第16話 ヴェルグ峠にて
峠の頂上と言われる場所は、思っていたより広かった。
山の頂をひとつ、まるごと削り取ったような形をしている。
端まではどのくらいの距離があるだろうか。背景が空なので距離感がうまくつかめない。
向こう側の岩の色が、うっすらと霞んで見える。
荷馬車六台を並べたところで、隅へ置き忘れた荷のようにしか見えなかった。
足元は土だった。踏むとわずかに沈み、乾いていて、歩けば薄く埃が立つ。
その土のあちこちから、岩がせり出していた。
人の腰ほどのものもあれば、荷馬車を丸ごと隠せるほどの大きさのものもある。
草は疎らで、岩の根元にへばりつくように生えているだけだった。
「ここで一晩だな」
セインが言った。
馬を外し、荷馬車を真ん中へ寄せる。人足が慣れた手つきで動きはじめた。
レンは荷を降ろしながら、近くの岩を見ていた。
地中にせり出している岩の上面は不自然に平らだった。
隣の岩も、そのまた隣も、同じ高さで揃っている。
土に埋もれているだけで、下は一枚岩なのだろう。
平地は東西へ細い道が続いている途中でせり出した空間といった様相だ。南は来た道と同様、断崖絶壁となっており向かいの斜面に例の巣があった。
北側はこちらからは見えないが、緩斜面となっており木が生えているらしい。
「北は確か登れるようになっていたはずだな」
ガロが顎で示しながら言った。
「登ってきたやつは一度も見たことがないがのう、だが警戒は必要そうじゃ」
セインが荷馬車のほうへ歩き出す。
「今日の夜番は北の警戒へ二人、東西の警戒へ二人置く」
今までの襲撃を踏まえ、今夜が危険だと判断したのだろう。
「広すぎねぇか、ここ」
レンが言うと、セインは肩をすくめた。
「広い。峠のなかでいちばん安全で、いちばん危険な場所じゃな」
「どっちだよ」
「どっちもだ。細道じゃ寝られん。かわりに、ここで東西から挟まれたら逃げ道はない」
セインが岩のひとつを平手で叩いた。
「それと、これだ。隠れるところには困らんだろう」
「ありがてぇこったなぁ」
「向こうもそう思うぞ」
当然だ、人が隠れようと思えば、いくらでも隠れることのできるサイズの岩が地面からせり出しているのだ。
***
レンの番は真夜中だった。
組んだのはモーグであった。深酒の大盾は寡黙な大男だ。
レンもかなり大柄だが、そのレンをして見上げるほどの身長をしている。
さらに特筆すべきはその体の厚みだ。厚みだけで言えば一番槍のトルグを凌駕するほどである。
二人は北の縁へ顔を向けたまま、半刻ほどひとことも発さなかった。
火は三か所で焚いてある。
荷馬車のあいだに一つと、東西の見張りの脇に一つずつ。
平地が広すぎるので、火の届く範囲の外はまるごと闇だった。
月明りは細く。せり出した岩の上の面だけを、うっすらと照らしている。
まだ明るいうちに隠れるところに困らないと言った男の言葉が、夜になると身に染みて分かった。
「風向きが、変わったな」
モーグが言った。
「あぁ」
北東のほうから流れていた風が少し北西よりに変わった。
「なにも匂わん」
それきり、また黙った。
どれくらい経ったか分からない。
交代まではまだあるはずだった。
モーグが、ふいに顔を上げた。
「匂いが来たぞ」
「あ?」
確かに匂う。獣ではない、人の匂いだ。
「北からだ」
大盾の男が、はじめて立ち上がった。
立ち上がるまでの動きに、迷いが一切なかった。
「起こせ。来るぞ」
モーグがこちらを見た。
レンは火のほうへ走った。
走りながら、腹の底から声を出した。
「起きろ! 北だ!」
