第10話 短い休養
「相棒の子守りは、もう終わったのか?」
獣人の男は、そう言ってからゆっくりと杯を置いた。
卓の上に、こつり、と乾いた音が落ちる。
ギルドのざわめきが、その一角だけ薄くなった。
声の大きさが、絶妙だった。
この男はいつもそうだ。狼の耳を持って生まれた者は、自分の声がどこまで届くかを、常人よりずっと正確に知っている。怒鳴りはしない。ただ相手に届かせる。
「よかったな、ルカ。これでまた潜れるじゃねえか。……そっちの荷物も、やっと起き上がったみてえだしな」
「おい」
ルカの首筋の毛が、ざわりと逆立った。
卓のほうで、灰色の耳がわずかにこちらを向く。
ヨナス・カルク。同期だ。同じ年に登録して、同じ掲示板を眺めて、同じ安酒を飲んできた。
そして、ルカと同じ、獣人の血を引いている。
犬と狼。並べて立たせれば、強そうに見えるのは間違いなく向こうだ。灰がかった髪に、鋭く尖った耳。鍛え上げた体つきに、手入れの行き届いた装備。誰が見ても、それらしい男だった。
等級は、四級。
率いる一党の名を「鉄鎚」という。堅実で、腕も悪くない連中だ。
レンは、ルカの肩を軽く叩いた。
「行くぞ」
「レン」
「行くぞ」
もう一度言って、扉のほうへ体を向ける。
こういうものは、返せば返すほど長くなる。六年やっていれば、それくらいは覚える。
だが。
「――待ってください」
声を上げたのは、ノルドだった。
少年が、前へ出ていた。
脚はまだ完全ではない。それでも、まっすぐ卓のほうへ向かっていく。
「ノルド」
「レンさんは、荷物なんかじゃありません」
ヨナスの眉が、わずかに上がった。
「あ?」
「おれたちを守ってくれたのは、レンさんです」
ノルドの声は震えていた。怒りでか、緊張でか、たぶん両方だった。
「四腕鬼が出たときも、蟲の群れに囲まれたときも、あの百足のときも。全部、レンさんが前に立ってくれたお陰です。おれたちが一人も欠けなかったのは――――」
「おいおい、坊主」
卓の向かいで、斧使いのギースがだらしなく笑った。上背のある猫背の男で、自分の考えというものを持ち合わせていない。いつもヨナスの尻について笑っている。
「深いとこから五人で上がってこれたんなら、そりゃルカの雷のお陰だろ。……なあ、お前らそんとき、ちゃんと周り見えてたかオイ?」
「え」
「はじめての深層で、魔物に囲まれて。おっかなくて、目ぇつぶってたんじゃねえのか? 大体、前に立つなんて誰にでもできるしなァ?」
どっ、と笑いが起きた。
鉄鎚の卓だけではない。隣の卓も、その向こうも。それまで我関せずで杯を傾けていた連中が、待っていたように笑った。
ノルドの喉が、詰まった。
言い返せないのだ。
あの百足に突っ込んでいったとき、この少年はたしかに目をつぶっていた。振り下ろした刃がまぐれ当たりしたことも、本人がいちばんよく知っている。
「違います!」
ミラが、ノルドの隣に並んだ。杖を胸に抱いて、顔を真っ赤にしている。
「ルカさんも、すごかったです。でも、レンさんは……レンさんは、自分の腕を切って――――」
そこで、言葉が止まった。
止まったというより、止めたのだ。
言ってはいけないと、この娘は知っている。人前で血の話をするたび、レンが何と呼ばれてきたかを、この十日ほどで見てきた。
「腕を切る? 何だよ」
ヨナスが、面白そうに先を促した。
「言ってみろよ。腕を切ったら強くなるってか」
「……」
「なあ新人どもよお。悪いことは言わねえ。あんまり夢物語を語るんじゃねえよ」
ヨナスは杯を持ち上げ、中身を揺らした。
「三級ってのは、実力で上がるもんだ。五級のお前らにゃまだわからんだろうがな、この街で三級ってのはそう軽くねえ」
それから、はじめてまっすぐルカを見た。
「なあルカ。お前は本物だ。それは認める」
「……あ?」
「同じ年に始めて、同じ札を取り合って、同じだけ潜ってきた。……それでもお前は三級で、おれは四級だ。六年かけて、届かなかった」
ルカが、何か言いかけて口を閉じた。
卓のほうを見たまま、逆立った毛だけがそのままになっている。
「だからこそ、だ」
