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血盟の冒険者  作者: ニワネコ図


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第03話 転移

 光が、視界を白く塗りつぶした。

 浮遊感。足の裏から地面が消え、上も下もわからなくなる。耳の奥で、ごう、と風のような音が鳴り、内臓を丸ごと持ち上げられるような感覚に、レンは思わず息を詰めた。体が細く引き延ばされ、どこか遠くへ手繰り寄せられていく。

 それは、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。あるいは、ずいぶん長い時間だったのかもしれない。

 気づけば、レンは冷たい石の床に片膝をついていた。

「……ここは」

 立ち上がりざま周囲を見回して――背筋が、ぞくりと粟立った。

 迷宮であることは変わらない。滑らかな壁。鈍く光る石。だが、何もかもがさっきまでとは別物だった。

 まず、空気が違う。重く、冷たく、湿っている。息を吸うたび、鉄錆に似た匂いと土の下のような湿気が、肺の底へじっとりと忍び込んでくる。壁の光は、浅層のあの柔らかな明るさではなく、青みを帯びて陰気だった。天井は高く、見上げても闇に溶けて、どこにあるのかもわからない。通路は太く、そのくせ底知れず、奥へ行くほど濃い闇がわだかまっている。壁に生える草の一本すら、ここにはない。ただ、磨き抜かれた石と暗がりだけがあった。

 そして――濃い。

 魔物の気配が、あたり一面に(おり)のように満ちていた。目には見えない。だが、肌が、うなじが、その濃度をはっきりと感じ取っている。浅層の、あの気の抜けた気配とは比べものにならない。ここは、もっとずっと――深い。

(浅層から一足飛びに、こんな底まで……あの紋様、やっぱり、ただの罠じゃねぇ)

 背を伝う汗が冷たかった。長く命を張って潜ってきたレンだからこそ、肌でわかる。この気配の濃さは、三級が、まして駆け出しの五級が足を踏み入れていい層のものではない。

「ノルド……っ! ノルド、どこなの……っ!?」

 少し離れた闇の中から、ミラの、今にも泣き崩れそうな声が響いた。転移の衝撃で、五人はばらばらに投げ出されたらしい。ミラの傍らには、同じく飛ばされたネルが、身を寄せてうずくまっている。ミラは、その細い肩を抱えるようにしながら、必死に、いなくなった仲間の名を呼んでいた。

「ネルちゃんは、一緒にいます……! でも、ノルドが……っ! だ、誰か……レンさんっ、ルカさんっ!」

「ミラ! そこを動くな、いま行く!」

 声を頼りに、レンは駆け寄った。闇の中に、杖を抱えてうずくまるミラと、その傍らで、取り落とした石を握りしめるネルがいた。二人とも、無事だ。だが――。

「ノルドは! ノルドは、どこだ!」

「わ、わかりません……っ。気づいたら、わたしと、ネルの、二人だけで……!」

 答えを、待っている暇はなかった。

 闇の、ずっと奥のほうで――絶叫が、上がった。

 ノルドの、声だった。

 レンは、弾かれたように地を蹴った。転移の目眩も、脚の重さも、頭から吹き飛んでいる。太い通路を、闇を裂くように走る。青白い壁の光が、後ろへ後ろへと、飛び去っていく。行く手の暗がりから、ノルドの引きつった息づかいと、地を()うような、重く粘つく足音が、じわりと近づいてきた。心臓が、嫌な音を立てる。間に合え。ただ、それだけを念じて、角をひとつ、曲がった。その、先。

 広間のような空間の中央に、それは、いた。

 熊ほどの図体。

 全身を覆う甲殻は黒曜石めいて、光を吸い込むように鈍く、そのくせ、うねるたびに、ぬらりと底光りする。太さも長さもばらばらな四本の腕が、まるで四匹の大蛇を無理やり胴に生やしたように、それぞれ別の生き物のごとくのたうっていた。巨躯に不釣り合いなほど小さな頭部。その甲殻の奥に、濁った眼がいくつも埋もれている。