***
最初に立ったのはセインだった。
外套を被ったまま、寝ていた場所から一息で起き上がる。
次がガロで、その次がイーナ。三人とも、レンが二歩目を踏む前にはもう得物を握っていた。
「リーゼ!」
セインが怒鳴った。
「灯りだ! 高く上げろ!」
「はいっ」
寝起きの、震えた返事だった。
それでも詠唱は途切れなかった。
「《炎陽》」
拳ほどの火の球が、まっすぐ夜へ昇っていった。
昇りきったところで止まる。止まってから、膨らんだ。
膨らみながら、赤が抜けて白くなっていく。
平地が、明るくなった。
昼とは違う。色が薄く、影だけがやたらと濃い。
それでも端まで見えた。
「どれくらい保つ!」
「魔力が切れるまでです!」
リーゼはもう杖を下ろして、西へ走り出していた。
「そう長くはありません! 急いでください!」
北方の岩場の隙間に、人がいた。
一人や二人ではない。北の縁まで、影が点々といる。
止まっていたものが、光を浴びた瞬間に、いっせいに走りはじめた。
夜のうちに登りきって、そこで伏せていたのだ。
朝を待っていたのか、東西が細道を詰めるのを待っていたのかは分からない。
どちらにしても、こちらが気づいたことで向こうも待つのをやめたようだ。
「東と西は!」
セインが叫んだ。
「大丈夫だ!今のところはなに来とらん!」
カイルが怒鳴り返した。
挟むまでもない、ということだろうか。
北から一直線に押し潰す。それで足りると踏んでいる。
なにか違和感のある作戦だ。
「荷馬車を背にして北へ並べ! 人足は荷馬車の下! 馬は繋いだままでいい!」
セインの声の張り方が、昨日までと違った。
「ガロ! 正面を頼むぞ!」
「言われるまでもねえ」
ガロはもう走り出していた。
列のいちばん厚くなるところへ立って、両手剣を肩ごしに抜き放つ。
「銀鈴は左! 午睡と深酒は真ん中と右だ!」
「はいよ」
ベンが盾を上げた。まだ半分寝ている顔だった。
「レン、ルカ、クレアどの! 遊軍だ! 空いたところへ入れ!」
「では、先に削らせてもらいます」
クレアの声が、後ろから通った。
張ってはいない。だが平地の端まで届いた。
「《氷原》」
キシキシと空気が鳴った。
岩場のあいだの土が、一息で色を変える。
炎陽の下で、凍った面が青白く光った。
走ってきた足が、そこへ乗った。
止まれるはずがない。勢いがついているぶん、派手に転がった。
先頭の五人が、そのまま滑って岩へ叩きつけられる。
それでも、止まらなかった。
後ろの者が、転んだ仲間の背を踏み台にして氷を跳び越えてくる。
「……止まりませんか」
クレアの声が、少しだけ硬くなった。
「《氷柱》」
氷の柱がせり上がる。人の背丈ほどのものが、間隔を置いて五本。
人の塊が縦に断ち割られた。
二十を超える塊が、十二と、十ほどに分かれる。
それでも、止まらない。
二日前の連中とは違った。
あのときは、氷を見た時点で足が止まった。
こいつらは、氷をものともしていない。柱の裏へ回り、氷柱を足がかりにして越えてくる者までいる。
さらには合間合間に、風を裂く音が混じった。
矢だ。
岩の上からだった。
高いところへ六人ばかり上がっていて、走る仲間の頭ごしに射ている。
炎陽が明るいぶん、こちらは丸見えだった。
「矢が来るぞ! 盾を上げろ!」
ベンが叫んだ。
「クロト、ペトラ! 四枚だ! モーグ、真ん中を頼む!」
午睡の三枚が斜めに立った。その真ん中へモーグが大盾を置く。
乾いた音が続けざまに鳴った。
板を叩く音と、外れて土へ刺さる音と、鉄を弾く音。三つが混ざって、どれがどれだか分からない。