ヨナスの声が、少し低くなった。
「隣にいるのが誰でもいいってわけじゃねえだろ。……お前の足を引っ張ってる奴が、なんでお前と同じ場所にいるんだ」
悪意を隠しもしなかった。
だが不思議と、憎しみのようなものは感じない。この男が言っているのは、たぶん本人にとっての事実なのだ。正しく積み上げた者が報われるべきだという、それだけの話。
同じ年に始めて、同じ札を取り合って、同じだけ潜ってきた。それでも片方は三級で、片方は四級だ。
持ち出せる言い訳が、この男には何もない。生まれも育ちも種族も、費やした年月すら違わないのだから。
だから、差の理由を自分の外へ置くしかない。
(……その置き場所が、オレなんだろうな)
ヨナスの外套の裾が、わずかに揺れた。
押し込んだ尻尾が、動いているのだ。
昔からそうだった。顔と声はいくらでも取り繕えるくせに、そこだけは繕えない。
「もういい」
レンは言った。
「ノルド、ミラ。行くぞ」
「でも」
「行くぞ」
二人が渋々下がる。
そのとき、鉄鎚の三人目がはじめて顔を上げた。
弓手のサーシャ。短く切った髪の女で、こういう場ではたいてい何も言わない。使い込まれた弓を椅子の脇に立てかけ、口を引き結んで、こちらを見ている。
目が合った。
女はすぐに目を逸らし、卓に視線を落とした。
何も言わなかった。
(……あいつは、笑ってなかったな)
それだけ思って、レンは扉を押した。
外に出ると、日はもうほとんど落ちていた。
「くそっ」
ノルドが、壁を蹴った。
「なんで……なんであんな言われ方するんですか。レンさんは、あんなに」
「言わせとけ」
「言わせとけって、そんな」
「そんなもんだ」
レンは足を止めずに言った。
「オレが誰に何を言われようが、俺は俺だ」
ノルドが黙った。
そのうしろで、ネルがぽつりと言った。
「……悔しいです」
この娘が感情を口にするのは、めずらしい。
「わたし、ちゃんと見てたのに。全部覚えてるのに。……覚えてるだけじゃ、何にもならないんですね」
レンは、少し考えてから口を開いた。
「ネル。ついでに言っとく」
「はい」
「あの話は、人前でするな」
三人が、いっせいにこちらを見た。
「え……」
「ミラもだ。さっき、途中でやめたろ。あれでいい」
ミラが、小さく息を呑んだ。
「なんでですか」
ノルドが食い下がった。
「本当のことなのに」
「本当だからだよ」
レンは足を止めずに言った。
「……お前ら、指を切ったとき、親になんて言われた」
三人が、きょとんとした。
「え、と……地に落とすな、って」
ミラが答えた。
「なんでだかは、知りませんけど」
「オレも知らねぇ」
誰も知らない。
だが誰もが言われて育つ。血を地に落とし、差し出してはいけない。
なぜかと訊けば、大人は困った顔をして黙る。それだけのことなのに、皆その作法を守る。
「腕を切って力を出す男の話ってのはな。伝わるうちに、勝手に形が変わるんだ」
レンは言った。
「血で買ってる、ってな」
ノルドが、息を呑んだ。
その言い方が何を指すのか、村で育った子どもならわかる。分不相応なものに手を出す者への戒めだ。祭りの晩に、酔った大人が金貸しの噂をするときに使う。
そして、もとがどんな話だったかを覚えている者は、たぶんもう街に何人もいない。
「そんで、厄介なのはここからだ」
「……はい」
「言い触らした側も、そのうち同じ目で見られる」
レンは肩をすくめた。
「オレが何を言われようが、慣れてる。……だが、お前らまで同じ扱いを受けるのは筋が違ぇ」
「そんなの、おれたちは平気です」
「そう言ってくれんのはありがてぇが、俺がいやなんだわ」
ノルドが黙った。
しばらく歩いてから、レンは付け足した。
「言わなくていい。忘れなくていい。……それで十分だ」
ネルは何か言いかけて、やめた。
それから、袖で目のあたりを拭った。
***
三日後、深酒が街へ戻ってきた。
中層の依頼を仕切り直して、あらためて潜り、調査してきたのだという。その足でギルド裏の安酒場に転がり込んできたところを、レンが捕まえた。
「借りだ」
卓に銀貨を置くと、ガロが目を剥いた。
