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血盟の冒険者  作者: ニワネコ図


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第08話 帰り道

 目を開けると、天井があった。

 迷宮の天井だ。だが、記憶にあるどれとも違う。妙に明るくて、遠い。

 背中の下に、柔らかいものがある。指を動かすと、短い草が触れた。

(……ああ)

 草地だ。泉の。

 そこまで思い出して、レンはようやく自分が生きていることを理解した。

 体を起こそうとして、やめた。左腕が板に固定されている。胴には布が幾重にも巻かれ、肩から腿まで、どこもかしこも痛んだ。

 痛むということは、感覚が戻ったということだ。何日ぶんかの痺れが引いて、代わりに全部が痛い。

「動くな」

 声がした。

 顔だけ向けると、ガロが芝にあぐらをかいて座っていた。膝の上で何かを削っている。木の匙のようだった。

「起きたか。三度目だぞ、それ」

「……三度目?」

「起きちゃ寝て、起きちゃ寝て。そのたびに人数を数えてやがった」

 ガロが削りかすを払った。

「五人いるっつってんだろ。何度言わせんだ」

 レンは黙った。

 覚えていない。……だがやりそうなことではあった。

「……あいつらは」

「あっちで飯食ってる」

 顎で示された先を見た。

 泉のほとりに、四つの背中が並んでいた。ノルドとミラとネル、それにルカ。深酒(ディープドラフト)の連中が持ち込んだ鍋を囲んで、湯気の立つものをかき込んでいる。誰も喋らない。ただ食っている。

 ノルドの脚には、新しい布が巻かれていた。ミラの手はもう震えていない。ネルは食いながら、膝の上の何かに指で線を引いている。

「よく食うぞ、あいつら」ガロが言った。「とくにでかいの。三杯目だ」

「……そうかよ」

 喉の奥が詰まった。

 飯を食っている。それだけのことが、こんなに安心するとは思わなかった。


「なあ、ガロ」

「あ?」

「……オレたちのこと、どこまで聞いた」

「ぜんぶだ」

 ガロは手を止めなかった。

「あの犬っころが、うわ言みてえに全部しゃべった。浅層の見覚えのない広間で床の紋様を踏んだ。気づいたら深層にいた。四腕鬼が出て、とんでもねぇ長さの百足が出た。……で、そこから上がってきた」

「……信じたのか」

「信じるだろ。あんたらのナリを見りゃな」

 ガロは削りかすを払い、それから低い声で言った。

「けどな、レン。おれは浅いところから含め、もうこの迷宮にゃ十年潜ってる。魔物にゃたいてい会った。行き止まりも落盤も毒の霧も踏んだ。……転移の罠なんてもんは、聞いたこともねえ」

「……」

「浅層だぞ。五級のガキが薬草摘みに行く階だ。そこに、人を深層まで放り込む仕掛けがある」

 ガロは首を振った。

「聞いたことがねえってのは、二つに一つだ。誰も踏んだことがねえか、踏んだ奴が誰も帰ってきてねえか」

 レンは天井を見た。

 後者だろう、と思った。

 あの百足の腹から出てきたのは、剣と、溶けかけた鎧の破片だ。誰かがあそこまで辿り着いていた。そして、帰っていない。

「……ギルドには、言うつもりだ」

「言うべきだ。おれも証人になってやるよ」

 ガロはそう言って、削り終えた匙を泉の水で洗った。


「ガロさん」

 いつのまにか、ネルがすぐ脇に立っていた。この娘は足音を立てない。

「あの。……いま、何日ですか」

「十九だ。今朝、あんたらが転げ込んできた」

「……十九」

 ネルの声が、途中で妙な具合に途切れた。

「わたしたちが潜ったのは、十七日です」

「そうだな」

「……二日半」

 ネルが立ち尽くした。

 荷の陰から、革表紙の帳面を抱えたイーナが顔を出す。

「そこからその男が起きるまでに、半日。ぜんぶで三日」

「でも、わたし、四日目だと」

「数え損なっただけ」

 イーナは短く言った。

「疲れてたんでしょ。少し歩いて座り込んで、また少し歩いて。そのたびに眠ったなら、一日に三度眠ったって不思議じゃない」

「野営した数で日を数えたな」

 ガロが呆れたように言った。

「そりゃ狂うわ。深いとこじゃ誰でもやる。上に日ぃがねえんだから、寝た回数しか目印がねえ。……で、疲れてるほど寝る回数が増える。増えたぶんだけ、日が余計に過ぎたと思い込む」

