第08話 帰り道
目を開けると、天井があった。
迷宮の天井だ。だが、記憶にあるどれとも違う。妙に明るくて、遠い。
背中の下に、柔らかいものがある。指を動かすと、短い草が触れた。
(……ああ)
草地だ。泉の。
そこまで思い出して、レンはようやく自分が生きていることを理解した。
体を起こそうとして、やめた。左腕が板に固定されている。胴には布が幾重にも巻かれ、肩から腿まで、どこもかしこも痛んだ。
痛むということは、感覚が戻ったということだ。何日ぶんかの痺れが引いて、代わりに全部が痛い。
「動くな」
声がした。
顔だけ向けると、ガロが芝にあぐらをかいて座っていた。膝の上で何かを削っている。木の匙のようだった。
「起きたか。三度目だぞ、それ」
「……三度目?」
「起きちゃ寝て、起きちゃ寝て。そのたびに人数を数えてやがった」
ガロが削りかすを払った。
「五人いるっつってんだろ。何度言わせんだ」
レンは黙った。
覚えていない。……だがやりそうなことではあった。
「……あいつらは」
「あっちで飯食ってる」
顎で示された先を見た。
泉のほとりに、四つの背中が並んでいた。ノルドとミラとネル、それにルカ。深酒の連中が持ち込んだ鍋を囲んで、湯気の立つものをかき込んでいる。誰も喋らない。ただ食っている。
ノルドの脚には、新しい布が巻かれていた。ミラの手はもう震えていない。ネルは食いながら、膝の上の何かに指で線を引いている。
「よく食うぞ、あいつら」ガロが言った。「とくにでかいの。三杯目だ」
「……そうかよ」
喉の奥が詰まった。
飯を食っている。それだけのことが、こんなに安心するとは思わなかった。
「なあ、ガロ」
「あ?」
「……オレたちのこと、どこまで聞いた」
「ぜんぶだ」
ガロは手を止めなかった。
「あの犬っころが、うわ言みてえに全部しゃべった。浅層の見覚えのない広間で床の紋様を踏んだ。気づいたら深層にいた。四腕鬼が出て、とんでもねぇ長さの百足が出た。……で、そこから上がってきた」
「……信じたのか」
「信じるだろ。あんたらのナリを見りゃな」
ガロは削りかすを払い、それから低い声で言った。
「けどな、レン。おれは浅いところから含め、もうこの迷宮にゃ十年潜ってる。魔物にゃたいてい会った。行き止まりも落盤も毒の霧も踏んだ。……転移の罠なんてもんは、聞いたこともねえ」
「……」
「浅層だぞ。五級のガキが薬草摘みに行く階だ。そこに、人を深層まで放り込む仕掛けがある」
ガロは首を振った。
「聞いたことがねえってのは、二つに一つだ。誰も踏んだことがねえか、踏んだ奴が誰も帰ってきてねえか」
レンは天井を見た。
後者だろう、と思った。
あの百足の腹から出てきたのは、剣と、溶けかけた鎧の破片だ。誰かがあそこまで辿り着いていた。そして、帰っていない。
「……ギルドには、言うつもりだ」
「言うべきだ。おれも証人になってやるよ」
ガロはそう言って、削り終えた匙を泉の水で洗った。
「ガロさん」
いつのまにか、ネルがすぐ脇に立っていた。この娘は足音を立てない。
「あの。……いま、何日ですか」
「十九だ。今朝、あんたらが転げ込んできた」
「……十九」
ネルの声が、途中で妙な具合に途切れた。
「わたしたちが潜ったのは、十七日です」
「そうだな」
「……二日半」
ネルが立ち尽くした。
荷の陰から、革表紙の帳面を抱えたイーナが顔を出す。
「そこからその男が起きるまでに、半日。ぜんぶで三日」
「でも、わたし、四日目だと」
「数え損なっただけ」
イーナは短く言った。
「疲れてたんでしょ。少し歩いて座り込んで、また少し歩いて。そのたびに眠ったなら、一日に三度眠ったって不思議じゃない」
