表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
血盟の冒険者  作者: ニワネコ図


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/13

第07話 生きて還る

「帰るぞ。全員でだ」

 そう言ったところまでは、はっきり覚えている。

 その先が、ない。

 視界の端から黒が寄ってきて、四人の顔が遠ざかって、それきりだった。


   ***


 次に浮かび上がったとき、耳が先に戻ってきた。

 硬いものを削る音。金具の触れ合う音。誰かが何かを引きずっている。

 目を開けると、壁にもたれた自分の膝先で、ノルドが大剣を杖のように使って節をこじ開けていた。その隙間へ、ルカとネルが腕を突っ込んでいる。

「……何やってんだ、お前ら」

「お、起きた」

 ルカが顔を上げた。腕まで真っ黒に汚れている。

「素材だよ。あんなデカいのを仕留めたんだぞ。持てるだけ持って帰りゃ、しばらく遊んで暮らせる」

「……そりゃ、そうだ」

 言おうとしたことが、うまく言葉にならなかった。

 持ち帰るものがなければ、ここで死にかけた意味が半分になる。それに、あの化け物を倒したという証しが要る。あんなものが浅い層の下にいたと口で言っても、誰も信じはしない。

 そこまで考えて、続きが繋がらなくなった。

 考えるという行為が、やけに重い。頭のどこかに水が溜まっているようだった。

「……オレ、どんだけ寝てた」

「知るかよ。……半刻か、そこらだ」

 ルカは手を止めずに答えた。

「安心しろ。まだどこも動いてねえ。お前が倒れたとこから、ちっとも進んじゃいねえよ」

「……そうかよ」

「だから寝てろ。壁と同じ色の顔してんぞ」

 言い返そうとして、瞼が落ちた。


   ***


「レンさん。……レンさん」

 肩を揺すられて、また浮かんだ。

 まだ同じ広間だった。だが百足の解体はずいぶん進んでいて、脇には剥ぎ取った甲殻が積み上げられている。

「……今度は、どんだけだ」

「たぶん、一刻半くらいだと思います」

 目の前にネルがいた。訊いたことに、この娘はいつも律儀に答える。

「時計がないので、はっきりとは。……レンさん、さっきから同じことを訊いてます」

「……そうか」

 覚えていなかった。

 ネルは責める顔もせず、手にしたものを差し出してきた。

「……なんだ、それ」

「腹の中から、出ました」

 細長いものだった。

 剣だ。

 鞘は焼け落ちて、刃が剥き出しになっている。表面に胃液の名残がこびりつき、鈍く濁っていた。それでも刃こぼれはなく、まっすぐだ。

「一緒に、鎧の破片とか、革とか……」

 ネルの声が、わずかに沈んだ。

「たぶん、人のものです」

 レンは、しばらく黙ってそれを見ていた。

 誰かがここまで来て、あの化け物と出くわして、そして喰われた。名前も知らない誰かが。自分たちよりずっと先に、この場所へ辿り着いた誰かが。

(……オレたちは、運が良かっただけだ)

 ノルドの一撃が入らなければ。ルカの雷が残っていなければ。刺した剣の位置が少しずれていれば。どれかひとつ欠けていたら、いまごろこの節の中に、自分たちの装備が混じっていた。

「よこせ」

 手を伸ばすと、指先が震えた。

 ミラが慌てて水を出し、剣をざっと洗ってから、両手で運んでくる。

 受け取って、まず重さを確かめた。

 悪くない。手に馴染む重さだ。刃渡りは自分の剣より少し長いくらいで、(こしら)えは実用一辺倒。装飾のたぐいはほとんどない。

 ただ、柄と鍔に、細かい文字が刻まれていた。

 いくつも、重なって。

「……銘か」

 目を凝らす。

 表の層の文字は読めた。人の名だろう。だがその下に、うっすらと別の文字が透けている。さらにその下にも。

 持ち主が変わるたび、上から新しい名を刻んできたらしい。

 いちばん古い層の文字は、もう形が崩れていた。読めないというより、見たことのない字だった。

(……ずいぶん、古いもんだな)

