第11話 成長?
「その依頼、オレが受ける」
カウンターの前が、しん、と静まった。
床に膝をついていた女が、ゆっくりと顔を上げる。何を言われたのか、すぐには呑み込めていない顔だった。
「……あんた」
マーゴが、書き付けを持つ手を止めた。
「あんた、その額を見たのかい」
「見た」
「三日だよ。中層の奥まで往復三日。それも、急ぎでだ」
「わかってる」
「一人でかい」
「二人だ」
背後で、深いため息が聞こえた。
振り返るまでもない。ルカだった。
「……なあ、レン」
「なんだ」
「おれ、まだ何も言ってねえんだけど」
「言う前に断られたら困るだろ」
「順番がおかしくねえか」
文句を言いながら、ルカはもう掲示板のほうへ歩き出していた。中層の地図の写しが貼ってある一角だ。
こういう男だった。
「やめときな、レン」
マーゴが、声を低くした。
「そもそもこいつはね、本来なら準二級に回す札なんだよ」
「……わかってる」
「中層の最奥の採取ってのは、そういう難易度だ。往復三日、道中の魔物は選べない、しくじれば基本的に助けも来ない。だから準二級から上に振る」
「緊急扱いだろ、それ」
マーゴの口が、止まった。
「……ああ。そうだよ」
「なら、3級でも受けれんだろ」
緊急の札は、通常より一段下の等級でも受注できる。人が死にかけているのに、手を挙げられる等級の者がいないというだけで札が宙に浮く。そういうことにならないための決まりだ。
準二級の緊急依頼。だから、三級のレンでも受けられる。
「屁理屈をこねるんじゃないよ」
マーゴが、カウンターに書き付けを叩きつけた。
「あの決まりはね、間に合わせるためのもんだ。誰かが死にかけてるときに、一段下でも手を挙げられるようにってだけの話さ。……だいたい今回は緊急の場合の割り増しもない」
言い返さなかった。
言い返せる話ではない。
準二級。三級のひとつ上だ。数えれば、一段しか違わない。
だがその一段は、紙の上でだけ小さい。三級は中層の入口寄りで用の足りる依頼をこなす等級で、奥まで踏み込むことを前提にされていない。準二級から上は、そこを前提にされている。
同じ中層と呼ばれていても、別の仕事だった。
「あんた、五日前まで寝込んでたんだよ。血だってまだ戻りきってないだろう」
「戻ってる」
「嘘だね。顔色でわかるんだよ」
「……マーゴ」
レンは、カウンターに手をついた。
「じゃあ、誰が行くんだよ」
マーゴが黙った。
ギルドは相変わらず静かで、誰も目を合わせようとしない。杯を傾ける手つきだけが、やけにゆっくりになっている。
誰も悪くない。この場にいる連中は、みんな明日の飯代で動いている。
「二日か三日って言ったな」
レンは、床の女に目を向けた。
「オレが出るのは今日中だ。往復で三日。……ぎりぎりだが、間に合う」
女の唇が震えた。
「あの、でも、お金が」
「足りねぇんだろ。聞いてた」
「……はい」
「じゃあ、その袋のぶんでいい」
女が、目を見開いた。
「ほ……ほんとうですか」
「ああ、まかせとけよ」
レンは書き付けを取り上げ、名前を書いた。
周りの卓から、いくつか視線が刺さってくる。呆れ、興味、そして少しの侮り。あの男はまたやっている、という顔だ。
慣れていた。
外へ出ようとしたところで、後ろから声をかけられた。
ノルドだった。
「レンさん」
「なんだ」
「おれたちも行きます」
その後ろにミラとネルが並んでいる。三人とも、もう装備を背負っていた。準備している時間などなかったはずだ。ずっと構えていたのだろう。
「駄目だ」
「なんでですか」
「中層の奥だ。お前らじゃ足手まといになる」
言い方を選ばなかった。選べば揺らぐと思った。
ノルドの顔が、わずかに歪んだ。
「……でも、おれたち、あの深いところから」
「あれは生き延びただけ。ただただ運が良かっただけだ」
レンは、少年の目を見た。