 眼のひとつが、ぎょろりと動いて、駆けつけたレンを捉えた。獲物を値踏みするような、酷薄な光。

 全身の産毛が、ぞわりと逆立った。

(――冗談じゃ、ねぇ)

 ひと目で格が違うと知れた。この深部にあってすら、主格に近い魔物だ。一人前の三級であるレンでも、一人でまともにやり合うには、荷が重すぎる相手だった。

 その化け物が、四本の腕を波打たせながら、地を這う小さな影を(なぶ)るように追い詰めていた。ノルドだ。腰を抜かし、後ずさろうとして、うまく脚が動かないらしい。その腿からは、すでに一裂き、赤い筋が伸びている。

「い、いやだ……来るな、来るなぁ……っ!」

 少年の悲鳴とともに、四本腕の一本が、たっぷりと嬲るように、高く振り上がった。

 考えるより先に、体が動いていた。

 レンは走りながら、自分の左の前腕に、抜き放った刃を、迷わず走らせた。

 ためらいは、ない。何百回と繰り返してきた所作だ。切り裂いた傷から、血が、ぶわりと噴き出す。そして――祈った。火のように、強く。

(力を寄越せ。守るための、力を)

 流れ出た血が、応えた。

 傷口から立ちのぼった血が、赤い蒸気となって、みるみる全身を包んでいく。揺らめくその熱は、陽炎のように輪郭を持たず、ただ、灼けるように熱かった。萎えかけていた膝に、力が(みなぎ)る。鈍っていた視界が、痛いほど研ぎ澄まされていく。世界の速度が、ぐっと、遅くなった。

 ――熱血の異能。

 血を代償に、人ならぬ膂力を汲み上げる、レンだけの力だ。

 その熱を、両脚に叩き込む。レンは跳んだ。振り下ろされかけた四本腕と、ノルドのあいだへ、身をねじ込む。少年の襟首を引っ掴んで背後へ放り投げ、代わりに、自分がその位置に立った。

 振り下ろされた第一の腕を、真正面から剣で受ける。

 がぎん、と鋼と甲殻がかち合い、火花が散った。腕が痺れるほどの重い一撃だ。膝が、めり、と(きし)む。それでも――受けられないほどでは、なかった。血の熱を乗せた膂力が、この化け物の剛力と辛うじて拮抗している。

「ひっ……」

 背後で、息を呑む音がした。ちらと目の端で捉える。ミラとネルだ。あの闇の中に二人きりで取り残されるより、レンの背を追うほうがまだましだと踏んだのだろう。青ざめた顔で、通路の角にへばりついている。

 ――ここへ来るな、と怒鳴りたかった。だが、それは酷というものだ。この深部で、置いていかれることのほうが、よほど死に近い。

「ノルド、ミラ、下がってろ! 立てるな、這ってでも壁際に!」

 叫びざま、レンは受けた腕を横へ弾き、化け物の懐へぐいと踏み込んだ。

(いける。……こいつは力任せだ。動きが、大振りすぎる)

 一合、二合と打ち合ううちに、レンの目はもう相手の癖を読みはじめていた。

 四本腕の一撃は確かに重い。掠めるだけで肉を裂き、まともに食らえば骨ごと持っていかれる。だが、そのぶん動きは大きく、直線的だ。振り上げてから振り下ろすまでの、ほんの半呼吸。その隙さえ見切れば紙一重で捌ける。長く場数を踏んだ者だけが持つ命のやり取りの勘が、レンにそれを教えていた。

 問題は、その一撃をどう返すかだ。

 返す刃で、うねる第二の腕の付け根を狙う。甲殻に阻まれ、耳障りな音とともに火花が散った。硬い。鎧よりもなお硬い。だが――切っ先に、わずかな感触があった。腕の付け根。甲殻と甲殻の継ぎ目。そこだけが、他より脆い。

(急所は、そこだ)

 見つけた、と思った瞬間には、もう体が動いていた。

 側面へ回り込みざま、その継ぎ目へ渾身の突きを送り込む。刃が、ぬぷ、と浅く食い込んだ。黒い甲殻の隙間から、どろりとした体液が滴る。四本腕の魔物が、この戦いで初めて苦痛の唸りを上げた。