「野営した数で日を数えたな」
ガロが呆れたように言った。
「そりゃ狂うわ。深いとこじゃ誰でもやる。上に日ぃがねえんだから、寝た回数しか目印がねえ。……で、疲れてるほど寝る回数が増える。増えたぶんだけ、日が余計に過ぎたと思い込む」
「食料が、思ったより早く尽きたんです」
「そりゃ減るだろ。歩いて、逃げて、ずっと構えっぱなしだ。座ってても気ぃ張ってりゃ腹は減る。二日で三日ぶん食うことなんざ、いくらでもある」
レンは、そのやりとりを寝たまま聞いていた。
四日でも二日半でも、正直どちらでもよかった。
自分の中にあるのは日数ではない。剣を握ったこと。ノルドの背中。口へ押し込まれたパンの味。あとは、まるごと抜けている。
(……数えられただけ、あいつらのほうがよっぽど正気だな)
「レンさん」
ネルが器を両手に持って戻ってきた。
「食べられますか」
「……ああ」
なんとか自力で体を起こし、背を岩にもたせかけた。
器の中身は干し肉と一緒に煮込んだ粥だった。深酒達の荷から出たものだろう。
塩味と干し肉の旨味が全身にしみる。
その一口目を飲み込んだ瞬間、視界が滲んだ。
ただ、温かかった。
***
迷宮を出るまでに、丸二日かかった。
迷ったからではない。深酒達一行は一度も道を探さなかった。分かれ道に差しかかるたび、迷いもせずに片方を選んで進んでいく。
それでも、二日かかった。
中層とは、そういう広さだった。
自分の足では歩けなかったから、連中が担架を組んでくれた。二人が前後を担ぎ、脇にもう二人がつく。それを交代で回す。十五人という数が、こういうときには効いた。
道中、レンはほとんど眠っていた。
起きているときは、担架の上から天井を眺めた。中層の通路は行きに見たときと同じ顔をしている。同じように滑らかで、同じように光っている。
眠って、目を覚ます。同じ天井が流れていく。
また眠って、目を覚ます。まだ同じだ。
地図があるからだ。ギルドが何十年もかけて描いた、中層の地図が。
それを持っていて、なお二日。
(……その先は、真っ白なんだよな)
正確には、白いのはこちらの側だけだ。
中層の底から下の地図は、あるにはあるらしい。ただし閲覧を許されるのは準一級から上で、この街に何人いるかも怪しい等級だった。三級が拝める代物ではない。
見せてもらえないなら、ないのと同じだ。
そして、ないのと同じ地図の上へ、自分たちは放り込まれた。
「なあ、レン」
担架の脇を歩いていたガロが、思い出したように言った。
「その剣、どこで拾った」
布に巻いて胸の上に置いた剣へ、視線を落とす。
「……あの百足の腹だ」
「腹?」
「喰われた奴が持ってたんだろ。鎧の破片も一緒に出た」
ガロは眉を寄せて、しばらく黙った。
「……そりゃ、まあ、そういうこともあるか」
それきり、剣の話はしなかった。
深酒の連中は誰も、この剣に触れようとしなかった。訊きもしなかった。
冒険者は他人の得物の来歴を詮索しない。それが行儀というものだ。
もっとも、とレンは思う。
(……訊かれたところで、答えようがねえしな)
握ると、誰かの手つきが流れ込む。
握ると、誰かの死に方を見せられる。
そんなことを言えば、頭がおかしくなったと思われるだけだ。あるいは、魔剣だと騒がれる。どちらも面倒だった。
「そういやよ」
ガロが話を変えるように言った。
「なんでおれたちがあそこにいたか、訊かねえのか」
「……訊いていいのか」
「別に隠すことでもねえ。依頼だ」
「依頼?」
「中層の確認だとよ」
ガロは肩をすくめた。