「お前らは五級だ。ちょっと前に登録したばかりで、まだ浅層の採取もろくにこなしてねぇ。……あの時死ななかったのは、運と、お前らが必死だったからだ。実力じゃねぇ」
残酷なことを言っている自覚はあった。
だが、ここで連れていって死なせるほうが、よほど残酷だ。
「浅層で場数を踏め。話はそれからだ」
ノルドが、拳を握った。
その手が白くなるほど強く握られているのを、レンは見ないふりをした。
「……わかりました」
ミラが、ノルドの袖を引いた。
「行きましょう、ノルド」
「ミラ」
「レンさんが正しいです。……悔しいけど」
ミラは、自分の杖を握り直した。
「わたしたち、今のままじゃ足手まといです。それは、わかってるんです」
三人が下がっていく。
ネルが最後に一度だけ振り返って、何か言いかけて、やめた。
その顔を見て、レンは少しだけ後悔した。
***
街の南門を出たときには、日はもう傾いていた。
街道を二時間。灌木の丘の裾に着く頃には、空はすっかり藍色になっているだろう。
常なら、こんな刻限に潜る者はいない。だが待つ理由もなかった。あの穴に昼も夜もない。壁の光は、いつ入っても同じ明るさで待っている。
「で」
ルカが、歩きながら言った。
「今回の実入りは」
「言うな」
「言うぞ。三日潜って、宿代にもならねえ」
「わかってる」
「わかってる奴の顔じゃねえんだよなあ、それが」
ルカは肩をすくめて、それきり黙った。
文句は言う。だが引き返せとは一度も言わない。この六年、ずっとそうだった。
浅層は、いつもより静かだった。
洞窟狼の姿はない。あの群れがどこへ行ったのか、いまだに誰も答えを持っていない。
中層に入るまでは、何事もなかった。
最初にそれが出たのは、中層へ入ってしばらく歩いた頃だった。街を出てから、半日あまりが過ぎている。
通路の先の暗がりで、何かが擦れる音がした。
かさ、かさ、かさ。
覚えのある音だ。忘れようがない。
「……黒甲蟲か」
ルカが杖を構えた。
闇の中から、黒曜石めいた甲殻が這い出してくる。犬ほどの大きさの虫が、一匹、二匹、三匹。奥からまだ続いている。
「五、六匹はいるな。おい、どうする」
ルカが訊いた。
当然の問いだった。
前に群れと当たったときのことを、レンは思い出す。
あのときは血が要った。肩を噛み裂かれて、そこから流れたぶんで底上げを買った。腕を切るまでもなかったが、裏を返せば、噛まれなければ凌げなかったということだ。
今度はどうするか。
考えて、ふと気づいた。
左腕へ伸ばしかけた手が、途中で止まっている。
いや、伸ばしていない。最初から。
「……いや」
レンは、布の巻きを払って剣を抜いた。
「試してぇことがある」
「はあ?」
「下がってろ」
最初の一匹が、跳んだ。
黒甲蟲の跳躍は速い。真正面から来る。以前なら、まず横へ逃げて体勢を立て直してから斬りにいくという判断をしたはずだ。
だが、体がそうは動かなかった。
自然と右足が半歩、前へ出ていた。
逃げるのではなく、迎えに行ったのだ。
(どう動けばいいのかわかる)
思う間もなく、少し体をよじりながら斬り上げた。
肘が畳まれ、手首の角度が変わり、刃が斜めに立つ。
跳んできた虫の、甲殻と甲殻の継ぎ目――胴と頭の、指二本ぶんの隙間へ、切っ先がまっすぐ入った。
振り抜いた剣は切った感覚もない。
黒甲蟲が真っ二つになり、声も出さずに床へ落ちた。
「……え」
ルカの声が、遠くで聞こえた。
二匹目が横から来る。
レンの体は、もうそちらを向いていた。
上にある剣を、そのまま上段に構えて
腰から先に回って、剣が遅れて追いつく。体の周囲の最短距離を通る斬り下ろし。
刃が、複眼から入って頭部を甲殻ごと横薙ぎにした。
三匹目。
これは正面から顎を開いて突っ込んできた。以前のレンなら、盾がないぶん距離を取るしかなかった相手だ。
だが、やはり体は前へ出た。
