第12話 血塗れの冒険者
耳が鳴っていた。
いや、鳴っているのは耳ではない。あちこちから上がる呻きと、咳と、崩れた岩がまだ落ち着かずに転がる音だ。
レンは瓦礫の山の上に立ったまま、それを聞いていた。
高い。
見上げた先に、床が抜けた穴が開いている。ぎざぎざに欠けた縁が、遠かった。定宿の五階の屋根を、下から見上げるのと変わらない。積み上がった岩の山を足しても、まるで届かない。
視線を下ろす。
広かった。
通路ではない。広間でもない。そういう言葉が当てはまらないほど、床が平らに続いていた。
落ちたのは端のほうらしい。片側の壁だけが近く、あとの三方は薄闇に沈んで見通せなかった。
そして、まっすぐだった。
落ちながら見たとおりだ。壁と壁の合わさる角が、上から下まで一本で通っている。その面を等間隔の継ぎ目が横切って、端まで乱れずに並んでいる。
光は弱い。
迷宮のどこにでもあるあの淡い光が、ここでは薄く濁っていた。遠い三方は、壁のかたちすら定かでない。長く使われていない部屋の、日の入らない隅のような暗さだった。
「レン!」
声で我に返った。
ルカが瓦礫に足をとられながら登ってくる。頭から砂埃をかぶり、頬に切り傷。だが立って歩いている。
「無事か」
「おれは無事だ。お前は」
「見ての通り無事だ」
二人で下を見た。
人が散らばっていた。
瓦礫の斜面に、その裾に、平らな床の上に。うずくまっている者、四つん這いで這っている者、動かない者。
レンは数えようとして、やめた。
数えられる状態ではなかった。岩の陰は見えないし、重なっているのが一人なのか二人なのかも判別がつかない。
十人は超えていそうだということだけが分かった。
「上にいたのは、二十人ばかりだったな」
「そのくらいだ」
ルカの耳が細かく動いていた。音を拾っている。
「何人か残ったか」
「残ったんならなんとかなりそうだな。全員落ちたとしたら何人死んだってことになるんだって話だ」
レンは足元の瓦礫を見ながらいった。
一番近くにいたのは、若い男だった。
仰向けに倒れて、目を開けている。息をしていた。
「動くな。どこが痛ぇ」
「……脚」
見れば、膝から下があらぬ方を向いている。革の脛当てが、骨のないところで折れ曲がっていた。
「折れてんな」
幸いなことに血は出ていさそうだ。
それだけ確かめて、レンは息を吐いた。骨が折れて皮膚を突き破って出ていたなら、ここから街まで保つかどうかという話になっていた。
「や、やだ、いやだ、おれ」
レンは再度目線を男に戻して言った。
「気をしっかり持て、脚が折れたくらいで人は死なねぇよ」
「……は、はい」
「名は」
「トビ。トビ・ハーンです」
「トビ。じっとしてろ」
立ち上がりざま、周りへ声を張った。
「動ける奴! 手を挙げろ!」
いくつか手が挙がった。四つ。五つ。
「怪我人を壁際へ運べ! 瓦礫の上に置くな、崩れるかもしれねぇ! 運べねぇ奴には無理に触るな、呼べ! 声が出せねぇ奴を先に見ろ!」
誰も動かなかった。
当然だった。ここにいるのは五級と四級で、迷宮の床が崩れるという非常事態に直面して。フリーズしてしまっている。
「聞こえてんのか!」
「――やれ! おめえらしっかりしろ!」
別の声が重なった。
ヨナスだった。
瓦礫の中ほどに立って、片手で頭を押さえている。指の間から血が流れているが、目は座っていた。
「動ける奴は動け! ギース、そっちの二人だ! サーシャ、上を見てろ! まだ落ちてくるかもしれん!」
ようやく人が動きはじめた。
ヨナスがレンを見た。ほんの一瞬だ。それだけで済ませて、すぐ目をそらした。
言い争っている場合ではないと、この男もわかっている。
半刻ほどで、おおよその形がついた。
落ちたのは十七人。
そのうち三人が死んだ。
一人は岩の下から出てきた。人間の形を保てていなかった。
あとの二人は瓦礫の裾に並んで倒れていて、目を開けたまま動かなかった。
一人は首が変な方向に曲がっており、一人は頭を強打したようだった。
残る十四人は、脚を折ったのが二人、腕を折ったのが三人。どこか打ったのか、息はあるが呼んでも返事をしない者が一人。あとは打撲と擦り傷で済んでいた。
「一部の岩が先に落ちたからだな」