「ギルドが金を積んで、うちを含めて何組かまとめて出した。中層をひととおり歩いて、魔物の数と種類を調査しろと。……そんな依頼、おれははじめて受けた」
レンは、その言葉をしばらく口の中で転がした。
「……確認、か」
「あ?」
「オレたちが受けたのも、それだ」
ガロの足が、わずかに止まった。
「……なんだと」
「採取と、調査。依頼票にそう書いてあった。浅層で草を摘んで、ついでに様子を見てこいと」
「……そりゃ、浅層の確認じゃねえか」
「そういうことになるな」
言ってしまってから、腹の底が冷えた。
ギルドは同じ時期に、浅層も中層も見ておきたかったのだ。
ただし中層には、二級を何組も、金を積んで送り込んだ。
浅層へは、五級の新人が三人。それと、その付き添いが二人。
「……なあガロ。何組って、どこだ」
「うちと、石読み。あとは梟目と六指だ」
どれも、名前だけは知っていた。
石読みは五人。魔石と素材の目利きで食っている一党だ。どこに何があり、いくらの値がつくかを見極めるのが本業で、今度の依頼には打ってつけだった。頭数もここがいちばん多い。
前の三枚が揃って大盾。その隙間から短槍が一本と、後ろに魔法使いが一人。倒すための組み方ではない。生きて持ち帰るための組み方だ。
守りに寄っているからといって、弱いわけではなかった。あの三枚の壁を割られたという話を、レンは一度も聞いたことがない。押し込まれず、崩されず、狙った獲物だけを確実に仕留めて帰ってくる。二級の看板は伊達ではなかった。
梟目は四人。索敵に長けた感覚系の身体強化の使い手が多いと評判だ。
六指は三人。前衛ばかりを三枚並べた荒っぽい組で、名の由来を訊く者はいない。
どれも二級。掲示板は等級ごとに区切られていて、こいつらの札が貼られるのは、レンがいつも覗く三級の枠の隣だ。
「豪勢だな」
「だろ。おれも札を見て笑ったよ」
ガロは肩をすくめた。
「……で、こうなった」
「……依頼は、どうすんだ」
「中断だ。全部な」
こともなげに言った。
「怪我人を抱えて潜り直せるかよ。ま、隅々までは見れてねえから多少は減額はされるだろうが、報酬も出るだろう」
レンは、担架の縁を握った。
四組ぶんの実入りが、自分たちのせいで削られる。
いや、金だけの話ではない。隅々まで見ていないということは、この連中はもう一度あそこへ潜り直す可能性もあるということだ。
「……ガロ」
「言うなよ」
ガロは前を向いたまま言った。
「石読みの頭なんざ、お前を見て真っ先に担架を組みはじめた奴だぞ。文句のひとつも言ってねえ」
レンは天井から目を離した。
「……なあガロ。おかしくねえか」
「何がだ」
「浅層と中層を、同じ時期に調査ときた。しかも中層にゃ、二級を四組だ」
「……ああ」
ガロの声が低くなった。
「札を見たときにゃ、金のいい楽な仕事だとしか思わなかったんだよ。歩いて、数えて、書くだけだ。……いまになって考えりゃ、そんなもんに四組もまとめて出す理由がわからねえ」
「上は、何を考えてやがる」
「知るかよ。……けどな、ギルドが金を出すってのは、それだけのもんが返ってくると踏んだか、惜しんでる場合じゃねえと思ってるかのどっちかだ」
レンは、担架の上で息を吐いた。
「オレたちが浅層で見たのはな。洞窟狼の群れだ」
「群れ?」
「数えるのが馬鹿らしくなる数だった。……あんなもん、あの浅さで出てくるもんじゃねえ」
ガロが、しばらく黙った。
担架を担ぐ足音だけが、通路に響いた。
「……おれたちもだ」
「あ?」
「中層に入って、まだ浅いあたりだった。黒甲蟷螂が出た」
レンは思わず首を巡らせた。
「……蟷螂だと」
「二本の鎌が、おれの背丈より長かったよ」
ガロの声が、平坦になった。
