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第二十六話

「ああ、それはな……」

「小学校の修学旅行のお風呂のときに、クラスメイトにナニを見られてしまい、以来つけられたあだ名が『先っぽクロマティー』というわけなんだ。ちなみにそのあだ名が付けられて速効、当時秋人が密かに想いを寄せていた佐々木美香子ちゃんに、振られたらしい」

宝生が得意げに鼻を鳴らした。

代打で入ったクロマティーが、きっちりセンター前にヒットを放った。

「あっ、次、野本さんに代わってバース代打ね」

宝生が、ダケさんに指示を飛ばしている。

刹那、宝生の頬で渇いた音が鳴った。

「痛ってぇ、お前何しやがる!」

宝生は頬を押さえて、聡子を睨みつけた。

「バカみたいです、社長(あなた)。人の心を踏みにじって、傷口抉って……そんなんで勝っても全然嬉しくないです」

聡子は唇を噛みしめ、下を向いた。

「へえ、だったら負けろと? 負けて商店街が『寿』に渡ってしまってもいいと?」

それは今まで聡子が聞いたことのないような、ぞっとするほど冷たい声色だった。

「そんな事はいっていない! 正々堂々と戦って、そして勝ってこそ、勝利というものは意味があるんです。野球を穢さないでください」

吐き捨てるようにそう言って、聡子はぷいと横を向いた。

「世の中はきれいごとばかりじゃねえ。社長として会社を守るために手を汚さないといけないこともある」

宝生が目を伏せ、苦し気に呟いた。


それでも……。

聡子は少し赤くなった目を擦った。

「一時的にそうして得た勝利も、長い目で見ればそれは決して勝利ではないのです。誰かを踏みつければ、必ず自分に帰ってくる」

聡子は立ち上がり、マウンドで力なく項垂れる秋人の元へと歩き出した。

「行くな……」

宝生はすれ違い様に聡子の手首を掴み、乾いた声を絞り出した。

聡子はその手を振り払い、無言のままに歩み出す。

「ああそうかよ。勝手にしろ!」

宝生は立ち上がり、グラウンドから姿を消した。


「うわっちゃあ、『先っぽクロマティー』の後でまさかこんなシリアスな展開になっちまうとは、さすがに、予想できなかったよな」

新之助がぽそっと梅さんに呟いた。


「同情か?」

無機質な声で、秋人が聡子に問う。

「いいえ……ただ大丈夫かなって、心配だっただけで」

聡子はそう言って秋人の顔を覗きこんだ。

「お前のほうが大丈夫かよ?」

聡子の顔を見て、秋人が訝しげな顔をする。

無言のままに嗚咽をあげる聡子を抱きしめようとして、伸ばした秋人の手が宙に浮く。

不器用にぽんぽんとその頭を撫で、秋人は聡子に背を向けた。

「あー二宮。代われ。俺は用ができた」

ひらひらと手を振って、秋人がグランドを去った。

球場に背を向けて、金髪が土手の草っ原で不貞寝をしている。

「おい」

その顔を見下ろす格好で、秋人が宝生の視界に姿を現した。

「ああ? どうした。俺を笑いにきたのか?」

渇いた笑いとともに吐き出したその言葉に秋人は昔を重ねる。

母親とひき離され、日本に来ても誰とも打ち解けることができずに、部屋の隅でこいつは今みたいに、泣いていたっけなあ。

声を殺して、たったひとりっきりで。

(俺はコイツが嫌いだ。あまりに俺と似ているから)

そんな思考に行きついて、自嘲が込み上げる。

「ちっ、胸クソ悪い」

秋人は宝生の胸倉を掴んだ。

「おい、目ぇ瞑って歯くいしばれ。それでチャラにしてやるよ」

顔面に、秋人の渾身の一撃が食い込む。

「痛てぇ……」

痛みに麻痺する顔面を押さえて、宝生はチラリと秋人を盗み見た。

「ほらよ」

 そう言って秋人は商店街の土地の権利書を宝生に渡した。

「なんのつもりだ?」

「女の涙は苦手でね。それだけだ」

草原に寝転がる宝生を残し、秋人はその場を去った。


寿ファイターズの実力はすごかった。こちらには最強の助っ人が居るにもかかわらず、試合を互角に持ち込み、緊迫した接戦の死闘を展開した。延長十五回を終わってみれば十八対十八の同点で引き分けだった。試合の前は、嫌な奴としか印象のなかった『寿ファイターズ』だったが、死闘の末になにかしらの友情らしきものが芽生えたのも事実だった。

「やるじゃねえか」

「お前らこそ」

試合終了後、そう言って二宮とダケさんはにっかりと笑って、かたい握手を交わしたのだった。


金髪は枯れ草の間に埋もれる様にして眠っていた。頬に痣をつくり、唇は切れて生々しく鮮血が伝っている。

蒼白な顔をして宝生はピクリとも動かない。

「ま……まさか」

聡子は宝生のそばに走り寄って、その胸に宝生を抱いた。

聡子の瞳に涙が盛り上がる。

「私……まだあなたになにも言ってません。なのにこんな……勝手に死んじゃうなんて卑怯ですよ。社長のバカ―――――!!!」

感極まった聡子が絶叫する。

「ばか……?」

宝生の瞳がぱっちりと開いた。

「あ……あ……社長……生きて?」

油の切れたブリキの人形のようなぎこちない動きで聡子が、宝生を覗きこんだ。

「あ…当たり…前だ…」

そう言って微笑もうとするのだが、傷がひっつれて上手くしゃべれない。

「ほれ、土地の権利書、秋人が置いて行った」

そういって、宝生は秋人が置いて行った、書類一式を聡子に手渡した。

「あっ」

 聡子はその書類を腕にしっかりと抱きしめた。

「これで、商店街は大丈夫なんですよね。取り壊されたりしないんですよね」

 聡子の目に嬉し涙が光る。

「まあ、とりあえずは……な。それよりお前、俺に礼金払え」

宝生が聡子の腕を掴んで引き寄せる。

「へ? 社長の協力って、もしかして有料だったんですか?」

宝生の言葉に聡子が目を丸くする。

「当たり前だ、お前は俺を一体誰だと思っているんだ。宝生グループの総帥であるこの俺にここまで協力させるなんざあ、高くつくぞ」

「ど…どうしよう。あのっお給料前借とかできないんでしょうか?」

聡子が青くなって宝生に尋ねると、宝生の口元は綻んだ。

「返せないなら、身体で払ってもらおうか? 一生かかってな」

そう言って宝生が聡子を抱きしめた。

「嫁に来い」

 それはもはや命令だった。

そこに商店街野球チームのメンバーが乱入する。

「うわ~や~らしい。宝生君たら、昼間っからR指定じゃん」

にやにやと笑い、ダケさんが宝生を横目で見やった。

「わっ、ばか見るな……」

焦りまくる宝生に皆が笑う。

「さあ、今から打ち上げやー 今夜は飲みまくるでぇ」

そう言ってダケさんが、大きく伸びをしたのだった。

わいわいがやがやと賑やかなメンバーの輪から少し離れて、聡子は空を眺めた。

青く澄み渡った秋の空に、飛行機雲が鮮やかに走っている。


ただ今天高く馬肥ゆる秋、真っ最中。

そしてふふふと笑う。

いや、これは天高く馬肥ゆる草野球、なのだ。



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