「……っ、す、すごい……!」

 壁際で、ミラが掠れた声を漏らした。

 魔力もない。身体強化すら使えない。そう聞かされていた男が、深部の主格めいた化け物を相手に一歩も退かず、あまつさえ、その甲殻に刃を通している。

 ――ルカさんの、腰巾着。

 街ではそう言われている人だと、ミラも噂に聞いていた。身体強化ひとつ使えないくせに、雷を操る強い冒険者にくっついて、三級まで上がった男。あの等級は自分の腕で獲ったものじゃない、相棒のおこぼれだ。そんな、妬み混じりの声を。

 けれど、いまこの闇の底で、たった一人であの化け物の前に立ちはだかるその背中は、誰よりも大きく見えた。恐怖とは違う痺れるような何かが、ミラの、そして腰を抜かしたノルドの胸を強く打っていた。

 だが、ネルだけは違った。

 震えながらも、その目は必死に化け物の隙を探している。次の刹那、彼女の手から風をまとった石が鋭く放たれた。狙いは、甲殻の奥に埋もれた濁った眼。――利口な一投だった。だが。ぱぢ、と乾いた音を立て、石は眼を覆う硬い(ひさし)に弾かれ、あえなく床を転がる。魔物は瞬きひとつしなかった。格が、違いすぎた。

「石は、しまっとけ!」レンが鋭く叫ぶ。「お前らは、下がってりゃいい。……これは、オレの仕事だ」

 強がりではなかった。この相手に、あの子らを近づけるわけにはいかない。ならば、一人で受けきる。それがいちばん犠牲の少ない道だと、レンは冷静に判じていた。

 言うが早いか、レンは自分から仕掛けた。

 わざと、がら空きの正面を晒す。誘いだ。案の定、化け物はそれを好機と見た。剛力に任せて、二本の腕を同時に振りかぶる。大振りの、必殺の一撃。――だが、それこそレンが待っていたものだった。

 振り下ろされる寸前、身を独楽(こま)のように捻ってかわす。二本の腕が束になって床石を深々と抉り、その巨体がつんのめるように前へ流れた。がら空きの、胴。

(――もらった)

 血の熱を両脚で爆ぜさせ、レンは懐へ潜り込む。狙うは、あの継ぎ目ただ一点。腰の入った渾身の突きが、先刻よりさらに深く突き刺さった。黒い体液が、ぶしゃ、と噴き出す。

 化け物が耐えかね、大きく身をのけぞらせた。

 だが――相手は、四本腕だ。

 二本を捌けば、残る二本が来る。第三の腕が横薙ぎに走り、レンは身を沈めてかわす。頭上を暴風のような一撃が薙いでいった。石壁がえぐれ、破片が(あられ)のように飛ぶ。かわしざま、もう一撃を叩き込む。だが、そのレンの背へ、今度は第四の腕が回り込んだ。振り向きざま剣の腹で辛うじて受け、後方へ跳んで間合いを切り直す。

 息が、上がりはじめていた。

(守るだけなら、まだ保つ。……だが、こいつを一人で倒しきるには、こっちの手数が、決定的に足りねぇ)

 一本の剣で、四本の腕を相手取る。それは、どれだけ技と勘を尽くしても、いつか必ず、綻びの出る戦いだった。掠めた腕の先が、レンの肩の肉を裂く。血が滲む。剣を握る手が、じわじわと痺れてくる。

 それでも、レンは、退かなかった。

 半歩でも退けば、その半歩ぶん、後ろの三人へ、死が近づく。ただ、それだけの理由で、彼は化け物の正面に立ち続けた。

「レン!!」

 背後で、ルカの声が跳ねた。戦闘の音を聞きつけて、駆けつけたのだ。

 振り向く余裕はない。だが、空気でわかった。びりびりと、肌が痺れる。魔力が、この一点へ集められていく気配。ただの雷ではない。ありったけを注ぎ込む、大技の前触れだった。

