第07話 生きて還る
「帰るぞ。全員でだ」
そう言ったところまでは、はっきり覚えている。
その先が、ない。
視界の端から黒が寄ってきて、四人の顔が遠ざかって、それきりだった。
***
次に浮かび上がったとき、耳が先に戻ってきた。
硬いものを削る音。金具の触れ合う音。誰かが何かを引きずっている。
目を開けると、壁にもたれた自分の膝先で、ノルドが大剣を杖のように使って節をこじ開けていた。その隙間へ、ルカとネルが腕を突っ込んでいる。
「……何やってんだ、お前ら」
「お、起きた」
ルカが顔を上げた。腕まで真っ黒に汚れている。
「素材だよ。あんなデカいのを仕留めたんだぞ。持てるだけ持って帰りゃ、しばらく遊んで暮らせる」
「……そりゃ、そうだ」
言おうとしたことが、うまく言葉にならなかった。
持ち帰るものがなければ、ここで死にかけた意味が半分になる。それに、あの化け物を倒したという証しが要る。あんなものが浅い層の下にいたと口で言っても、誰も信じはしない。
そこまで考えて、続きが繋がらなくなった。
考えるという行為が、やけに重い。頭のどこかに水が溜まっているようだった。
「……オレ、どんだけ寝てた」
「知るかよ。……半刻か、そこらだ」
ルカは手を止めずに答えた。
「安心しろ。まだどこも動いてねえ。お前が倒れたとこから、ちっとも進んじゃいねえよ」
「……そうかよ」
「だから寝てろ。壁と同じ色の顔してんぞ」
言い返そうとして、瞼が落ちた。
***
「レンさん。……レンさん」
肩を揺すられて、また浮かんだ。
まだ同じ広間だった。だが百足の解体はずいぶん進んでいて、脇には剥ぎ取った甲殻が積み上げられている。
「……今度は、どんだけだ」
「たぶん、一刻半くらいだと思います」
目の前にネルがいた。訊いたことに、この娘はいつも律儀に答える。
「時計がないので、はっきりとは。……レンさん、さっきから同じことを訊いてます」
「……そうか」
覚えていなかった。
ネルは責める顔もせず、手にしたものを差し出してきた。
「……なんだ、それ」
「腹の中から、出ました」
細長いものだった。
剣だ。
鞘は焼け落ちて、刃が剥き出しになっている。表面に胃液の名残がこびりつき、鈍く濁っていた。それでも刃こぼれはなく、まっすぐだ。
「一緒に、鎧の破片とか、革とか……」
ネルの声が、わずかに沈んだ。
「たぶん、人のものです」
レンは、しばらく黙ってそれを見ていた。
誰かがここまで来て、あの化け物と出くわして、そして喰われた。名前も知らない誰かが。自分たちよりずっと先に、この場所へ辿り着いた誰かが。
(……オレたちは、運が良かっただけだ)
ノルドの一撃が入らなければ。ルカの雷が残っていなければ。刺した剣の位置が少しずれていれば。どれかひとつ欠けていたら、いまごろこの節の中に、自分たちの装備が混じっていた。
「よこせ」
手を伸ばすと、指先が震えた。
ミラが慌てて水を出し、剣をざっと洗ってから、両手で運んでくる。
受け取って、まず重さを確かめた。
悪くない。手に馴染む重さだ。刃渡りは自分の剣より少し長いくらいで、拵えは実用一辺倒。装飾のたぐいはほとんどない。
ただ、柄と鍔に、細かい文字が刻まれていた。
いくつも、重なって。
「……銘か」
目を凝らす。
表の層の文字は読めた。人の名だろう。だがその下に、うっすらと別の文字が透けている。さらにその下にも。
持ち主が変わるたび、上から新しい名を刻んできたらしい。
いちばん古い層の文字は、もう形が崩れていた。読めないというより、見たことのない字だった。
(……ずいぶん、古いもんだな)
「それ、使うのか?」ルカが覗き込んできた。
「……使うだろ」