「モーグの盾が真っ二つだ。あんな割られ方は見たことがねえ。石読みの壁が三枚がかりで受け止めて、それでようやく足を止められた」
「……仕留めたのか」
「十五人でだ。半刻かかった。死人が出なかったのが不思議なくらいだ」
ガロは息を吐いた。
「あんなもんは、中層の浅いところに湧く魔物じゃねえ。……そんで、おかしいのはそこからでな」
「そこから?」
「拍子抜けなんだよ。あれ以来、まともなのが一匹も出てこねえ。出るのは小物ばっかりだ」
「……そういや」
少し前を歩いていたルカが、振り返らずに口を挟んだ。
「おれ、言ったよな。下が妙に静かだったって」
「言ってたな」
「あの百足を仕留めてから、まともな大物に一度も会ってねえんだ。出てくるのは浅いとこにいるような小物ばっかりだった。……深層だぞ。あんなもんじゃねえだろ」
レンは、はじめてそれを聞いた。
自分は眠っていた。だから知らなかった。
だが、聞いた途端に、頭の中で線が繋がった。
浅層に、いるはずのない数の魔物。
中層の浅いところに、いるはずのない大物。
深層に、いるはずのものがいない。
そして、どこも同じだ。強いのが一度だけ出て、そのあとは空っぽになる。
ばらばらの話が、どうしても同じほうを向いていた。
「……そんで、床に転移の罠だ」
ガロの足が、止まった。
担架が、わずかに揺れる。
「……なあ、レン」
ガロが担架の柄を握り直した。
それから、低い天井を見上げる。
「この中で、いったい何が起きてやがるんだ」
答えは、持っていなかった。
持っていないからこそ、言わなければならない。
この体で報告に立てるかは、別の話だったが。
***
外の光は、痛かった。
迷宮の入口を抜けた瞬間、レンは思わず腕で顔を覆った。目の奥を刺されたように痛んで、涙が勝手に流れる。
あの壁の光に、目が慣れきっていたのだ。
指の隙間から、少しずつ光へ慣らしていく。
空があった。
夕暮れだった。灌木の生えた丘の向こうに赤が広がっている。雲の腹が金色に灼けて、そのふちが少しずつ紫に沈んでいく。
風が吹いた。
土と、草と、遠くの家の煙の匂いがした。
「……あ」
誰かが声を上げた。ミラだった。
ミラは口を押さえて、そのまま膝をついた。
「あ、あ……」
言葉になっていない。
その隣で、ノルドが突っ立ったまま空を見上げていた。目を見開いて、瞬きもしない。あれだけ泣かなかった少年の顔が、みるみるうちに歪んでいく。
「……帰って、きました」
ノルドが言った。
「レンさん。おれたち、帰ってきました」
「……ああ」
担架の上から、レンは空を見た。
この空は、毎日ある。
街の連中は毎日これを見て、たいして何とも思わずに一日を終える。自分だってそうだった。屋台で揚げ菓子を買って、掲示板を眺めて、安酒を飲んで寝るだけの日々の上に、これはいつも当たり前にあった。
(……当たり前だな)
当たり前が、こんなに派手なものだとは知らなかった。
「泣けよ」
ルカが、三人のほうを見ずに言った。
「いま泣いとけ。街に入ったら泣けねえぞ」
ネルが、その言葉を聞いた瞬間に崩れた。
声を上げずに、しゃがみ込んで両手で顔を覆う。肩が細かく震えている。この娘が泣くのを、レンははじめて見た。
三人が泣いているあいだ、深酒の連中は誰も急かさなかった。
少し離れたところで荷を下ろし、水を飲み、黙って待っていた。
こういうときの作法を、この連中は知っている。
ルカは、その輪から少し外れて立っていた。
泣いている三人を見て、それから、何気なく背後を振り返った。
迷宮の入口。石で縁取られた洞穴が、夕闇の中で黒く口を開けている。
いつもと変わらない。変わらないはずだった。
