第45話 苦労、疲労、心労
友人たちと別れの挨拶を交わし、母親の入院する病院へ向かう。お見舞いには姉が何か買って来るとは言っていたが、何も持って行かないのは流石にマズイと判断したため道中の花屋で花束を購入した。物価高騰の影響により、花の値段が通常よりも高く少し納得のいかないサイズではあったものの、可憐な色合いがそれをカバーし、怪訝そうな顔は柔和なものへと変わっていった。
病院の入り口に美奈の姉が先に待っており、合流すると受付を済ませて母親の病室へ向かう。病室は三階で、エレベーターを利用した。
「えっ、ちょ、おねぇ」それって、と姉の持っていた紙袋を指さす。それは有名な高級果物販売店の紙袋であり、中に彩り豊かな果物が散らばっている。三つ四つと垣間見えるその光景に美奈は驚き隠せずにはいられなかった。
「あぁ~億疋屋ね。ぶどうと桃とイチゴ買ったんだけど6つも買っちゃった」
「はぁぁあ!!?む、6つ!?何でそんなに買ったの!?」
「お母さんの分といつもお世話になってるお医者さんや看護師さんたちようにね」
慎ましやかな笑みを浮かべながら気軽な声で返答をするとエレベーターは三階で扉が開く。あまりの衝撃で理解に苦しんだのか、美奈は啞然とし姉がエレベーターを出ても数秒動くことができなかった。『下に参ります』というエレベーターの声が美奈を現実に引き戻し、駆け足で姉の後ろに近づく。
「いや、勿論良いことなんだけどさ、どっからお金出てきたの?まさか…闇金?」
「そう。闇金」
「噓でしょ!?」
「嘘だよ」
くだらないジョークに脅かされ声が大きくなってしまう。対する姉の声量と態度は変わらず、簡単に相手にされていた。まさに姉という上の立場の者が起こせるやり取りである。
「ったくもう本当に心配したんだから。からかわないでよ」不貞腐れた態度を示す美奈に笑いながら謝罪をする。
「で、本当のところは?」
「前からこの時のためにお金貯めてただけよ」
「ええっ~」怪訝な顔を浮かべ、理解に苦しむと再び口を弾ませた。
「前からここの医療従事者の人たちに桃あげようとしてたの??」
「そう言ってるじゃない。いつも母のお世話していただいてありがとうございます。って」
「医療従事者にとっちゃそれが仕事じゃん。こっちがお金払ってるわけだし。当たり前のことと1個約2万円もする億疋屋のフルーツたちには割に合わないって」
美奈の言っていることは正しい。サービスを享受する者は選択権のある客という立場であり、金銭という価値あるものを対価にしている。それ以上に客側が何か施しをしなくても良いため、決して間違えではない答えである。
「確かに理屈ではそうかもしれないけど、私は仕事とか当たり前とか関係ないの。大事なのは本心から感謝しているっていう気持ち。これは想いも額とか含めてこれを渡したいって思ったの。ほら、5年前の私なら絶対面倒見れなかったし」
なんなら私も入院対象側だったし、と言葉付け加える。その表情は先程の笑みとは違った愛想笑いに近いものであり、若干の苦しさが含まれていた。
美奈の姉は既婚者であった。厳しい景気の中で家を購入し、どんなに二人が仕事で多忙を極めていても旦那とのコミュニケーションや家事掃除洗濯など協力して行うなど夫婦円満で幸せな家庭を築いていた。
だが、その幸せは突如として崩壊した。姉は仕事終わりの買い物後、暴漢に襲われた。顔は痣が何度もできる程殴られ、新たな命が宿り始めたばかりの腹は蹴りつぶされ、無理やりに犯された。惨劇と悲劇が重なったようなこれほどにもない極悪な仕打ちは、母親や兄弟などにはとても相談できず、これまでの関わりも信頼もとても厚く、唯一頼ることができる旦那に真実を伝え、心の底から助けを求めた。「これから私はあなたを支えたいし、支えてほしい」といった本心を溢れんばかりの涙を流しながら必死に伝えた。