「食料が、思ったより早く尽きたんです」

「そりゃ減るだろ。歩いて、逃げて、ずっと構えっぱなしだ。座ってても気ぃ張ってりゃ腹は減る。二日で三日ぶん食うことなんざ、いくらでもある」


 レンは、そのやりとりを寝たまま聞いていた。

 四日でも二日半でも、正直どちらでもよかった。

 自分の中にあるのは日数ではない。剣を握ったこと。ノルドの背中。口へ押し込まれたパンの味。あとは、まるごと抜けている。

(……数えられただけ、あいつらのほうがよっぽど正気だな)


「レンさん」

 ネルが器を両手に持って戻ってきた。

「食べられますか」

「……ああ」

 なんとか自力で体を起こし、背を岩にもたせかけた。

 器の中身は干し肉と一緒に煮込んだ粥だった。深酒達の荷から出たものだろう。

 塩味と干し肉の旨味が全身にしみる。

 その一口目を飲み込んだ瞬間、視界が滲んだ。

 ただ、温かかった。


   ***


 迷宮を出るまでに、丸二日かかった。

 迷ったからではない。深酒達一行は一度も道を探さなかった。分かれ道に差しかかるたび、迷いもせずに片方を選んで進んでいく。

 それでも、二日かかった。

 中層とは、そういう広さだった。

 自分の足では歩けなかったから、連中が担架を組んでくれた。二人が前後を担ぎ、脇にもう二人がつく。それを交代で回す。十五人という数が、こういうときには効いた。

 道中、レンはほとんど眠っていた。

 起きているときは、担架の上から天井を眺めた。中層の通路は行きに見たときと同じ顔をしている。同じように滑らかで、同じように光っている。

 眠って、目を覚ます。同じ天井が流れていく。

 また眠って、目を覚ます。まだ同じだ。

 地図があるからだ。ギルドが何十年もかけて描いた、中層の地図が。

 それを持っていて、なお二日。

(……その先は、真っ白なんだよな)

 正確には、白いのはこちらの側だけだ。

 中層の底から下の地図は、あるにはあるらしい。ただし閲覧を許されるのは準一級から上で、この街に何人いるかも怪しい等級だった。三級が拝める代物ではない。

 見せてもらえないなら、ないのと同じだ。

 そして、ないのと同じ地図の上へ、自分たちは放り込まれた。


「なあ、レン」

 担架の脇を歩いていたガロが、思い出したように言った。

「その剣、どこで拾った」

 布に巻いて胸の上に置いた剣へ、視線を落とす。

「……あの百足の腹だ」

「腹?」

「喰われた奴が持ってたんだろ。鎧の破片も一緒に出た」

 ガロは眉を寄せて、しばらく黙った。

「……そりゃ、まあ、そういうこともあるか」

 それきり、剣の話はしなかった。

 深酒の連中は誰も、この剣に触れようとしなかった。訊きもしなかった。

 冒険者は他人の得物の来歴を詮索しない。それが行儀というものだ。

 もっとも、とレンは思う。

(……訊かれたところで、答えようがねえしな)

