第05話 格上の影
闇の奥で、何かが動いた。
レンは剣を構えたまま、じりじりと後ずさった。四人を背にかばい、一歩ずつ。足の裏で床の傾きを探りながら、視線だけは前へ据えたまま。
ずる、と重いものを引きずる音がする。
それから、聞き覚えのある軋みが響いた。
ぎち。
甲殻が擦れる音だ。
やがて壁の光の中へ、それが姿を現した。
熊ほどの図体。光を鈍く弾く、黒曜石めいた甲殻。そして、それぞれが別の生き物のようにうねる、四本の腕。
「……嘘だろ」
ルカが呻いた。
四腕鬼だった。
あの深部の主格が、闇の底から這い出てきたのだ。腕の付け根には、レンが幾度も刻み込んだ継ぎ目の傷が、いまだ黒い体液を滲ませたまま残っている。雷に灼かれた甲殻は白く焼け爛れ、甲殻の奥に埋もれた眼のいくつかは、潰れて濁っていた。
その残った眼のひとつが、ぎょろりと動いてレンを捉える。
憎悪、としか呼びようのない光が、そこにあった。
(……追ってきやがったのか)
背筋が冷える。だが同時に、腹の底が据わるのも感じた。
逃げ場はない。ならば、やるしかない。
「ルカ。まだ撃つなよ」
「はぁ? なんでだよ」
「あいつはオレたちで殺る。切り札は、切り札のまま取っとけ」
レンは剣を握り直した。
悪い話ばかりではない。一度は退けた相手だ。継ぎ目の位置は知っている。あの傷はまだ塞がりきっていない。こちらも満身創痍だが、向こうも同じだ。いや、向こうのほうが深い。片方の腕は付け根から爛れ、いくつかの眼は潰れている。
(前より、確実に弱ってる)
勝ち目がないわけではない。むしろ、あのときよりも分はいい。
「聞け」
レンは背後の三人へ、短く言った。
「あいつは、前に一度やり合った相手だ。硬いのは腕と胴。柔らかいのは腕の付け根、甲殻の継ぎ目。オレがそこを狙う」
「お、おれたちは……」ノルドの声が上ずった。
「ノルド。お前は前だ。腕が振られたら、その大剣で受けろ。倒せなくていい、逸らせればそれでいい」
「――は、はいっ」
「ミラ。あいつの眼を狙え。潰さなくていい。水をぶつけて、こっちを見づらくさせりゃ上等だ」
「わ、わかりました!」
「ネルは石で足元。踏ん張りを崩せ。ルカは合図まで手を出すな」
指示を配りながら、レンは自分でも意外なほど落ち着いているのに気づいた。
ほんの数日前なら、この子らを下がらせて一人で受けきる算段しか立てなかっただろう。だが黒甲蟲の群れを五人で凌いだ。ノルドは壁として立ち、ミラは目を潰し、ネルは足を崩した。震えながらでも、この子らは動く。
ならば、頭数として数えていい。
(今度は、一人じゃねぇ)
左腕へ意識を向ける。ここで切る。今度こそ、仕留める。
背後で、ノルドが大剣を構える音がした。ミラが杖を握り直す音も、ネルが石を掌に転がす音も、はっきりと聞こえた。
五人が、同じ方向を向いていた。
――だが。
構えたまま、レンは眉をひそめた。
様子が、おかしい。
四腕鬼は、こちらへ向かってこなかった。四本の腕を地につき、体を低くして、荒い息を吐いている。憎悪の眼は確かにレンを見ている。見ているのに、動かない。
いや。
動かないのではない。
動けないのだ。
その巨体が、小刻みに震えていた。恐怖に震える生き物の背を、レンは何度も見たことがある。まさしく、それだった。
(……こいつ)
そこで、ようやく気づいた。
この化け物は、こちらへ向かって歩いてきたのではない。
背後から、逃げてきたのだ。
ぎち。
ぎち、ぎち、ぎち。
闇の奥で、軋みが増えた。一つではない。無数の、重なり合う軋み。それが、こちらへ近づいてくる。
四腕鬼が、弾かれたように振り返った。