舌が重い。それでも、口は動いた。
「オレの得物はあの通りだ。腰にあるのは魚をさばくのがせいぜいのナイフ一本。……持ち主も、深いとこで腐らせとくよりゃマシだと思うだろ」
ちょうどいい。使わせてもらうか。
そう思って、柄を握り直した。
その瞬間だった。
手が、勝手に動いた。
いや、動かされた、というほうが近い。
握った指の位置が、ひとりでに直る。親指の当てる場所が変わり、手首の角度が変わり、肘の畳み方が変わった。自分の意思ではない。この手が誰か別の人間のものになったようだった。
「……っ」
同時に、頭の中へなだれ込んできたものがある。
映像とも呼べない断片だった。
剣を握る手。自分の手ではない。もっと骨ばった、大きな手だ。
地面を蹴る足の運び。踏み込みの深さ。腰の落とし方。何千回と繰り返して体に染みついた、正しい形。
誰かが誰かに教えている声。低い声。もっと肩を落とせ、剣は腕で振るな、と言っている。
――違う。
それは記憶ではなく、知識として入ってきた。剣の握り方をいまはじめて教わったのに、二十年前から知っていたような感覚だった。
そして。
闇が来た。
狭い通路。壁の青い光。荒い息。走っている。ずっと走っている。
背後で、軋む音。
ぎち、ぎち、ぎち。
振り返るな。振り返れば死ぬ。だが足がもつれる。誰かの名を呼んだ。返事はない。もう誰もいない。ひとりだ。
行き止まり。
背後で、大顎が開く音。
――嫌だ。
――まだ、帰って、
「レン!?」
肩を揺さぶられて、我に返った。
息が上がっていた。全身にびっしょりと汗をかいている。動かないはずの手が、柄を万力のように握りしめていた。
「おい、どうした! 急に固まりやがって」
「……ああ」
声が出るまで、少し時間がかかった。
「……なんでもねぇ」
嘘だった。
いまのは、なんだ。
自分は座ったままだ。どこにも行っていない。なのに、たしかに走った。誰かの足で。誰かの息で。行き止まりの壁に突き当たって、背後で大顎が開く音を聞いた。
あれは、この剣の前の持ち主だ。
考えるまでもなく、そう理解していた。理由は説明できない。ただ、そうだとわかった。
(……喰われる瞬間まで、丸ごと入ってきやがった)
胃の底が冷たい。
だが同時に、頭のどこかでこうも思っていた。
(……夢か?)
血が足りない。ものを考えるだけで視界が滲む。こんな頭が見せた出来事を、どこまで本当だと思っていいのか。
わからなかった。
それでも、剣を放り出しはしなかった。
握った手が、放したがらなかったからだ。
あの断片の最後に、たしかに聞こえたものがある。
――まだ、帰って。
最後まで言えなかった言葉だ。帰っていない、だったのか。帰りたい、だったのか。それとも誰かに帰ってほしかったのか。
どれであれ、同じことだと思った。
(……あんたも、帰りたかったのか)
「……レン。お前、いま」
ルカが、じっとこちらを見ていた。犬に似た耳が、警戒するように立っている。
「なんだよ」
「その剣、光ったぞ」
「光った?」
「一瞬だけどな。お前が握った瞬間、柄のあたりが、ぽっと」
ルカは唾を飲み込んで、それから言った。
「魔剣じゃねえか、それ」
魔剣。話には聞く。迷宮でごく稀に見つかる、妙な力を宿した装備。剣に限らず、鎧や盾にもあるという。
だが、そんなものは伝説めいた与太話だと思っていた。少なくとも、自分のような三級の冒険者が手に取るものではないと。
「……貸してみろよ」
ルカが手を伸ばした。
黙って柄を差し出す。ルカが両手で握り、目を閉じて、しばらくじっとしていた。それから、拍子抜けした顔を上げた。
「……なんもねえ」
「なんもねえ?」