「それ、使うのか?」ルカが覗き込んできた。

「……使うだろ」

 舌が重い。それでも、口は動いた。

「オレの得物はあの通りだ。腰にあるのは魚をさばくのがせいぜいのナイフ一本。……持ち主も、深いとこで腐らせとくよりゃマシだと思うだろ」

 ちょうどいい。使わせてもらうか。

 そう思って、柄を握り直した。


 その瞬間だった。


 手が、勝手に動いた。

 いや、動かされた、というほうが近い。

 握った指の位置が、ひとりでに直る。親指の当てる場所が変わり、手首の角度が変わり、肘の畳み方が変わった。自分の意思ではない。この手が誰か別の人間のものになったようだった。

「……っ」

 同時に、頭の中へなだれ込んできたものがある。

 映像とも呼べない断片だった。

 剣を握る手。自分の手ではない。もっと骨ばった、大きな手だ。

 地面を蹴る足の運び。踏み込みの深さ。腰の落とし方。何千回と繰り返して体に染みついた、正しい形。

 誰かが誰かに教えている声。低い声。もっと肩を落とせ、剣は腕で振るな、と言っている。

 ――違う。

 それは記憶ではなく、知識として入ってきた。剣の握り方をいまはじめて教わったのに、二十年前から知っていたような感覚だった。

 そして。

 闇が来た。

 狭い通路。壁の青い光。荒い息。走っている。ずっと走っている。

 背後で、軋む音。

 ぎち、ぎち、ぎち。

 振り返るな。振り返れば死ぬ。だが足がもつれる。誰かの名を呼んだ。返事はない。もう誰もいない。ひとりだ。

 行き止まり。

 背後で、大顎が開く音。

 ――嫌だ。

 ――まだ、帰って、

「レン!?」

 肩を揺さぶられて、我に返った。

 息が上がっていた。全身にびっしょりと汗をかいている。動かないはずの手が、柄を万力のように握りしめていた。

「おい、どうした! 急に固まりやがって」

「……ああ」

 声が出るまで、少し時間がかかった。

「……なんでもねぇ」

 嘘だった。

 いまのは、なんだ。

 自分は座ったままだ。どこにも行っていない。なのに、たしかに走った。誰かの足で。誰かの息で。行き止まりの壁に突き当たって、背後で大顎が開く音を聞いた。

 あれは、この剣の前の持ち主だ。

 考えるまでもなく、そう理解していた。理由は説明できない。ただ、そうだとわかった。

(……喰われる瞬間まで、丸ごと入ってきやがった)

 胃の底が冷たい。

 だが同時に、頭のどこかでこうも思っていた。

(……夢か?)

 血が足りない。ものを考えるだけで視界が滲む。こんな頭が見せた出来事を、どこまで本当だと思っていいのか。

 わからなかった。

 それでも、剣を放り出しはしなかった。

 握った手が、放したがらなかったからだ。

 あの断片の最後に、たしかに聞こえたものがある。

 ――まだ、帰って。

 最後まで言えなかった言葉だ。帰っていない、だったのか。帰りたい、だったのか。それとも誰かに帰ってほしかったのか。

 どれであれ、同じことだと思った。

(……あんたも、帰りたかったのか)