ルカが瓦礫の斜面を顎で示した。
「床が抜けて。一部の瓦礫が先に落ちて、その上に瓦礫に乗った状態で人が落ちた。……後に落ちた瓦礫が先に下に落ちていた瓦礫に当たって砕けて勢いが逃げたんだろう」
「助からなかったのが三人いる」
「……ああ」
ルカはそれ以上言わなかった。
レンは、三人のほうを見ないようにした。見たところで、いま何かできるわけではない。
同じパーティの者だろうか。外套をかけてやる者がいた。
ルカが空を――正しくは、天井に開いた穴を見上げた。
「レン。あれ、届くか」
「届かねぇなぁ」
言うまでもなかった。
壁には手がかりがない。角は一本の線で、継ぎ目は指の入る隙間もない。
迷宮の壁は滑らかだ。膨らみも窪みもない。ただまっすぐに立っているだけだった。
「縄は」
レンが聞いた。
「そこそこの長さのやつは一本あるが、半分くらいしか届かねえよ」
「上に残った奴がいりゃ、垂らせるか?」
「縄を持ってたところでちょっと長さが足りねぇだろうな」
ルカが口をつぐんだ。
残っていなければ、誰も助けを呼びに行っていないということだ。
「おい」
声をかけてきたのは、ギースだった。上背のある猫背の男が、いつものだらしない笑いを引っ込めて突っ立っている。
「なあ、ここ、なんなんだよオイ」
「知らねぇ」
「知らねぇって、てめえは三級だろオイ」
「オイオイうるせぇな、三級だろうが二級だろうが地図にねぇもんは知らねぇよ」
ギースが黙った。
その隣で、サーシャが弓を手に壁を見ている。短く切った髪に灰が積もっていた。
「浅層の地図なら、隅から隅まで写しが出回ってるわ」
「そうだな」
「何十年もかけてギルドが埋めた地図よ。さっきの広間だって載ってた。……なのに、その真下にこんな空間があるとはどこにも書かれていないわ」
「書きようがねぇだろ。誰も落ちてねぇんだから」
サーシャは壁から目を離さなかった。
「誰も落ちてないなら、まだいいわ」
「あ?」
「落ちた奴が、誰も帰らなかっただけかもしれないでしょ」
誰も答えなかった。
レンは壁へ歩いた。
近くで見ると、なお異様だった。手で触れる。冷たい。滑らかで、掌が吸いつくような手触りだ。継ぎ目に爪を立ててみたが、爪の先端すら入らない。
線は、どこまでも正確な直線に見える。
石工が墨を打った蔵の壁のような。いや、むしろあれよりまっすぐだった。人の手が引いた線とは思えなかった。
(……なんだってんだ、これは)
考えても答えは出ない。
出ないうちに、音が来た。
「――レン」
ルカの声が変わった。
振り返ると、ルカが杖を構え剣に手をかけており。耳がぴんと前を向いている。
「音がする」
「どっちだ」
「壁」
「壁のどこだ」
「……向かいだ。あっちの奥の暗いほう」
ずず、と重い音がした。
薄闇の奥だ。近い壁ではない。向かいの、見通せないほうだった。
石臼を回すような低い響きを引きずって、人の背丈ほどの一画が奥へ引っ込み、そのまま横へ滑った。
あとに、暗い口が開いていた。
同じものが、その一面に並んで起きていた。二つ、三つ、四つ。
「かさ、かさ」という音が、その暗がりから溢れ出した。
覚えのある音だ。忘れようがない。
「キシャッ」
「キシャアッ」
黒曜石めいた甲殻が、光を鈍く弾きながら這い出してくる。犬ほどの大きさの蟲が、一匹、二匹……。数えるのをやめた。
黒甲蟲だった。
「――なんで」
ヨナスが呻いた。
「なんで浅層に、あんなもんが」
「ここは浅層じゃねぇってこった!」
レンは剣を抜いた。
鞘はまだできていない。布を巻いただけの刃が、薄い光の中で鈍く立った。
「ルカ!」
「数が多すぎる!」
ルカが叫び返した。
「一匹ずつ落とすしかねぇ! 壁際へ回り込む奴だけでいい!」
「言われなくてもやってらぁ!」
ルカの左手の杖から、細い雷が飛んだ。
右手には剣を抜いている。抜けてきた奴は、自分で捌くしかない。
レンは走った。
最初の一匹が跳んだ。
退がらない。半身をひらいて跳躍の下へ潜り込み、擦れ違いざまに刃を下から振り上げる。
跳んだものは、空中で向きを変えられない。晒された腹の継ぎ目を、通り過ぎざまに斬り裂いた。
斬り上げた刃は、右肩の上で止め。
左から二匹目。