 あれを練るあいだ、ルカは魔力に意識を吸われて、身体強化のひとつも回せなくなる。剣も持てない、逃げも利かない。文字どおりの、丸腰だ。

「詠唱するから、十秒! 十秒稼げ!」

 十秒。

 レンにとって、それは、永遠に等しかった。

 だが、やるしかない。倒せなくとも、その十秒、こいつをここに縛りつけることは、できる。

 レンは、再び四本腕の正面へと、身を投じた。

 もう、避けるためには動かない。食らいつくために動く。剣で受け、肩でぶつかり、時おり継ぎ目へ浅い一撃を返して、化け物の意識を自分ひとりに縛りつける。後ろへは、一本の腕も行かせない。

 一秒。二秒。

 重い一撃が、受けた剣ごとレンの体を後ろへ滑らせる。踏みとどまる。三秒。四秒。掠めた腕が脇腹の革鎧を裂いた。構わず前へ出る。五秒。全身が悲鳴を上げ、汗が目に流れ込む。視界が赤く滲む。

 六秒。

 壁際で、ノルドは、まばたきひとつできずにいた。

 化け物の四本の腕が、次から次へと男を打ち据える。そのたびに石壁が砕け、火花が散り、けれど男は一歩も退かない。退かないのだ。血の蒸気を纏った背中が、地の底の暗がりで、ぼんやりと赤く滲んで見えた。あの人は、自分たちがここにいる限り、絶対に下がらない。それがはっきりと、わかってしまったからだ。

(下がってくれよ……もう、いいよ、下がってくれ……!)

 少年が、声にならない声で叫んだ、その時。

 七秒。

 四本の腕が、唸りを上げて、一斉に迫った。

 一本目を、紙一重でいなす。二本目も、身を捻ってかわす。三本目を、剣の腹で受け止めた。そして、四本目を――受けきれなかった。

 一本の剣に、四本の腕。どれほど技を尽くしても、埋めようのない数の差が、ついにレンを捉えたのだ。

「レンさんっ!!」

 鈍く重い音が響いて、レンの体が、まるで軽い襤褸(ぼろ)きれのように宙を舞った。石壁に叩きつけられ、ずるりと崩れ落ちる。土煙が上がった。

 ――しくじった、とレンは思った。

 肺の空気は、すべて絞り出されている。息が、吸えない。脇腹と背が燃えるように痛み、口の中に鉄の味が広がった。それでも、頭の芯だけは、氷のように冷えていた。

(――まだ、だ。まだ、あと三秒)

 立て。膝に命じる。だが、笑うばかりで、脚は言うことをきかなかった。まともに食らった一撃が、体の芯まで痺れさせている。血の熱は、まだ全身を巡っているというのに。

 八秒。

 視界の隅で、四本腕がゆっくりと向き直る。倒れた獲物へ、四つの腕が高々と掲げられた。

 逃げられない。転がることすら、できない。

「レンさんっ――!」

 ミラの悲鳴が上がる。ノルドが地を蹴ろうとして、その腕をネルに掴まれた。行かせるものか、というより――行っても腕がひとつ増えるだけだと、あの娘にはわかっているのだ。

 九秒。

 四つの影が、闇を背にして、ぴたりと止まった。

 振り下ろされる。

 その一瞬が、やけに長かった。

(――こんなとこで、終わってたまるか)

 舌打ちひとつ。諦める気は、まるでなかった。動かない脚の代わりに、レンは腕一本で床を掻き、わずかでも軸をずらそうとする。当たりどころさえ変われば、まだ死なずに済む。

(ルカ。――早くしろ、間抜け)

 十秒。

「――《雷帝招来(グランドスパーク)》ッ!!」

 その声が、闇を真っ二つに裂いた。

 次の瞬間、世界が白く灼けた。今度は、転移の光ではない。ルカが、十秒をかけて練り上げた、極限の一撃。太い光の柱が、天から降るように、四本腕の魔物を頭上から刺し貫いた。空気が焼け焦げ、鼓膜を破らんばかりの轟音が、回廊を揺るがす。

 たった一瞬の、たった一撃。だが、その一瞬に叩き込まれた雷の量が、桁違いだった。青白い稲妻が、四本腕の巨躯を蜘蛛の巣めいて這い回り、甲殻の表面を白く焼いていく。焦げた匂いが、鼻をつく。倒れ伏したまま、レンはその凄まじい熱と光に目を灼かれた。

