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第十七話

翌日の午前九時、妊婦さんは無事に男の子を出産したのだが、結局救急車は間に合わず、取り上げたのは秋人その人であった。

その後、分断されていた道路も懸命な復旧作業により開通し、女性と赤ちゃんはようやく到着した救急車に乗って、無事に病院へ運ばれたのである。

昨日の大雨がまるで嘘のように天高く澄み渡った青空を見つめ、聡子は大きく伸びをした。

「生命の神秘って素晴らしいと思いません? 秋人さん」

秋人はすでに白く燃え尽きていた。

「ありゃりゃ、ダンヒルの特注オーダーメイドのフォーマルが、えらい事になっていますね」

大量の帰り血を浴び、虚ろな表情をして佇む秋人は、まるで人を殺めた犯罪者のようであった。

「もう、とってもおめでたいことなんですから、そんな人をひとり殺めたかのような思いつめた顔をしないでくださいよ。全く」

聡子は秋人を見つめてため息を吐いた。

「ばかやろう! 俺はホラー映画は大嫌いなんだよ! なのに……血とか、肉塊とか……いっぱい……うううっ……俺もう二度と焼き肉が食えないよう」

涙ぐむ秋人の背をあやすように、聡子がぽんぽんと叩く。

「そういう割に、赤ちゃんを取り上げるの上手でしたよ。秋人さん助産師さんの才能あるんじゃないですか? 何気にマッサージも上手だったし」

そう言って微笑む聡子を、秋人が恨みがましく睨む。


「さてと……共同戦線はここまでです。秋人さん」

聡子が晴れやかに、決意の満ちた表情で微笑む。

「今からは、敵同士ということになりますね。正々堂々と戦いましょう」

握手をしようと聡子が差し出した手を、秋人が掴み引き寄せると、聡子は慣れないヒールに蹴躓き、秋人の腕の中に倒れこんだ。

「そう簡単に手放すと思うか? 宝生の最大の弱点を」

秋人が冷たく嗤うと、聡子はその唇に人さし指を当てた。

「そう簡単に、弱点を晒すものですか。あの社長が」

窓の外にヘリコプターの羽音が仰々しく響き渡ると、黒服に身を包んだ屈強な男たちが、屋敷に入り込んできた。

「聡子さま、こちらへ」

ヘリには『宝生』のロゴマークがあった。

緋色のドレスをはためかせ、聡子がヘリに乗り込む。

「若葉商店街前の堤防グラウンドまでお願いします!」

操縦席に座る黒服にサングラスをかけた、強面のお兄さんが頷いた。

了解(ラジャー)!」

(正々堂々と。そして私は勝つ)

静かに漲る決意を胸に、聡子はそっとドレスの端を握りしめた。


◇  ◇   ◇


プレイボールを前に、宝生は色濃い焦燥と疲労を隠す事ができなかった。球場のホームベンチに座り、無言のままに手を組んで下を向く。

「お……おい、おっさん」

新之助が怖々、宝生の背をつつく。

「おっさんじゃない。お兄さんだ」

『この口か!』と宝生が新之助のほっぺたをひっぱった。

「いひゃい、いひゃい。放せよこの馬鹿っ、っていうか、母ちゃんがおにぎりを作ってくれたんだよ。とりあえず食え、な?」

新之助は、なんとか宝生を元気づけようと、母親に作ってもらったおにぎりを宝生に差し出した。

「すまないが、今はいいよ。ありがとう少年」

宝生が優しく微笑んで、手渡されたおにぎりを新之助に返そうとすると、

「いいから、食えって! 昨日から何にも食ってないんだから、そんなんじゃ力でねぇだろ。うるぁぁぁ」

新之助が宝生の上に乗っかり、無理やりに口をこじ開けて、おにぎりを突っこんだ。

「いででででで、なにをする少年……ん? ていうか旨い」

無理やりに食べさせられたおにぎりではあったが、水加減、焚き加減といい絶妙のバランスで、仄かに甘い。

「な? そうだろ。『(「)米家()上田()』(」)自慢の幻米で作ったんだからな」

得意気に新之助が微笑んで、今度は心配そうに宝生を覗きこんだ。

「元気……出たか?」

(俺はそんなにも、頼りない顔をしていたのだろうか。目の前のこの小さな少年に心配されるほどに)

 それは宝生にとっても意外であった。

宝生グループの総帥として乗り越えてきた修羅場の数は伊達じゃない。幼い頃から帝王学を学び、いついかなる時も冷静に対応することを求められ続けて、悲しいほどにそれが身についてしまっていた。ときどき感情が欠落してしまったかのかと思うことすらあった弧の自分が、女ひとりのことで、そこまで取り乱しているのか。

宝生は苦く笑って、新之助の肩を叩いた。

「サンキュな」

「お……おう」

新之助は少し赤面しながら、宝生に応えた。


『どうか商店街を守って、私は必ず戻りますから』


ヘリポートでの聡子の悲痛な声が、今も生々しく耳に残っている。

「そう、お前が望むのなら」

宝生は呟いて、脇に置かれたグローブを掴んだ。


◇  ◇   ◇


「しかしよう、どうすんだ? ダケさんよ。うちのエースピッチャーの富雄さんが入院中なんてさあ」

寿司屋の梅さんが、眉根をよせる。

「ピッチャーは榎本の旦那に任せる」

ダケさんは、じっと榎本を見つめた。

色白で極端に細い榎本は、遠くからみるとまるで榎茸のようなシルエットだが、頭脳は相当切れる。商店街にある本屋『榎本書籍』の二代目オーナーである。

榎本は分厚い黒ぶち眼鏡をくいっと持ち上げた。

「私が……ピッチャーですか?」

「ああ、榎本さんに是非お願いしたい」

榎本は商店街チームの真摯な視線を受けて、頷いた。

「わかりました、やりましょう。皆さんもフォローをよろしくお願いいたします」

そう言って榎本は帽子を取って、皆に頭を下げた。

「それとセンターには宝生君を抜擢します」

チームメイトを見回すダケさんに、皆が頷いた。


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