次の瞬間、闇が裂けた。
黒い塊が、横合いから飛び出した。
いや、塊ではない。長い。途方もなく長い。壁を這い、天井を舐め、うねりながら伸びてくる、多節の胴。その一節一節が、人ひとりを丸呑みにできるほど太い。無数の脚が、擦れ合って軋みを立てる。そして先端には、鋏のような巨大な大顎。
それが、四腕鬼の胴を真横から噛んだ。
ばぎ、と。
乾いた枝を折るような音がした。
あれほど硬かった甲殻が、紙のように砕けた。四本の腕が痙攣して宙を掻く。だが、抵抗と呼べるものはそれだけだった。
大顎が締まる。
四腕鬼の巨体が、上下に分かたれた。
どちゃ、と重い音を立てて、下半身が床へ落ちる。残った上半身は、大顎に咥えられたまま、二度、三度と痙攣し、やがて動かなくなった。
誰も声を出せなかった。
レンは剣を構えたまま、その光景をただ見ていた。
あの化け物。ルカが十秒かけて練り上げた極大の雷を叩き込み、レンが全身を削って刻んで、それでようやく退かせただけの相手。三級の自分では一人でどうにもならなかった、あの四腕鬼が。
一噛みで、餌になった。
背後で、かたん、と乾いた音がした。
ノルドの大剣が、石床に落ちた音だった。少年は構えを解いたのではない。握っていられなくなったのだ。腰が抜けたように後ろへよろけ、壁に背を打ちつけて、そのままずるずると座り込む。
あの化け物に殺されかけたのは、この少年だ。腿を裂かれ、地を這って逃げ、悲鳴を上げた。あれが自分の知る恐怖の頂点だった。
その頂点が、いま目の前で、噛み砕かれて呑まれた。
ミラの手から杖が滑り落ち、ネルの掌から石が転がった。
さっきまで五人が向いていた同じ方向が、音もなく崩れていく。
(……作戦が、まるごと消えた)
レンは自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。
腕の付け根を狙え。眼を潰せ。足元を崩せ。ついさっき配ったばかりの手札が、すべて意味を失った。あの甲殻を斬るための算段も、四腕鬼を退けた経験も、この相手には一枚も通用しない。
積み上げてきたものが、ごっそり無くなった。そういう感覚だった。
ずる、と多節の胴が引きずられ、その全貌が光の中へ現れた。
節が、いくつあるのか数えられなかった。奥へ、闇の中へ、まだ続いている。手前だけで四腕鬼の倍はあり、それでも尻尾の先は見えない。全長は優に三倍を超えるだろう。
節と節の隙間から、無数の脚が生えていた。人の腕ほどの太さのそれが、規則正しく波打って壁を掻く。そのたびに甲殻が擦れ、ぎち、ぎち、と軋みを立てる。石を削る音と混じって、耳の奥へ直に流し込まれるような不快さがあった。
頭部には、爛々と輝く複眼が並んでいる。人の頭ほどもある眼が、いくつも。そのすべてが同じ方向を向き、同じ光を放っていた。その下で大顎が四腕鬼の骸を咀嚼している。ぼきり、ごきり、と甲殻が砕ける音が、通路にやけに大きく響いた。
喰われているのが、あの四腕鬼でなければ、まだよかった。
喰っている側の大きさが伝わらなかったからだ。だが物差しがある。あの熊ほどの巨体が、いま、口の中で子どもの菓子のように砕かれている。それだけで、目の前のものがどれほどのものか、いやというほど伝わってきた。
「……聞いたこと、ある」
ルカの声が震えていた。
「黒甲百足。深いところにいるって、ギルドの爺さんどもが酒の席で言ってた。会ったら終わりだって。……冗談だと思ってた」
レンは答えなかった。
答えられなかった、というほうが正しい。
冒険者になってから、何百回と迷宮へ潜った。格上と当たったこともある。死にかけたこともある。だがそのどれもが、いま目の前にあるものとは違った。