 握ると、誰かの手つきが流れ込む。

 握ると、誰かの死に方を見せられる。

 そんなことを言えば、頭がおかしくなったと思われるだけだ。あるいは、魔剣だと騒がれる。どちらも面倒だった。


「そういやよ」

 ガロが話を変えるように言った。

「なんでおれたちがあそこにいたか、訊かねえのか」

「……訊いていいのか」

「別に隠すことでもねえ。依頼だ」

「依頼?」

「中層の確認だとよ」

 ガロは肩をすくめた。

「ギルドが金を積んで、うちを含めて何組かまとめて出した。中層をひととおり歩いて、魔物の数と種類を調査しろと。……そんな依頼、おれははじめて受けた」

 レンは、その言葉をしばらく口の中で転がした。

「……確認、か」

「あ?」

「オレたちが受けたのも、それだ」

 ガロの足が、わずかに止まった。

「……なんだと」

「採取と、調査。依頼票にそう書いてあった。浅層で草を摘んで、ついでに様子を見てこいと」

「……そりゃ、浅層の確認じゃねえか」

「そういうことになるな」

 言ってしまってから、腹の底が冷えた。

 ギルドは同じ時期に、浅層も中層も見ておきたかったのだ。

 ただし中層には、二級を何組も、金を積んで送り込んだ。

 浅層へは、五級の新人が三人。それと、その付き添いが二人。

「……なあガロ。何組って、どこだ」

「うちと、石読み(ストーンリーダー)。あとは梟目(オウルアイ)六指(セクスタント)だ」

 どれも、名前だけは知っていた。

 石読みは五人。魔石と素材の目利きで食っている一党だ。どこに何があり、いくらの値がつくかを見極めるのが本業で、今度の依頼には打ってつけだった。頭数もここがいちばん多い。

 前の三枚が揃って大盾。その隙間から短槍が一本と、後ろに魔法使いが一人。倒すための組み方ではない。生きて持ち帰るための組み方だ。

 守りに寄っているからといって、弱いわけではなかった。あの三枚の壁を割られたという話を、レンは一度も聞いたことがない。押し込まれず、崩されず、狙った獲物だけを確実に仕留めて帰ってくる。二級の看板は伊達ではなかった。

 梟目は四人。索敵に長けた感覚系の身体強化の使い手が多いと評判だ。

 六指は三人。前衛ばかりを三枚並べた荒っぽい組で、名の由来を訊く者はいない。

 どれも二級。掲示板は等級ごとに区切られていて、こいつらの札が貼られるのは、レンがいつも覗く三級の枠の隣だ。

「豪勢だな」

「だろ。おれも札を見て笑ったよ」

 ガロは肩をすくめた。

「……で、こうなった」

「……依頼は、どうすんだ」

「中断だ。全部な」

 こともなげに言った。

「怪我人を抱えて潜り直せるかよ。ま、隅々までは見れてねえから多少は減額はされるだろうが、報酬も出るだろう」

 レンは、担架の縁を握った。

 四組ぶんの実入りが、自分たちのせいで削られる。

 いや、金だけの話ではない。隅々まで見ていないということは、この連中はもう一度あそこへ潜り直す可能性もあるということだ。

「……ガロ」

「言うなよ」

 ガロは前を向いたまま言った。

「石読みの頭なんざ、お前を見て真っ先に担架を組みはじめた奴だぞ。文句のひとつも言ってねえ」

 レンは天井から目を離した。

「……なあガロ。おかしくねえか」

「何がだ」

「浅層と中層を、同じ時期に調査ときた。しかも中層にゃ、二級を四組だ」

「……ああ」

 ガロの声が低くなった。

「札を見たときにゃ、金のいい楽な仕事だとしか思わなかったんだよ。歩いて、数えて、書くだけだ。……いまになって考えりゃ、そんなもんに四組もまとめて出す理由がわからねえ」

