第04話 閉ざされた退路
塞がれた岩の壁をミラが呆然と見上げていた。
「……戻れ、ない、んですか」
声が震えていた。杖を握る手の甲が白くなるほど強く。その隣でネルが膝を抱えて座り込み、ノルドは裂かれた腿を押さえたまま荒い息をついている。三人とも限界だった。恐怖に心を食い荒らされる寸前の顔をしている。
レンは岩の壁から目をそらした。見つめていても退路は戻らない。
「戻れねぇなら、別の道を探すまでだ」
努めて平坦な声を出した。
「迷宮ってのはな、行き止まりだらけに見えて、案外あちこち繋がってる。上へ上へと道を選んでいけば、きっと浅層までいけるさ」
言いながら、レンは自分の言葉がどれだけ薄っぺらいかを知っていた。
ここがどの層かもわからない。地図もない。あるのは澱のように濃い魔物の気配と、闇の奥へ退いたあの四本腕の記憶だけだ。それでも口にしなければならなかった。指揮を執る者が黙り込めば、それだけで一党は死ぬ。場数がそれを教えていた。
「まずは、荷を確かめる。全部出せ」
言われるままに五人が持ち物を床に並べた。
水袋が四つ。そのうち一つは転移の衝撃で口が緩んだのか、半分ほどしか残っていない。干し肉と堅パンが締めて二日ぶん。あとは傷薬が二瓶と、ちょっとした照明や暖を取る時用の燃料が少し。
それが五人の命を繋ぐすべてだった。
「水はおれが出せるぜ」
ルカが当然のように指先へ小さな水の玉を浮かべてみせた。
「喉を潤すくらいは、問題ねえだろうよ」
「いや、やめとけ」レンは短く止めた。「お前の魔力は、次のデカい一発のために取っとけ。ちまちま使って、肝心なときに撃てませんじゃ話にならねぇ」
「……ちぇ。まあ、そりゃそうか」
「あ、あの」
おずおずとミラが手を挙げた。
「わたし、水なら……出せます。その、出すだけなら、いくらでも」
「いくらでも?」ルカが思わず耳を立てた。「おいおい、簡単に言うなよ。水を出すのだって、魔力は食うんだぜ」
「え……。で、でも、水を出すだけなら、疲れたこと、なくて」
きょとんとした顔だった。本人はそれが当たり前のことだと思っているらしい。
ルカがなんとも言えない顔で口を開きかけ、結局それを呑み込んだ。
「……上等だ。なら、水はミラに任せる」レンが決めた。「ルカ、お前は撃つことだけ考えてろ」
「へいへい」
水の心配が消えただけで、勘定はずいぶん違ってくる。この手の遭難で最初に問題になるのは渇きだ。
「……となると、問題は食い物か」
「二日ぶん、か」ルカが干し肉の束を摘まみ上げて呟いた。「けちけち食えば、三日は保つな」
「三日で出られなきゃ、どのみち保たねぇよ」
レンは堅パンを割り、大きいほうをノルドとミラに押しつけた。
「多いほうは、手負いと、魔法を使う奴が先だ。オレとルカは後回しでいい」
「え、で、でも」ミラが慌てて首を振る。「わたし、そんな、いいです。レンさんのほうが……」
レンはさらに押しつけた。
「いいか、これは優しさじゃねぇ。勘定だ。魔法が撃てる奴が先にへばったら、全員死ぬ。お前は、食え」
「……はい」
ミラがおずおずと堅パンを受け取った。その理屈がかえって彼女を落ち着かせたようだった。憐れみで分けられるより、必要だからと言われるほうが、この年頃には呑み込みやすい。
「ルカ。露払いはオレがやる。お前は、その耳を使え」
「耳?」
「殿を頼む」レンは顎で背後の闇をしゃくった。「無理に撃たなくていい。後ろに耳だけ張っとけ。何か聞こえたら、声で報せる。それだけでいい」
「……ああ。それくらいなら、任せろ」
犬に似た耳がぴくりと動いて、背後の闇へ向いた。まだ本調子には程遠い足取りだったが、半獣人の鋭敏な聴覚はこんなときこそ頼りになる。背後に潜むかすかな物音のひとつも聞き逃しはしないだろう。
それから、レンはネルを呼んだ。
「ネル。浅いとこで言ったこと、覚えてるか」
「……道を、覚えろ」
「そうだ。ここからは、それがもっと重い」