勝てるか、ではない。戦うという言葉が、そもそも当てはまらない。
これは、災害だ。
嵐に剣を向ける者はいない。地滑りに立ち向かう者もいない。人はただ、そこから逃げる。
「……全員、聞け」
レンは、囁くような声で言った。喉が、からからに乾いていた。
「静かに、後ろへ下がる。走るな。走れば気づかれる。……あいつが食ってる間だけが、こっちの猶予だ」
「レ、レンさん」ミラの声が、涙で潰れかけていた。「あれ、あれ、四本腕の……」
「見るな。動くな。息を止めろ」
背中越しに、四人の呼吸が浅くなるのがわかる。恐怖で足が竦んで、動けなくなる寸前だ。それも当然だった。自分たちを殺しかけた化け物が、目の前で、もっと大きな何かに喰われている。
人が正気を保てる光景ではない。
「ノルド」レンは短く名を呼んだ。「ミラを支えろ。お前が動けば、ミラも動く」
「……っ、はい」
「ネル。道は」
「……覚えて、ます」
「よし。お前が先頭だ。オレは殿につく」
命令を与える。それだけで人は動けるようになる。考える隙を与えず、次にやることだけを渡してやる。恐慌に呑まれかけた者を動かす方法を、レンは経験で知っていた。
一党が、そろりと後ずさりはじめる。
複眼はまだこちらを向いていない。大顎は骸を噛み砕くのに忙しい。あと十歩。あと二十歩。角を曲がれば、視界から外れる。
いける。
そう思った、そのときだった。
咀嚼の音が、止んだ。
レンの心臓が、跳ねた。
大顎の動きが止まっている。骸を咥えたまま、その巨体が、ゆっくりと持ち上がっていく。天井近くまで鎌首をもたげ、無数の脚が壁を掻いて、体の向きが変わる。
複眼が、こちらを向いた。
爛々と光る無数の眼が、闇の中で五人を捉える。四腕鬼の骸が、どさりと床へ落ちた。もう用済みだと言わんばかりに。
「――走れ!」
レンが吠えた。
同時に、背後で地響きが起こった。あれほどの巨体が、信じられない速さで動きはじめたのだ。無数の脚が壁を蹴り、天井を掻き、うねる胴が通路を埋めて追ってくる。
「ネル! 狭い道だ! できるだけ狭い道を選べ!」
「は、はいっ!」
痩せた娘が必死に記憶を手繰りながら、右へ、左へと折れていく。声も出さずに何度も繰り返した道筋が、いま五人の命を繋いでいた。
背後で轟音が鳴った。
振り返らずともわかる。曲がりきれなかった百足が、壁を砕いて突っ込んできたのだ。石が砕け、破片が飛び、それでもあの巨体は速度を落とさない。狭い道が足枷になるどころか、壁ごと削って進んでくる。
(……くそったれが)
レンは殿を走りながら、頭の中で必死に算段を組み立てていた。
まくのは無理だ。あの図体で、あの速さ。しかもこちらは手負いを二人抱えている。
その手負いの片方が、前で足をもつれさせた。
「ノルド!」
少年の膝が折れかけ、ミラごと転びそうになる。裂かれた腿の布はすでに血で黒く染まり、走るたびに傷が開いているのが見て取れた。
レンは走りながら少年の襟首を掴み、無理やり引き起こした。
「歩くな。走れ。痛みを感じるのは後にしろ!」
「す、すみませ……っ」
「謝る息があるなら足に回せ!」
怒鳴りつけながら、レンは奥歯を噛んだ。
この子は限界だ。ミラも限界だ。あと二つ角を曲がれば、どちらかが必ず倒れる。
背後の軋みが、また近づいた。
「レンさん、こっち!」
先頭でネルが叫び、左の通路へ飛び込んだ。だが数歩進んだところで、その足がぴたりと止まる。
行き止まりだった。
「――ちが、う」
娘の顔から血の気が引いた。
「ごめんなさい、ここじゃない、一つ手前、一つ手前の……!」
「戻れ! 全員!」