「上は、何を考えてやがる」

「知るかよ。……けどな、ギルドが金を出すってのは、それだけのもんが返ってくると踏んだか、惜しんでる場合じゃねえと思ってるかのどっちかだ」

 レンは、担架の上で息を吐いた。

「オレたちが浅層で見たのはな。洞窟狼(ケーブウルフ)の群れだ」

「群れ?」

「数えるのが馬鹿らしくなる数だった。……あんなもん、あの浅さで出てくるもんじゃねえ」

 ガロが、しばらく黙った。

 担架を担ぐ足音だけが、通路に響いた。

「……おれたちもだ」

「あ?」

「中層に入って、まだ浅いあたりだった。黒甲蟷螂(オニキスマンティス)が出た」

 レンは思わず首を巡らせた。

「……蟷螂だと」

「二本の鎌が、おれの背丈より長かったよ」

 ガロの声が、平坦になった。

「モーグの盾が真っ二つだ。あんな割られ方は見たことがねえ。石読みの壁が三枚がかりで受け止めて、それでようやく足を止められた」

「……仕留めたのか」

「十五人でだ。半刻かかった。死人が出なかったのが不思議なくらいだ」

 ガロは息を吐いた。

「あんなもんは、中層の浅いところに湧く魔物じゃねえ。……そんで、おかしいのはそこからでな」

「そこから?」

「拍子抜けなんだよ。あれ以来、まともなのが一匹も出てこねえ。出るのは小物ばっかりだ」

「……そういや」

 少し前を歩いていたルカが、振り返らずに口を挟んだ。

「おれ、言ったよな。下が妙に静かだったって」

「言ってたな」

「あの百足を仕留めてから、まともな大物に一度も会ってねえんだ。出てくるのは浅いとこにいるような小物ばっかりだった。……深層だぞ。あんなもんじゃねえだろ」

 レンは、はじめてそれを聞いた。

 自分は眠っていた。だから知らなかった。

 だが、聞いた途端に、頭の中で線が繋がった。

 浅層に、いるはずのない数の魔物。

 中層の浅いところに、いるはずのない大物。

 深層に、いるはずのものがいない。

 そして、どこも同じだ。強いのが一度だけ出て、そのあとは空っぽになる。

 ばらばらの話が、どうしても同じほうを向いていた。

「……そんで、床に転移の罠だ」

 ガロの足が、止まった。

 担架が、わずかに揺れる。

「……なあ、レン」

 ガロが担架の柄を握り直した。

 それから、低い天井を見上げる。

「この中で、いったい何が起きてやがるんだ」

 答えは、持っていなかった。

 持っていないからこそ、言わなければならない。

 この体で報告に立てるかは、別の話だったが。


   ***


 外の光は、痛かった。

 迷宮の入口を抜けた瞬間、レンは思わず腕で顔を覆った。目の奥を刺されたように痛んで、涙が勝手に流れる。

 あの壁の光に、目が慣れきっていたのだ。

 指の隙間から、少しずつ光へ慣らしていく。

 空があった。

 夕暮れだった。灌木の生えた丘の向こうに赤が広がっている。雲の腹が金色に灼けて、そのふちが少しずつ紫に沈んでいく。

 風が吹いた。

 土と、草と、遠くの家の煙の匂いがした。

「……あ」

 誰かが声を上げた。ミラだった。

 ミラは口を押さえて、そのまま膝をついた。

「あ、あ……」

 言葉になっていない。

 その隣で、ノルドが突っ立ったまま空を見上げていた。目を見開いて、瞬きもしない。あれだけ泣かなかった少年の顔が、みるみるうちに歪んでいく。

「……帰って、きました」

 ノルドが言った。

「レンさん。おれたち、帰ってきました」

「……ああ」

 担架の上から、レンは空を見た。

 この空は、毎日ある。

 街の連中は毎日これを見て、たいして何とも思わずに一日を終える。自分だってそうだった。屋台で揚げ菓子を買って、掲示板を眺めて、安酒を飲んで寝るだけの日々の上に、これはいつも当たり前にあった。

(……当たり前だな)

 当たり前が、こんなに派手なものだとは知らなかった。

「泣けよ」

 ルカが、三人のほうを見ずに言った。

「いま泣いとけ。街に入ったら泣けねえぞ」

 ネルが、その言葉を聞いた瞬間に崩れた。

 声を上げずに、しゃがみ込んで両手で顔を覆う。肩が細かく震えている。この娘が泣くのを、レンははじめて見た。

 三人が泣いているあいだ、深酒の連中は誰も急かさなかった。

 少し離れたところで荷を下ろし、水を飲み、黙って待っていた。

 こういうときの作法を、この連中は知っている。


 ルカは、その輪から少し外れて立っていた。

 泣いている三人を見て、それから、何気なく背後を振り返った。

 迷宮の入口。石で縁取られた洞穴が、夕闇の中で黒く口を開けている。

 いつもと変わらない。変わらないはずだった。

 だが。

 その奥の、さらに奥。壁の光が届かないはずのあたりで、青白い何かが、脈打つように明滅した気がした。

(……)

