第二十一話
「視線ねぇ……」
宝生がセットポジションをとる。
「最後までキャッチャーミットを見る……か」
聡子の言葉を繰り返し、放たれる宝生の速球が派手な音を立ててキャッチャーミットに吸い込まれた。
「ス……ストライク!」
アンパイアの声が、一瞬静まりかえったグラウンドに響き渡った。
「あっ……」
ぎくしゃくと宝生が自分の手を見つめた。
「社長! やりましたよ。ストライク一個決まったじゃないですか」
手放しで喜ぶ聡子の笑顔に、宝生はプイとそっぽを向いた。
「うるせいやい!」
三球三振、そしてその後のアウト三つはわけもなく取れた。
「聡子ちゃん、悪いがすぐにユニフォームに着替えてくれ」
ダケさんがユニフォームを聡子に手渡した。
「懐かしい……」
聡子は手渡されたユニフォームを抱きしめた。
高校生になるまでは、聡子もこの商店街チームのメンバーとして、しょっちゅう試合に駆りだされていた。商店街の皆と一緒にプレーしたのが、昨日のことのように思い出される。
時間がないので、不本意ではあるが、聡子はとりあえずひと気のないベンチ裏で着替えることにした。
「ああもういいや! どうせ誰も見てないし」
ファスナーをおろし、赤いロングドレスが足元に落ちた。
下着だけを身に付けた、聡子の色白の肌が露わになる。
「おいっ!」
短刀の利いた声色で、金髪が嫌悪な表情で聡子を睨みつけていた。
「ひっ……や…だ、見ないで……」
霰もない姿を宝生に見られ、聡子は赤面してその場にへたり込んだ。
「昨日お前ら一体何をやっていた?」
聡子は胸元に脱いだドレスを手繰り寄せ、身を縮こまらせている。
「何って、別に」
情けなくも心なし声が、震えてしまっている。
「別にってことはないだろう! 男女がひとつ屋根の下で」
「はあ? 何考えてるんですか! 変態の上にムッツリだったんですか。あなたはっ」
逆上して思わず声を荒げた聡子の華奢な腕を、宝生が簡単に縛めて壁に押し付ける。
胸元を隠していたドレスが聡子の手から落ち、下着が露わになった。
フランス製の高級下着から、微かに薔薇の香りが漂う。
秋人が好んで女に纏わせる芳香だ。
宝生の表情が、一瞬苦痛に歪んだ。
「変態? ムッツリ? ああ上等だ。他人の手に渡るくらいならいっそこの場で俺のモンにしちまうぞ」
「いっ…痛い。放し…て」
抗う聡子の瞳に涙が盛り上がり、その純粋な物質を認めると、宝生の心は砕け散った。
俺ハ……何ヲ……ヤッテ……イル?
本当はずっと聡子が好きだった。
白状すると三年前の聡子の入社試験の日以来ずっと、彼女の面影がこの心を捉えて離さなかった。
入社試験の日に、車道に歩きだした子供を助けるために、躊躇せず道路に飛び込んだ彼女。泥水を浴びて、散々になりながらも彼女は微笑んだ。命がけで助けた子供を母親のもとに返したときの彼女表情が忘れられなくなったのだ。
そこには打算や駆け引きは一切なかった。
ただ暖かな優しさだけが、彼女を飾っていた。
前妻との離婚で疲れきっていた当時の宝生には、その笑顔は眩しすぎた。
(世界一大切に思う女を泣かせて、俺は本当に一体何をやっているんだろう)
そう思うと宝生はなんだか死にたくなってきた。
宝生は項垂れ、ぎこちなく聡子を抱きしめた。
「泣くな……」
溢れる感情は御し難く、伝える術も宥める術も知らぬままに、この心を嵐のようにかき乱し、聡子を傷つけていく。
それでも失いたくはなかった。母親にすがる幼子のようにただ別離に怯え、宝生は震えている。
腕の中で嗚咽を上げる聡子の背を撫でながら、宝生は小さくため息を吐いた。
「好きなんだ……お前が」
そう呟いた宝生の言葉に、一瞬聡子が身を強張らせた。
いつの間にか新之助と梅さんが二人の後ろに佇んでいた。
「い……いや、だから今はまだ試合中じゃん? ラブシーンは試合終わってからやれっていうか……商店街めっちゃピンチだから、今現在ほんと十点差でこのままだったらコールドゲームが成立しちゃうって、ほどピンチなんで」
「う…うわああああっ! み…見るな!」
慌てて宝生がその背に聡子を隠す。
二人をグランドに見送って、宝生は聡子を振り返った。
「社長、さっき私のことが好きって、言いましたよね」
ユニフォームに着替えながら、聡子が宝生にそういった。
「それって、本当ですか?」
曇りのない真っすぐな目。
この目に嘘つけない。
宝生は自嘲気味に笑った。
「ああ、惚れてるよ」
一陣の風が二人の間を分つ。
「さっきのお返しです。社長目を閉じて歯を食いしばってください」
きっと殴られる、そう覚悟して宝生は歯を食いしばって、きつく目を閉じた。
ふわりと何かが降りてきた。
聡子からのキス。
「戦線布告です。覚悟してくださいね」
そう言って聡子は不敵に笑ってみせた。
聡子の背を見送りながら、宝生は携帯を取りだした。
「式場を押さえろ、坂下」
「え? 榎本さんは大事ないって主治医の町田先生が言っていますが」
「誰が葬儀式場を押さえろと言った。結婚式場だ、馬鹿者! 俺は結婚する」
「はい?」
携帯電話の向こう側で、宝生のSPの坂下が、素っ頓狂な声を出した。
「ようし、俺は結婚するぞ――――!」
金髪は意味不明な発言のもと、意気揚々とグラウンドに繰り出したのだった。




