第16話:百億円の公開オペと、第一統制官の真実
元脳神経外科医・鳴海洸が記憶質店『忘却堂』を訪れてから五日後の月曜日。
東京・港区にそびえ立つ『クロノス・メディカル記念病院』の最上階、階段状のギャラリーを備えた特別公開手術室には、厚生労働省の官僚や海外医療ファンドの投資家、そして世界中の医学メディアが詰めかけていた。
『天城院龍一院長による、次世代医療AIロボットへの「神の手」技能記憶・完全移植および公開ライブ手術』。
このデモンストレーションが成功すれば、クロノス・メディカル社と天城院個人の口座には、即座に【百億円】の国家助成金およびライセンス契約金が振り込まれる手筈となっていた。
ガラス張りの無菌手術室の中央で、緑の手術着に身を包んだ天城院龍一は、カメラに向かって貫禄たっぷりに頷いてみせた。
「皆様、本日は歴史的瞬間にお立ち会いいただきありがとうございます。これより、私の脳内にある外科手術の技能記憶をリアルタイムで医療AIへと同期させながら、難治性脳深部腫瘍の摘出オペを完遂してみせましょう」
会場から惜しみない拍手が送られる。
天城院はマスクの下で、誰にも見えないよう邪悪な笑みを浮かべた。
(フン、馬鹿どもめ。今、私の脳内で動いているのは、半年前に鳴海洸から脅し取った『十年間の執刀記憶』だ。あいつは今頃、路地裏で震えながらゴミでも漁っている頃だろうが……あいつの技術は、私に百億円をもたらす最高の道具になったわ!)
天城院は、両手に『クロノス社製のスマート手術用グローブ』を装着し、頭部固定器に寝かされた患者(クロノス社が用意した重篤患者)の開頭部位へと、高出力の医療用レーザーメスを構えた。
だが――天城院は気づいていなかった。
階段状のギャラリー席の最前列、海外投資ファンドの代理人席に、漆黒のスーツに白い手袋をはめた『忘却堂』の店主・黒瀬零と、その隣で外科医の鋭い眼光を取り戻した鳴海洸が静かに腰掛けていることに。
「……黒瀬さん。天城院の奴、俺の右手の記憶をトレースして、順調に硬膜の切開を進めてるぞ」
鳴海が低く囁くと、黒瀬は感情の温度がない灰色の瞳で手術室を見下ろしたまま、懐の銀色の懐中時計をそっと開いた。
「ええ。ですが、いよいよ脳深部の動脈――半年前に彼があなたに電磁パルスを浴びせてメスを落とさせた、あの最難関ポイントへ到達しますよ」
手術開始から四十分が経過した、その瞬間だった。
「――よし、助手よ。無影灯の光量を最大に切り替えろ!」
天城院が指示を飛ばし、頭上の最新型LED無影灯が眩い青白い光を放った。
同時に、ギャラリー席の黒瀬が白い手袋の指先で懐中時計のリューズを軽く弾いた。
前日の夜、黒瀬が病院の医療機器メンテナンス網をハックして無影灯の内部に仕込んでおいた『指向性電磁パルス発生器』が、天城院の手首のスマートグローブと、頭部のAI同期ヘッドセットへ向けて高周波パルスを一斉に逆照射したのである。
――バチィッ!!
