嫉妬の終着点
グレイヴスは、リリアに自分が誰なのか分かってもらえず、ひどく動揺しているようだった。
彼女の怯えた目を見つめたまま、グレイヴスは自分の服を見下ろした。擦り切れた制服。泥と埃に汚れ、銃撃でところどころ破れている。以前の高級なスーツとは似ても似つかない。
彼は袖を引っ張り、襟元を整えようとした。何度直しても、服の傷みは隠せない。
「違う……そうか。分からないんだね」
グレイヴスは小さく呟く。
「昔と服が違うからだ。こんな格好をしているから、僕だと分からないんだね」
「来ないで……」
リリアは部屋の隅で身を縮めた。グレイヴスの声を聞いても、恐怖は消えていない。彼女の視線は、目の前の男を通り越すように揺れていた。
グレイヴスは、必死に笑顔を作った。
「リリア! 僕だよ! グレイヴスだ! 君を迎えに来たんだよ!」
リリアの表情がわずかに変わる。
「グレイヴス……? グレイちゃん……?」
呼び名を口にした彼女の顔に、少しだけ安堵が浮かんだ。
グレイヴスは満面の笑みを浮かべる。
「そうだよ! リリー! 僕だ!」
彼は拳銃を持ったまま、両手を広げるようにして彼女へ歩み寄った。
「やっと会えた。もう大丈夫だ。僕が連れ出してあげる。ここから出て、二人で暮らそう。昔みたいに、何もかもやり直せる」
「ひっ!」
リリアが小さく悲鳴を上げた。
広げられた腕。銃を握る手。彼女の目には、どちらも脅威に映ったのだろう。リリアは部屋の中を見回し、そして入口に立つ俺を見つけた。
「レン!」
彼女の顔に、今度ははっきりと笑みが浮かんだ。
「レン! やっと助けに来てくれたのね!」
彼女の中では、あの時のパレードがまだ続いているのかもしれない。
部屋に閉じ込められ、助けを待つ。訪ねてくる男たちは彼女の身体だけを求め、望みを満たせば立ち去っていく。そんな日々の中で心が壊れていくたび、いつか俺が助けに来る――そう思い描いていたのだろう。
俺は、まだ銃撃戦の最中だと分かっていたはずだった。
それでも、入口から見ているだけで、すぐに動かなかった。
その一瞬を、グレイヴスに狙われた。
彼は俺の方を振り返り、銃を向けた。
銃声。
弾が俺の太腿を撃ち抜いた。
「ぐっ……!」
足が崩れかける。俺は壁に手をつき、倒れるのを堪えた。痛みが熱となって広がる。反射的に身体を引き、壁に張り付く。これ以上、グレイヴスに射線を与えるわけにはいかなかった。
リリアは大きく叫んだ。
「きゃああああ!」
そして、俺の方を見たまま声を張り上げる。
「私のレンが!」
「リリア、どうして……」
グレイヴスの声が震えた。
彼はショックを隠しきれないようだった。いや、隠す余裕もなかったのだろう。銃口がリリアへ向く。腕は安定せず、感情に引きずられるように右へ左へ揺れていた。
「僕は……僕は君のために人生を賭けたんだぞ!」
グレイヴスが怒鳴った。
「今だって、危険を冒してまで迎えに来た! 警備責任者まで手にかけて、ここまで来たんだ! 僕がどれだけ君を思っていたか、分からないのか!」
リリアは部屋の隅で身を縮めたまま、彼を見ていた。
「僕は君を愛してた。君が笑ってくれれば、それだけでよかった。何を買えば喜ぶのか、どこへ連れていけば楽しんでくれるのか、ずっと考えていた!」
グレイヴスの声が、少しずつ大きくなる。
「君がほかの男に触れられているのを見るのが、どれだけ辛かったか分かるか? 君が僕ではない男の名前を呼ぶたび、胸が引き裂かれるようだった! それでも僕は我慢した。君がいつか僕だけを選んでくれると信じていた!」
彼は銃を握る手を震わせながら、さらに訴えた。
「僕は君を助けたかったんだ。君をこんな場所から連れ出したかった。今度こそ二人でやり直したかった。なのに、どうしてまたレンなんだ! どうして僕じゃない!」
最初、リリアは銃口を向けられ、怯えていた。
だが、グレイヴスが話し続けるうちに、彼女の表情が変わっていった。目に宿っていた恐怖が薄れ、代わりに冷たい侮蔑が浮かぶ。
銃口はいつの間にか床を向いていた。グレイヴスは彼女を見ているようで、実際には自分の思い込みに向かって話していた。
そしてリリアは、この瞬間に最もやってはいけないことをした。
「ぶぁーーーーーーーーーーか!」
彼女の罵声が部屋に響いた。
「お前なんて、昔からただの金づるだったんだよ! お前に良い顔してれば戦場に行かなくていい。何でも買ってくれる。だから寝てやってたんだ!」
グレイヴスの動きが止まった。
リリアは、堰を切ったように言葉を浴びせる。
「私っていう対価を得ていたんだから、何を恩着せがましく言ってるんだ! お前のせいなんだよ! 私の人生が狂ったのは、こんな所に閉じ込められてるのは、全部グレイヴス――お前のせいだ!」
彼女の声は震えていた。怒りだけではない。憎しみと、長い間積み重なった苦しみが混じっていた。
「お前なんか死んじまえよ! ぶぁーーーか!」
部屋に、沈黙が落ちた。
グレイヴスは銃を持つ手を下げた。もう一方の手で顔を覆い、肩を震わせる。
やがて、彼は笑い出した。
「あははははははははは……」
笑い声は、最初はかすれていた。だが、すぐに大きくなり、部屋中に響き渡る。
「僕の愛が足りないせいだろうか。僕の愛が……愛……」
彼の声が止まる。
顔を覆っていた手が、ゆっくりと下りた。
「くそがぁぁぁぁぁ!」