しかし、血の気を引いた顔色から発せられた答えは「そんな人間とは一緒には居れない。お互いのために別れよう」というものだった。『お互いのため』という言葉は両者ともにデメリットを感じないようにというものだが、自分がそんな女性と一緒にいることが辛いからという方便の建前でしか受け取ることができなかった。
救いの手はあっけなく払われ、心の傷は癒えることなく廃人状態の日々が続いた。そんな状態の中、病院は母の献身的なサポートを欠かすことなく、今現在も大きな問題は特に起こっていない。そして、姉自身もこの病院で治療を受け、社会復帰を遂げたことからこの病院での感謝は非常に多大なものであったのだ。
「はぁ~。おねぇは本当に謙虚で善人だね。私とは比べ物にならないな~」
「いや、私はまだ足りない方だよ。美奈は優しくていい子だよ。ほら、花束持ってるじゃん。それお母さんにあげるために買ったんでしょ?」
「そりゃぁ、そうだけど」
「なら美奈はいい子だよ」
「だってお母さん心配だし、こんな時に何もないのは娘としてどうなのかなって」
「そうやって、自分以外の人へ私利のためを除いて配慮ができる子は優しい子なんだよ」
会話を続けていると二人の母親の入院する病室の目の前に到着した。扉をノックして開くとそこには見慣れない点滴や機械と対照的に幼い頃から見慣れた母親がベットに腰を掛けていた。
「あら2人とも。来てくれたのね」
「今日は早上がりになったんだ。美奈も放課後用事なかったから声掛けてみたの」
「そうなのね。わざわざ2人ともありがとうね」
高級な果物を見せびらかすと母は満面の笑みを浮かべ喜んでいた。姉は食べたいばかりなのか、早速看護師から皿とナイフを借りに行く。美奈は荷物置きに背負っていたリュックサックを置き、母のすぐそばに椅子を移動させ腰を下ろした。
「最近勉強はどうなの?」
ゲッ、思わずそう声が漏れる。開口一番、一番聞かれたくない質問が美奈を小突いた。
「ま、まぁ今までに比べたら良くはなってきてるよ。良くはね」
「要するに今までとあまり変わらない成績ってことね」
「お、おっしゃる通りです…」
母は頬を手で覆いため息をつく。心配と情けなさが入り混じったようなものだ。美奈の責任であることは分かっていたが、できていないものにとやかく言われていると気分は落ちていく一方である。
「自分で決めた進路なんだから、ちゃんと1日8時間以上勉強すること。そうね…船堀大学くらいは入れるといいわね」
「えぇ~キツイって」学校ではあまり見せない弱々しく嘆き声を上げてしまう。
船堀大学は近年開設された大学で人気もさることながら、平均偏差値約五十八と私立難関大学の滑り止めとしても利用されることが多い大学である。三つの学部は偏差値六十を超えており、他の三学部も激しい差は無い為、倍率が上昇し続ける人気の大学だ。美奈の成績では現状かなり厳しく、当人も諦めきっていた。
「それこそ理系だったらここの付属、仁天堂大学とか入れたら良かったんだけど」
「いや、絶対無理だから!」
弱音を吐き続ける美奈にどんどんと顔色を晦ます母親は再び溜息をつくと若干やつれ目で美奈をじっと見つめる。
「期待、してるわよ」ため息交じりに送られた言葉の追い打ちとして「お姉ちゃんだって頑張って努力してきたんだからあなたも頑張りなさい」と諭された。
そんな進路のやり取りを続けていると姉が病室へ戻り、早速桃の皮をするすると剝いていく。