考える暇はなかった。五人が一斉に踵を返す。いま出てきたばかりの角へ駆け戻り、その先の通路へ滑り込む。
その背後を、黒い胴が薙いだ。
一瞬遅ければ、ミラの背が削り取られていた。壁が抉れ、砕けた石が雨のように降る。ミラの悲鳴が上がった。
「わ、わたし、わたしのせいで……っ」
「ネル、聞け」
レンは走りながら、震える娘の背へ短く言った。
「一つ間違えて、すぐ気づいて、すぐ言った。それでいい。それが仕事だ」
「でも――」
「間違えるなとは言ってねぇ。黙るなと言ってる。……次だ。次の分かれ道は」
「……っ、右、です。右の、細いほう」
「よし。それでいい」
娘の足が、また前へ出た。
「レン、右だ! でけえ音がする!」
ルカが叫んだ。半獣人の耳が、行く手の音を拾ったのだ。
右へ折れた先は、これまでより天井の低い通路だった。幅も狭い。人が二人並ぶのがやっとといったところだ。
背後の追撃音が、わずかに鈍った。
入ってこられないのだ。あの巨体では、この通路を這うのに手間取る。
「よし――」
言いかけて、レンは唇を噛んだ。
鈍っただけだ。止まってはいない。ぎち、ぎち、と軋みは確実に近づいてくる。壁を削り、天井を削り、無理やり体をねじ込んで、それでも追ってくる。
石の砕ける音が、背中のすぐ後ろまで来ていた。
あと数十を数えるあいだに、追いつかれる。
(――ここまで、か)
走りながら、レンは考えた。
考えて、手札は一枚しかなかった。
ルカの、極大の雷。
剣は通らない。あの甲殻に、レンの一撃は届かない。四腕鬼の甲殻ですら硬かったのだ。それを菓子のように噛み砕く相手に、届く道理がない。
「ルカ! あれにデカいのをぶち込むぞ!」
「無茶言うな!」走りながらルカが叫び返した。「当たらねえよ、あんなもん!」
レンは奥歯を噛んだ。
わかっていた。ルカが言いたいことは、痛いほどわかっていた。
あの甲殻は雷でも簡単には貫けない。通るとすれば、装甲のない一点――複眼だけだ。だがその複眼は、天井近くまでもたげた頭部にある。しかも、あの巨体は走る。壁を這い、天井を舐め、絶えずうねりながら移動している。
走り回る的の、頭のてっぺんの、目玉。
外せば終わりの一発を、そこへ当てろというのは、無茶を通り越して冗談だった。
「止まってりゃ当てられるか!」
「そりゃ当てられるさ! 目の前で動かねえなら、外しようがねえ!」
「なら、止める」
ルカの足音が、一拍乱れた。
「……止めるって、どうやってだよ」
レンは答えなかった。
答えれば、この相棒は止めるに決まっている。
「ルカ。この先に、少しでも開けたところがあったら足を止めろ。そこで構えとけ」
「おい」
「ネル、ノルド、ミラ。ルカを守れ。あいつが撃つまで、絶対に手を出させるな」
「レンさん――」
「オレが、あれを止める」
短く言い切ると、しばらく、走る足音だけが続いた。
やがてルカが、盛大に舌打ちした。察したのだ。この相棒は昔から、こういうところだけは回転が速い。
「……はいはい。またそれかよ」
「またそれだ」
「十秒が、今度はいくらになるんだ。値上がりしすぎだろ、相棒価格」
「文句は生きて帰ってから聞く」
「聞けよ。耳にタコができるまで言ってやるからな」
「そりゃ楽しみだ」
軽口の応酬。いつもと同じ調子。
だがルカの声は、いつもより半音だけ低かった。
「ほかに手があるなら聞くぞ」
「……ねえよ」
ルカは吐き捨てるように言った。
「ねえから、腹が立ってんだ」
「ネル、ノルド、ミラ。ルカを守れ。あいつが撃つまで、絶対に手を出させるな」
「レンさん――」
「オレが、時間を作る」