だが。
その奥の、さらに奥。壁の光が届かないはずのあたりで、青白い何かが、脈打つように明滅した気がした。
(……)
ルカは目をこすり、もう一度見た。
もう、何もない。ただの暗がりだ。
同時に、足の裏へ微かな震えが伝わってきた気もした。地の底で、大きなものが寝返りを打ったような。
それも、すぐにやんだ。
(……疲れてんな、おれも)
小さく首を振って、ルカは前へ向き直った。
いまはそれどころではない。
「……ガロ」
担架の上から、レンが言った。
「借りは、返す」
「やめろ」
ガロは顔をしかめた。
「泉で拾ったもんに貸しも借りもあるかよ。あそこはそういう場所だ」
「それでも、だ」
「……ああ、そう。じゃあ酒でいい。三十杯くらいで手を打ってやる」
「高ぇな」
「命の値段だぞ。安いもんだろ」
軽口を叩きながら、ガロは担架の柄を握り直した。
「行くぞ。日が落ちる」
***
ラドフェンのギルドは、夕暮れどきの混雑の最中だった。
依頼を終えた連中が戻り、掲示板の前で明日のぶんを漁り、隅の卓で早くも杯を傾けている。木と汗と、酒と獣脂の匂い。いつもの音。
その音が、扉の開いた瞬間に途切れた。
全員が振り返った。
担架に乗せられた男。血と泥で色の分からなくなった革鎧。脚を引きずる少年と、目を腫らした娘が二人。そして、その一団を囲むように付き添う深酒達2級の連中。
「――レン!?」
受付の奥から、しゃがれた声が飛んだ。
マーゴだった。カウンターに手をついて、そのまま乗り越えてきそうな勢いで出てくる。膝が悪いはずのその体が、人をかき分けて走った。
「あんた、どこ行ってたんだい。四日も音沙汰なしで――」
言いかけて、マーゴが止まった。
担架の上の顔を、まじまじと見下ろす。
「……あんた、また無茶したね」
「……よぉ、マーゴ」
「よぉ、じゃないよ。まったく」
マーゴは短く鼻を鳴らした。
「そのナリで挨拶が出るんなら、まだ死なないね」
医者を呼べ、湯を沸かせ、奥の部屋を空けろ。マーゴの指示が飛び、ギルドが慌ただしく動きはじめる。
レンは、その騒ぎの中で言った。
「……マーゴ。報告がある」
「後にしな」
「後じゃ駄目だ」
声が掠れた。それでも押し出した。
「浅層に、転移の罠がある」
ざわめきが、また止まった。
「……なんだって?」
「浅層の奥だ。妙に磨かれた円い広間があった。その床の中央を踏んだ瞬間、飛ばされた」
レンは乾いた唇を舐めた。
「飛ばされた先は深層だ。四腕鬼が出た。とんでもねぇ長さの百足も出た。……オレたちは、そこから上がってきた」
誰も、何も言わなかった。
やがて、卓のほうから短い笑いが起きた。
「深層?」
誰かが言った。悪気のある声ではなかった。ただ、可笑しかったのだ。
「三級と五級で?」
「そりゃ夢でも見たんだろ」
笑いが、ぱらぱらと広がった。
「――静かにしな!」
マーゴの一喝で、笑い声が引っ込んだ。
マーゴは振り返り、受付の奥へ怒鳴った。
「エルナ! 控えを取るよ、紙と墨の支度を! それと、査定に人を呼びな!」
奥から、栗色の髪を結い上げた娘が飛び出してきた。紙束を抱えて、慌てて走ってくる。
その娘は、担架のわきに立つ三人を見た瞬間に足を止めた。
顔から、血の気が引いていく。
ノルド。ミラ。ネル。
血と泥にまみれた五級の新人が三人、黙ってこちらを見返している。
「……あ」
小さく声が漏れた。
レンには、その反応の意味がわからなかった。
わからないまま、いまはそれを考えている余裕もなかった。
「エルナ!」
「は、はいっ」
娘は弾かれたようにカウンターへ戻り、紙を広げて筆を取った。その手が震えている。