レンは膝をつき、痩せた娘と目の高さを合わせた。
「オレたちは、これから当てずっぽうに道を選ぶ。行き止まりに突き当たったら、引き返す。そのとき、来た道がわからなくなったら――そこで終わりだ。同じ場所をぐるぐる回って、食い物が尽きて、それで終わる」
ネルの喉がこくりと鳴った。
「分かれ道の数。曲がった向き。壁の傷でも、床の染みでもいい、目印になりそうなもの。ぜんぶ覚えろ。お前の頭ん中が、オレたちの地図になる」
「……わたしに、できるでしょうか」
「お前だからできるんだ」
レンははっきりと言った。
「この状況で、震えながらも、ちゃんと周りを見てられる奴なんざ、そういねぇ。……そういう奴にしか、頼めねぇ仕事だ」
痩せた娘がはっと目を見開いた。それから、こくりと小さく頷く。役目を与えられて、その瞳にわずかに芯が戻った。
人はただ守られるだけより、誰かの役に立てると思えたときのほうが強くなれる。レンはそれを知っていた。
最後はノルドだ。
「腿、見せてみろ」
「あ、はい……」
少年がおずおずとズボンの裂け目をめくる。四本腕の爪が掠めた痕は思ったより深かった。血は止まりかけているが、歩くたびに開くだろう。
レンは自分の外套の裾を裂き、傷薬を塗ってから、その上からきつく巻きつけた。
「痛むか」
「……だいじょうぶ、です。これくらい」
「嘘をつくな」
ぶっきらぼうにレンは言った。
「痛いなら痛いと言え。我慢して、いざってときに動けねぇほうが、よっぽど迷惑だ」
少年は大剣を背負ったまま、しばらく黙っていた。それから絞り出すように呟いた。
「……すみません。おれが、あんな依頼、受けたりしたから」
「今それを言うな」
「でも、おれが」
「今、それを言うな」
レンは少年の目をまっすぐ見た。
「悔やむのは、生きて帰ってからいくらでもできる。ここでやることは、生きることだけだ。……それに、お前が受けた依頼だってのは、確かにそうだが、それに付いてきたのはオレらの勝手だ。だから、気にすんな」
「……」
「自分の足で、自分と仲間の命だけ、持って帰ることを考えるんだ」
ノルドの目から、ぽろりと涙が一粒こぼれた。
それを見なかったふりをして、レンは立ち上がった。
***
深部の道は、浅層のそれとはまるで別物だった。
通路は無闇に広く、天井は闇に呑まれて見えない。壁の光は青みを帯びて弱く、数歩先の足元さえ頼りなく霞んでいる。浅層ではあの淡い光だけで十分に歩けた。ここでは同じ光がまるで役に立たない。
そして何より――静かすぎた。
浅層にはまだ生き物の気配があった。虫の羽音、どこかを走る小動物の足音。ここにはそれがない。ただ、あの澱んだ気配だけがあたり一面に満ちている。数がいないのではない。息を潜めてこちらを窺っているのだ。
「……レンさん」ミラがノルドに肩を貸しながら声を落とした。「なんだか、ずっと、見られてる気が」
「気のせいじゃねぇ」
レンは前を向いたまま答えた。
「ここは、あいつらの家だ。見られて当たり前と思っとけ。……ただし、向こうも様子を窺ってる。ひと塊で、堂々と歩け。びくびく縮こまってる奴から狙われる」
嘘ではなかった。魔物は弱った獲物を選ぶ。それは深かろうが浅かろうが変わらない。
分かれ道に来るたび、レンは壁に手を当て、床の傾きを足の裏で読んだ。ほんのわずかでも上りになっている道を選ぶ。地上へ、光のあるほうへ。それだけを頼りに一党はのろのろと進んだ。
その背後でネルが唇を動かしている。
(三つめの分かれ道。右。壁に、斜めの罅)
声には出さず、何度も繰り返して頭に刻みつけていた。
最初の襲撃は、四つめの分かれ道を曲がってすぐに来た。
「レン、右!」
ルカの声が跳ねる。
言われるより早くレンの体は動いていた。右手の壁――と思っていた場所に黒い塊がへばりついていた。それがぬるりと剥がれ落ちる。
犬ほどの大きさの蟲だった。