 ルカは目をこすり、もう一度見た。

 もう、何もない。ただの暗がりだ。

 同時に、足の裏へ微かな震えが伝わってきた気もした。地の底で、大きなものが寝返りを打ったような。

 それも、すぐにやんだ。

(……疲れてんな、おれも)

 小さく首を振って、ルカは前へ向き直った。

 いまはそれどころではない。


「……ガロ」

 担架の上から、レンが言った。

「借りは、返す」

「やめろ」

 ガロは顔をしかめた。

「泉で拾ったもんに貸しも借りもあるかよ。あそこはそういう場所だ」

「それでも、だ」

「……ああ、そう。じゃあ酒でいい。三十杯くらいで手を打ってやる」

「高ぇな」

「命の値段だぞ。安いもんだろ」

 軽口を叩きながら、ガロは担架の柄を握り直した。

「行くぞ。日が落ちる」


   ***


 ラドフェンのギルドは、夕暮れどきの混雑の最中だった。

 依頼を終えた連中が戻り、掲示板の前で明日のぶんを漁り、隅の卓で早くも杯を傾けている。木と汗と、酒と獣脂の匂い。いつもの音。

 その音が、扉の開いた瞬間に途切れた。

 全員が振り返った。

 担架に乗せられた男。血と泥で色の分からなくなった革鎧。脚を引きずる少年と、目を腫らした娘が二人。そして、その一団を囲むように付き添う深酒達2級の連中。

「――レン!?」

 受付の奥から、しゃがれた声が飛んだ。

 マーゴだった。カウンターに手をついて、そのまま乗り越えてきそうな勢いで出てくる。膝が悪いはずのその体が、人をかき分けて走った。

「あんた、どこ行ってたんだい。四日も音沙汰なしで――」

 言いかけて、マーゴが止まった。

 担架の上の顔を、まじまじと見下ろす。

「……あんた、また無茶したね」

「……よぉ、マーゴ」

「よぉ、じゃないよ。まったく」

 マーゴは短く鼻を鳴らした。

「そのナリで挨拶が出るんなら、まだ死なないね」


 医者を呼べ、湯を沸かせ、奥の部屋を空けろ。マーゴの指示が飛び、ギルドが慌ただしく動きはじめる。

 レンは、その騒ぎの中で言った。

「……マーゴ。報告がある」

「後にしな」

「後じゃ駄目だ」

 声が掠れた。それでも押し出した。

「浅層に、転移の罠がある」


 ざわめきが、また止まった。


「……なんだって?」

「浅層の奥だ。妙に磨かれた円い広間があった。その床の中央を踏んだ瞬間、飛ばされた」

 レンは乾いた唇を舐めた。

「飛ばされた先は深層だ。四腕鬼が出た。とんでもねぇ長さの百足も出た。……オレたちは、そこから上がってきた」

 誰も、何も言わなかった。

 やがて、卓のほうから短い笑いが起きた。

「深層?」

 誰かが言った。悪気のある声ではなかった。ただ、可笑しかったのだ。

「三級と五級で?」

「そりゃ夢でも見たんだろ」

 笑いが、ぱらぱらと広がった。

「――静かにしな!」

 マーゴの一喝で、笑い声が引っ込んだ。

 マーゴは振り返り、受付の奥へ怒鳴った。

「エルナ! 控えを取るよ、紙と墨の支度を! それと、査定に人を呼びな!」

 奥から、栗色の髪を結い上げた娘が飛び出してきた。紙束を抱えて、慌てて走ってくる。

 その娘は、担架のわきに立つ三人を見た瞬間に足を止めた。

 顔から、血の気が引いていく。

 ノルド。ミラ。ネル。

 血と泥にまみれた五級の新人が三人、黙ってこちらを見返している。

「……あ」

 小さく声が漏れた。

 レンには、その反応の意味がわからなかった。