肩の上にある刃を、そのまま斜めに落とした。肩の高さから腰の高さへ、一本の線で。頭と胴の繋ぎ目に入って抜ける。
三匹目が正面から顎を開いた。
腰から切り返す。下から上へ、開いた口の中へ。切っ先が喉を抜けて、刃はまた右肩の上へ戻ってきた。
同じ形だった。
右上から左下へ、左下から右上へ。八の字を描いて刃が回りつづけ、そのあいだ一度も止まらない。そう動くべきだと分かるからだ。
足も同じだ。斬るたびに左足が半歩ぶん、外へ滑る。壁際の十二人を背にして、扇の要のように少しずつ回り込みながら、蟲の来る側を常に正面へ置きつづける。
考えていない。
考えるより先に、体が次の位置を選んでいる。
だが。
「まだ来るぞオイ!」
ギースの悲鳴が上がった。
開いた口から、まだ出てくる。数が減らない。
背後で雷が二度続けて弾け、二匹が落ちた。それだけだ。一発で一匹では、湧いてくる速さに追いつかない。
そしてレン達には、守るものが多すぎた。
壁際に十二人が固まっている。担いでやらねば動けない者が三人。そこへ蟲が回り込む。回り込ませないためには、その前に線を引かなければならない。
線は、体が一つでは引けない。
「サーシャ! 右だ!」
「見えてるわよ!」
矢が飛んだ。一匹の複眼を射抜いて、その一匹が止まる。
「ヨナス! 左をやれ!」
「うるせえ!」
ヨナスが斬りかかった。剣筋は悪くない。四級と侮れる腕ではなかった。
だが甲殻に弾かれた。
「――くそッ」
「継ぎ目だ! それと脚の付け根! 平打ちで叩くな、差し込め!」
「わかってんだよそんなこたあ!」
わかっていても、できないのだ。
つい先日まで、自分もそうだった。ここを斬ればいいと頭でわかっていて、体が届かない。届かないぶんを力で埋め、それでも足りないぶんを――
左腕へ、手が伸びていた。
止まらなかった。
考えるより先に、袖をめくり上げていた。
白い筋が並んだ前腕が、薄い光の下に出る。数えたことはない。ドランは数えたことがあるらしいが、聞いたことはなかった。
誰かが息を呑む音がした。
「――お前、オイ」
ギースの声だ。目の前の一匹をなんとか倒したのだろう。
「なにを――」
答えなかった。
刃を返して、皮膚の上を浅く走らせる。
痛みは遅れて来る。いつもそうだ。
血が滲み、盛り上がり、細く垂れた。
(――力が、要る)
祈るというほどのものではない。頼むというほどでもない。ただ、そう思うだけでいい。
熱が来た。
腹の底から、背骨を伝って指の先まで。血の匂いのする蒸気のようなものが全身を包み込む。
視界が広がる。
音が近くなる。床の細かい凹凸が、足の裏に一つ残らず伝わってくる。
腕の表面を撫でた程度の出血。
十分、のはずだった。
***
ギースは、斧を握ったまま突っ立っていた。
薄ぼんやりと赤く光る男が跳んだ。
そこまでは見えた。
次に目が追いついたときには、もう群れの真ん中にいる。十歩はあったはずだ。三歩で行ける距離ではない。
左へ薙ぎ払うのが見えた。
並んでいた二匹がまとめて上と下に分かれて落ちる。甲殻もなにも関係なく両断されている。
ギースは斧使いだ。あの甲殻は割るものであって、斬るものではない。そう思っていた。
男は退がらなかった。
腰が回った。
刃が体に巻きついて、右の肩の上から振り下ろす。担ぎ直したのではない。振った勢いを、そのまま回転する力に換えて使っているのだ。
足元にいた三匹目の頭が縦に割れる。
まだ止まらない。落ちきった刃が、返らずに真上へ跳ね上がった。
男の右側から跳びかかった四匹目が斜めに斬り裂かれた。
そして、振り上げた剣の勢いのまま右足を一歩踏み込むと、先ほどまで背後に位置していたため気づいていないはずの五匹目を見もせずに真横へ断った。
「――は?」
自分の声だと、しばらく気づかなかった。
***
どれくらい斬ったか、わからない。
床が黒く埋まっていた。骸を踏むたびに甲殻が鳴る。
腕から垂れた血が、手首を伝って柄まで濡らしていた。
息が上がっていた。膝が笑いはじめている。
当たり前だ、数日前まで寝込んでいたのだ。
丸二日歩き通してここへ来た。血はまだ戻りきっていないだろう。マーゴの言ったとおりだ。
(あと、どのくらい保つっ……!)