一本がペトラの盾の縁を削って、跳ねた先で幌に刺さった。
「ペトラ! 大丈夫か!」
クロトが盾ごしに怒鳴った。
「掠っただけよ! 構うな!」
ペトラが盾を上げ直した。顎まで血が一筋流れている。
四枚。
突っ込んできた十二人が、そこでようやく止まった。
止まったのは、その十二人だけだった。
氷柱を乗り越えて遅れてきた十ほどは、盾の脇を大きく回って荷馬車へ走る。
「行かせるかよ!」
レンは走った。
遊軍というのは、要するに穴の空いたところへ行く役割だ。
盾の左右を大きく迂回して前線を抜けようとする敵への対応が必要だった。
剣を抜いた。
一人目は、振り向く前に肩から背中の中ほどまでを割った。
二人目が振り返る。振り返るのが遅い。
剣が上がりきる前に懐へ入って、喉を横に薙いだ。
二日前とは違った。あのときは手首を叩き落とせば済んだ。それだけで戦意を喪失してくれる程度の敵だったからだ。
だが、今日は済まない。得物を失った男が素手のまま組み付いてくるからだ。
視界の端で、ルカが動いていた。
身体強化を乗せて、一人目の間合いへ一息で入る。
右手の剣が脇を裂く。抜きざま、左の杖先が上がった。
「《雷閃》」
二人目の胸で、白い光が弾けた。
魔力の溜めのない、ルカ最速の一撃だ。
男は倒れなかった。
倒れるかわりに、動きが止まる。
一瞬全身に力が入ったと思うと、膝がかくんと落ちて、手に持った短剣を取り落とす。
その止まったところへ、ルカの剣が一閃。
痺れさせて、斬る。痺れさせて、斬る。
押し合いには一度も付き合わずに、一人ずつ減らしていく。
右から一人来た。
振り向きざまに合わせて、剣を横薙ぎにする。
受けようとした得物ごと真っ二つになる。
背中で声がした。
「レン、伏せろ!」
考えるより先に膝を落とした。
頭のすぐ上を白い光が抜けて、後ろで誰かが倒れる音がする。
(後ろにもいたのか)
光は真上とはいえ、馬車からすると少し後ろから照らされている。
そのため、手前にある荷馬車の陰は塗り潰したように暗かった。
こちらは気づいていなかったが、ルカは気づいていたようだ。
訊いたところで「耳がいいんだよ」しか言わない。獣人はみんなそうなんだとか。
立ち上がりかけたところへ、また一人横から来た。
背中に熱が走る。
刃が肩甲骨の上をなぞって、外套ごと裂けている。
皮鎧の隙間をやられた。
だが浅い。薄皮一枚切られた程度の怪我だ。
レンは振り向きざまに剣を返して、その男の首へ入れた。
傷を確かめる暇はなかった。
血が背中を伝っていくのを、皮膚の上の感覚だけで測る。
正面で、鉄がぶつかる音が続いていた。
レンは一度だけそちらを見た。
敵のいちばん厚いところに、ガロが立っている。
立ったまま、両手剣を横に薙いだ。三人が同時に下がる。下がったところへすぐ次が入って、また下がる。
切りがない。倒しても倒しても、後ろから同じだけ湧いてくる。
押し返してはいる。だが、一歩も前へ出ていない。
出れば、そのぶん囲まれるリスクが高くなる。
あの男は、あそこから動けない。
いちばん強い男が、いちばん重いところを引き受けている。
それは頼もしいことのはずだった。
なのに、レンは背中が冷えた。
その襲撃の陣形に、ガロを、一番強い駒を一カ所にくぎ付けにする意図を感じた。
あそこが持つあいだ、あの男はどこへも行けない。
左で悲鳴が上がった。
銀鈴の側だ。
レンが目をやったときには、もう手遅れだった。
列の外側に、槍を持った敵が立っている。
ただ構えているのではない。すでに突き終えた形で止まっている。
その先に、ロブがいた。