 わからないまま、いまはそれを考えている余裕もなかった。

「エルナ!」

「は、はいっ」

 娘は弾かれたようにカウンターへ戻り、紙を広げて筆を取った。その手が震えている。

「ば、場所と、日時を……お願いします」

 レンが口を開きかけた。

 その前に、脇から手が伸びた。

 ネルが、革の切れ端を綴じた束を差し出している。何も言わない。

 ルカも何も訊かなかった。当たり前のようにそれを受け取り、カウンターへ歩み寄って束を開く。

「入口から数えるぞ。三つ目の分かれ道を右。次の開けたところを、まっすぐ突っ切る。そこから左、左、右――」

 エルナの筆が、必死に追いかけた。

 ルカの声は淀まなかった。読み上げているだけではない。自分の足で歩いた道だ。

「――で、その先が例の広間だ。壁がやけに滑らかで、天井の高い、円い部屋。紋様は床の中央。踏むまでは光っちゃいなかった」

 そこから先も、ルカは詰まらずに続けた。

 飛ばされた先の様子。出くわした魔物の種類。四腕鬼の見た目と、あの百足の長さ。ネルの束をめくりながら、抜けたところは自分の記憶で埋めていく。

 レンは担架の上から、その背中を眺めていた。

 自分は、何も言わなくてよかった。


 やがて、奥から一人の男が出てきた。

 中背の、痩せた男だった。冒険者ではない。糊のきいた上着に、腰から下げた鍵束。手には板挟みの書類を持っている。

「査定の、ヴェルド・カルタです」

 男は淡々と名乗り、担架の脇にしゃがんだ。

「報告は聞きました。確認します。……あなたが受注したのは浅層の採取と調査。期日は二日以内。届出の帰還予定は、十八日の日没まで。相違ありませんね」

「……ああ」

「では、なぜ二十一日まで戻らなかったのですか」

「だから、飛ばされたと言ってる」

「転移の罠に、ですね」

 ヴェルドは書類に何か書き込んだ。

「その罠を、ほかに踏んだ者はいますか」

「知るかよ。オレたちが最初かもしれねえ」

「では、あなた方以外にその存在を確かめた者はいない、と」

「……そうなる」

「紋様は、いま残っていますか」

 レンは口をつぐんだ。

 残っているはずだ。だが確かめてはいない。上がってきたのは別の道で、あの広間へは戻っていない。

「確かめてねえ」

「未確認、と」

 ヴェルドは書き込んだ。

 その手つきに悪意はなかった。ただ、事務だった。それが、かえって感情を逆なでする。

「深層へ飛ばされたという点も、うかがいます」

 ヴェルドは書類をめくった。

「四腕鬼、および巨大な百足型の魔物。……当ギルドの記録では、四腕鬼の目撃例は深層に限られます。浅層から深層へ、罠ひとつで飛ばされたと」

「そうだ」

「そこから三日足らずで、中層最下部まで到達したと」

「……ああ」

「では、その道順を提出できますか」

「そこにある」

 ルカが、カウンターの上の紙を顎で示した。

「ぜんぶ書き取らせた。おれたちが通った道だ」

 ヴェルドはその紙を覗き込み、それからルカの手にある革の束へ目を移した。

 黙って手を伸ばす。ネルがそれを渡した。

 束をめくって光にかざし、しばらく見てから、ヴェルドはネルへ返した。

「これは、あなたの記録ですね」

「……はい」

「照合は、この場ではできません」

 静かな声だった。

「中層最下部より下の地図は、準一級以上にしか開示されません。あなたにも、私にも、閲覧の権限がない。……ですから、これが正しいかどうかを、ここで確かめる術がないのです」