「……レン。お前、いま」

 ルカが、じっとこちらを見ていた。犬に似た耳が、警戒するように立っている。

「なんだよ」

「その剣、光ったぞ」

「光った?」

「一瞬だけどな。お前が握った瞬間、柄のあたりが、ぽっと」

 ルカは唾を飲み込んで、それから言った。

「魔剣じゃねえか、それ」

 魔剣。話には聞く。迷宮でごく稀に見つかる、妙な力を宿した装備。剣に限らず、鎧や盾にもあるという。

 だが、そんなものは伝説めいた与太話だと思っていた。少なくとも、自分のような三級の冒険者が手に取るものではないと。

「……貸してみろよ」

 ルカが手を伸ばした。

 黙って柄を差し出す。ルカが両手で握り、目を閉じて、しばらくじっとしていた。それから、拍子抜けした顔を上げた。

「……なんもねえ」

「なんもねえ?」

「ただの剣だ。ちょっといい鋼だな、ってくらいでよ。何も流れてこねえし、光りもしねえ」

 剣を返しながら、ルカが眉を寄せた。

「おい、これどういうことだよ。魔法が使えるのはこっちだぞ。なんでお前だけ反応すんだ」

「……相性ってやつじゃねえのか」

「そりゃそうだけどよ」

 ルカは納得のいかない顔で、剣とレンを見比べている。

「魔剣ってのは持ち主を選ぶんだと。使わせてやるかどうか、向こうが決める。……だから相性が悪けりゃ、どんなに腕が立とうが、ただの鉄の棒だ」

「じゃあ、そういうことだろ」

「そういうことじゃねえよ。おかしいだろ。魔法も身体強化も使えねえお前が、なんで魔剣に選ばれんだよ。順番が――」

 ルカの声が、途中から遠くなった。

 答えようとした。だが言葉が浮かぶ前に、瞼が落ちていた。


   ***


 揺れている。

 規則的に、上下している。

 それが人の足取りだと気づくまで、しばらくかかった。

 目を開けると、すぐ下に少年のうなじがあった。汗で髪が張りついている。

「……ノルド、か」

「あ、起きました?」

 背負われていた。

 いつの間に、と思った。だが、いつの間にもなにも、そこへ至る記憶がまるごと抜けている。

「……どんだけ寝てた」

「たぶん、まる一日くらいです」

 聞き間違いかと思った。

「……一日?」

「はい。あの広間を出て、一度野営しました。だから、二日目のはずです」

 周りを見た。

 壁の造りが違う。天井が下がり、通路も狭まっていた。両腕を広げた男が二人並べば、指の触れ合う程度の幅しかない。あの広間の名残など、どこにもなかった。

 自分の知らないうちに、この一党は一日ぶんは歩いている。魔物とも当たったはずだ。野営もした。飯も食った。そのどれひとつ、身に覚えがない。

(……冗談じゃねぇぞ)

 迷宮には昼も夜もない。壁の放つ光はいつも同じ明るさで、時が過ぎた印はどこにも残らない。

 まばたきひとつぶんの暗闇の裏側に、一日が落ちていた。

「……重いだろ」

「平気です」

「腿は」

「もう平気です。歩くぶんには、ほとんど支障ありません」

 嘘だな、と思った。

 背負われているぶん、この少年の歩き方は手に取るようにわかる。左脚を踏むたび、わずかに沈みが浅い。かばっているのだ。

 痛いなら痛いと言え、と教えたのは自分だ。

 その自分が、いまこの背中に乗っている。

(……都合のいい話だな、オレも)

「……重くねぇか」

「はい。……でも、大丈夫です」

「……悪ぃな」

「だって、レンさん言ったじゃないですか。自分の足で、自分と仲間の命だけ持って帰れって」

「……言ったな」

「おれ、いまそれをやってるだけです」

 言い返す言葉を探した。

 探しているうちに、また意識が沈んだ。


   ***


 ルカにとって、その道行きは、生涯忘れられないものになった。

 迷宮には昼も夜もない。刻を告げる鐘もなければ、影の傾きもない。だから日は、眠った回数で数えるしかなかった。

 一度目の野営は、あの広間を出てしばらく歩いた先。二度目は、ネルが引き返しを決めた行き止まりの手前。

 それが本当に一日ぶんずつなのかは、誰にもわからない。ただ、ルカは節目ごとに指を折り、そのたび、まだ二本しか折れていないことに苛立った。

 先頭を歩きながら、何度も背後を確かめた。ノルドの背で、レンの頭が力なく揺れている。時折うわ言のようなものを漏らし、また静かになる。

 何度目かに振り返ったとき、息をしているかどうかわからなくて、思わず足を止めたこともあった。

(……死ぬなよ)

 口には出さない。出せば、後ろの三人が崩れる。

 魔物には、何度も出くわした。そのたびに、四人で凌いだ。

 ルカが最低限の雷を放ち、群れの足を止める。ミラが《水弾(アクアバレット)》で目を潰す。ネルが風をまとった石で脚を崩す。ノルドはレンを背負ったまま、大剣を片手で振り回して壁になった。

