第二十話
「おい、新町」
二宮はこの回の先頭打者である新町を呼びとめた。新町はヘルメットを深く被り、その表情を伺い知ることはできない。
「新町、お前がなんのためにこのチームに雇われたと思っている?」
二宮が目を細め、新町を凝視する。
「といいますと?」
「惚けるな。相手のピッチャーを潰せといっている」
少し掠れて、低く囁かれた二宮の言葉に新町の口角が上がる。
「相手のピッチャー潰さなけりゃあ、勝てないと? 天下の『寿』が情けないことで」
「黙れ!」
揶揄するような新町の口調を、ぴしゃりと二宮が遮った。
「命令だ。黙って従え。それと覚えておけ。勝つ為には手段を選ばない、それが『寿』のやり方だ。そして、ゆえに勝ち続けなければならない。それが『寿』だ」
新町はポケットからガムを取り出し、口に放りこんだ。それをくちゃくちゃとやりながら打席へと向かった。
「俺りゃあ、こういうの本当は好きじゃないんだけどね。雇われている身では仕方ないんでさあ。悪く思わんでくださいよ旦那」
新町はそう呟いてヘルメットの鍔を持ち上げ、軽くピッチャーに会釈した。
「こんにちは」
ピッチャーマウンドの榎本がセットポジションをとり、放たれる白球。
「そして、サ・ヨ・ウ・ナ・ラ」
新町の目がヘルメットの奥で一瞬凍てつくような輝きを放ち、バットを振り抜いた。
鋭い打球が、ピッチャーの頭部に直撃する。
「榎本さん!」
マウンドに崩れた榎本に、ナインが駆けよった。
榎本の額が割れて血が流れている。
「こりゃあ、ひどい。早く病院に運ばねえと。おい誰か救急車を呼べ。担架もってこい。絶対に頭を動かすんじゃねえぞ」
ダケさんが指示を飛ばす。
「だ……大丈夫、です。ダケさん。私は……まだ……やれま…す」
ダケさんに抱えられている榎本が、指示を遮った。
「ばかいっちゃあいかんよ、榎本さん。とにかく病院に行かねえと」
「ですが……私が病院に行ったら……誰が……ピッチャーを?」
榎本が苦しそうに喘ぎながら、言葉を紡ぐ。
「それは……もう、棄権しかないだろうな」
ダケさんが苦々しく呟いた。
「させませんよ、なにがあっても。絶対にあいつに勝負を手渡すまではね」
金髪が笑った。
「坂下、榎本さんを宝生若葉病院へ運んでくれ」
黒服のSPが担架で榎本を車に運んだのを見届けて、宝生がマウンドに向かった。
「もう、うちにはピッチャーをできる奴がいないんだぞ! それでどうしろと? まともな試合にゃあならないんだぞ?」
ダケさんが宝生の後ろ姿に吐き捨てるように叫んだ。
「俺がピッチャーをやります」
宝生のその言葉に、新之助が顔色を変えた。
「やめとけ、絶対無理だって。そもそもお前、ストライクが入んないんだからさあ」
「無理でもなんでもやるさ。俺はアイツと約束したんだから」
そんな宝生に、ダケさんは盛大にため息を吐いた。
「まあ、出来る限りやってみな」
そう言って、ダケさんは宝生に白球を手渡した。
宝生は手の中のボールの感触を確かめ、軽くボールを空に放っては受け止める。
脳裏に浮かぶ聡子の面影に、段々と宝生は不機嫌になってきた。
(昨日、あいつら確かにレストランで『あーん♡』ってやってたよな。『私は必ず戻ります』なーんつっといて、今一体朝の何時だと思ってやがる。ったく、若い男と女がひとつ屋根の下でなにをやっているんだか。なにをって……)
そこまで考えて宝生は頭を振った。
(いやいや、なにしろあいつは俺にキスされて、金属バットを振り回す女だ。そう簡単にはだなあ……)
堂々巡りのスパイラルに陥り、宝生は思考を停止させた。
(不愉快だ。この上もなく不愉快で、苦い)
「ええい、もういい。俺はこの思いをとにかく野球にぶつけることにする。とりあえず死ね♡バッター」
宝生がセットポジションから白球を放つ。
「うおっ……」
風を切って剛速球がバッターの鼻先を掠めた。
「し…死ぬ……死んでしまう」
バッターの背筋を冷たい汗が滴り落ちた。
すっかり怖気づいてしまった、見方のバッターに向かって二宮がメガホンを取り、ベンチから叫ぶ。
「バットを振るな。ただ突っ立ってりゃあいい、そうすりゃあフォアボールで塁に出れる。なんせそいつはストライクがとれないんだからな!」
「ですが二宮さん。こんな球威で球が当たったら、俺たち確実に死んでしまいますよう」
打席に立つ『寿』の六番打者が目に涙を溜めている。
「かまわん。むしろ大いに当たりに行け! 『寿』の勝利のために死ねるんだ。光栄と思え」
「ひどっ」
築かれる『ボール』の山。フォアボールによる出塁を許し、押し出しのフォアボールをもう何度重ねたことだろう。ストライクが入らない苛立ちに、宝生が舌打ちをする。
「ちっくしょう! なぜ入らない」
宝生の額から、汗が一筋流れ落ちた。
押し出しのランナーがまたもホームベースを踏んで、すでに『寿』に10点のリードを許してしまった。二回の表の攻撃でこれだけの点差をつけられ、これではコールド負けの可能性を拭えない。グラウンドにはすでに諦めの雰囲気が濃く漂っていた。
その時だ。
「視線です社長! ちゃんと最後までキャッチャーミットを見て投げるんですよ」
ヘリコプターの羽音とともに、赤いロングドレスが風にはためいていた。




