第十六話
「ほう、そんなに美味であるなら、俺にも一口」
椅子に座る聡子を背後から抱きしめ、卓上をひょいと覗き込む。
きちんとセットされた金髪に、アルマーニのフォーマルスーツ。アメジストの瞳が剣呑な光を帯びる。
「宝生っ……」
秋人の口角が憎々し気に歪み、卓上の皿を料理ごと宝生に投げつけた。
「なにを!」
宝生が身をかわすために聡子を離した一瞬の隙に、秋人が聡子の手を掴んだ。
「来い!」
無理やりに手首を掴まれ、聡子はつんのめりそうになりながら走らされる。店の裏口から続く非常階段を上り、屋上にでるとヘリポートに『寿』のロゴが入ったヘリコプターがすでに羽音を轟かせて待機している。
状況を呑みこめずただぼんやりと佇む聡子に焦れて、秋人がその腰を抱いて、ヘリの中へ押し込めようとするのだが、その時。
「聡子!」
宝生が叫んでヘリポートに走り寄る。
秋人の拘束を逃れようと、聡子も必死に宝生に手を伸ばすのだが、届かない。
緋色のドレスが闇色に染まり、悲し気にはためいている。
「社長! お願いです。どうか商店街を守って! 私は必ず戻りますから」
プロペラの羽音にかき消されまいと、聡子も身を乗り出し必死に叫ぶ。
「橘! クロロフォルムを!」
秋人は手渡された白いハンカチで、聡子の口を覆う。
「おね…が…い」
そう呟いて、頬に一筋の涙の跡を作り、聡子は秋人の腕の中に崩れ落ちた。
幾重にも厚く雲に覆われた深淵の闇に、雷光が音もなく不吉な光を放っていた。
「秋人……殺すぞ?」
青ざめた唇を噛みしめ、宝生はただその場に立ちすくんでいた。
◇ ◇ ◇
一体どれくらい眠っていたのだろうか。それは一瞬であったような気もするし、永遠にも感じられるような狂おしい時間であったのかもしれない。確かヘリに乗っていたはずなのだが、今はどうやら車に乗っているらしい。
聡子はゆっくりと瞳を開き周囲を見回す。
フロントガラスに激しく雨が叩きつけ、ワイパーを動かしていてもあまり意味をなしていない。川の水かさが増し、ぎりぎりのところをフェラーリの真っ赤なスポーツカーが走り抜けると、程なく橋が結界した。
隣でハンドルを握る男が苛立たし気に舌打ちをしている。
聡子がふと自分の身体を見れば、緋色のロングドレスの上に、男物のフォーマルジャケットを羽織っている。
「これは……誰の?」
そう呟くと、秋人がちらりとこちらに視線をくれた。
「起きたのか」
「上着……あなたの?」
そう言って上着を返そうとすると
「いい、着てろ。少し冷えるから」
と突っぱねる。
「あの……この車は一体どこに向かっているのでしょうか?」
聡子がおずおずと、とりあえず状況を尋ねてみた。
「郊外にある、俺の別荘だ。生憎この天候で随分遅くなってしまった」
荒れた雑木林を抜けてようやく建物が見えてきた。蔦の生えた古い洋館はまるでホラー映画のセットみたいだ。
「あ……あのもしかしてここですか?」
「本来ならば、女性を同伴するような場所でなないのだが、火急の時だ。許せ」
そう言って、秋人がハンドルを切り、エントランスの前に車を停めた。
年代物のチューダー様式の洋館の物々しい扉を開くと、中は真っ暗だった。秋人がブレーカーを上げると、部屋の中に明かりが灯る。エントランスを通り抜けると人を招くためのスィートダイニングへと続き、そこにある暖炉に薪をくべて火をつけるとようやくひと心地ついた。
「何か飲むか?」
秋人が聡子に問うた直後、玄関の呼び鈴が鳴る。もうすでに夜中の十一時を回っている。こんな夜中に一体誰が、と訝しみ秋人が玄関に立つ。
激しい雨音の中で、かき消されてしまいそうに弱々しい女性の声がした。
「あの……助けて……ください」
秋人と聡子は互いに顔を見合すが、意を決して扉を開けると、そこには苦しげな顔をした妊婦がしゃがみこんでいた。
「一体どうしたというのです!」
秋人が妊婦を抱きかかえ、部屋に迎える。
「すいません。実はこの豪雨で川が氾濫し、橋が流されてしまって。付近の住民はみな既に非難してしまったのですが、急に陣痛が始まってしまい私だけが逃げ遅れてしまったのです。救急車を呼ぼうにも、道が通れないと断られてしまいました。そしたら、こちらのお家に明かりがみえましたもので。うっ……きたきたきたきた……」
そう言って妊婦さんはお腹をおさえて喘ぎ出した。
その横で黒髪の美丈夫が軽くパニックに陥っている。
聡子は電話で病院に再度問い合わせると、
「申し訳ありませんが、この雨で道が分断されてしまい、どうしようもありません。私たちが電話で指示を出しますので、あなた方で赤ちゃんを取り上げてください」
とのことだった。
(えーい、こうなったらなるようになれ!)
聡子は腹を括って秋人に指示を飛ばす。
「秋人さん、彼女の着替えと布団を用意してください!」
彼女の濡れた衣服を脱がせ、とりあえずクローゼットに入っていたバスローブを着せ、部屋を暖めて湯を沸かした。
「ひっひっふーですよ、ひっひっふー」
聡子が見様見真似で妊婦を励ますその横で、秋人が妊婦の背中をマッサージしていた。
「秋人さん、今子宮口何センチですか?」
受話器を片手に聡子が問うと、目にうっすらと涙を浮かべ、秋人が答える。
「さ……三センチくらい……かな」
生々しい光景に、しばらくは焼き肉が食べられないような気がする秋人であった。