全身を黒曜石めいた甲殻が覆っている。無数の細い脚。頭部にはぼんやりと赤く光る小さな複眼がいくつも並んでいた。壁と同じ色をしていたせいで、直前までそこにいるとに気づけなかった。
「黒甲蟲だ!」ルカが叫ぶ。「群れる奴だぞ、気をつけろ!」
叫びが終わらないうちに、天井から、壁から、床の窪みから、次々と同じ影が湧き出した。ぎち、ぎち、と甲殻の擦れる音がいくつも重なって回廊を満たす。
――四腕鬼と同じ音だ。
レンの背筋がぞくりと冷えた。同じ質の甲殻。同じ黒。この深部は、あの化け物と同じ種類の魔物の巣なのだ。
「囲まれる前に散らせ! ルカ!」
「おうよ! ――《雷網》!」
ルカの杖から放たれた雷が網状に広がり、群れの前列をまとめて薙いだ。何匹かが痙攣して転がる。だが、倒れたのは半分にも満たない。
「効きが悪ぃ! やっぱまだ出力が戻り切ってねえ!」
「わかってる、足止めで十分だ!」
レンは踏み込み、動きの止まった一匹の胴へ剣を叩き込んだ。硬い。刃が滑る。舌打ちして、切っ先を脚の付け根――甲殻の継ぎ目へねじ込むと、今度はぬぶりと沈んだ。
(同じだ。こいつらも、継ぎ目が弱い)
黒甲蟲が耳障りな金切り声を上げて丸まった。
「ノルド! お前は動くな、そこで壁になれ! ミラとネルの前だ!」
「は、はいっ!」
少年が痛む脚を引きずりながら、大剣を構えて二人の前に立ちはだかる。狙いも何もない。ただそこにいるだけだ。だが、それでよかった。壁がひとつあるだけで後衛の恐怖はまるで違う。
「ミラ、足を止めろ! 仕留めなくていい!」
「はいっ……《水弾》!」
水の玉が、迫っていた一匹の複眼にまともに当たった。威力はない。だが視界を潰された蟲は明後日の方向へよろよろと逸れていく。
その隙間へネルの石が飛ぶ。風をまとった一投が蟲の脚を一本へし折った。均衡を崩したそれへレンが踏み込んで継ぎ目を貫く。
――悪くない。
乱戦の最中、レンは思った。浅層で洞窟狼を捌いたときの形がそのまま生きている。あのとき「やってみろ」と言っておいてよかった。あれがなければ、この三人はいま、ただ縮こまっているだけだっただろう。
それでも数が多い。
「レン、後ろ!」
ルカの警告と同時に、背後から一匹が飛びかかってきた。振り向きざま剣の腹で払い落とすが、その隙に別の一匹が肩へ食らいついた。甲殻の顎が革鎧越しに肉を挟む。
「くっ、そっ!」
剣の柄で殴りつけ、肩の蟲を無理やり引き剥がす。革鎧の裂け目から生温かいものが腕を伝って滴り落ちた。
(血を、使うか)
一瞬、左腕の古傷へ意識が向いた。深く裂けば、この程度の群れは瞬く間に片づく。
しかし、血は無限ではない。流せば流すほど体は冷え、動きは鈍り、いずれ立てなくなる。四腕鬼相手にすでに一度使い、あれだけ打たれた体だ。今日はもう、そう何度も使えない。
――こんな雑魚に、切り札は切らねぇ。
だが。
肩から滴った血が、ぽたりと床を叩いた。
(……いや。もう、流れてるじゃねぇか)
わざわざ裂くまでもない。どのみち捨てるだけの血が、すでに腕を伝っている。
レンは短く息を吸い、その一点へ熱を集めた。
(――寄越せ。この分だけで、いい)
流れ出た血が応えた。
噛み裂かれた傷口から赤い蒸気がうっすらと立ちのぼり、肩から全身へと絡みつく。少量の血液、先ほどに比べれば弱い強化だ。
だが――それで十分だった。
飛びかかってきた一匹を片手で叩き伏せる。返す刃でもう一匹の継ぎ目を貫く。振り向きざま、三匹目を剣の腹で殴り飛ばした。さっきまで両手でこじ開けていた継ぎ目が面白いように裂けていく。
(――こんなもんだ)
捨てるはずだった血で、これだけ動ける。腕を裂くのは、これで足りなくなってからでいい。
やがて、最後の一匹をルカの雷が焼き払ったとき、五人はその場にへたり込んでいた。
「……はぁ、はぁ……」
ノルドが大剣を杖のようにして荒い息をついている。ミラは杖を抱えたまま、へなへなと床に座り込んだ。ネルだけがまだ立って、通路の奥を睨んでいる。
