第十五話
部屋に据えられた豪奢なベッドの上に、秋人は身を横たえた。微かに残る彼女の体温をそっと確認するかのようにその場所に顔を埋めると、艶な吐息をついて物憂げに目を開いた。先ほど聡子を腕に抱いた感触を思い出すと、甘美な胸の疼きに満たされる。
金目当てで父の愛妾となった母親を、いつの頃からか秋人は嫌悪するようになった。そのくせ満たされることのない愛情に飢えた日々は、死を願うほどに物憂いものだった。
掃いて捨てる程の見合い話も、手慣れた夜の花たちも、この心を惹きはしない。周りに合わせてそれなりに遊びもしたが、結局、後味の悪い空しさに苛まされるだけだった。
しかし、あの女は違う。飾り気のない素朴さと心にしみる優しさ。
「ふっ、まるでグリコのおまけのような女だな。確かに一粒で二度美味しいという庶民の味も悪くはない……か」
誰もいない部屋に、秋人の意味不明な高笑いが響き、部屋の脇に控えていた使用人たちが互いに目配せをする。君子危うきに近寄らず……と。
◇ ◇ ◇
「本日ご用意させていただきました薔薇風呂でございます。ごゆっくりお楽しみくださいませ」
磨き抜かれた白い大理石の廊下に、スパへと続く金の取っ手の付いた扉の前で、やはり黒い制服姿のお姉さんが佇み、迎えてくれる。
「いえ、お気遣いなく。それより私はそろそろ家に帰りたいのですが」
恐る恐る聡子は、扉の前に立つお姉さんに言ってみるのだが、
「申し訳ありませんが、秋人さまの許可がなくては勝手にお返しすることはできません」
あっけなく玉砕する。秋人が何を考えているのかは、はたまた謎だったが、ここはもう腹を括らねばならないと決心し、聡子は衣服を脱いで、薔薇風呂に向かう。
噎せ返る芳香に散らされた薔薇の花弁を手ですくいとり、聡子は溜息を吐いた。
こんなことをしている場合ではない。
私は早く戻って、皆に会わなくては。
皆……に?
不意に脳裏を掠める金色の髪。
会いたいのだ。
聡子は彼に『大丈夫だ』とただ抱きしめてほしかった。どれだけ不安でも、ただ彼が『大丈夫だ』といいさえすれば、聡子はその言葉を信じて立ち上がれるような気がした。
スパの後はバスローブを羽織ったままで、その奥にあるサロンに連れていかれた。
(なんかすごく贅沢しているけど、私のお小遣いじゃ支払できないんじゃないだろうか)
聡子は気が気ではなかった。
「この後、秋人さまがお食事にお誘いしたいとおっしゃっておられますので」
そう言って聡子に渡されたのは、シャネルの赤いロングドレスだった。
巧みなメイクに、自分では一生かかっても買えないような高価なドレス。
「まあ、よく似合っておられますよ。綺麗に支度ができましたね」
メイクをしてくれたお姉さんがそう言ってくれるが、そんなわけはない。シャネルのドレスなんて、自分のような庶民の小娘に似合うわけがない。胸元に大きなルビーのネックレスが宛がわれ、聡子はなんだか悲しくなってきた。
(こんなのは私じゃない)
鏡に写る自分の顔を見て、聡子が唇を噛みしめた。
「さあ、秋人さまがお待ちですよ」
案内されたのはホテルのロビーだった。オーク材の木目の壁に正八角形をそのまま繰り抜いたような白い天井からは、豪奢なシャンデリアが眩く輝いていた。隅に置かれたグランドピアノが切ないショパンを奏でている。
秋人は部屋の中央に置かれたワインレッドの長椅子に腰かけ、優雅にコーヒーを飲んでいた。
「ほう、少しは見れるようになったか」
秋人は双眸を微かに細め、聡子を凝視する。
「もう、いい加減にしてください。私は家に帰りたいんです」
聡子が怒鳴ると、秋人はそっと聡子の前に立ち、その顎を掴み無理やり上を向かせる。
「お前の運命は俺が握っているということを忘れるな。ここでは俺に従え、それがお前の生きる道だ」
ぞっとするような冷たい声色。
「は……放して」
聡子は秋人を睨みつけ、苦し気に身を捩る。
「いや、放しはしないさ。さてその生意気な唇をどうやって塞いでやろうか」
そう言って低く笑いを噛み殺す。
背筋に戦慄が走り、聡子は後ずさる。
キモイ、寒い、ウザイ。
そんな単語が頭の中を駆け巡った。
ホテル内の最上階に位置する五つ星レストランにて。
煌めく夜景を眼下に臨み、間接照明の店内に蝋燭のやわらかい光が揺れる。テーブルを挟んで、真向かいに対峙する秋人が、なぜだか瞳を潤ませ、うっとりと頬を赤らめている。
「フレンチは口に合わないか? ほら食え、鴨肉のローストだ。はい、あーん」
優雅な手つきで切り分け、フォークに突き刺した肉を、現在食欲不振中の聡子の前に差し出す。
聡子は思いっきり眉を顰めた
「いえ、結構です」
そう言って聡子が横を向くと、秋人の声が1オクターブ低くなる。
「食え」
それは命令だった。
「うっ……」
(できるか! こんなところでそんな真似)
そう思いつつ、尚も口の前に差し出される鴨肉に、聡子は決死の覚悟で食いついた。
口の中で蕩けるまろやかな味わい。
「ん……おいしい」
思わず呟いた聡子の顔を見つめ、秋人が破顔する。
「そっか、よかった」
あまりにも無垢で無防備なそれは、とても反則な笑顔だった。
おそらく彼は今自分がどんな顔をしているのかを知らないのだろう。
不意打ちの笑顔に彼の人の面影を重ね、聡子は甘い眩暈を覚えるのだった。