「ば、場所と、日時を……お願いします」
レンが口を開きかけた。
その前に、脇から手が伸びた。
ネルが、革の切れ端を綴じた束を差し出している。何も言わない。
ルカも何も訊かなかった。当たり前のようにそれを受け取り、カウンターへ歩み寄って束を開く。
「入口から数えるぞ。三つ目の分かれ道を右。次の開けたところを、まっすぐ突っ切る。そこから左、左、右――」
エルナの筆が、必死に追いかけた。
ルカの声は淀まなかった。読み上げているだけではない。自分の足で歩いた道だ。
「――で、その先が例の広間だ。壁がやけに滑らかで、天井の高い、円い部屋。紋様は床の中央。踏むまでは光っちゃいなかった」
そこから先も、ルカは詰まらずに続けた。
飛ばされた先の様子。出くわした魔物の種類。四腕鬼の見た目と、あの百足の長さ。ネルの束をめくりながら、抜けたところは自分の記憶で埋めていく。
レンは担架の上から、その背中を眺めていた。
自分は、何も言わなくてよかった。
やがて、奥から一人の男が出てきた。
中背の、痩せた男だった。冒険者ではない。糊のきいた上着に、腰から下げた鍵束。手には板挟みの書類を持っている。
「査定の、ヴェルド・カルタです」
男は淡々と名乗り、担架の脇にしゃがんだ。
「報告は聞きました。確認します。……あなたが受注したのは浅層の採取と調査。期日は二日以内。届出の帰還予定は、十八日の日没まで。相違ありませんね」
「……ああ」
「では、なぜ二十一日まで戻らなかったのですか」
「だから、飛ばされたと言ってる」
「転移の罠に、ですね」
ヴェルドは書類に何か書き込んだ。
「その罠を、ほかに踏んだ者はいますか」
「知るかよ。オレたちが最初かもしれねえ」
「では、あなた方以外にその存在を確かめた者はいない、と」
「……そうなる」
「紋様は、いま残っていますか」
レンは口をつぐんだ。
残っているはずだ。だが確かめてはいない。上がってきたのは別の道で、あの広間へは戻っていない。
「確かめてねえ」
「未確認、と」
ヴェルドは書き込んだ。
その手つきに悪意はなかった。ただ、事務だった。それが、かえって感情を逆なでする。
「深層へ飛ばされたという点も、うかがいます」
ヴェルドは書類をめくった。
「四腕鬼、および巨大な百足型の魔物。……当ギルドの記録では、四腕鬼の目撃例は深層に限られます。浅層から深層へ、罠ひとつで飛ばされたと」
「そうだ」
「そこから三日足らずで、中層最下部まで到達したと」
「……ああ」
「では、その道順を提出できますか」
「そこにある」
ルカが、カウンターの上の紙を顎で示した。
「ぜんぶ書き取らせた。おれたちが通った道だ」
ヴェルドはその紙を覗き込み、それからルカの手にある革の束へ目を移した。
黙って手を伸ばす。ネルがそれを渡した。
束をめくって光にかざし、しばらく見てから、ヴェルドはネルへ返した。
「これは、あなたの記録ですね」
「……はい」
「照合は、この場ではできません」
静かな声だった。
「中層最下部より下の地図は、準一級以上にしか開示されません。あなたにも、私にも、閲覧の権限がない。……ですから、これが正しいかどうかを、ここで確かめる術がないのです」
「――おい」
壁際からガロが口を挟んだ。
「なら、権限のある奴に見せりゃいいだろ。おれが持っていく」
「あなたも二級です」
ヴェルドは振り返らずに言った。
「申請の書式なら、お預けできます。ですが、書き込むには根拠が要る。……堂々巡りなのは、承知しています」
レンは天井を見た。
言っていることは、筋が通っていた。
通っているから、どうしようもなかった。
「持ち帰った素材は」