通路の先が、わずかに開けた。天井の高い、岩の柱がいくつも立つ空間だ。悪くない。柱があれば、あの巨体は思うように動けない。
「ここだ! ルカ、構えろ! 三人は下がれ!」
レンは足を止め、振り返った。
背後の通路から、軋みが迫ってくる。ぎち、ぎち、ぎち。壁を削る音。石が砕ける音。闇の奥に、複眼の光が滲みはじめていた。
「レンさん、駄目です!」ミラが叫んだ。「あんなの、あんなのに、一人でなんて……!」
レンは振り返らずに答えた。
「オレはな、逃げ足だけは自慢なんだ」
嘘だった。
あの巨体に組みついて、雷が落ちるまで押さえ込んで、そのうえで自分だけ抜ける。そんな都合のいい道など、あるはずがない。雷は、押さえている腕ごと落ちてくる。
だが、それでいい。
「ノルド」
レンは、まだ座り込んでいる少年を見た。
「大剣、拾え」
びくりと肩が跳ねた。少年は落とした剣を見て、それから、自分の手を見た。震えている手を。
「……おれ、握れません」
「握れ、じゃねぇ。拾えと言った」
声を荒らげはしなかった。ただ、静かに言った。
「怖いままでいい。震えたままでいい。だが、剣を落としたまま帰るな。それだけは、しちゃいけねぇ」
少年の喉が、こくりと動いた。
それから、震える手が伸びて、柄を掴んだ。抱きかかえるようにして、大剣を胸に引き寄せる。立ち上がりはしなかったが、それでよかった。
「上等だ」
レンは前へ向き直った。
剣を持ち替え、自分の左腕を見た。
傷だらけの前腕。何度も裂いた古傷の上に、今日つけたばかりの裂け目が重なっている。滲む血は、すでに薄い。
どれも、浅い傷だ。
いつも、そうしてきた。刃を入れるのは皮膚の表面だけ。太い血管には決して触れない。五年近くこの力を使ってきて、レンが身につけた、たった一つの分別だった。深く入れれば止まらなくなる。止まらなくなれば死ぬだけだ。
だが。
これでは、足りない。
浅く裂いて得られる程度の力では、あれの前に立つことすらできない。四腕鬼と渡り合ったときと同じ量でも、まるで足りない。あのときは、避けて、いなして、時間を稼ぐだけでよかった。今度は違う。掴んで、押さえて、動きを殺すのだ。あの四腕鬼を菓子のように噛み砕く巨体を、真正面から。
もっと要る。
桁違いに、要る。
レンは、傷だらけの前腕へ目を凝らした。
薄い皮膚の下を、青黒い筋が走っている。手首から肘へ、太く浮き上がった血の道。いつもは避けて通ってきた場所だ。ここを裂けば、表面を撫でるのとは比べものにならない量が出る。そのぶんの熱が灯る。そして、そのぶんだけ、命が減る。
(……血ぃ……止まらなくなるかもなぁ)
ドランの声が、耳の奥で鳴った。いつか死ぬぞ、という、あの怒鳴り声が。
鍛冶場の炉の熱を思い出す。分厚い掌で頭を小突かれたことも。次に会ったら、また怒鳴られるだろう。この傷を見せたら、今度こそ本気で殴られるかもしれない。
――それも、悪くない。
殴られるということは、帰り着いたということだ。
わかっていて、レンは刃をあてがった。
闇の奥から、爛々と光る複眼が近づいてくる。大顎が、かちりと鳴った。
背後では、ルカが足を止め、魔力を集めはじめる気配がした。肌がびりびりと痺れる。あの一発の前触れだ。
一瞬でいい。あの頭を、一瞬でも動かなくさせればいい。
たった一瞬だ、と自分に言い聞かせる。その一瞬がどれほど遠いか、腹の底ではわかっていた。
「――寄越せ」
レンは、低く祈った。腹の底から、火のように熱く。
(もっとだ。もっと寄越せ。ぜんぶ持っていっていい。あの四人を還すぶんだけ、寄越せ)
刃を持つ手に、力を込める。
薄暗い地の底に、深紅の花が咲いた。