グレイヴスは銃を持ち上げ、リリアに向けて三発撃った。
「レン――!」
リリアは俺の名を呼びかけた。
一発目が頭に当たる。続く弾丸が胸、腹へと撃ち込まれ、彼女はその場に崩れた。
声は途切れた。
リリアは床に仰向けに倒れ、動かなくなった。
「リリア……」
グレイヴスは、彼女を見下ろしたまま立ち尽くしていた。
それから、首だけをこちらへ向ける。
俺の背後から、複数の足音が近づいてきた。
「レン! 大丈夫か!」
イリヤの声がする。
「レン隊長!」
セリーナの声が続く。リンとマレクも一緒に来ているらしい。
グレイヴスは彼らの足音を聞き、ようやく自分の終わりを悟ったようだった。
「レン」
俺は壁に手をついたまま、彼を見返した。
「僕はね、君のことを恨んでいる」
彼は、口元を歪めた。
「先に行くよ。すぐ再会できるさ」
銃口が自分の頭へ向く。
「グレイヴス、やめろ!」
俺は壁から離れようとした。だが、撃ち抜かれた脚に力が入らない。
銃声が響いた。
グレイヴスはその場に崩れた。
*
部隊が部屋へ到着した時、皆が一様に動きを止めた。
仰向けに倒れたリリア。その上に、抱きしめるように重なったグレイヴス。部屋の床に散らばる酒瓶と酒缶。赤く塗りつぶされた鏡。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
イリヤだけが、状況を確認して通信機を取った。
「こちらイリヤ。グレイヴス死亡。リリア・ヴァイスも死亡している。現場を封鎖し、医療班と捜査部を呼んでくれ」
落ち着いた声だった。けれど、拳は強く握られていた。
セリーナは俺のそばに駆け寄り、傷を押さえた。
「レン隊長、足を見せてください!」
「大丈夫だ。急所じゃない」
「大丈夫じゃありません。動かないでください」
彼女の手は震えていた。涙目で、何度も俺の顔を確かめる。
「私のせいで……」
「違う」
「でも、私がグレイヴスに狙われて――」
「違う。これは最初から俺の問題だった」
俺は、彼女の手を軽く握った。
「巻き込んだのは俺の方だった。怖い思いをさせてすまんな」
「レン隊長……」
「詳しい話は後日する。今は、傷の手当てを頼む」
セリーナは唇を噛み、頷いた。
現場検証が始まる。警備局の隊員が部屋の出入りを管理し、捜査部の職員が証拠を記録していく。俺は床に座ったまま、その様子を眺めていた。
やがて医療班が担架を持って入ってきた。俺は担架に移された。
運営エリアの通路を搬送されている途中、クロイツがレンナを連れて現れた。
レンナは俺を見るなり、担架のそばへ駆け寄った。
「なんで一人で追ったの! 無茶をしたの! 通信も途中でなくなってたし、私は、私は……!」
彼女は言葉を続けられず、俺の腹に顔を埋めた。
太腿の傷に響いたが、俺はレンナの頭を撫でた。
「すまん」
「それだけなの?」
「今は、それしか言えない」
レンナは俺の服を掴み、離そうとしなかった。
その横で、クロイツが言った。
「レン君、ご苦労だった。君のおかげでマスターキーが無事に戻ったよ」
声には、労いよりも報告への満足が強く滲んでいた。今回の件を一つの成果として数えている。セリーナを囮にしたことも、現場に犠牲が出たことも、彼にとっては必要な代償なのだろう。
「礼を言われるような仕事じゃない」
「それでも、結果は出た」
クロイツはそれだけ言うと、捜査部の職員へ指示を出しに戻った。
俺はレンナの手を握った。
「後でちゃんと話す」
「必ずよ」
「分かった」
*
医療区画に搬送され、傷の処置を受けた。
太腿の銃創は、弾が貫通していた。骨や太い血管は無事だったが、しばらくは歩行に制限がかかるらしい。肩や腕の打撲と切り傷も手当てされ、処置が終わる頃には全身が重くなっていた。
病室へ移されると、隣のベッドにノアがいた。
「ノア。大丈夫か?」
「腹を縫われました。でも、意識もありますし、命に別状はないそうです」
腹部には厚い包帯が巻かれていた。それでも、彼の顔色は思ったより悪くない。
「俺を庇ってくれたな。ありがとう」
ノアは苦笑した。
「せっかく庇ったのに、なんでレン隊長まで怪我してるんですか!」
「悪かったな。俺は避けるつもりだった」
「つもりじゃ駄目ですよ」
「次は気をつける」
「本当にお願いしますよ」
その声に、病室にいた何人かが小さく笑った。笑える状態ではない者もいる。それでも、笑い声は必要だった。
俺は天井を見上げた。
リリアもグレイヴスも、最初から殺意を持っていたわけではない。下心だったとしても、二人とも相手に好意を抱き、相手に好かれたいと純粋な気持ちを思っていたはずだ。
だが、二人は相手の気持ちを確かめることより、相手に近づく誰かを憎むことを選んだ。好かれている相手に嫉妬し、相手を自分のものにしようとした。その結果、二人とも落ちぶれ、狂い、最後には死んだ。
そして、巻き込まれた俺も怪我をした。セリーナも恐怖を味わった。死んでしまった隊員もいた。リリアの部屋に駆けつけた者たちは、あの光景を目にした。
俺は暇つぶしに病室の天井の模様を数え始めた。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
数えているうちに、グレイヴスが壁を眺めていた姿を思い出した。
嫉妬の代償にしちゃ、少し大きすぎるんじゃねえかな。