 どれも一撃で仕留められるものではない。

 だが、逃げるだけの隙間を作るには足りた。


 凌げてしまうことが、ルカには不気味だった。

 出てくるのは黒甲蟲(オニキスビートル)か、それより小さい虫ばかりだ。数は多い。だが、それだけだった。

 あの百足を境に、まともな大物には一度も当たっていない。四腕鬼ほどのものすら、影も見ない。

(……おかしいだろ)

 ここは、あの化け物が棲んでいた場所の続きだ。四腕鬼が出て、あの百足が出た。そういう深さのはずだった。

 なのに、いま前を塞いでくるのは、中層の前半でも見かける顔ぶればかりだ。子どもが三人と、魔力の底が見えた魔法使いが一人。その面子で捌けてしまう程度の相手しか、出てこない。

(……あいつが、この辺りの主だったのか)

 そう考えれば、いちおうの筋は通る。頭を失った巣は静かになるものだ。

 腑に落ちてはいなかった。

 静かすぎるのだ。魔物が減ったというより、上へ行ってしまったあとの空き家を歩いている。そんな感じがする。

 ふと、浅層で洞窟狼(ケーブウルフ)百足(むかで)の群れに囲まれたときのことを思い出した。あんな数、あの深さで出るはずのないものだった。

(……上と下が、入れ替わってやがるみてえだ)

 思いついてしまってから、ルカは首を振った。

 いま考えることではない。答えが出たところで、背中の男の血が戻るわけでもない。


 層が変わったと気づいたのは、三度目の野営を前にした頃だった。

 道そのものが変わったわけではない。狭いところの幅は相変わらずで、ノルドが大剣を振り回せるだけの高さもある。

 変わったのは、道の数だった。

 歩けば歩くほど枝分かれする。どれも同じ顔をしている。突き当たりかと思えば横へ折れ、折れた先でまた三つに割れる。壁は滑らかで、傷ひとつぶんの違いもない。

 中層が広いことなら、ルカも知っていた。

 だが知っていたのは、入口寄りの一角だけだ。三級が請ける依頼は、その範囲で用が足りる。奥へ踏み込む理由が、これまで一度もなかった。

 いま歩いているのは、その奥だった。

 半日歩いて、まだ同じ層にいる。次の半日も、その次も。上へ抜ける道は一向に現れない。深層は、袋小路へ追い込んで人を殺す。ここは違う。ただ広いというだけで、人を歩き殺す。

「……まだ、続くんですか」

 ミラが誰にともなく呟いた。

 答えられる者はいなかった。

 ここで方角を見失えば、それきりだ。魔物に殺される前に、同じ道を回り続けて干からびる。

 ルカは、二番目を歩く小さな背中を見た。

 ネルは黙々と歩きながら、時折立ち止まって壁の一点を見つめ、また歩き出す。何を目印にしているのかは、訊いても答えられないだろう。この娘の頭の中にしかない地図だ。

(……こいつがいなけりゃ、ここで終わってた)

「右から二匹!」

「ノルド、下がって!」

「ネルちゃん、そっち!」

 指示など、もう出していなかった。

 三人が勝手に声を掛け合っている。誰がどこを見て、誰が何をするか、言わなくても回りはじめていた。

(……こいつら、いつの間に)