「おい、まさか」
「三十杯だろ」
「本気で数えてたのかよ」
「言い出したのはそっちだぜ」
ガロが大声で笑った。周りの卓がこちらを見る。
イーナが呆れ顔で腰を下ろし、モーグは何も言わずに椅子を引いた。この大男は、酒場でも黙っている。
「で、飲めんのか、お前」
「俺は一杯だけな。まだ本調子じゃねぇんだ」
「三十杯おごってお前は一杯かよ」
「割に合わねぇ商売だ」
「お前の商売はいつもそうだろ」
言われて、レンは言い返せなかった。
酒が来て、しばらくは他愛のない話をした。
どこそこの一党が装備を新調しただの、南から流れてきた行商が阿漕だの、そういう話だ。
その合間に、ガロがふと声を落とした。
「そういやよ。おれたちの報告な」
「出したのか」
「出した。中層の魔物の数と種類、ぜんぶな」
ガロは杯を空にして、卓に置いた。
「……で、他の三組の分も、同じ日に上がった」
「揃ったのか」
「揃った。そんで、四組ぶん並べたらな」
イーナが、革表紙の帳面を卓に置いた。開かない。開かずに、指で表紙を叩く。
「同じことが書いてあった」
「同じこと?」
「魔物の数が、記録より少ない。種類も減ってる」
イーナは短く言った。
「そのくせ、たまに出るのが桁違いに強い。石読みも梟目も六指も、みんな同じことを書いてた」
レンは杯を置いた。
あの黒甲蟷螂。ルカが言っていた、深層の空白。
四組が別々に歩いて、別々に書いて、同じ形になった。
「……それは、証拠になるのか」
「なりゃいいけどな」
ガロは肩をすくめた。
「向こうが言うにゃ、『中層の異変については調査を継続する』だとよ。継続だ。もう一回潜れって話だ」
「浅層は」
「そっちは別件だと」
レンは、天井の梁を見上げた。
別件。中層は動く。浅層は動かない。届出には番号がついて、紙は残って、それだけだ。
「けどな、レン」
ガロが身を乗り出した。
「浅層のほうも、うちだけじゃねえぞ」
「あ?」
「ここ十日ばかりで、二組聞いた。『浅いとこで洞窟狼の群れに巻かれた』ってな。どっちも駆け出しで、逃げるので精一杯だったとよ」
「……罠は」
「そっちは、誰も言ってねえ。お前らだけだ」
やはり、そうか。
群れの話は積み上がりはじめている。だが罠は、いまだにレンたちの証言ひとつきりだ。踏んだ者はいる。ただ、帰ってきていない。
「報告が積み上がりゃ、いつかは動くだろ」
ガロが、慰めるでもなくそう言った。
「腹立つ話だがな。ああいうもんは、そういうふうにできてる」
「……いつかってのは、いつだ」
「知るかよ」
ガロは新しい杯を手に取った。
「けど、積むのをやめたら、その、いつかは来ねえ」
***
さらに五日ほど経って、レンはある程度本調子といえるほどに回復した。
その日ギルドへ顔を出すと、三人が揃って待っていた。
妙にかしこまっている。ノルドは背筋を伸ばし、ミラは杖を胸に抱え、ネルは両手を前で組んでいた。
「なんだ、その面は」
「あの。レンさん、報告があります」
ノルドが一歩前へ出た。
「おれたち、正式にパーティを組みました」
「ああ」
レンは頷いた。
驚きはしない。もともと三人で受注していたし、あの穴をくぐり抜けたあとでばらばらになるほうがおかしい。
「マーゴさんに届けを出しました。それで、その」
ノルドが、ちらと後ろの二人を見た。ミラが小さく頷き、ネルが目を伏せる。
「名前を、決めました」
「名前」
「はい」
三人が、揃って背筋を伸ばした。
「――『還り火』です」
レンは、その言葉をしばらく口の中で転がした。
パーティの名なんてものは、たいてい景気のいい単語を並べるか、酒場の悪ふざけで決まるかのどちらかだ。鉄鎚もそうだし、深酒に至っては名前そのものが冗談だ。
それに比べると、妙に静かな名前だった。
「……悪くねぇな」
「ほんとですか」
「ああ。……で、なんでその名前だ」
訊いた瞬間、三人の顔が変わった。
ノルドが耳まで赤くなって俯き、ミラが慌てて杖を抱え直し、ネルは完全に横を向いた。
「おい」
「……いえ」
「言えよ」
「言えません」
ノルドが、絞り出すように言った。