背中から穂先が出ている。
膝が折れて、それから前に倒れた。
「ロブ!」
ハンナの悲鳴が戦場に響いた。
「下がれ! 下がれハンナ!」
セインが割り込んで、その槍を弾いた。
弾いたが、勢いを殺し切れていない。
リーゼが杖を向けた。
「《火矢》」
火が一本、まっすぐに飛んだ。
狙い通り。槍持ちの胸へ、そのまま届く軌道だった。
男は避けなかった。
左腕を上げて、手甲で受けた。
当たった瞬間に、弾けた。
乾いた音がして、腕の周りで火が短く膨らむ。
衝撃で男の上体が後ろへ持っていかれた。
だが、半歩も下がっていない。
手甲は、留め具ごと吹き飛んでいた。
腕にはもう何も残っていない。
その下から出てきた籠手も無事ではなかった。革が縮れて捲れ上がり、繋ぎの糸が焼き切れて指の関節から垂れ下がっている。
剥き出しになった指の先が、炭のように黒い。
肉の焼ける匂いが、風に乗って漂っているようだ。
そしてその足は止まらないまま、次の一歩を踏み込んだ。
三級の魔法使いが本気で撃った一発を、左腕一本で防いで止まらない。
あの男は、まわりの連中とは違う。
行くしかなかった。
背中の血は、もう腰まで下りてきている。
裂かなくていい。すでに開いている。
レンは息を止めて、力を願った。
背中の傷から、血が湯気のように立った。
赤い。炎陽の白い光の下でも、そこだけ色が違って見える。
視界の縁が狭くなって、そのぶん真ん中が鮮明になった。
地面を蹴る。
三十歩を、三度の踏み込みで潰した。
セインの前へ滑り込む。
突き出されてくる穂先を、横から叩いた。
甲高い音が鳴った。
槍が外へ流れて、切っ先が土を掘る。
「下がってろ!」
振り向かずに言った。
「すまん、任せた」
返事が早かった。
意地も、粘りもない。届かない相手だと一合で理解したのだ。
二十年やってきた男の引き際だった。
「任せろ」
槍が戻ってきた。
速い。
突いて、引いて、また突く。そのあいだに一度も体が流れない。
レンは半歩ずつ下がりながら、穂先を受け流し、かわす。
三合。四合。
五合目で、穂先が肩を掠めた。
(届かねぇ)
間合いが違う。
こちらが踏み込める距離まで、この男は入らせてくれない。
「ちょっとはやるじゃねえか、お前」
男が、はじめて口を開いた。
「……なんだ、その赤い靄は」
「知らねぇよ」
「はぁ? 自分の体だろうが」
「知らねぇもんは知らねぇ」
槍が回った。持ち替えたのだ。左手が焦げているのに、動きが変わらない。
「まあいい。名乗っておくか。サイラス・ヴェンだ」
レンの息が、一拍だけ止まった。
ギルドの掲示板には、右の端に手配書を貼る場所がある。
等級も報酬額も書いていない。名前と、罪状と、生死を問わないかどうかだけだ。
三人殺しのサイラス。
迷宮の中で仲間を三人殺して逃げた男の紙が、もう五年も剥がされずに貼ってある。
四人目が生きて帰って、ギルドへ届け出た。だから名前まで割れている。
「……あんたが、あのサイラスか」
「知られてるのは悪くない」
サイラスがニヤリと右の口角だけを上げる。
レンは、男の左手を見た。
炭のように黒かった指の先が、白く戻りかけている。
剥がれた皮の下から新しい皮が出てきて、見ているあいだに指の形になっていく。
焼け落ちた爪の根元が、もう盛り上がっていた。
「これが目当てだったんだよ」
サイラスが槍の柄を撫でた。
「迷宮で出たんだ。五人で潜ってる時になあ!」
「三人殺したのは、それのためか」
「一人は逃げ足が速くてなあ、殺しそびれたんだ」
男は笑わなかった。
自慢しているのでも、悔いているのでもない。