 浅層で洞窟狼に囲まれたときは、震えて縮こまるだけだったのだ。レンが指示を出さなければ、何ひとつ動けなかった。

 それが、いまはどうだ。

 誰も倒れない。誰も逃げない。傷だらけで、泣きながら、それでも足を止めずに前へ進んでいる。

 ルカは何も言わず、前へ向き直った。


 一度だけ、レンが動いたことがあった。

 通路の角を曲がった直後、天井から一匹が落ちてきたのだ。ノルドの真上へ。

 ルカが声を上げる間もなかった。

 背負われたまま、レンの右手が動いた。

 腰の剣を抜き、不安定な体勢のまま、落ちてくる影へ真下から突き上げる。

 刃は、寸分の狂いもなく黒甲蟲の複眼を貫いていた。

 どさり、と骸が床へ落ちる。

「……え」

 ノルドが足を止めた。

「い、いま、レンさんが」

「レン!? おい、起きたのか!」

 だが、返事はなかった。

 剣を握ったまま、レンの頭はまた力なく垂れている。目は閉じたままだ。

 ルカは、その手の中の剣を見た。

 寝ている男が、目も開けずに、落下してくる魔物の複眼を一突きで貫いた。

 偶然で片づけるには、あまりに正確すぎた。

(……なんなんだよ、その剣は)

 背筋を、嫌なものが這い上がった。


   ***


 食料が尽きたのは、二度目の野営でだった。

 もともと一日で戻る算段の荷だ。転移で落とされてから削りに削って、よく保ったほうだった。

 最後の堅パンを分けたのはネルだった。誰が言い出したわけでもなく、いつのまにかこの娘が荷物の管理をするようになっていた。

「レンさん。口、開けてください」

 揺すられて、レンはうっすらと目を開けた。

 何が起きているのか、すぐには呑み込めない。目の前に、小さくちぎったパンを持った指がある。

「……自分で食える」

「手が、震えてます」

 言われて、自分の指を見た。

 なるほど、震えていた。パンひとつ、まともに割れないくらいには。

 黙って口を開けると、ネルがそれを押し込んできた。屈辱的なはずなのに、不思議とそんな気は起きなかった。この娘の手つきが、あまりに淡々としていたからかもしれない。

 水の入った革袋も回ってきた。ミラが出した水だろう。腹は減っても、渇きだけは来ない。

(……こいつがいなけりゃ、とっくに死んでたな)

 薄れかけた頭で、レンはぼんやりと考えた。

 誰が欠けても駄目だった。ノルドの背がなければ運べない。ネルの記憶がなければ迷う。ミラの水がなければ乾く。ルカの耳がなければ、寝込みを襲われて終わっている。

 自分ひとりで守っているつもりだった。

 いま守られているのは、こちらだ。

 そこまで考えて、また落ちた。


   ***


「――レンさん! レンさん、起きてください!」

 肩を強く揺すられた。

 今度は、いつもより手荒だった。

「……なんだ。……いま、何日目だ」

「たぶん、四日目です。それより、前を見てください」

 ネルの声が、上ずっている。

 ノルドの背から、顔を上げた。

 通路の先が、明るい。

 いや、明るさの質が違う。壁がにじませる鈍い光ではない。もっと広い場所から溢れてくる、面で押してくるような光だ。

 ルカが足を速めた。

 驚いた足取りではなかった。確かめに行く足取りだった。ノルドがそれに続く。

 通路を抜けた先で、視界がいきなり開けた。

 草地だった。

 練兵場ほどの広さの床いちめんに、短い芝が、揃った丈で生えている。踏み固められた小道の跡まであった。中央には泉がある。円く縁取られた水面が、天井の光を受けて静かに揺れていた。

 そして、気配がない。

 四日のあいだ片時も途切れなかった、あの粘つくような圧が、境目をまたいだ途端に消えていた。

「……やっぱりか」

 ルカが低く呟いた。

「ここ、なんですか」

 ミラが掠れた声を出す。

「安全地帯だ」

 答えたのは、レンだった。

 自分でも驚くほど、はっきりと声が出た。

 この迷宮で魔物が踏み込まない場所は、中層のいちばん底にあるここひとつきり。深層へ挑む連中が最後の支度を整えるための足場で、冒険者は気取らず、ただ「泉」と呼ぶ。

 中層なら、これまで何度も踏んでいる。だが底までは下りたことがなかった。三級が受ける依頼で、そこまで用のあった試しがない。

 話に聞くだけだった草地を、レンはいま、はじめて目にしていた。

(……中層の底まで、上がってきたのか)