「まだ、言えません。……いつか、ちゃんと言います」
「なんだぁそりゃ」
「いつか、です」
妙に頑なだった。
レンは肩をすくめて、それ以上訊かないことにした。
名前の由来なんてものは、当人たちのものだ。得物の来歴と同じで、話したくないなら訊かないのが行儀というものだった。
「わかった。じゃあ、いつか聞く」
「はい」
ノルドの顔が、ようやくほどけた。
***
その日の夕方だった。
カウンターの前が、妙にざわついていた。
人だかりというほどではない。ただ、みんなが少しずつ、そちらを見ないようにしている。
「――お願いします」
女の声だった。
擦り切れた外套の、痩せた女がカウンターにすがりついていた。年は三十そこそこだろうか。もっと若いのかもしれない。頬がこけていて、判じにくい。
「お願いします。どうか、誰か」
その手に、しわくちゃになった紙が握られている。
「……奥さん、落ち着きな」
マーゴが、カウンター越しに手を伸ばした。
「もう一度、はじめから言っとくれ。何が要るって?」
「霜草です」
女は、震える声で言った。
「息子が……もう十日、熱が下がらなくて。ここ数日は、粥も喉を通らなくて」
握りしめた紙が、皺だらけになっていた。
「昨日から、呼んでも目を開けないんです。水を含ませても、半分は口の端からこぼれて」
ギルドの空気が、ひとつ沈んだ。
それはもう、熱を出している子どもの話ではない。
「薬師さんが、霜草を煎じるしかないって。……それも、二日か三日のうちだって。それを過ぎたら、もう」
女は、そこから先を言わなかった。
「治癒師は」
卓のほうで、誰かがぼそりと言った。
「順番待ちで間に合うかよ」
別の誰かが、低く答える。
「そもそも、あれは傷を塞ぐ魔法だ。熱は下げられねえ」
誰も反論しなかった。
傷なら、順番さえ回れば塞いでもらえる。病はそうはいかない。この街で子どもが熱に負けて死ぬのは、珍しい話ではなかった。
「そりゃそうだ。霜草は中層の奥にしか生えん」
マーゴの声が、沈んだ。
「浅いとこにゃ出ねえんだよ。取りに行くとなりゃ、二級か、腕のいい三級だ」
「お金は、あります」
女は懐から布袋を出し、カウンターに置いた。
中身が、じゃらりと鳴った。
その音で、レンにはおおよその額がわかった。決して少なくない。この女にとっては、たぶん全部だ。
だが。
マーゴが、その袋を見て、言葉に詰まった。
「……奥さん」
「足りませんか」
「足りねえ。……二級を中層の奥まで動かすにゃ、その三倍は要る」
女の顔から、色が抜けた。
「そんな」
「悪いね。あたしが決めてるわけじゃないんだ」
マーゴは、額の書き付けを女のほうへ滑らせた。
「掲示板には貼る。貼るけどね。……この額じゃ、たぶん誰も」
ギルドが、静かになった。
全員が聞いていた。聞いていて、誰も動かない。
当たり前だった。
中層の奥まで往復すれば、最低でも三日。急ぐとなれば夜も歩くことになる。魔物と当たれば怪我をするし、怪我をすればしばらく稼げなくなる。それをこの額でやれというのは、道理に合わない。
この場にいる連中は、みんな明日の飯代で動いている。誰かの子どもの熱で動く余裕は、誰にもない。
悪意ではなかった。
悪意ではないから、質が悪かった。
「お願いします」
女が、床に膝をついた。
「お願いします。誰か、どうか。……あの子、まだ六つなんです」
卓のほうで、誰かが杯を置いた。
誰かが咳払いをした。
誰かが立ち上がって、そそくさと扉のほうへ歩いていった。
ざわめきが、少しずつ戻ってくる。みんな、何もなかったことにしようとしている。
レンは、その音を聞いていた。
幼い命が、ひとつ消えようとしている。
母親が床に膝をついている。そしてこの街の誰も動かない。
二日か、三日。それを過ぎれば、この話は終わる。終わったあとは誰も覚えていないし、何事もなかったように日が昇る。
誰も悪くない。
誰も悪くないまま、そうなる。
椅子の脚が、床を鳴らした。
その音は、ざわめきの中で場違いなほど大きく響いた。
全員が振り返る。
レンが、立っていた。