「ただの剣だ。ちょっといい鋼だな、ってくらいでよ。何も流れてこねえし、光りもしねえ」
剣を返しながら、ルカが眉を寄せた。
「おい、これどういうことだよ。魔法が使えるのはこっちだぞ。なんでお前だけ反応すんだ」
「……相性ってやつじゃねえのか」
「そりゃそうだけどよ」
ルカは納得のいかない顔で、剣とレンを見比べている。
「魔剣ってのは持ち主を選ぶんだと。使わせてやるかどうか、向こうが決める。……だから相性が悪けりゃ、どんなに腕が立とうが、ただの鉄の棒だ」
「じゃあ、そういうことだろ」
「そういうことじゃねえよ。おかしいだろ。魔法も身体強化も使えねえお前が、なんで魔剣に選ばれんだよ。順番が――」
ルカの声が、途中から遠くなった。
答えようとした。だが言葉が浮かぶ前に、瞼が落ちていた。
***
揺れている。
規則的に、上下している。
それが人の足取りだと気づくまで、しばらくかかった。
目を開けると、すぐ下に少年のうなじがあった。汗で髪が張りついている。
「……ノルド、か」
「あ、起きました?」
背負われていた。
いつの間に、と思った。だが、いつの間にもなにも、そこへ至る記憶がまるごと抜けている。
「……どんだけ寝てた」
「たぶん、まる一日くらいです」
聞き間違いかと思った。
「……一日?」
「はい。あの広間を出て、一度野営しました。だから、二日目のはずです」
周りを見た。
壁の造りが違う。天井が下がり、通路も狭まっていた。両腕を広げた男が二人並べば、指の触れ合う程度の幅しかない。あの広間の名残など、どこにもなかった。
自分の知らないうちに、この一党は一日ぶんは歩いている。魔物とも当たったはずだ。野営もした。飯も食った。そのどれひとつ、身に覚えがない。
(……冗談じゃねぇぞ)
迷宮には昼も夜もない。壁の放つ光はいつも同じ明るさで、時が過ぎた印はどこにも残らない。
まばたきひとつぶんの暗闇の裏側に、一日が落ちていた。
「……重いだろ」
「平気です」
「腿は」
「もう平気です。歩くぶんには、ほとんど支障ありません」
嘘だな、と思った。
背負われているぶん、この少年の歩き方は手に取るようにわかる。左脚を踏むたび、わずかに沈みが浅い。かばっているのだ。
痛いなら痛いと言え、と教えたのは自分だ。
その自分が、いまこの背中に乗っている。
(……都合のいい話だな、オレも)
「……重くねぇか」
「はい。……でも、大丈夫です」
「……悪ぃな」
「だって、レンさん言ったじゃないですか。自分の足で、自分と仲間の命だけ持って帰れって」
「……言ったな」
「おれ、いまそれをやってるだけです」
言い返す言葉を探した。
探しているうちに、また意識が沈んだ。
***
ルカにとって、その道行きは、生涯忘れられないものになった。
迷宮には昼も夜もない。刻を告げる鐘もなければ、影の傾きもない。だから日は、眠った回数で数えるしかなかった。
一度目の野営は、あの広間を出てしばらく歩いた先。二度目は、ネルが引き返しを決めた行き止まりの手前。
それが本当に一日ぶんずつなのかは、誰にもわからない。ただ、ルカは節目ごとに指を折り、そのたび、まだ二本しか折れていないことに苛立った。
先頭を歩きながら、何度も背後を確かめた。ノルドの背で、レンの頭が力なく揺れている。時折うわ言のようなものを漏らし、また静かになる。
何度目かに振り返ったとき、息をしているかどうかわからなくて、思わず足を止めたこともあった。
(……死ぬなよ)
口には出さない。出せば、後ろの三人が崩れる。
魔物には、何度も出くわした。そのたびに、四人で凌いだ。