開いた顎の内側へ、腰だめに構えた刃を下から差し込む。喉の奥を裂いて、そのまま押し込む。
虫がのけぞる。その瞬間に反転のステップをし、慣性を利用して剣を抜きながら、レンは半歩下がり、四匹目の突進の軌道から外れた。
外れた先に、五匹目がいた。
振り返らずに、逆手で薙いだ。
四匹目が突進をやめ、振り返ったところを、既に3歩踏み込んでいたレンが剣を振り下ろした。
それきり、音が止んだ。
通路には、五つの骸が転がっていた。
レンは、剣を提げたまま立っていた。
息は、少し上がっている。それだけだ。
左腕の袖はめくってすらいない。血は一滴も出ていない。
「……おい」
ルカが、杖を下ろさないまま近づいてきた。
「レン」
「……ああ」
「いま、何した」
「……知らねぇ」
そう答えてから、違う、と思った。
知らないのではない。
わかりすぎたのだ。
跳んできた一匹目を見た瞬間、自分の動作の最適解を理解した。
どの角度で、どれだけの深さで刃を入れれば通るかもわかった。そして、そう思ったとおりに体が動いた。
それだけのことだった。
これまでは、違った。
ここを斬ればいい、と頭では思っても、体は十全に応えるわけではない。届かないぶんを膂力で埋め、それでも足りないぶんを血で賄う。
思い描いた動きと実際にできる動きは、いつも別物だった。六年、その差を埋めるために腕を切ってきた。
いまは、ずれがない。
思ったとおりに動いて、思ったとおりに斬れる。
自分の右手を見下ろす。
震えてはいない。落ち着いている。むしろ、まだ足りないと言っているようだった。
(……こんな技量、オレには無かったはずだ)
骸のひとつを爪先で裏返して、ルカが低く言った。
「継ぎ目と、複眼と……。急所が的確に……。甲殻も関係なく切れてやがる」
「……そうか」
「そうかじゃねえだろ。おい、こっち来て見ろよ」
ルカが、断面を指の腹でなぞった。
「前に一匹持ち帰って剥ごうとしたことあんだろ。ナイフの刃が欠けて、結局あきらめたやつだ」
「……あったな」
「それが、つるっつるだ」
ルカが顔を上げた。
「お前の剣、切れ味はどうなってやがる」
言われて、レンは自分の手のひらを開いた。
手応えの記憶がない。
硬いものを斬ったという感触がどこにも残っていない。斬ると決めた線を、そのまま引いただけだ。
「……わからん。斬った感覚があんまねぇんだよ」
「なんだそりゃ」
「そういうもんは、そういうもんとしか言えねぇだろ」
ルカが、腑に落ちない顔のまま鼻を鳴らした。
「……まあいい。それよりお前、前に群れとやったとき、普通に怪我したろ」
「したな」
「今日は」
「してねぇ」
ルカがしばらく黙った。
それから、剣を見ながら顎で示した。
「そいつか」
「……たぶんな」
喜べばいいのか良く分からなかった。
血を流さずに戦えるなら、それは望んでいたことのはずだ。
腕の傷が増えず、体が冷えず、帰り道で倒れることもない。何ひとつ悪いことがない。
なのに、腹の底が落ち着かなかった。
自分の思ったとおりに動けている。それは間違いないのだが。
その日、中層の奥へ向かう道中で、三度ほど魔物と当たった。
どれも同じだった。
見た瞬間に、どこをどう斬ればいいかがわかる。そして、わかったとおりに刃が通る。狙いを外すということが起きない。
自分の戦い方に「美しい」という言葉が当てはまるとは、これまで一度も思ったことがなかった。
レンの剣は、ずっと汚い剣だった。
血まみれで、体ごとぶつかって、噛みつかれながら押し込む。それが六年やってきた戦い方だ。
いまのそれは、まるで別の男の剣だった。
「……なあレン」
三度目が終わったあと、ルカが言った。
「言いにくいんだけどよ」
「なんだ」
「見ててちょっと気味が悪いぜ」
ルカは笑った。
こういうときに笑ってくれるのが、この男だった。
「オレもだ」