「――おい」

 壁際からガロが口を挟んだ。

「なら、権限のある奴に見せりゃいいだろ。おれが持っていく」

「あなたも二級です」

 ヴェルドは振り返らずに言った。

「申請の書式なら、お預けできます。ですが、書き込むには根拠が要る。……堂々巡りなのは、承知しています」

 レンは天井を見た。

 言っていることは、筋が通っていた。

 通っているから、どうしようもなかった。


「持ち帰った素材は」

「……甲殻がある。あの百足の」

 深酒の一人が、担いできた包みを解いた。

 黒く濡れたように光る、湾曲した殻の破片。人の背丈ほどもある一枚が、床に置かれる。

 どよめきが起きた。

 ヴェルドは屈み込み、それをしばらく検分した。

「……立派なものです。買い取りはこちらで手配します」

「なら――」

「ですが」

 ヴェルドは立ち上がった。

「これが深層の個体のものである、という証明にはなりません。中層にも大型の甲殻種はおります。大きさだけでは、どの層のものか断定できない」

「あんなデカい百足が、中層にいるってのか」

「いない、とも言い切れません。私どもの記録はいる場所を書いたものであって、いない場所を保証したものではありませんから」

 言葉に詰まった。

 この男は嘘をついていない。ひとつも。

 ただ、こちらの言い分をひとつずつ記録の枠へ当てはめようとしている。そして、どれも枠に収まらない。


「……つまり、なんだよ」

 口を開いたのはルカだった。

 ずっと黙って壁際に立っていた男が、一歩前へ出る。

「浅層に罠がある。おれたちはそれで死にかけた。次に踏むのは、そこらの新人かもしれねえ。……それだけの話に、何が足りねえって言うんだ」

「証拠です」

 ヴェルドはルカを見て言った。

「あなた方の証言を疑ってはいません。ですが、証言だけで層は閉じられない。浅層は、この街の駆け出しにとって、ほとんど唯一の稼ぎ場です。あそこを閉じれば、明日から食えなくなる者が何十人と出ます」

「……」

「調査隊を出すにも根拠が要ります。上へ通すには、書式の整った根拠が」

 ヴェルドは書類の束を揃え、脇に挟んだ。

「報告は記録として受理します。異常の届出として、番号もつけます。ですが、緊急の措置には該当しません。……以上です」

 彼は一礼して、奥へ戻っていった。

 誰も、追わなかった。


 ざわめきが、少しずつ戻ってきた。

 卓のほうから、また声が聞こえる。

「五級を連れて深部から生還、ねえ」

法螺(ほら)もほどほどにしな。生きて帰れただけで上等じゃねえか」

「どうせルカの雷だろ。あの兄ちゃんが撃ちまくったんだ」

 悪意ではなかった。

 悪意ではないから、質が悪かった。

「……あんたたち!」

 マーゴが振り返ろうとするのを、レンは止めた。

 担架の縁から、袖を引く。

「やめとけ」

「けどね、あんた」

「いいんだ」

 レンは天井を見たまま言った。

「番号はついた。記録は残る。……いまは、それでいい」

「よかないよ」

 マーゴの声が震えていた。

「あたしゃ受付だ。書類は書ける。だけど、通すのはあたしじゃない」

 その悔しさが、どこへも行き場のないものだと、レンにもわかった。

 この人が悪いのではない。ヴェルドも悪くない。笑った連中も、明日には忘れる程度の軽口を叩いただけだ。

 誰も悪くない。

 誰も悪くないまま、あの紋様は迷宮の浅層に残っている。


「……レンさん」

 担架の脇で、ノルドが拳を握っていた。

「おれ、悔しいです」

「全員で生きて帰れたんだ」

 レンは天井を見たまま言った。

「それが結果だ。他は、おまけみてえなもんだ」

 ノルドは何か言いかけて、やめた。


 奥の部屋へ運ばれる直前、レンは扉のほうを見た。

 開け放たれた扉の向こう、通りの先。石畳が夕闇に沈んでいく。

 その道の、ずっと先。

 街道を抜けて、灌木の丘の裾に、あの穴がある。


 報告には番号がつき記録された。

 だが、それだけだ。

 浅層に湧きすぎる魔物。中層の浅いところに出た大物。空っぽになった深層。そして、床に開いた穴。

 ひとつずつなら、たまたまで片づく話だった。

(……いったい、何が起きようとしてやがる)


 答える者は、どこにもいなかった。

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