ルカが最低限の雷を放ち、群れの足を止める。ミラが《水弾》で目を潰す。ネルが風をまとった石で脚を崩す。ノルドはレンを背負ったまま、大剣を片手で振り回して壁になった。
どれも一撃で仕留められるものではない。
だが、逃げるだけの隙間を作るには足りた。
凌げてしまうことが、ルカには不気味だった。
出てくるのは黒甲蟲か、それより小さい虫ばかりだ。数は多い。だが、それだけだった。
あの百足を境に、まともな大物には一度も当たっていない。四腕鬼ほどのものすら、影も見ない。
(……おかしいだろ)
ここは、あの化け物が棲んでいた場所の続きだ。四腕鬼が出て、あの百足が出た。そういう深さのはずだった。
なのに、いま前を塞いでくるのは、中層の前半でも見かける顔ぶればかりだ。子どもが三人と、魔力の底が見えた魔法使いが一人。その面子で捌けてしまう程度の相手しか、出てこない。
(……あいつが、この辺りの主だったのか)
そう考えれば、いちおうの筋は通る。頭を失った巣は静かになるものだ。
腑に落ちてはいなかった。
静かすぎるのだ。魔物が減ったというより、上へ行ってしまったあとの空き家を歩いている。そんな感じがする。
ふと、浅層で洞窟狼百足の群れに囲まれたときのことを思い出した。あんな数、あの深さで出るはずのないものだった。
(……上と下が、入れ替わってやがるみてえだ)
思いついてしまってから、ルカは首を振った。
いま考えることではない。答えが出たところで、背中の男の血が戻るわけでもない。
層が変わったと気づいたのは、三度目の野営を前にした頃だった。
道そのものが変わったわけではない。狭いところの幅は相変わらずで、ノルドが大剣を振り回せるだけの高さもある。
変わったのは、道の数だった。
歩けば歩くほど枝分かれする。どれも同じ顔をしている。突き当たりかと思えば横へ折れ、折れた先でまた三つに割れる。壁は滑らかで、傷ひとつぶんの違いもない。
中層が広いことなら、ルカも知っていた。
だが知っていたのは、入口寄りの一角だけだ。三級が請ける依頼は、その範囲で用が足りる。奥へ踏み込む理由が、これまで一度もなかった。
いま歩いているのは、その奥だった。
半日歩いて、まだ同じ層にいる。次の半日も、その次も。上へ抜ける道は一向に現れない。深層は、袋小路へ追い込んで人を殺す。ここは違う。ただ広いというだけで、人を歩き殺す。
「……まだ、続くんですか」
ミラが誰にともなく呟いた。
答えられる者はいなかった。
ここで方角を見失えば、それきりだ。魔物に殺される前に、同じ道を回り続けて干からびる。
ルカは、二番目を歩く小さな背中を見た。
ネルは黙々と歩きながら、時折立ち止まって壁の一点を見つめ、また歩き出す。何を目印にしているのかは、訊いても答えられないだろう。この娘の頭の中にしかない地図だ。
(……こいつがいなけりゃ、ここで終わってた)
「右から二匹!」
「ノルド、下がって!」
「ネルちゃん、そっち!」
指示など、もう出していなかった。
三人が勝手に声を掛け合っている。誰がどこを見て、誰が何をするか、言わなくても回りはじめていた。
(……こいつら、いつの間に)
浅層で洞窟狼に囲まれたときは、震えて縮こまるだけだったのだ。レンが指示を出さなければ、何ひとつ動けなかった。
それが、いまはどうだ。
誰も倒れない。誰も逃げない。傷だらけで、泣きながら、それでも足を止めずに前へ進んでいる。
ルカは何も言わず、前へ向き直った。
一度だけ、レンが動いたことがあった。
通路の角を曲がった直後、天井から一匹が落ちてきたのだ。ノルドの真上へ。
ルカが声を上げる間もなかった。
背負われたまま、レンの右手が動いた。
腰の剣を抜き、不安定な体勢のまま、落ちてくる影へ真下から突き上げる。