レンも一緒に笑った。
***
霜草の群生地に着いたのは、街を出てからちょうど丸一日が経った頃だった。
中層の奥。湿った岩肌が、壁一面に垂れ下がっている。その表面に、白い霜を吹いたような細い葉が、びっしりと群れて生えていた。
触れると、ひやりとした。
「これか」
「これだな。特徴が聞いた通りだ」
ルカが袋を広げる。
二人で黙々と摘んだ。根を残して、葉だけを取る。根まで取れば次は生えない。誰に教わったわけでもないが、冒険者はたいていそうする。
「レン」
「あ?」
「これ、どのくらい要るんだ」
「煎じるぶんだけあればいい。……多く採っても、あの奥さんは買えねぇ」
ルカが手を止めた。
「余分に採りゃ、ギルドで売れるだろ」
「そういや売れるな」
「売れよ」
「……」
「今回の足代くらいは出るぞ」
レンは、しばらく壁を見ていた。
それから、袋の口を縛った。
「多少多めに摘むが、売れるほどの量はやめとく」
「なんでだよ」
「その半刻が惜しい」
ルカが、口を開きかけて閉じた。
多く摘めば時間がかかる。半刻早く帰れるなら、そのほうがいい。煎じるのにどれだけかかるのかは知らないが、早すぎて困ることはない。
「まあ、それは分かるけど。……お前さあ」
ルカが、袋を担ぎながら言った。
「そういうとこだぞ、金が貯まらねえの」
「うるせぇ」
***
帰りは急いだ。
その夜は歩き通した。中層を抜けたのは、街を出てから一日半が過ぎた頃だ。
浅層に入ると、空気が軽くなる。壁の光が柔らかくなり、天井が高くなる。ここまで来れば、あとは半日も歩けば入口だ。
「間に合うな!」
ルカが、めずらしく明るい声を出した。
「三日見といて、丸二日で戻れる。上出来だろ。……浅層を抜けて、街道が二時間。日が暮れる前には薬師の手に渡る。煎じるのに、どれくらいかかるんだっけ」
「知らねぇ。薬師の仕事だ」
「間に合うといいけどなあ」
「間に合わせんだよ!」
言いながら、レンは懐の袋に触れた。
軽い薬草袋がそこにある。子ども一人ぶんの命が、たったこれだけの重さで収まっている。
浅層は、行きよりもさらに静かだった。
魔物の気配がない。まったくと言っていいほど。
「……なあ」
ルカの耳が、しきりに動いていた。
「静かすぎねえか、ここ」
「あ?」
「行きも思ったけどよ。浅層ってのは、もっとうるさいだろ。狼が吠えて、蟲が鳴いて。……何も聞こえねえ」
レンは足を止めた。
言われてみれば、そうだった。
浅層は、駆け出しが小遣い稼ぎに入る場所だ。弱いながらも一定数の魔物が湧くはずだ。
「群れが上に来てるって話じゃなかったのか」
「そうだよ。だからなおさらおかしいんだ」
ルカが、耳を伏せかけて、また立てた。
「上に来てるはずのもんが、どこにもいねえ」
そこまで言われて、レンはようやく引っかかりの正体に気づいた。
「……なあ。この二日で、何に当たった」
「あ? 黒甲蟲が五匹と、あとは道中で三度だろ」
「それだけだ」
「そりゃ、それだけだけど……」
ルカが、途中で口をつぐんだ。
中層の奥だ。準二級に振られる領分だ。
往復二日まともに歩いて、出てきたのは黒甲蟲の群れがひとつと、あとは小物ばかりだった。
深酒の連中は、中層の浅いところで蟷螂に当たったという。あれと同じ層の、もっと奥を、三級が二人で素通りしてきたことになる。
急ぐことしか考えていなかった。戦闘が楽なのはいいと思っていた。
だが、そもそも大物と遭遇していない。
「……道中の魔物は選べねぇって、マーゴは言ったよな」
「言ってたな」
「選べねぇどころか、出てきてねえな」
嫌な感じがした。
迷宮が荒れているのなら、まだわかる。魔物が湧きすぎて手に負えないとか、いるはずのないものが上がってきているとか、そういう話なら六年のあいだに何度か聞いた。自分たちでも見た。
いま起きているのは、その逆だった。