「なっ……!?」
顕微鏡を覗き込んでいた天城院の右手の人差し指と親指が、自らの意思に反してビクンッ!と激しい痙攣を起こし、跳ね上がった。
半年前に鳴海を陥れたのと全く同じ、尺骨神経の強制収縮。
鳴海の本来の脳であれば、ここで無意識に『左手の超高速・微細補正反射』が作動し、メスの柄を弾いて動脈から逸らすはずだった。
しかし、天城院の脳には「右手の記憶」しか移植されておらず、左手の安全ブレーキが存在しない。
「う、うわあああっ!? め、メスが止まらん!! 右手が勝手に動くぅぅぅっ!!」
暴走した右手のレーザーメスが、患者の脳動脈へと真っ直ぐに突き刺さろうとした――まさにそのコンマ一秒前。
「――そこまでだ、天城院」
無菌手術室の自動扉を蹴り開け、清潔なガウンとグローブを装着した鳴海洸が疾風のごとく飛び込んできた。
鳴海は天城院の背後から、自身の【左手の中指】を神速で閃かせ、天城院が握るレーザーメスの柄を空中でパシィッ!と正確に弾き飛ばしたのである。
カラン、カラン……と、レーザーメスが手術室の床に転がり落ちる。
患者の脳動脈まで、わずか二ミリ。
先ほど黒瀬によって『十年間の執刀記憶の原本(病院の地下金庫から事前に回収済み)』と『半年前の氷青色の結晶』をすべて脳へと戻されたばかりの鳴海による、正真正銘の【神の手】の妙技だった。
「な、鳴海……!? き、貴様、なぜここにいる!? それに今の左手は……お前は箸すら握れない廃人になったはずだろうが!!」
腰を抜かして手術台の脇へ尻餅をつく天城院。
鳴海は無言で新しいレーザーメスを手に取ると、天城院に代わって顕微鏡の前に立ち、わずか三分間の目にも止まらぬ神業の縫合と摘出処置によって、患者の脳腫瘍を完全に摘出・止血してみせた。
『お、おおおおおっ!! なんという超人的な左手とメス捌きだ!!』
『天城院院長よりも遥かに正確で速いぞ! 彼こそが本物のゴッド・ハンドではないのか!?』
ギャラリーの投資家や医師たちから、驚嘆のどよめきが巻き起こる。
「ば、馬鹿な……! なぜ俺の頭の中から、手術の記憶が消えているんだ!? あ、頭が痛い……AIヘッドセットが外れんぞ!!」
床を這いずりながら頭を抱える天城院の前へ、ギャラリー席から降りてきた黒瀬零が、氷のように静かな足取りで歩み出た。
「外れるはずがありませんよ、天城院龍一院長。……今、あなたが装着しておられる医療AI同期ヘッドセットは、『記憶の移植装置』ではなく、あなたの脳内にある【過去の違法執刀記憶をすべて外部モニターへ強制出力する抽出機】へと書き換えられておりますので」
「な、なんだと……!? 貴様、誰だ!?」
「三年前の夜、この病院の地下にある特別無菌室で、あなたが私の脳にメスを入れ、記憶を抉り取ったことをお忘れですか? ……『特別案件コード:ZERO』の被験者、黒瀬零ですよ」
黒瀬が冷徹に告げた瞬間、天城院の顔からすべての血の気が引き、歯の根が合わなくなった。
「く、黒瀬、零……!? ば、馬鹿な、お前は記憶を抜かれて新宿の地下で飼われているはずの――ぐ、うわああああああっ!!?」
黒瀬がタブレットのスイッチを押すと、天城院のヘッドセットが青白く発光し、手術室の巨大モニターいっぱいに【天城院の脳内の機密記憶】がリアルタイムで投影された。
そこに映し出されたのは、半年前に天城院が鳴海の手術グローブにナノ電極を仕込んで医療過誤を捏造し、一億円の賠償を盾に十年間の外科記憶を強奪した一部始終の映像。
『――ククク、鳴海の小僧め、自分の手が勝手に痙攣したとも知らずに泣き寝入りしおったわ! あいつの神の手の記憶さえあれば、百億円の国家助成金は私のものだ!』
天城院自身の醜悪な記憶映像と音声が、厚生労働省の官僚や世界中のメディアの前で晒け出される。