 四日かけて。眠りこけた男を背負って。新人が三人と、獣人が一人で。

「……気づいてたのか」

「壁の造りが変わってたからな」

 ルカは、こちらを見ずに答えた。

「三日目あたりから、中層に入ったかもしれねえとは思ってた」

「言わなかったのか」

「外れてたら、あいつらが折れる」

 それだけ言って、ルカは草地を見渡した。

「話にゃ聞いてたけどな。……はじめて拝むのが、こんなナリでとはよ」

 レンは、腰の剣の柄へそっと手を触れた。

 冷たい鋼の感触。刻まれた、いくつもの重なった銘。

 誰かが、この道の途中で力尽きた。名前も知らない誰かが、帰れずに終わった。

(……あんたの分も、持って帰るぞ)

 誰にともなく、そう思った。


 泉のほとりに、人がいた。

 十五人はいた。ひとつの一党にしては多すぎる。いくつかの組が示し合わせて集まったのだろう。

 ひと目で装備の質が違うとわかった。磨き込まれた金属鎧。揃いの外套。地面に敷いた布の上で荷を仕分ける手つきに、迷いがない。

(……これから、下りるのか)

 霞んだ頭で、ぼんやりとそう思った。

 深層へ挑むつもりなら、この人数も頷ける。もっとも、そうと決まったわけでもない。考えはそこで途切れた。

 その中の一人が、こちらに気づいて顔を上げた。

 芝にあぐらをかいた、大柄な男だった。傍らに、鞘ごと外した両手剣が無造作に転がしてある。

「……おい。おいおいおい」

 男が、荷を放り出して立ち上がる。

 太い声が草地を渡ってきた瞬間、ルカの耳がぴくりと動いた。

「……ガロ?」

「ガロ、じゃねえよ。なんだそのザマは」

 ガロ・ステルン。深層へ潜る一党「深酒」の頭で、ラドフェンの安酒場で数えきれないほど同じ卓を囲んだ男だ。

 その後ろから、二人が続いてくる。斥候のイーナと、大盾のモーグ。どちらも顔を知っている。どちらも、こんなところで会う相手ではなかった。

「お前ら、なんでこんな下にいる。しかもガキ連れで」

「……こっちが訊きてえよ」

 ルカが笑おうとした。

 笑いの形にはならなかった。

「なあガロ。おれ、たぶん、もう」

 そこで言葉が切れた。

 立っていたはずの膝が、糸を抜かれたように折れる。

 四日のあいだ一度も緩めなかったものが、知った顔を見た途端に緩んだのだ。

「おいっ!」

 ガロが駆け出した。芝を蹴る音がいくつも重なり、遅れて草地じゅうの人間が動きはじめる。

 崩れたルカを抱き起こしたガロが、その向こうにいる者を見て、動きを止めた。

「……レン?」

 声の調子が、変わった。

「おい、レン。お前――血だらけじゃねえか。どうなってやがる」


 背中が、ゆっくりと傾いた。

 ノルドが膝をついたのだと、遅れて気づいた。四日間、一度も折れなかった膝だ。

 誰かの腕が、滑り落ちる体を受け止めた。厚い革の匂いがする。生き物の熱がある。

 仰向けにされて、レンはようやく天井を見た。

「傷を見せろ! おい、この男、血が――」

「そっちの子も診てやれ! 脚をやられてる!」

「水だ、誰か水を汲んでこい!」

 怒鳴り声が飛び交っている。

 人の手が、次々に体を検めていく。ネルが自分の名を呼んでいる。ミラの泣き声がする。ノルドは、まだ何か謝っていた。

 レンは、それを遠くに聞きながら、目だけを動かした。

 ルカ。

 ノルド。

 ミラ。

 ネル。

 四つ、数えた。

(……五人だ)

 帰るぞ、全員でだ。

 そう言ったからには、そうする。ただ、それだけのことだった。

「おい、レン。聞け。しっかりしろ」

 覗き込んできたガロの顔が、視界を塞いだ。

「お前ら、どこから上がってきた」

 答えるのが、億劫だった。

 それでも、口だけが動いた。

「……下だ」

 ガロの顔から、表情が抜け落ちた。

「下って、お前――」

 その先は、聞こえなかった。

 そこから先のことを、レンは何ひとつ覚えていない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