帳面を読み上げるような言い方だった。
「この槍はなあ持ってるだけで怪我が治るんだ。腕を落とされても生えてくるしなあ。死なん限りはな」
槍が下がって、切っ先がこちらを向く。
「それと、身体強化の調子がよくなる。おれは元から人並みには強いが。この槍さえあれば人並みでは済まんぞッ!」
言い終わる前に、来た。
速さが変わっていた。
さっきまでの突きは、こちらに見せるためのものだったのだ。
脇腹に線が走った。
避けきったつもりだったが、それでも掠った。
だがレンは、下がらなかった。
突きは、伸びきったところが止まる。
伸びきる先を読んで、そこへ体を置いた。
右腕へ、下から剣を滑り込ませる。
レンの剣を避けようとしたのか、右腕を瞬間的に槍から離す。
しかし、避け切れず肘の少し先を手甲ごと斬り裂いた。
離れた前腕が、あらぬ方向へと飛んでいき、土の上を跳ねる。
サイラスは悲鳴を上げなかった。
落ちた腕には目もくれず、一歩引いた後に残った左手で槍を肩にかける。
その数瞬の後に、切り口が塞がりはじめた。
「チッ」
舌打ちが一つ。
それだけ言って、男はさらに後ろへ跳んだ。
追えなかった。
追えば防衛しきれない。
振り返ったとき、斧の男が二台目の脇にいた。
盾の列を抜けたのだ。抜けて、荷馬車へ肉薄している。
そこへルカが走り込んだ。
斧が来る。ルカは受けなかった。
受けずに横へ流れて、すれ違いざま脇へ剣を入れる。浅い。
もう一度。今度は腿。これも浅い。
「浅いか、ちくしょう!」
ルカが跳び退がりながら怒鳴った。
魔法は一度も使っていない。使う隙がないのだ。
斧が下りきる前に次が来る。剣で受ければ持っていかれるから、避けるしかない。
先ほどまでの敵とは違い速すぎる。避けるだけで手一杯なのである。
痺れさせて、斬る。
その最初の一手が、この相手には使えない。
一対一であれば。
「わたしが止めます」
クレアの声が、荷馬車の陰から通った。
「《氷縛》」
斧の男の足元から、氷が蔦のように這い上がった。
膝と、腰と、斧を持った腕に巻きつく。
一瞬だった。
男が力を入れた途端、氷の蔦がひび割れ、ちぎれていく。
だが、その一瞬で足りた。
「《雷閃》」
斧使いの胸で白い光が弾けて、男の膝が崩れ落ちる。
ルカが踏み込んだ。剣が突き出される。
入らなかった。
落ちかけた膝が、途中で止まったのだ。
歯を食いしばって、痺れた腕を無理やり上げて、左腕についている小盾でルカの剣を弾いた。
「嘘だろ!」
ルカが本気で驚いた声を出した。
だが、そこまでだった。
「《氷牙》」
間髪入れずにクレアの追撃が襲い掛かる。
男の真下から、氷の牙が突き上がった。
腹を貫いて、背中から出る。
致命傷ではない。
男は口から血を吐きながら、それでも斧を振った。
ルカは紙一重で身を捻った。
だが、かわし切れず、右肩から左の脇腹まで、外套が斜めに裂ける。
浅い。
浅いと分かっていて、避けきるのをやめたのだ。
止まった斧の向こうへ、ルカが踏み込んだ。
首が飛んだ。
「六台目だ!」
声が上がったのは、そのときだった。
北から上がってきた連中の後ろ半分が、荷馬車へ取りついていた。
六台目。触るなと言われていた一台だ。
幌の縄が切られて、布が横へ引き倒される。
中は麻袋と木箱だった。
男の一人が箱の蓋を割って、両手を突っ込んでいる。
「ねえぞ!」
男が怒鳴った。
「頭ぁ! こっちにゃねえ!」
平地の音が、そこで一拍だけ薄くなった。
賊どもが戸惑っている。
雇い主から教えられていたのは、そこにあるはずだということだけだったのだろう。