「ふ、ふざけるな天城院!! ゴースト・ドクターの記憶を違法に奪って、我が省から百億円を騙し取るつもりだったのか!! 助成金は即時凍結、医師免許も永久剥奪だ!!」
厚労省の局長が激昂して叫び、会場は大パニックに包まれた。
しかし、黒瀬の『執刀』はまだ終わらない。
「さあ、天城院院長。ここからが私の本題です。……三年前の夜、あなたに私の記憶を抜き取るよう命じた『記憶統制局』のトップ――【第一統制官】の正体を、あなたの脳の奥底から引きずり出させていただきます」
黒瀬が出力を最大まで引き上げると、モニターの映像が三年前の夜――地下の特別手術室の記憶へと深く潜り込んでいった。
映像の中で、手術台に拘束された三年前の黒瀬零の横で、天城院に指示を下していた『白いコートの人物』がゆっくりと振り返る。
その人物の顔がモニターに映し出された、その刹那。
「……っ!!」
これまでどんな絶体絶命の場面でも眉一つ動かさなかった黒瀬零が、初めて微かに息を呑んだ。
モニターの中の『第一統制官』の顔。
それは、同じ灰色の瞳、同じ整いすぎた輪郭、同じ冷徹な佇まいをした――【黒瀬零と瓜二つの顔をした、もう一人の青年】だったのである。
『――天城院博士。私の双子の弟であり、私のスペアボディでもある「零」の脳から、十年前の新宿の記憶だけを綺麗に切り離せ』
映像の中の『第一統制官』――黒瀬零の双子の兄である男が、氷のような声で告げていた。
『零は優秀すぎる査定官だ。殺してしまえば、私が十年前、三万人の脳から抜き取って隠した「神の記憶結晶」の在り処まで永遠に失われる。……だから奴の記憶を封印して新宿の質屋に置き、散らばった記憶の断片を自ら集めさせるのだ。すべてのピースが揃った時、私は零の脳ごとすべてを回収する』
そこで天城院の記憶抽出が完了し、モニターの映像がプツンと消えた。
手術室の床では、違法な記憶強奪の反動と精神的ショックで完全に白目を剥いて失神した天城院に、駆けつけた警視庁捜査一課の刑事たちが手錠をかけていた。
「……鳴海先生。天城院の秘密口座から差し押さえた【十億円】の賠償金と、あなたのすべての外科記憶は、お約束通りあなたのものです。この病院の新しい執刀医として、患者様を救ってあげてください」
「ああ……! ありがとう、黒瀬さん。あんたのおかげで、俺はもう一度、自分の手でメスを握れる……!」
深々と頭を下げる鳴海を背に、黒瀬零は誰にも気づかれないよう静かに特別手術室を後にした。
◇
その夜、新宿・歌舞伎町の裏路地。
記憶質店『忘却堂』の地下室に戻った黒瀬は、天城院の脳から回収した最後の欠片を、自らの『透明な記憶結晶』へと重ね合わせた。
パチリ、と眩い光が弾け、ひび割れていた透明な結晶が、ついに一点の傷もない【完全な球体】へと修復された。
「……双子の兄にして、記憶統制局の頂点に君臨する第一統制官、『黒瀬一』、ですか」
黒瀬零は、白い手袋をはめた手で自らの胸元を押さえ、冷たく、そして獰猛に微笑んだ。
「私の筆跡と一致していたのも当然ですね。私を自分のスペアボディ、そして便利な集積装置として利用し、すべてが揃ったところで私ごと回収するつもりだったとは……実に傲慢で、血の繋がりを感じる悪趣味な計画です」
黒瀬は修復された透明な結晶を懐に収め、カウンターの上の紅茶を一口ふくんだ。
「ですが、兄さん。質屋に預けた品物を、元値で買い戻せると思ったら大間違いですよ。……あなたが私の脳にかけた封印の利子は、国家のすべてを売り払っても足りないほど高くつきますからね」
チリン――。
地下室の扉のベルが、静かに鳴り響く。
自らの出生の秘密と、宿命の敵である『もう一人の自分』の正体を完全にロックオンした冷徹なる査定人は、新宿の裏社会から政財界の中枢へと、さらなる断罪の網を広げていく。
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