考えたところで、答えが変わるわけではない。
目の前に残っていた2匹を斬ったところで。
「レン! もういい、もう出てこねえ!」
ルカの声だった。杖を持つ手が下がっている。
たしかに、壁の口から出てくるものが途切れていた。
いくつかの口は、いつのまにか閉じている。開いたときと同じように、静かに。
「……終わったのか」
誰かが呟いた。
そこへ、音が来た。
ズズ、と。
いままでのどれとも違う、重い音だった。
向かいの壁で、継ぎ目が二本まとめて動いた。開いた口は、これまでの倍の高さがあった。
その奥から、熊ほどの影が身を屈めて出てきた。
黒曜石めいた甲殻。小さな頭部。甲殻の奥に埋もれた眼。
そして、腕が四本あった。
それぞれが別の生き物のようにうねりながら、床へ触れる。
「ギシャアアアアアッッ」
金属同士をこすり合わせたような声が、壁に跳ね返って重なった。
レンは、その姿を知っていた。
「四腕鬼だ」
誰かがそれが何なのか知らないまま、ただ後ずさった。
知っている者は、顔を青ざめさせていた。
「……嘘だろ」
ヨナスの声が掠れていた。
「あれ、深層のやつじゃねえのか」
「そうだ」
「三級で相手すんのか、あれを」
「したことはある」
レンは剣を握り直した。
「一人でじゃねぇけどな」
「ルカ! でけぇのが要る!」
返事が遅れた。
「……無理だ」
振り返る余裕はなかった。声だけで足りた。
「一匹だぞ! 一匹なら、お前の一発でなんとかなる!」
「その一発が出ねぇんだよ!」
ルカが悲壮感の滲む声で叫び返した。
「さっきの群れでほぼ空だ! 絞っても小技の数発が関の山だ!」
そうか、とレンは思った。
一匹ずつ落とせと言ったのは自分だ。壁際へ回り込む奴を、片端から。ルカはそのとおりにやった。やりきった。
だからいま、この男の中には何も残っていない。
誰も来ない。
それだけのことだった。
四腕鬼が跳んだ。
速い。熊ほどの図体で、蟲なんかより圧倒的に速い。
レンは横へ流した。流しきれなかった。腕の一本が肩をかすめて、革の鎧が裂けた。
二本目が来る。受けた。体が軋んだ。
受けたまま押し込まれる。足の裏が床を擦った。
その下から、三本目が掬い上げてくる。
受ける手がない。剣は二本目を押さえたままだ。
跳び退がるしかなかった。
退がった先に、四腕鬼が踏み込み四本目が伸びてきた。
叩き落とされた。床に背中から落ちて息が止まる。
視界の隅で、誰かが悲鳴を上げているのが見えた。
(――足りねぇか)
立ち上がりながら、はっきりとそう思った。
剣は通る。継ぎ目も見えている。どこをどう斬ればいいかもわかっている。
わかっているのに、技量では埋めることのできない圧倒的な差があった。
速さが足りない。重さが足りない。力が足りない。
この体では、思い描いたとおりに動けない。
六年間、ずっとそうだった。
昨日までの二日間がうまくいきすぎていただけだ。
四腕鬼が、レンを越えて壁際を見た。
その先に何があるかを、この化け物は正しく理解している。
動けない者が並んだ、あの一画。
トビという名の少年が、脚を縛られて転がっている、あの壁の下。
視線を左腕にやりながら、剣を持つ右手を左の前腕へ押し付けた。
浅い傷の並ぶ、その内側。皮の下に太い筋が一本走っている。
六年、そこだけは避けつづけてきた。
ここを切り出血すれば、もう止められなくなるかもしれない。
(――知るか)
刃を当てた。
引いた。
熱が来た。
さっきのものが暖炉に手をかざす程度の話だったと、比べてはじめてわかる熱だった。腹の底で何かが焚きつけられ、四肢に向かって抜けていく、いや、四肢から腹に向かって何かが流れ込んでいるのかもしれない。もう分からなかった。
血は床へ落ちなかった。
肘を伝って垂れたものが、途中でほどけて赤い霧になる。散ったそばから引き戻され、体の周りをゆっくりと渦巻いた。
(――持っていけ。全部だ)
