しさだけが毎晩夢に出てきて、胸が張り裂けそうなんじゃよ……! 頼む、店主殿。この最後の未練のゴミ記憶を、わしの頭から消してくれ……!」
カウンターに突っ伏して肩を震わせる老名人を、黒瀬は一切の同情を交えず、ただ冷徹な鑑定人の目で見下ろしていた。
「承知いたしました、御神楽様。では、まずはその『五十年前の敗北の記憶』を抽出・査定させていただきます。……同意書にサインを」
玄斎老人が震える手で電子パッドにサインを書き込むと、黒瀬は老人のこめかみに銀色の端子を装着し、卓上の抽出機のレバーを静かに引き下ろした。
――キィィィン……。
微かな駆動音と共に、抽出機のトレイの上に、美しい榧の将棋盤のような飴色をした『琥珀色の記憶結晶』がコトリと転がり落ちた。
「……おお……。胸の奥のつかえが、スッと消えていくようじゃ……」
記憶が抜けて穏やかな顔になる玄斎老人の前で、黒瀬はピンセットで『琥珀色の結晶』をつまみ上げ、専用の超高精細投影レンズへとセットした。
空間に浮かび上がるホログラム映像。
そこには、五十年前の冬――凛と張り詰めた和室の対局場で、亡き先代名人と盤を挟んで対峙する二十歳の若き御神楽玄斎の視点が映し出されていた。
パチリ、と先代名人が駒を打つ。
映像の中の若き玄斎は、秒読みに追われる極限状態の中で、震える右手で自陣の『角行』をつまみ上げ、一見するとただのタダ捨てにしか見えない【4四・角】の一手を盤上に叩きつけた。
直後、先代名人が飛車を回り、若き玄斎はそのまま投了して深く頭を下げた。
「……なるほど。世間の棋譜記録でも、あなたご自身の認識でも、この五十年前の『4四角』は、プレッシャーによる痛恨のミス(ポカ)として記憶されていたのですね」
黒瀬はホログラムの盤面と、当時の若き玄斎の脳内シナプスの演算速度データを極限まで拡大した。
「え……? ミスでは、ないのかね……?」
「ええ、断じてミスではありません。御神楽様……二十歳のあなたの脳は、この『4四角』を指した瞬間、無意識のうちに【百二十手先の完全な詰み(必勝手順)】を読み切っていたのです」
黒瀬の感情の温度がない灰色の瞳が、驚嘆すべき真実を映し出す。
「当時の先代名人も、そして今の将棋界の人間も、誰一人としてその百二十手先の変化に気づけなかった。それどころか、それを指した二十歳のあなた自身の意識すら、自分の脳が一瞬だけ引き出した『神域の演算』に追いつかず、『ああ、自分は間違えて角を捨ててしまった』と勝手に思い込んで早めに投了してしまったのですよ」
「な、なんじゃと……!? わしが五十年間、一生の不覚だと悔やみ続けてきたあの一手が……実は百二十手先の必勝手じゃったというのか……!?」
玄斎老人が、驚愕に目を見開いてホログラムの将棋盤を見つめた。
「はい。そしてさらに重要なのは、あなたがその後六十年間で築き上げた『二千勝のすべての戦術記憶』は、無意識のうちにこの【五十年前の4四角の敗北(実際には究極の必勝陣形)】に二度と陥らないよう、あえてそれを避ける形で構築されていたという点です」
黒瀬は白い手袋の人差し指を立て、冷徹なロジックを展開していく。
「つまり、この五十年前の記憶は、あなたの六十年分の将棋記憶における【唯一の構造的死角】なのです。獅子王院凱は、あなたの『勝った記憶』だけを奪い取り、この『負けたゴミ記憶』をあなたの脳に置き去りにしました」
黒瀬の唇が、氷のように冷酷で美しい弧を描いて釣り上がった。
「では、来週行われる【三百億円の政府防衛AI契約】を懸けた世紀の公開対局で、獅子王院が自社AI『ゼウス』と戦う際……もし対戦相手のAIが、この五十年前の『4四角』の陣形を盤上に再現したら、獅子王院の脳はどうなると思いますか?」
「ど、どうなるんじゃ……?」
「彼の脳内に移植されたあなたの六十年分の記憶データは、『これは絶対に勝てない敗北の陣形だ』と誤認してパニックを起こし、同時に百二十手先の膨大な変化を処理しきれずに【前頭葉の演算ループ(知覚ロック)】を引き起こします。彼は盤の前で一指しも動かせなくなり、鼻血を流して自滅することになるでしょう」
しかも、と黒瀬はホログラムの隅に映っていた獅子王院の契約書データの電子透かしを指差した。
「この獅子王院凱という男……裏で『記憶統制局』の第五統制官と繋がり、政府の防衛AI網に国民の思考監視プログラムを組み込もうとしています。彼を公衆の面前で破滅させれば、あなたの記憶と三百億円の違約金だけでなく、『アカシック・コア』へ至る生体暗号キーまで一挙に回収できますね」
黒瀬はカウンターの下から重厚なジュラルミンケースを取り出し、パチンと留め金を外して蓋を開けた。
そこには、帯封のついた一万円札の束が整然と敷き詰められていた。
「御神楽玄斎様。あなたが『一文もいらない』と仰ったその五十年前の初陣の記憶ですが……人類の知能の限界を超えた『神の一手』が刻まれた歴史的結晶、および三百億円の国家契約を覆す特級爆弾として、当店の査定額は【十億円】となります」
「じゅ、十億円……っ!?」
呆然と息を呑む老名人の前へ、黒瀬は『琥珀色の記憶結晶』をそっと差し出した。
「この十億円でお孫様の治療を続け、将棋のことは忘れて静かに余生を過ごされるのもあなたの自由です。……ですが、もし私からこの記憶を【一円】で買い戻し、来週の世紀の対局の解説席から、獅子王院凱という泥棒に『五十年越しの王手』を掛けに行く共犯者になってくださるのなら、話は別ですが」
玄斎老人は、枯れた瞳に再び現役時代のような爛々とした勝負師の炎を宿すと、着物の袂から「一円玉」を一枚取り出し、扇子と共にカウンターへとピシリと叩きつけた。
「……将棋の神様に愛されたその一手を忘れたままでは、先代の師匠に顔向けができんわい。……店主殿、わしの記憶を戻してくれ。あの不届き者に、六十年の重みと本物の『王手』を骨の髄まで教えてやる!」
「――契約成立です」
黒瀬は白い手袋の指先で一円玉を回収し、静かに微笑んだ。
「では、来週の東京ドームホテル特設対局場に向けて、最高の『盤面』を整えましょうか。他人の頭脳を盗んで天才を気取る愚かな王様に、百二十手先まで一切の逃げ場がない公開投了を味わわせて差し上げましょう」
新宿の地下室に響く、乾いた駒音の残響。
国家機関『記憶統制局』の第五統制官の影を捉え、冷徹なる査定人の三百億円の頭脳戦が幕を開けた。
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