刃は、寸分の狂いもなく黒甲蟲の複眼を貫いていた。
どさり、と骸が床へ落ちる。
「……え」
ノルドが足を止めた。
「い、いま、レンさんが」
「レン!? おい、起きたのか!」
だが、返事はなかった。
剣を握ったまま、レンの頭はまた力なく垂れている。目は閉じたままだ。
ルカは、その手の中の剣を見た。
寝ている男が、目も開けずに、落下してくる魔物の複眼を一突きで貫いた。
偶然で片づけるには、あまりに正確すぎた。
(……なんなんだよ、その剣は)
背筋を、嫌なものが這い上がった。
***
食料が尽きたのは、二度目の野営でだった。
もともと一日で戻る算段の荷だ。転移で落とされてから削りに削って、よく保ったほうだった。
最後の堅パンを分けたのはネルだった。誰が言い出したわけでもなく、いつのまにかこの娘が荷物の管理をするようになっていた。
「レンさん。口、開けてください」
揺すられて、レンはうっすらと目を開けた。
何が起きているのか、すぐには呑み込めない。目の前に、小さくちぎったパンを持った指がある。
「……自分で食える」
「手が、震えてます」
言われて、自分の指を見た。
なるほど、震えていた。パンひとつ、まともに割れないくらいには。
黙って口を開けると、ネルがそれを押し込んできた。屈辱的なはずなのに、不思議とそんな気は起きなかった。この娘の手つきが、あまりに淡々としていたからかもしれない。
水の入った革袋も回ってきた。ミラが出した水だろう。腹は減っても、渇きだけは来ない。
(……こいつがいなけりゃ、とっくに死んでたな)
薄れかけた頭で、レンはぼんやりと考えた。
誰が欠けても駄目だった。ノルドの背がなければ運べない。ネルの記憶がなければ迷う。ミラの水がなければ乾く。ルカの耳がなければ、寝込みを襲われて終わっている。
自分ひとりで守っているつもりだった。
いま守られているのは、こちらだ。
そこまで考えて、また落ちた。
***
「――レンさん! レンさん、起きてください!」
肩を強く揺すられた。
今度は、いつもより手荒だった。
「……なんだ。……いま、何日目だ」
「たぶん、四日目です。それより、前を見てください」
ネルの声が、上ずっている。
ノルドの背から、顔を上げた。
通路の先が、明るい。
いや、明るさの質が違う。壁がにじませる鈍い光ではない。もっと広い場所から溢れてくる、面で押してくるような光だ。
ルカが足を速めた。
驚いた足取りではなかった。確かめに行く足取りだった。ノルドがそれに続く。
通路を抜けた先で、視界がいきなり開けた。
草地だった。
練兵場ほどの広さの床いちめんに、短い芝が、揃った丈で生えている。踏み固められた小道の跡まであった。中央には泉がある。円く縁取られた水面が、天井の光を受けて静かに揺れていた。
そして、気配がない。
四日のあいだ片時も途切れなかった、あの粘つくような圧が、境目をまたいだ途端に消えていた。
「……やっぱりか」
ルカが低く呟いた。
「ここ、なんですか」
ミラが掠れた声を出す。
「安全地帯だ」
答えたのは、レンだった。
自分でも驚くほど、はっきりと声が出た。
この迷宮で魔物が踏み込まない場所は、中層のいちばん底にあるここひとつきり。深層へ挑む連中が最後の支度を整えるための足場で、冒険者は気取らず、ただ「泉」と呼ぶ。
中層なら、これまで何度も踏んでいる。だが底までは下りたことがなかった。三級が受ける依頼で、そこまで用のあった試しがない。
話に聞くだけだった草地を、レンはいま、はじめて目にしていた。
(……中層の底まで、上がってきたのか)
四日かけて。眠りこけた男を背負って。新人が三人と、獣人が一人で。