***
ヨナス・カルクは、その背中を見ていた。
最初に来たのは匂いだった。
血の匂いが、部屋いっぱいに広がった。
鼻の奥へ貼りつくような濃さで、外套の下の尻尾が勝手に丸まる。獣人の体は、頭より先に何かを判じてしまう。
次に、色が変わった。
この部屋の光は薄く濁っていて、何もかもが灰に見えていた。そこが赤く染まった。
男の輪郭に沿って、赤い靄が立ち昇っている。陽炎のように揺れて上へ渦巻ながら立ち昇り、途中でほどけて消える。消えたそばから、また下から昇ってくる。
その光が床を照らしていた。散らばった黒い甲殻が、一斉に濡れたように赤く光る。
噂なら聞いていた。
やたらと怪我をする奴だ、と。潜るたびに腕へ布を巻いて戻ってくる。だから弱いのだと思っていた。腕が足りないから傷が増えるのだと、それ以外に考えようがなかった。
布の下は、これだったのか。
下手を打って負った傷じゃない。全部、自分で切った跡だ。
ヨナスは六年この男を見てきた。同じ年に登録して、同じ札を取り合って、同じ穴に潜ってきた。腰巾着だと言い続けてきた。実力なんぞありはしない、あれはルカのおかげだと。
そのルカは、いま杖を握ったまま突っ立っている。
何もしていない。何もできない。
あの怪物の前に立っているのは、あの男ひとりだった。
(……なんなんだよ、あれは)
三歩、下がっていた。
下がってから、自分が下がったことに気づいた。
***
レンには、世界が遅くなったように感じていた。
音が消えている。消えたのではなく、速すぎて届いていない。
四腕鬼が腕を振りかぶる。その動きが、水の中を進むように緩い。
レンは一歩で懐へ入った。
振り下ろされる軌道が、止まって見える。その内側へ滑り込み、右足を軸に体を寄せた。
肩の継ぎ目へ、下から刃を差し込む。
押し込まない。差し込んだまま、腰の回転で横へ引き抜いた。
腕が一本、根元から離れて落ちた。
「ギ、ギシャッア!?」
声が裏返る。
抜けた刃は、右の肩の上にある。
そこへ二本目が横薙ぎに来た。
迎えに行く必要はない。上にある刃を、来る腕の軌道へ落とすだけでいい。肘の継ぎ目に、上から重なった。
二本目も落ちた。刃はいま、左の腰の脇にある。
三本目が掴みにくる。
掴ませた。手のひらが肩を握り込んだ、その瞬間に腰から切り上げる。左下から右上へ。手首の継ぎ目を内側から斬り裂いた。
四本目が右側から振り下ろされる。
その拳を真正面から刃で迎えるように振り抜いた。
中指と薬指の間から肘までが裂けて地面に落ちた。
四腕鬼が棒立ちになった。
小さな頭部が、甲殻の奥からレンを見ている。
左足を踏み込み、跳んだ。
上に大きく振りかぶった刃をそのまま上から振り下ろす。
頭が、縦に割れた。
落ちた。
膝から。
剣を杖にして、辛うじて倒れずに済んだ。
握った柄が、ぬるりと滑る。
いつのまにか、柄も鍔も血で真っ黒になっていた。刻まれた幾つもの銘の、その溝の一本一本にまで血が入り込んで、文字の形をなぞっている。
誰のものかもわからない古い名前が、いま、はっきりと読めていた。
視界の縁が黒く狭まっている。指先が冷たい。耳の奥で、細く高い音が鳴りつづけている。
つい最近にも一回あったことだ。
このままいけば、次に目を覚ますのは三日後になる。あるいは、覚まさない。
(……血ぃ……止まれよ)
左腕を右手で握った。ぬるりと滑った。
壁に開いたままの口へ目をやる。
次が出てくるなら、もう立てない。
だが、暗がりの奥は静かだった。
やがて、その口も音を立てずに閉じていった。
***
静かになった。
誰も何も言わなかった。
まだ終わったと思えないのだ。壁がまた動くのではないか、そればかりを見ている。
どれだけそうしていたか、レンにはわからない。
膝をついたまま剣にもたれて、床の血が広がっていくのを、他人事のように眺めていた。
「――レン!」