「……甲殻がある。あの百足の」
深酒の一人が、担いできた包みを解いた。
黒く濡れたように光る、湾曲した殻の破片。人の背丈ほどもある一枚が、床に置かれる。
どよめきが起きた。
ヴェルドは屈み込み、それをしばらく検分した。
「……立派なものです。買い取りはこちらで手配します」
「なら――」
「ですが」
ヴェルドは立ち上がった。
「これが深層の個体のものである、という証明にはなりません。中層にも大型の甲殻種はおります。大きさだけでは、どの層のものか断定できない」
「あんなデカい百足が、中層にいるってのか」
「いない、とも言い切れません。私どもの記録はいる場所を書いたものであって、いない場所を保証したものではありませんから」
言葉に詰まった。
この男は嘘をついていない。ひとつも。
ただ、こちらの言い分をひとつずつ記録の枠へ当てはめようとしている。そして、どれも枠に収まらない。
「……つまり、なんだよ」
口を開いたのはルカだった。
ずっと黙って壁際に立っていた男が、一歩前へ出る。
「浅層に罠がある。おれたちはそれで死にかけた。次に踏むのは、そこらの新人かもしれねえ。……それだけの話に、何が足りねえって言うんだ」
「証拠です」
ヴェルドはルカを見て言った。
「あなた方の証言を疑ってはいません。ですが、証言だけで層は閉じられない。浅層は、この街の駆け出しにとって、ほとんど唯一の稼ぎ場です。あそこを閉じれば、明日から食えなくなる者が何十人と出ます」
「……」
「調査隊を出すにも根拠が要ります。上へ通すには、書式の整った根拠が」
ヴェルドは書類の束を揃え、脇に挟んだ。
「報告は記録として受理します。異常の届出として、番号もつけます。ですが、緊急の措置には該当しません。……以上です」
彼は一礼して、奥へ戻っていった。
誰も、追わなかった。
ざわめきが、少しずつ戻ってきた。
卓のほうから、また声が聞こえる。
「五級を連れて深部から生還、ねえ」
「法螺もほどほどにしな。生きて帰れただけで上等じゃねえか」
「どうせルカの雷だろ。あの兄ちゃんが撃ちまくったんだ」
悪意ではなかった。
悪意ではないから、質が悪かった。
「……あんたたち!」
マーゴが振り返ろうとするのを、レンは止めた。
担架の縁から、袖を引く。
「やめとけ」
「けどね、あんた」
「いいんだ」
レンは天井を見たまま言った。
「番号はついた。記録は残る。……いまは、それでいい」
「よかないよ」
マーゴの声が震えていた。
「あたしゃ受付だ。書類は書ける。だけど、通すのはあたしじゃない」
その悔しさが、どこへも行き場のないものだと、レンにもわかった。
この人が悪いのではない。ヴェルドも悪くない。笑った連中も、明日には忘れる程度の軽口を叩いただけだ。
誰も悪くない。
誰も悪くないまま、あの紋様は迷宮の浅層に残っている。
「……レンさん」
担架の脇で、ノルドが拳を握っていた。
「おれ、悔しいです」
「全員で生きて帰れたんだ」
レンは天井を見たまま言った。
「それが結果だ。他は、おまけみてえなもんだ」
ノルドは何か言いかけて、やめた。
奥の部屋へ運ばれる直前、レンは扉のほうを見た。
開け放たれた扉の向こう、通りの先。石畳が夕闇に沈んでいく。
その道の、ずっと先。
街道を抜けて、灌木の丘の裾に、あの穴がある。
報告には番号がつき記録された。
だが、それだけだ。
浅層に湧きすぎる魔物。中層の浅いところに出た大物。空っぽになった深層。そして、床に開いた穴。
ひとつずつなら、たまたまで片づく話だった。
(……いったい、何が起きようとしてやがる)
答える者は、どこにもいなかった。