「ギ、ギシャアアアアアッ――!!」

 魔物が、初めて声を上げた。獣の咆哮ではない。硬いものを無理やり引き裂いたような、耳の奥を掻きむしる金属質の絶叫。それは怒りというより、まぎれもない、悲鳴だった。

 黒曜石の甲殻の継ぎ目から――レンがあの死闘のあいだに幾度も刻み込んだ、その傷口から――青白い電光が、内側へ食い破るようにほとばしった。うねっていた四本の腕が、糸の切れた人形のように痙攣して跳ね上がる。

 とどめには至らない。だが、確かな深手だった。あの傷がなければ、無傷の甲殻はルカの雷すら弾いていただろう。二人がかりで、辛うじて届いた一撃だ。

 魔物は苦悶の唸りを長く引きながら、たたらを踏むように後ずさり――やがて闇の奥へと、その巨躯を退いていった。

 消えたわけではない。退いただけだ。傷を舐め、また戻ってくる。魔物とはそういうものだと、レンは肌で知っていた。

 だが、いまは、それでよかった。

 荒い息の下で、レンは闇に呑まれていく巨躯の残像を目で追った。と、その瞬間――ぞわりと、正体の知れない悪寒が背筋を這い上がった。誰かに、見られている。そんな気がしたのだ。人の気配でも、魔物の気配でもない。もっと静かな、遠くからの何か。レンは小さく頭を振って、それを追い払った。疲れた頭が見せた妄想だ。今は、それどころではない。

「レン! レン、しっかりしろ!」

 ルカが転げるように駆け寄って、崩れ落ちたレンを抱き起こした。壁に叩きつけられる瞬間を目にした顔から、血の気が引いている。撃ち終えた反動で足元もふらついていたが、それどころではないという様子で、必死にレンの体を揺すった。

「生きてるよな!? おい、返事しろ!」

「……ああ」レンは脇腹を押さえ、顔をしかめて掠れた声を絞り出した。「……いてて。もろに、もらった。ちょっと……休ませてくれ」

「血は!? どっか、致命的なとこ、やられてねえか!」

「かすり傷だ」レンは力なく笑ってみせた。「……安心しろ。血は、まだたっぷり残ってる。力を使う分には、問題ねぇよ」

 その軽口に、ルカは深々とため息をついた。

「そのかすり傷の基準、いっぺん医者に診てもらえ。壁まで吹っ飛んで宙を舞っといて、よく言うぜ」

「うるせぇな。生きてりゃ上等だろ」

「その理屈で、何回死にかけてんだ、お前は」

 悪態をつきながら、ルカはレンの脇腹に手を当て、骨の具合を確かめていく。その指先だけが、口ぶりに似合わず、やけに慎重だった。

 ノルドが、ミラが、ネルが、おそるおそる駆け寄ってくる。誰の顔も涙と土埃で汚れていた。

「レンさん……レンさん、おれ……っ」

「無事か、ノルド。脚、動くか」

「う、動きます……っ、あなたが、庇ってくれたから……!」

「なら、上等だ」

 レンはつとめて軽く言って、少年の頭を、痺れの残る手でぐしゃりと撫でた。

 三人は言葉もなく、その傷だらけの腕を、血の乾いた左手を見つめていた。

 ――あれは、いったい、何だったのだろう。

 腕を裂いた瞬間、噴き出した血が赤い蒸気になって、この人を包んだ。魔力を持たないはずの男が、あの化け物と正面から打ち合った。魔法でもない。身体強化でもない。冒険者になるときに教わった、どの理屈にも当てはまらない。

 正直に言えば、恐ろしかった。得体の知れないものを見てしまった、という怯えが、胸のどこかに確かに残っている。

 それでも。

 その得体の知れない力は、ただ自分たちを守るためだけに使われた。たった一人で、あの化け物の前に立ちはだかって。その事実が、恐怖の底から、じわりと熱いものを押し上げてくる。