ようやく気づいたらしい声が上がった。
足音が近づいてくる。途中で何かに躓いて、それでも止まらずに走ってくる。
「おい、おい待て、ちくしょう、また無茶しやがって!」
ルカが横へ膝をついた。外套の裾を裂いて、前腕をきつく縛る。
「馬鹿かお前は」
「うるせぇよ」
「腕の太い血管、やりやがったろ」
「……見てたのか」
「見てなくてもわかる。だいたいその血の量はなんだよ」
ルカの手が震えていた。声は平気そうなのに、指だけが震えている。
「なあレン」
「あ?」
「おれが一発分、残しときゃこんなことには――」
「残してどうすんだよ。先に虫どもにやられてたぞ」
「……そうだけどよ」
それきり、ルカは何も言わなかった。
視線を感じて、レンは顔を上げた。
十二人が、こちらを見ていた。
助かった者の顔だ。荷を下ろしたような、力の抜けた顔。何人かは泣いている。
だがそれだけではなかった。
目が合うと、逸らされる。
一人ではない。何人も。
彼らが見ているのは、レンの左腕だった。布を巻いてもなお滲んでくる赤と、その上に並んだ白い筋。数え切れないほどの、古い傷。
全部、自分でつけたものだと、見ればわかる。
「……あの人」
若い声が、壁際で囁いた。
「自分で、切って――」
「シッ」
「だって」
「黙ってろ」
囁きは止まらなかった。
やがて、その中から一つだけ、はっきり聞こえた。
「――血で買ってる」
言った本人は、たぶん深く考えていない。
街の誰もが使う言い回しだ。無理な手立てで何かを得ようとする者に向けて、大人が子どもを叱るときにも使う。金貸しに手を出した男にも、体を壊すまで働く女にも言う。
元の話を思い出しながら言う者は、もうあまりいない。
レンも思い出せなかった。
ただ、ああ、また言われた、と思った。
それだけだった。
ヨナスが立っていた。
少し離れたところで、剣を提げたまま、動かずにいる。
この男は、さっきの一部始終を真後ろから見ていた。
先ほどのルカは、杖を握ったまま突っ立っていた。魔力のないものに、できることは何もない。
蟲の群れこそ皆で協力して止めたが、四腕鬼を止めたのはこの男ではない。
言い訳が、ひとつも残っていなかった。
ヨナスの口が動いた。
何か言おうとして、音にならずに閉じた。
もう一度動いて、また閉じた。
結局、何も言わなかった。
言えないのだと、レンにはわかった。わかったので、目をそらしてやった。
それから、待った。
上からは何も聞こえない。壁の口は閉じたきり動かない。
残ったのが何人かは知らないが、多くはないはずだ。三人か、四人か。それだけでは縄も足りないし、十四人を引き上げる手も足りない。
だが浅層には人がいる。駆け出しの稼ぎ場で、どんな刻限でも必ずどこかの組が潜っている。走り回って声をかければ、縄も人も集まる。
あとは、集まるまでどれだけかかるかというだけだ。
考えているうちに、身体がどうしようもなく寒くなってきた。
(……寝るんじゃねぇ)
自分に言い聞かせた。
「――縄よ!」
サーシャの声が上がった。
全員が上を見た。
穴の縁から、細いものが垂れてきている。継いだ縄だ。二本、三本と続けて落ちてきて、途中で結び目が引っかかりながら、床の手前まで届いた。
縁に人影が並んでいた。数えられるだけで七つか八つ。
「――生きてるかァ!」
誰かが叫んだ。若い女が上から顔をのぞかせている。
あの娘だ、とレンは思った。
床が抜ける直前、通路のほうへ突き飛ばした娘。
「生きてるぞオイ!」
ギースが両手を振り回して叫び返した。
「十四人だ! 担がねえと上がれねえのが三人だぁオイ!」
そこで、ギースの声が途切れた。
振り返って、外套のかかった三つを見た。それから、また上を向いた。
「……三人、駄目だった!」
上が静かになった。
歓声にはならなかった。
パーティメンバーだろうか。壁際で誰かが声を上げて泣きはじめた。つられて、もう一人。
