21話『氷室政明vs夢川ユウカ①』
ルールは確認した。コースも確認した。……木曜日、時刻にして午後四時三十分。僕と夢川は来るスタートに向けて、集中を研ぎ澄ませていた。簡単なストレッチも終わり、準備万端。
いつでも始められるような状況だ。
「夢川、氷室。準備は出来たか?」
空は灰色で、決して晴天ではなく戦い日和ではないけれど、僕の心は冷静に燃え上っていた。
「もちろんです」
「もちろん、大丈夫さ。なにせ僕、最強だか──」
「ごほんっ!」
僕は自分の緊張をほぐすために冗談をついたんだけどな。どうやら、その冗談はこの状況において、彼女にとって、かなりキツカッたらしい。わざとらしい咳き込みで一蹴されてしまった。
「……はあ」
やれやれと、僕は肩をすくめる。
「まあ、準備が出来たのなら早速始めようじゃないか。私の可愛い生徒たちが決めた勝負だ。私は竜舞坂と一緒に、温かい目で傍観しているさ」
「ありがとうございます。貝絵先生」
貝絵先生にぺこりと、夢川が一礼した。
「じゃあいくぞー……3……2……1……」
先生のカウントダウンが終わり切るちょっと前、若干フライングで僕は硬直していた脚を稼働させた。フライングでいくぜ!
なに!? 直線バレバレフライングだと!?
「はあ。せこいわね。……セコアキ」
「なんとでも言え! 僕はフライングにならないギリギリを狙ったつもりだぞ!」
「まあいいわ。その程度で、貴方は私に勝つことなんて出来ない」
春の空気を肺に精一杯吸い込み、進む。目の前の並木道を進んでいく。最初は僕がフライング気味にスタートしたおかげで先行していたのだが、やはり彼女も運動神経は悪くないようで、僕を今にも押し越してきそうだった。
───フライングで得た間隔は、あまりにも焼け石に水。
「はあ、遅いわ……っ!」
「うお!?」
長距離とはいっても、フルマラソンみたいなものではない。あくまでも数キロの距離だ。……だからある程度体力を気にせずに序盤から走っていけるのだが、それでも彼女は圧倒的。
どこの大学生か。
僕にタックルするような勢いで、夢川はコチラを追い越してきたのだった。
直線二百メートルほどの並木道。最初の最初、その関門から……僕は彼女に抜かれてしまったのだ。やはりコイツは僕なんかよりずっと凄い。恐ろしいヤツだ。だが、このマラソンはまだ始まったばかり。
僕だって、このまま引き離されて負けるなんて……ヘマはしない!
「このまま引き離されてあげるわよ」
「んな、これ以上速度上げるって……お前はどこぞのウソヤン・ボルトかよ!?」
「そうよ」
「……そうなのかよ」
先程より少しだけ二人の物理的距離が空いて、直線を抜けて、右カーブへと入る。四十五度ほどのかなりキツイカーブである。まあ大袈裟な言い方だな。車でのレースならばカーブには細心の注意を払わなければならないだろう。
だがしかし、僕たちはただの脚だ。
車じゃなくて、脚なんだ。
だからキツイカーブというのは、あまり表現として過大すぎる。
……って、そんなことを話していたらまた距離が空いている!?
「待て!」
「待つわけないでしょ……」
「じゃあ待たなくてもいい。速度落として!」
「貴方を地獄に落としてあげることはできるけれど」
「やっぱり落とさなくてもいい!」
なんてヤツだ。夢川ユウカ。化け物みたいな化け物だ。くそう! ただの化け物じゃねえか!
────カーブを抜け、次は下り坂だった。
下り坂というのは案外楽に思えるけれど、そんなことはない。上り坂を上るよりも、下り坂を下るのは体力を消費するし筋肉にもダメージが入るのだ。自転車や自動車にいえば、全然そんなことないけれど。
生身の僕は、その法則に例外じゃない。
「くそう……ぜぇ、っあ」
息が苦しい。肺が、心臓が、赤血球が、体中が酸素が足りないと叫んでいる。ついでに脚も痛い。ついでにじゃなくて、本命かもしれないが……。
「このまま、カーブで、完全に引き離してあげるわ」
そんな僕を気にも留めず、いや気に留めるほうがおかしいけれど、彼女は更に更にと速度を上げるのだった……っ!
「僕でも体力勝負で勝てるんじゃないかっていう幻想を、ぶち壊さないでくれ!」
あんたはどこぞのイマ〇ンブレイカーじゃないんだから。
そう嘆きながら、僕はすっかり疲弊してしまった体で彼女の背中を追い続けるのだった。
◇◇◇
「なあ竜舞坂。お前は、どっちが勝つと思う?」
「え?」
二人の戦いを少し遠くから傍観していたまた別の二人は言葉を交わしている。数学教師にしてこの勉強部顧問の貝絵瞳は、竜舞坂にそう質問した。
「それは……」
「難しいか?」
「はい」
その質問に、竜舞坂は簡単に答えることは出来ない。出来なかった。理論的な話でいえば勝てるのは夢川だろう。彼女に何度も勉強を教わった竜舞坂は知っている。彼女は運動神経も良いのだ。
だから確率的には、夢川のほうが勝てる確率は高いはず。
だが、正直な話……勝ってほしいのは氷室の方だ。
だからその想いをのせて、勝つのは氷室だとも言いたい。
それに、彼は勝つと言ってくれたのだし。
「お前にしてみれば、勝つのがどっちかはともかく。勝ってほしいのは、氷室だろう?」
「そ、そうですね。ひむろっちが、退部しちゃうのは悲しいから」
氷室政明。彼が退部してしまうのは、厭だ。竜舞坂はやはりそう考える。──まだ自分は彼に対して、何も話せていないのだし、何も深い関係をつくっちゃいないのだから。
「でも、勝つ確率はやはり夢川のほうが高い」
夢を見る竜舞坂だが、そんな少女に貝絵は悲しき現実をぶつけた。
「……そうですね」
竜舞坂はそれを認めるしかない。
それは揺るがない事実だ。
「でも、私は彼が勝つと断言しよう」
「え?」
「竜舞坂……お前がアイツのことをどこまで知っているかは分からないが。アイツは想像以上に粘ってくるやつだぞ」
そして、彼はずる賢い。
単純な頭脳戦は得意としない彼だが、人が嫌がることをするということに関していえば──彼は天性の才能を持つのだ。
そう。
……氷室政明。
彼は、ただの嫌なやつなのである!
そして話は、夢川と氷室の戦いに戻ろう。下り坂を下りきる直前の出来事だ。氷室がある事を仕掛けたことで、戦いの流れが変わるのだった。
「おらよ──ッ! これでも食らいやがれ、夢川!」
妨害アリ。
そんなルールで始まったこのマラソンは若干『運動要素』が混じっただけの『妨害勝負』だ。相手をどれだけ妨害し、遅延させられるか。
そんな勝負なのだ。
鼻から彼はまともにマラソンを走ろうなんて、考えていない。
そして、それはまさしく氷室政明が得意中の得意とするシチュエーションだった。
彼の練りに練り込んだ計画による勝負が、今、本格的に幕を開ける。