 ノルドが唇を噛んで俯いた。ネルが、拾い集めた石をそっと握り直す。ミラが涙をぬぐって、杖を抱えなおした。まだ、この胸の熱が何なのか、三人には言葉にできない。ただ――この背中を、忘れるものか。幼い胸の奥へ、深く刻みつけていた。

 その視線の意味に、レンは気づかないふりをした。

 いつもの軽口でも叩いて、この空気をほどいてやろう――そう思って、口を開きかけたときだった。

 最初に異変を感じたのは、また、足の裏だった。

 震動。低く、重く、地の底から突き上げてくるような。ルカの放った大魔法の余波か、それとも――別の、何かか。震動は次第に大きくなり、高い天井から、ぱらぱらと、細かな石片が降りはじめた。

「……まずい」レンは、痺れの残る脚を叱咤し、壁に手をついて身を起こした。「みんな、来た道へ戻れ! 転移で飛ばされた場所まで戻りゃ、手がかりが――」

 言い終える、前だった。

 背後で、地鳴りのような轟音が、響いた。

 振り返る。たったいま四本腕を追い払った、その通路――彼らが辿ってきたはずの、たった一つの帰り道が、崩れ落ちた岩塊に、完全に、塞がれていた。土煙が、もうもうと立ちのぼる。

 沈黙が、落ちた。

 新人たちの、引きつった呼吸だけが、闇に響いている。ミラが、ネルが、そしてかばわれたノルドが、青ざめた顔で、その岩の壁を、ただ見つめていた。

 ここが、どこかもわからない。

 浅層のどこかに口を開けた、転移の罠。飛ばされた先は、三級でも手を焼く深部。帰り道は、塞がれた。手負いが、二人。切り札の大技を、当分は撃てない魔法使いが、一人。駆け出しの新人が、三人。そして、闇の奥には――まだ、あれが、いる。

 じっとりと重い闇が、五人をひたひたと囲んでいた。壁の青い光は、まるで彼らの体温を吸い取るように冷ややかに明滅している。どこか遠くで、ぴちゃん、と水滴の落ちる音。それに紛れて――かさ、こそ、と暗がりで蠢く、無数の何かの気配。この一帯に潜む魔物の数は、浅層の比ではない。

 絶望的、という言葉が、これほど似合う状況も、そうはない。

「……レン」ルカが、掠れた声で言った。「これ、どうするんだよ」

 レンは、すぐには答えなかった。

 答えの代わりに、ゆっくりと自分の左腕へ目を落とす。何本もの古傷の上に、いままた刻んだ新しい裂け目。血はもう止まりかけている。傷は、浅い。

 まだ、流せる。まだ、祈れる。

 絶望を数えるのは簡単だ。だが、それは状況をひとつも変えてくれない。

 レンは痺れの残る脚を叱咤し、壁を頼りに、まず立ち上がった。そうして、脅えて固まる四人をぐるりと見回す。

「ルカ。魔力は、どれくらいで戻りそうだ」

「小せえのなら、もう撃てるぜ」ルカは指先を鳴らし、ぱちりと小さな火花を弾いてみせた。「ただ、さっきのデカいやつは、いまは無理だ。ちっと休ませてくれりゃ、また撃てるようにはなる」

「上等だ。小せぇので十分だ」

 レンは短く返し、青ざめた新人たちへと、向き直った。

「ノルド、その脚で歩けるか。ミラ、ネル、水と石は、まだ残ってるな。……よく聞け。ここは、確かに深い。だが、道がある以上、地上へ抜ける道だって、必ず、どこかにある。オレが、必ず見つける。だからお前らは、余計なことは考えず、オレとルカの指示だけ、聞いてりゃいい」

 揺るぎのないその声が、闇に沈みかけていた四人の顔を、わずかに上げさせた。

 ――不思議と、この人が言うならそうなる気がした。魔力もないのに、あんな化け物をたった一人で退けた。その背中が言うのなら。

 レンは最後に、崩れた岩壁とその奥の闇へ、鋭い一瞥を投げた。その目から、迷いはもう消えている。

「――生きて還るぞ。全員で」

 その言葉に応えるように――闇のずっと奥で。

 ぎち、と甲殻の軋む音がした。

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