「全員、無事か」
「な、なんとか……」
「上出来だ。よく踏ん張った」
レンが短くそう言うと、三人の顔にわずかに血の気が戻った。
「レンさん、肩……!」ミラがはっと目を見開く。「噛まれてます、血が」
「かすり傷だ。放っとけ」
「放っとけません!」
珍しく強い声で言って、ミラは傷薬の小瓶を取り出した。おずおずと、それでいて必死な手つきでレンの肩に薬を塗っていく。
「……妙な気分だぜ」
その様子を眺めて、ルカがけらけらと笑った。
「お前が手当てされてるとこなんざ、久しぶりに見た。いつもは自分でべたべた塗って終わりだもんな」
「うるせぇ」
「よかったなあ、レン。心配してくれる子がいてよ」
「お前も手伝え、犬っころ」
軽口を叩き合う二人を見て、ノルドとネルの強張った肩からようやく力が抜けた。それが狙いだとレンは口には出さない。恐怖は、笑いでしか薄まらないときがある。
***
どれほど歩いたか、わからなくなった。
迷宮には昼も夜もない。壁が放つ鈍く一様な光だけがただそこにある。時間の感覚が少しずつ削れていった。
二度目の襲撃を凌ぎ、三度目は通路の狭いところへ誘い込んでやり過ごした。そのたびに食料が減り、傷が増えた。
削られている、とレンは思った。魔物にではない。この場所そのものに少しずつ命を削り取られている。
休息のために足を止め、堅パンを分け合ったとき、ノルドがぽつりと口を開いた。
「……おれ、村に、妹がいるんです」
誰に言うでもない調子だった。ただ、黙っていると恐怖に呑まれそうで、何か喋っていたかったのだろう。
「畑がやられて、去年の冬は、ほんとにひどくて。だから、おれが稼がなきゃって。あの依頼、報酬がすごくよかったから……それで」
「わたしも、似たようなものです」ミラが膝を抱えたまま小さく笑った。「うち、母が長く寝ついてて。……薬代が、要るんです」
ネルは何も言わなかった。ただ、石を一つ掌の中で転がしている。この娘にも何かしらの事情はあるのだろう。訊けば答えるのかもしれないが、レンは訊かなかった。
(……そういうことか)
胸の底が鈍く軋んだ。
覚えのある話だった。金がないというのは、そういうことだ。危ないと分かっていても、手を伸ばすしかない日がある。
「……そうか」
レンは堅パンの欠片を口へ放り込んだ。
「なら、なおさら生きて帰らねぇとな」
「……はいっ」
ノルドが強い決意を秘めた目で頷いた。
しばらくして、ミラがぽつりと言った。
「……ここ、ほんとうに、迷宮なんでしょうか」
「どういう意味だ」
「うまく言えないんですけど……」少女は膝を抱えて、ぼんやりと壁を見上げた。「浅いところは、なんだか、あったかい感じがしたんです。苔が生えてて、草があって。虫もいて。でも、ここは……なんにも、いない。石だけ。まるで、生き物が入っちゃいけない場所みたいで」
レンは返す言葉を持たなかった。
言われてみれば確かにそうだった。深く潜るほど壁は磨き抜かれていく。継ぎ目は正確に、床は平らに。苔の一つも生えない。汚れの一つもない。
人の手が入っていないはずのこの場所が、なぜか掃き清められた廊下のように見えるのだ。
冒険者は、そういうものを「そういうもの」として呑み込む。深く考えない。考えたところで、金にならないからだ。
だが、この娘の言い方は妙に耳に残った。
「……昔から、そういうもんらしいぜ」
結局、レンはそれだけ答えた。
(……ここは、遠い)
滑らかな壁に手を這わせながら、レンはふと思った。
ラドフェンの、あの雑然とした街並みが脳裏をよぎる。朝から騒がしい酒場。武具屋の軒先。揚げ物の脂の匂い。ドランの鍛冶場の、炉の熱。ルカと二人、くだらない軽口を叩き合いながら歩いた、あの目抜き通り。
あそこには光があった。人の声があった。あたたかさがあった。