レンには、良く分からないことがあった。
前回はヨルンを暗殺しようとした襲撃だった。しかし今回は荷をあさっている。
分からないまま、体だけが荷馬車のほうを見た。
二台目の脇に、ヨルンが立っている。
人足を庇うように背を向けて、まだ何か指図をしていた。
その三歩ほど離れた場所に、トバがいた。
いつも手に持っている板挟みの帳面は、地面に落ちていた。
トバは筆を持っていない。
右手に、曲がった刃のついた武器を逆手に持っていた。
持ち方が、勘定係の持ち方ではなかった。
「ヨルンさん! 後ろだ!」
レンの声で、ヨルンが振り返った。
振り返った先にトバがいて、二人の目が合った。
ヨルンの顔から、表情が抜けた。
驚いたのでも、怒ったのでもない。
「……トバ」
「ヨルン、動くな」
声は、街でルカへ放ったものと同じだった。
あの、平坦で抑揚のない。
「いつから……いつから裏切っていた?」
「裏切ったわけではないのだ」
刃から妖しく、液体が滴っている。
「最初から、こういうときのために入っておっただけのことよ」
今のレンには速さが足りなかった。
背中の血の力だけでは足りない。
だが、脇腹に新しく開いている傷からの血を、燃やせる。
(——力を)
二つ束ねて、祈った。
地面が後ろへ流れた。
トバとヨルンのあいだへ、肩から入る。
入りきる前に、刃が届いた。
右の脇腹。
深い。抜かれるときに、内側を抉っていく感触があった。
「レンさん!」
ヨルンの声が、はじめて裏返った。
「下がってろ!」
レンは振り向きざまに剣を出した。
トバが下がる。下がり方が速い。商人の下がり方ではない。
戦い慣れているもののそれだ。
レンは踏み込み、続けて剣を振る。
キンキンと二回、硬質な音がして三合目で、互いに一歩ずつ引いた。
トバは息を切らしていなかった。
刃を持ち替えて、こちらの脇腹を見ている。
見て、少しだけ首をかしげた。
脇腹が熱い。
押さえている暇はないので押さえていない。だが、じわじわと下がってきているのは分かる。
先ほど力を使った分を含めてどれくらい出血しているのか。
息を吸うたびに、右の内側が引っかかる。
(動けなくなるほど熱血を使うわけにはいかねぇ)
思ったよりトバの実力が高いのだ。
痩せた、四十半ばの男である。
昨日まで机の前に座って、板に挟んだ紙へなにかを書きつけていた。
その男が、こちらの剣を三合とも流したのだ。
流し方に無駄がない。受け止めもしない。きれいに対応されている。
息も上がっていなかった。
上がっていないのは、まだ本気で動いていないからだろう。
(勘定係が聞いて呆れるぜ)
剣を握り直した。
そのとき、左のほうで何かが動いた。
こちらへ走ってくる。
両手剣を提げた大男だった。
刃が根元まで赤い。正面を片づけて、そのまま真っ直ぐ来ている。
肩で息はしているが。乱れてはいなかった。
ガロだ。
レンの左から入って、トバの右へ回り込む位置に立った。
トバがガロから距離を取るようにさらに二歩ほど下がる。
「深酒の頭か」
トバが言った。
「お前に構っとる暇はないんだが」
「奇遇だな。おれもねえ」
ガロが踏み込んだ。
速い。あの体で、なぜあの速さが出るのかが分からない。
トバが受けずに逃げる。逃げながらどこからか取り出した短剣を投げる。ガロが顔を振って避ける。
二合。三合。四合。
右手に今は順手に持ち直している、曲がった刃のついた短剣で打ち合っている。
商会の勘定係が、階級こそ二級だが、実力では準1級クラスと言われている男と打ち合っている。
「大したもんだ」
ガロが言った。