レンは座ったまま、それを聞いていた。
立ち上がろうとして、膝に力が入らないことに気づいた。
「動くな」
ルカが肩を押さえた。
「お前が先に上がれ」
「怪我人が先だろ」
「お前が怪我人だっつってんだよ」
「歩けねぇのが三人いる。そっちが先だ」
ルカが何か言いかけて、やめた。
やめて、腕に巻いた布を締め直した。さっきより強く。
痛かったが、黙っていた。
トビという少年が、ロープに結ばれて引き上げられていく途中で、こちらへ首を回した。
脚は添え木で縛られている。顔は真っ白だ。
その口が動いた。声にはならなかった。
ありがとう、と言ったように見えた。
レンは片手を上げた。
それだけで、少年は何度も頷いて、引き上げられていった。
動けない三人が上がりきったところで、レンの番が回ってきた。
力が入らず、自力では登れなかった。縄を体に回して、上から引かれるまま壁を擦って上がった。
縁に手が届いて、引きずり上げられて、そのまま床に転がった。
立てるようになるまで少しかかった。
それから、穴のそばへ座り直した。
まだ半分残っている。動ける者を一人ずつ上げるのに、縄は一本しかない。
ふと思い出して、懐へ手を入れた。
薬草袋があった。押し潰れてはいるが、破れてはいない。口を開けて、指で中を探る。折れた葉に触れると、霜のような白い粉が指先についた。
効くのかどうかは知らない。薬師の仕事だ。
問題は間に合うかどうかで、こればかりは考えても仕方がなかった。落ちてからどれだけ経ったのか、見当がつかない。
(……まだだ)
袋を懐へ戻した。
穴の底を覗き込む。
薄く濁った光の中に、まっすぐな壁と、等間隔の継ぎ目と、黒い骸が見えた。
この部屋が何なのか、誰も知らない。
地図にない。話に聞いたこともない。落ちてはじめて、こんなものが自分たちの足の下にあったと知った。
六年潜って、こんなことは初めてだ。
(……いったい、なにが起きようとしてやがるんだ)
答えは出ない。
最後の一人が縁を越えるまで、レンはそこに座っていた。
***
地上へ出たのは、日が落ちてからだった。
迷宮の入口の前が、松明で赤く照らされていた。
街から人が出てきている。ギルドの詰所の者、担架を担いだ男たち、家族を探しに来た者、野次馬。人の数はどんどん増えていた。誰かが街まで走って、誰かがさらに走ったのだろう。
担架が次々に運ばれていく。そのたびに、人だかりのどこかで声が上がった。名を呼ぶ声と、名を呼ばれて返事をする声。
三つだけ、返事のない担架があった。
布がかけられていて、運ぶ男たちは足を止めなかった。人垣がそこだけ黙って割れた。
みなが登りきったあとで、レンは丘を登った。
肩をルカに借りている。歩けなくはないが、力がうまく入らずふらつくのだ。
誰かが振り返った。
その誰かが、隣の誰かの袖を引いた。
連鎖するように、人が振り返っていった。
松明の明かりが、レンを照らした。
上着は裂けている。全身が土と赤黒い体液で汚れている。左腕には布が巻かれていて、その布が端まで真っ赤に染まっていた。血は乾ききらず、指先から一滴ずつ落ちていた。
人だかりが割れた。
誰かが道を空けたのではない。避けたのだ。
だが、そのすぐあとに、別の動きが起きた。
担架の上から手が伸びた。運ばれていく途中の男が、身を起こそうとして押さえつけられながら、こちらへ手を伸ばしている。
その隣の担架からも。
壁際で泣いていた娘が、人垣を割って走ってきてレンの前で立ち止まった。何か言おうとして、言葉にならずそのまま頭を下げた。
一人が下げると、もう一人が下げた。
感謝と怯えが、同じ場所に立っていた。
レンにはどちらも受け取り方がわからなかった。だから何も言わずに、ただ立っていた。
松明の輪の外で、誰かが呟いた。
小さな声だった。だが、静まりかけた場所ではよく通った。
「……血塗れの、冒険者だ」