静かすぎて困る、などという迷宮にレンは入ったことがない。
どう身構えればいいのかも、わからなかった。
「急ぐぞ」
「ああ」
通路を抜けた先が、開けた。
広間だった。
円くはない。天井は低く、床は平たい。よくある休息向きの場所で、ある程度の広さがある。
実際、人がいた。
十人以上いる。装備は新しく、顔つきは若い。二組か三組の駆け出しが、それぞれ固まって腰を下ろしている。
その中に、見知った顔があった。
「――なんだぁ? レンじゃねえか」
ヨナス・カルクだった。
鉄鎚の三人が、壁際に陣取っている。ギースが手を振り、サーシャは膝の上で弓の弦を確かめていた。
「なんでこんなとこにいる」
レンが訊くと、ヨナスは鼻を鳴らした。
「浅層の見回りだ。ギルドから札が出てた。……魔物の数を数えてこいとよ」
その言葉に、レンとルカは顔を見合わせた。
浅層の確認。ようやく出たのか。番号のついた紙が、どこかで一枚、動いたということだ。
「そっちこそ、何しに来た」
「帰りだ」
「帰り?」
「中層の奥まで、霜草を採りに」
ヨナスの眉が、上がった。
「……ああ、その話か」
「知ってんのか」
「潜る前に聞いたぜ。慈善事業みてぇな札を受けた馬鹿がいるってな」
ヨナスは、心底あきれた顔をした。
「本当にお前だったのかよ」
「そうだ」
「馬鹿じゃねえのか」
悪態のわりに、声には棘がなかった。
それきり、ヨナスは何も言わなかった。
言わずに、少しだけ横へずれた。壁際の、腰を下ろせる場所が空いた。
(……座れってことか)
妙な男だ、と思った。
レンは座らなかった。
急ぐと決めていたし、この場に長居する理由もない。
「行くぞ、ルカ」
「おう」
二人が広間を横切りかけた、そのときだった。
ルカの耳が、ぴんと立った。
「――待て」
「あ?」
「音がする」
「魔物か」
「違う」
ルカは、床を見ていた。
その顔から、血の気が引いていく。
「下だ」
「下?」
「足の下から、聞こえる」
レンは、床を見た。
平たい岩の床だ。何の変哲もない。
だが、そこに一本、細い線が走っていた。
いま入ったばかりの、まっすぐな亀裂だった。
「おい、みんな下がれ!」
叫んだ。
駆け出したちが、きょとんとした顔で振り返る。
その足元で、亀裂が枝分かれした。
二本、四本、八本。蜘蛛の巣のように広がって、床のほぼ全域を覆う。
「走れ! 壁際へ!」
誰かが悲鳴を上げた。
ヨナスが立ち上がり、ギースの襟首を掴んで引き寄せる。サーシャが弓を投げ捨てて誰かの腕を取った。
レンは走った。
いちばん近くにいた娘の腕を掴んで、通路のほうへ突き飛ばす。
それが、間に合った最後だった。
床が、抜けた。
支えを失った岩が、まとめて落ちていく。
悲鳴と、ガラガラと岩が砕ける音と、粉塵。
落ちながら、レンは下を見た。
闇ではなかった。
落ちていく先が、ぼんやりと明るい。
壁が光っている。
抜けた床の下は、四方を壁に囲まれた縦穴になっている。光は迷宮のどこにでもある、あの淡いものだ。手触りのありそうな滑らかさも変わらない。
違うのは、線だった。
迷宮の壁はどれだけ滑らかでも、たどっていけばいつのまにか撓んでいる。
ここには、それがない。
壁と壁の合わさる角が、上から下まで一本で通っている。その面を横切って、継ぎ目が走っていた。
等間隔だ。同じ幅の帯が、落ちるあいだ次々と目の前を過ぎていく。
六年潜って、一度も見たことのない造りだった。
岩が、先に底へ叩きつけられた。
腹に響く音が下から突き上げてきて、粉塵が壁を舐めるように跳ね上がる。
その山の上へ、レンは足から降りた。
膝を深く畳んで、衝撃を骨で受けずに流す。それでも足の裏から腰まで痺れが突き抜けた。
崩れる岩に足を取られながら三歩、四歩。
止まった。
粉塵が薄れていく。
レンは、顔を上げた。
(……なんだ、ここは)