「二十年、商売していただけの男じゃねえな、お前」
トバは答えなかった。
答えるかわりに、刃を逆手へ持ち替えた。
その持ち替えを、ガロは待っていたらしい。
一歩。
踏み込んだかと思うと、両手剣が大上段へ上がった。
レンは、その構えを見たことがなかった。
だが見た瞬間に鳥肌がたつ。これは避けるしかないやつだと、本能的に理解させられる。
「《大鬼断》」
落ちてきた。
凡そ、剣を振ったことにより発生したとは思えない破裂音とともに。
トバは受けた。受けるしかなかったのだろう。
それほどに、踏み込みが早すぎたのだ。
逆手の刃を横に向けて、そこへ両手剣が入る。
刃が、まず割れた。
割れた刃の上を通って、そのまま右の肩口から入り、右の脇腹まで抜けた。
その勢いのままに吹っ飛んだ。
トバ・ゼルは、荷馬車の車輪に背中から当たって止まった。
落ちた刃の欠片が、乾いた地面から突き出た岩で跳ねた。
人足たちが後ずさる。誰も近寄らない。
レンは剣を下ろさなかった。
背中と脇腹から血が落ちて、足元の土へ黒く染みていく。
落ちるたびにポタポタと音がした。それが、やけにはっきり聞こえた。
幸いなことに、ガロが対応してくれたおかげでそこまで力を使わずに済んだ。
立てる。走れる。だが、あと何度できるかは分からなかった。
「クレア!」
振り向かずに叫んだ。
「ヨルンさんは無事だ! こっちは後でいい! イーナのほうへ行け!」
答えは返ってこなかった。
かわりに、駆けていく足音が遠ざかった。それで足りた。
北のほうで、まだキンキンと音が響いている。
だが、さっきまでとは音の数が違っていた。
六台目に何もないと分かったところから、賊の足が揃わなくなっている。
「引け!」
誰かが叫んだ。賊のほうだ。
「もういい、引け! 引けっつってんだろ!」
走る音が、北の斜面の方向へ引いていく。
何本か矢が射かけられたが、追う者はいなかった。追える者もいなかった。
それでも、トバはこちらを見ていた。
肩から脇腹までを斬り裂かれ、車輪にもたれて、口の端から血を落としながら、
この男は痛みのことをまるで考えていない顔をしていた。
見ているのは、レンの脇腹だった。
「……なぜ……立っておる」
声が漏れた。
「あぁ?」
「お前が……受けた……傷だ」
トバの喉が鳴った。
「刃に……毒を塗ってあった……掠るだけで……なのに……なぜ……立っておる」
レンは自分の脇腹を見た。
痛い。血が出ている。
「痛ぇよ。血も出てるぜ」
「そう……では……ない」
トバの声が、はじめて上ずった。
「あれは……ただの……毒ではない……魔力障害を……起こす……受ければ……その場で……歩けなくなり……苦しみ……ひと月で……死ぬ」
魔力障害、聞いたことがある。一度始まると魔法や身体強化が一切使用することができなくなり、苦しむ。
治癒師でも治すことが出来ない、不治の病だと。
もしそんな毒が本当にあるのならば、冒険者相手にはこれ以上は無いほど有効である。
「……なんでそんなもん持ってんだ、あんた」
「答える……義理は……ない」
「じゃあ訊き方を変える」
レンは剣の切っ先を下げた。
「効かなかったのは、なんでだ」
トバは答えなかった。
答えるかわりに、こちらの顔をじっと見ていた。
勘定が合わないものを見つけた男の目だった。二日前、三台目の羊毛が二箱足りないと言ったときと、同じ目だ。
「……お前……」
喉の奥で、血が鳴る。
「魔力は……」
言い終わらなかった。
トバの目が、レンの顔から上へ移動し中空へと向く。
「……なんで……効かん……」