話題が姉の仕事のこととなり姉の近況を知る。家で見る限りは落ち着いているが会社ではどうなのか、以前から美奈は気になっていたため一言一句覚えるかのように耳を大きくした。どうやら以前の調子のように上手くやれているらしい。姉の状態に安堵し、美奈は脳内にあったこりが解消されていくのを感じた。
その後、話が進んでいくといつの間にか美奈の視線は剝き終わった桃へ一直線に続いていた。黄金のような実から発せられる甘い香りは洗脳を促されるほどだ。それぞれの皿に盛りつけられると急ぐようにすぐに口に運んだ。
____美味すぎる。絶妙な噛み応えから溢れる果汁は非常に香ばしく、天然の桃ジュースを飲んでいるかのようだった。今まで食した果物の中で一番甘味を感じ、再び噛み始めると桃の身から甘味が更に溢れた。一つの食べ物としてあまりのレベルの高さに笑いが零れる。
「お、美味しいね…!」
あまりの良質さに姉は堪えきれず感動していた。母も満足の様子で三人はあっという間に完食してしまった。これには流石億疋屋と言わざるを得ない。以後、どんな果物を食したとしてもこの味は超えられないと確信した。
「家事はどう?協力してやれてる?」
「あっ、っと…上手くおねぇと毎日分担できてるよ」
「基本はね。ただ、美奈はサボりがちだよ~」
母に実態をバラされ美奈は肩を跳ねさせる。母にチクられたくなかったことを見越してか、姉は敢えて嫌みったらしく語尾を上げた。言葉にならない反論をもごつかせながら発するも嘘嫌いな母の表情は強張ったものとなる。
「だけど、私が繫忙期とかになると代わりに全部やってくれるんだ」
「そりゃ、頑張って経済を回した仕事疲れの姉に家事を強いるまで、私は鬼じゃないもん」
母は表情を緩ませるとため息をつき、「2人とも良い子に育ってくれて本当に良かった」と小さく呟いた。何かまた言われるのではないかと身構えていたため、その言葉がより鮮明に聞こえてくる。悩み事や考え事が少し和らぐような、そんな暖かい言葉が美奈の心を包みこんだ。
「ごめんね。2人に迷惑かけちゃって…」
暫くの沈黙。何か言葉を発する様子だった母に悲しげな表情が浮き彫りとなる。喪失感に項垂れるような瞳がどんどんと重くなり、俯く姿に今にも目玉が落ちていってしまいそうな雰囲気が漂う。
「私が、もっと苦痛に耐えられていたら…私がもっと、2人を守ってあげられたら…」
母に起こり始めた異変を感じ取り、姉を筆頭に優しい言葉をかけ落ち着かせようとする。
「もっと私が強気に出てたらこんなことにならなかったんじゃ…?もっと早めに諦めてたら2人が傷つくことは減ったじゃ…?」顔を手で覆い隠して塞ぎこむ。
「お母さん、私たちは大丈夫だから」姉が再び諭すも震える母親の歯ぎしりが恐ろしさという名の畏懼が隠れた表情から伝わってくる。
「そ、そうね。私のせいじゃないわよね。悪いのは」
言いかけた言葉を止め、目元を覆う指を広げると同時に視界を開いた。
「夫がいけないのよ!!!!」
突如大声を上げた様子に二人は戸惑うも、気が狂ったかのように同じ言葉を連呼する姿に姉がナースコールのボタンを押す。それはまるで、どこかで働いている父親に責任と恨みを届けるような強々しいものだった。
段々と言動がエスカレートしていく母は慌ててやってきたナースに取り押さえられ、母の近くにある機械を操作して鎮静化されていく。植物人間のような状態となり、今日はもうここまででと退室を求められた。
急に恐ろしい挙動にも出た母親を目の前で認識してしまいそこから美奈は怖気が止まることはなかった。姉も同じような気分で、二人で帰る道は両者ともに口を開くことが難しかった。
病院を出て暫くすると、美奈の口から「お母さん、怖かった…」と恐怖と心配の思いが零れる。それは自然に涙が流れるほどのものであり、姉も同じく恐れを抱いていた。怯える美奈に姉は体を擦りながら「大丈夫だよ」と何度も声をかける。