それが、こんなにも遠い。同じ迷宮の、同じ石の下にあるはずなのに、地の底のこの冷たさはまるで別の世界のようだった。手を伸ばしても届かない。あの温もりが記憶の中でだけ、ちらちらと灯っている。
(……帰りてぇなぁ)
心の底でそう呟いて、レンは自分でも意外なほどその言葉が切実なのに気づいた。
――なんだ。オレは、あそこがそんなに好きだったのか。
我ながら少し可笑しかった。いつもは口を開けば、金がねぇだの依頼が割に合わねぇだのと文句ばかり垂れているくせに。
「……レンさん」
ふいにミラが口を開いた。ノルドに肩を貸したまま、うつむいて。
「私たち、帰れますか。……ちゃんと、街に」
嘘はつきたくなかった。
だが、本当のことを言うわけにもいかなかった。
「帰れるさ」
だからレンはそう言った。祈るように。
「オレが帰す。全員、な」
それは根拠のない言葉だった。けれど、根拠がないからこそ言い切らなければならなかった。この闇の中で誰かが一つでも確かなものを掲げていなければ、みんな立っていられない。
ミラが小さく頷いた。その目に涙がにじんでいた。
***
その一角に踏み込んだのは、次の分かれ道を右へ折れたすぐ先だった。
「……止まれ」
レンが思わず足を止めた。
通路の造りが変わっていた。
これまでも壁は滑らかだった。だが、ここは違う。継ぎ目が消えている。あれほど正確に走っていた石と石の境目が、この一角にだけまったく見当たらない。まるで巨大な一枚の石をそのままくり抜いたかのようだった。
壁の光も違う。青みが強く、そして――規則的だった。一定の間隔で、ふ、ふ、と明滅している。まるで何かが息をしているように。
そっと掌を触れてみる。壁は驚くほど冷たかった。石というより、磨いた金属に触れているようだ。
「……なんだ、ここ」ルカの耳が落ち着きなく動いた。「気持ち悪ぃな。作りたてみてえだ」
「作りたて、か」
レンはその言い方が妙に腑に落ちてしまって、かえって薄気味悪くなった。
迷宮は神々の遺した聖なる胎だという。何百年も前からそこにあり、これからも変わらずそこにある。冒険者はそう教わり、そう信じている。
だが、この一角だけが、まるで昨日できたばかりのように真新しく見えた。
「レンさん、あれ」
ネルが静かに指をさした。
壁の一面にうっすらと紋様が浮かんでいた。あの転移罠に似ている――が、違う。線がもっと細かく、規則的で、そして光っていない。ただ、そこに刻まれているだけだ。
「……触るな」
レンは短く言って、一党を壁から離した。
わからないものには触れない。それが、この稼業で長く生きるための鉄則だった。
その通路を抜けた先で、レンは足を止めた。
いや――正確には、彼の全身の毛が先に止まらせた。
背筋を、ぞわりと冷たいものが這い上がる。長く命を張ってきた者だけが持つ、危険への嗅覚。あの床の紋様に気づいたときと同じ感覚。だが、今度の警鐘はあのときの比ではなかった。
「……全員、動くな」
声を殺して、レンは一党を制した。
五人が凍りついたように足を止める。
静寂。壁の光だけが鈍くそこにある。何も動かない。何も聞こえない。
だが、感じる。
この澱んだ空気の、さらに奥。行く手の闇の、そのまた向こう。何か途方もなく大きなものが、そこにいる。
四本腕の魔物とは比べものにならない。あれが川なら、これは海だ。桁が違う。気配の密度そのものが質量を持って、肌を押してくるようだった。
(なんだ、これは)
喉がからからに乾いた。
三級のレンが――いや、この世界のたいていの冒険者が、生涯出会うことのない。出会えば、それで終わりの。そういう格の何かが、この道の奥にうずくまっている。
「……レン」
異変を察したルカが、掠れた声で囁いた。
「なあ。まさか、これ」
レンは答えなかった。
答える代わりに、彼はゆっくりと剣を抜き、まだ半分も戻っていない血の熱を体の奥からそっと呼び起こしはじめた。
闇の奥で、ずるりと何かが身じろぎする音がした。