「……気づいてたのか」
「壁の造りが変わってたからな」
ルカは、こちらを見ずに答えた。
「三日目あたりから、中層に入ったかもしれねえとは思ってた」
「言わなかったのか」
「外れてたら、あいつらが折れる」
それだけ言って、ルカは草地を見渡した。
「話にゃ聞いてたけどな。……はじめて拝むのが、こんなナリでとはよ」
レンは、腰の剣の柄へそっと手を触れた。
冷たい鋼の感触。刻まれた、いくつもの重なった銘。
誰かが、この道の途中で力尽きた。名前も知らない誰かが、帰れずに終わった。
(……あんたの分も、持って帰るぞ)
誰にともなく、そう思った。
泉のほとりに、人がいた。
十五人はいた。ひとつの一党にしては多すぎる。いくつかの組が示し合わせて集まったのだろう。
ひと目で装備の質が違うとわかった。磨き込まれた金属鎧。揃いの外套。地面に敷いた布の上で荷を仕分ける手つきに、迷いがない。
(……これから、下りるのか)
霞んだ頭で、ぼんやりとそう思った。
深層へ挑むつもりなら、この人数も頷ける。もっとも、そうと決まったわけでもない。考えはそこで途切れた。
その中の一人が、こちらに気づいて顔を上げた。
芝にあぐらをかいた、大柄な男だった。傍らに、鞘ごと外した両手剣が無造作に転がしてある。
「……おい。おいおいおい」
男が、荷を放り出して立ち上がる。
太い声が草地を渡ってきた瞬間、ルカの耳がぴくりと動いた。
「……ガロ?」
「ガロ、じゃねえよ。なんだそのザマは」
ガロ・ステルン。深層へ潜る一党「深酒」の頭で、ラドフェンの安酒場で数えきれないほど同じ卓を囲んだ男だ。
その後ろから、二人が続いてくる。斥候のイーナと、大盾のモーグ。どちらも顔を知っている。どちらも、こんなところで会う相手ではなかった。
「お前ら、なんでこんな下にいる。しかもガキ連れで」
「……こっちが訊きてえよ」
ルカが笑おうとした。
笑いの形にはならなかった。
「なあガロ。おれ、たぶん、もう」
そこで言葉が切れた。
立っていたはずの膝が、糸を抜かれたように折れる。
四日のあいだ一度も緩めなかったものが、知った顔を見た途端に緩んだのだ。
「おいっ!」
ガロが駆け出した。芝を蹴る音がいくつも重なり、遅れて草地じゅうの人間が動きはじめる。
崩れたルカを抱き起こしたガロが、その向こうにいる者を見て、動きを止めた。
「……レン?」
声の調子が、変わった。
「おい、レン。お前――血だらけじゃねえか。どうなってやがる」
背中が、ゆっくりと傾いた。
ノルドが膝をついたのだと、遅れて気づいた。四日間、一度も折れなかった膝だ。
誰かの腕が、滑り落ちる体を受け止めた。厚い革の匂いがする。生き物の熱がある。
仰向けにされて、レンはようやく天井を見た。
「傷を見せろ! おい、この男、血が――」
「そっちの子も診てやれ! 脚をやられてる!」
「水だ、誰か水を汲んでこい!」
怒鳴り声が飛び交っている。
人の手が、次々に体を検めていく。ネルが自分の名を呼んでいる。ミラの泣き声がする。ノルドは、まだ何か謝っていた。
レンは、それを遠くに聞きながら、目だけを動かした。
ルカ。
ノルド。
ミラ。
ネル。
四つ、数えた。
(……五人だ)
帰るぞ、全員でだ。
そう言ったからには、そうする。ただ、それだけのことだった。
「おい、レン。聞け。しっかりしろ」
覗き込んできたガロの顔が、視界を塞いだ。
「お前ら、どこから上がってきた」
答えるのが、億劫だった。
それでも、口だけが動いた。
「……下だ」
ガロの顔から、表情が抜け落ちた。
「下って、お前――」
その先は、聞こえなかった。
そこから先のことを、レンは何ひとつ覚えていない。