家へ向かう駅に入ると気分も段々と落ち着きを取り戻し、姉に感謝を述べる。最寄り駅に着き、暫くすると今度は姉が口を開いた。
「美奈。その、前からずっと思ってたけど」何か重要なことを聞かれそうだと察知し姉の顔を見る。だが、美奈には内容も何となくわかっていた。
「美奈は男の人、嫌いでしょ?」
やはり思っていた質問と同じだった。母の精神を壊し発作の起因である父親、姉を絶望に追いやった元夫など、恨むべきポジションはすべて男性である。
当人は気が付いていないが、先程までの美奈の表情は他人目線で悲しみに怒りが混じった表情を浮かべていたのだ。何かを堪えるような重い表情。姉の立場として、励まさなければならず、伝えなければならないことを今踏み出す。
「…勿論大嫌い。あんな汚らわしい生物、触れられたくもない、話したくもない。なんなら顔もあんまし…見たくない」
「やっぱり、そうなるわよね」美奈の中にある男性像が壊れていることを察し、姉は言葉を続けた。
「確かに私も美奈の立場なら同じこと、思うだろうな。ただ、」
「は?何?おねぇは男のこと許せるの?お母さんを殴りつけたり罵声を浴びせたり、挙句の果てには浮気して私たちのこと捨てたんだよ??それに、」おねぇだって…。こればかりは直接的すぎてしまい、罪悪な心情を感じたこともあって目線を外し小声となる。しかし、姉の声色は変わらなかった。
「確かに私もお父さんのやったことも、私の身に降りかかったことも許せない。許したくもないよ。絶対にね」
「ならなんで、許せるような言い回ししたの?」
「だから私は許してるわけじゃないよ。ただ、認めなきゃならないことは認めなきゃならないの。この世は男性が居なきゃ成り立たない。体の構造上力強い仕事を任せられるのも、命を誕生させる条件も、男の人が必要なのは事実。だから、どんなに辛くても認めなきゃならないんだよ」
美奈の顔からムッとした表情が必然的に作られるとそれに応じるかのように声を上がった。
「意味わかんない!!そうやって前向き捉えようとしてまた辛くなる時が絶対に来るっ!信頼したと思ったら裏切って、モノみたいに無情な扱いしてくるだけだよ!!」
感情が言葉に籠りすぎて意図せず大きな声となってしまう。道行く人は二人にチラチラと視線をやるがそんなもの気に留めるほど浅い想いで話をしていなかった。
「美奈」
姉が優しく呟くと美奈の表情が揺らぐ。家族関係以外にも交友関係や受験などで精神的にも大きく揺らぐ時期ということもあり、不安定なことはわかりきっている。だからこそ、今一度姉はゆっくりと優しい言葉をかけようと一間空け、息を吐くように諭す。
「お母さんや私に付いた男がいるのは事実だけど、世の中には美奈くらい優しくて頼りになる男性はきっといると思うから。そういう人と見つけて、関わっていけたらいいわね」
姉の優しさに耐えきれず、美奈は怒りと悲しみで涙ぐんだ表情となるも、必死に涙を堪えるため途轍もなく強張った表情を浮かべていた。羞恥心も込み上げ、ぐちゃぐちゃの表情をすぐに隠すように後ろを向く。
「もう知らない!!買い物行くから先に帰ってて!!」
大きな声を発してその場を去る。その行動に少し心配を抱くも、追いかけることは帰って野暮だと感じその場で少し立ち止まる。
「良い影響を与えてくれる素晴らしい人間と巡り合わせられるように」
後ろ姿に願いを送り、姉は家へ向かった。
ポイントがあると多くの人に読んでもらえるとのことらしいので、面白いと思った方や少しでも続きが気になる方は是非評価をよろしくお願いいたします!m(__)m




