第九話
朝倉が来た翌日、澪が仕事から帰ったのは八時前だった。
台所で湯を沸かした。あとは食事をして明日の準備をして眠るだけだった。
明日は朝から面談が三件ある。資料を鞄に入れておかなければならない。澪は湯呑みを持って居間へ戻り、テーブルに書類を広げた。
「連絡、いつするの」
窓際から声がした。
澪は書類をめくる手を止めなかった。
「どこに」
「あの家。親戚の人。住所が分かってるなら、誰が持ってるか調べられるでしょう」
「まだ」
「まだって、いつまで」
「順番を考えてるの」
澪は言った。言ってから、答えてしまったと思った。
「何もしてないわけじゃない。朝倉さんが外から見てくれることになってる。それが分かってから、誰に聞くかを決める。お母さんは最後」
「なんでお母さんが最後なの」
「……話すと、面倒になるから」
「面倒って、何が」
澪は書類を揃えた。
答えれば、また次の問いが来る。分かっていた。それでも女の問いは、どれも澪が一度は自分に向けたことのある問いだった。だから答えられた。答えられるから、止まらなかった。
母がどんな顔をするか。どう言うか。子どもの頃に何度聞いたか。女はそれを全部知っていた。知っていて、そのうえで聞いてきた。澪が言葉にするのを待つように。
気がつくと、書類は揃えたまま鞄に入っていなかった。湯呑みの茶は冷えていた。
時計は十一時を回っていた。
食事もまだだった。
「……ご飯、食べる」
澪は立ち上がった。
「話、終わってないよ」
「終わりにする」
台所で冷蔵庫を開けた。何を食べるか考えられなかった。卵を一つ取り出して、しばらくそれを持ったまま立っていた。
責められていたわけではない。怒鳴られたわけでもない。姉のことも、母のことも、話せる相手はこの家にしかいなかった。分かってくれる相手と話していた。
それなのに、今すぐこの部屋から出ていきたかった。
寝室で四冊目を開いた。一行だけ書くと決めていた。
眠れた:(未)。しんどさ:強い。
その下に澪はもう一行書き足した。
八時前に帰宅。十一時過ぎまで話した。私が答え続けた。
あの子が何を言ったかではなく、自分が何時間答えていたか。それを書いておかなければならないと思った。
---
それから四日間、澪は同じように書いた。
話した日と話さなかった日。話した日は、どれも一行では収まらなかった。姉の話。旧居の話。母の話。前にも、長く話し込んだ時期はあった。この数日は返事を控えていた。それが、調べる順番が決まったとたん、また途切れなくなった。話は思い出から、いつ誰に連絡するのかという話に変わっていた。
話さなかった日は、夜に声がした。起きてる。澪は答えずに数を数えた。
四日目の昼休みに澪は朝倉へメッセージを送った。
〈記録を見てもらいたいです。家で、短く。あの子もいるところで。〉
返信は夕方に来た。
〈伺います。時間は水城さんが決めてください。外からの確認も終わっています。そのときお伝えします。〉
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朝倉は約束の二時ちょうどに来た。
前回と同じ並びで椅子に座った。澪が窓際の見える方。朝倉がその隣。
「三時までにしてください」
「はい」
澪は四冊目を開いて朝倉の前に置いた。薄いノートだった。五日分しかない。けれど、どの日も一行で終わっていなかった。
朝倉は黙って読んだ。それから三冊目の終わりの方を開き、手帳に写しておいた日付と並べた。
「返事を控えていた間は、夜の声が中心でした。今は、帰ってきてから話している時間が長いんですね。三時間。二時間半。三時間」
「はい」
「話題は」
「姉のことと、あの家のことと、母のことです」
朝倉は手帳に何か書いた。
「話題があると、止めにくい」
澪はそう言って、自分の言葉に少し驚いた。
「この前、朝倉さんに来てもらうまでは、返事をしないようにしていました。でも、調べる順番が決まってから、あの子は次は何をするのかって聞いてくる。私も、続きを知りたくなってしまうんです」
窓際に女がいた。
いつから座っていたのか、澪には分からなかった。女はソファの背に腕を乗せて、テーブルの方を見ていた。
「話すことがあるのは、いいことでしょう」
女が言った。
澪は朝倉を見た。朝倉は澪を見ていた。答えるかどうか、澪が決めるのを待っていた。
「……いいことだと思う」
澪は答えた。
「でも、眠れない」
朝倉が手帳の頁を戻した。
「外からの確認のこと、お伝えしてもいいですか」
「お願いします」
「住所の家は、今もありました。木造の二階建てです。外から見ただけです。門は閉まっていて、雨戸も閉まっていました。住んでいる方がいるかどうかは、外からは分かりませんでした」
窓際で女が身を起こした。
「あるんだ」
声が明るくなった。
「じゃあ、廊下の奥の窓、まだあるかな。見てきてほしい。あそこで折り紙したでしょう。お姉ちゃんと」
澪は、はっとした。
廊下の奥の窓辺。二階へ上がる階段の手前。午後になると日が差して、床板が温かかった。そこに座って折り紙をした。
忘れていたわけではない。けれど、言われるまで思い浮かべていなかった。
「澪、やっこさんばっかり折ってた。鶴は難しいって。お姉ちゃんが手を持って――持ったみたいにして、ここ、って教えてくれて」
「……そう」
澪は小さく言った。
朝倉がペンを動かしていた。廊下の奥の窓辺。折り紙。
「その窓辺、今もあるか、外から見えましたか」
女が朝倉に聞いた。
「いいえ。外からは、中は見えませんでした」
「じゃあ、中に入れてもらわないと。親戚の人に聞いて。あと、あの家の写真。昔の。誰か持ってるでしょう。お母さんとか」
「お母さんは、最後にするって決めたの」
澪は言った。
「最後って、いつ」
「……」
「写真があったら、窓辺がどうなってたか分かるよ。どのくらいの広さで、どこに座れたかも。……お姉ちゃんがどっちにいたかは、写真じゃ分からないけど。澪、覚えてないでしょう。お姉ちゃん、窓のどっち側にいたか」
澪は答えられなかった。
覚えていなかった。自分がどこに座っていたかは覚えている。姉がどちら側にいたのかは、言われてみると曖昧だった。
「右だよ」
女は言った。
「澪の右。光が当たってて、お姉ちゃんの手が白く見えた」
澪はその言葉を聞いて、そうだった気がした。そうだった気がすることが、少し怖かった。
朝倉は手帳に書いていた。書く手が速くなっていた。
女の話は止まらなかった。窓辺の床板の節。階段の三段目が鳴ること。雨の日に廊下で聞いた音のこと。どれも役に立ちそうだった。どれも澪がもう一度確かめたいと思うことだった。
澪は、自分が背もたれから体を起こしていることに気づいた。朝倉の手帳を覗き込もうとしていた。
テーブルの下で、膝が冷えていた。目の奥が重かった。
昨夜も三時間話した。その前の夜も。
女は今日も話し続ける。朝倉が帰ったあとも。明日の夜も。
窓辺のことを知りたかった。姉がどこに座っていたかをちゃんと思い出したかった。
それでも、今は眠りたかった。
「朝倉さん」
澪は言った。
「今は、終わりにしたいです」
時計を見ると二時四十分だった。
---
「分かりました」
朝倉が言った。
澪は朝倉の手元を見ていた。
朝倉のペンが、手帳の上で止まっていた。止まる直前に、一行書きかけていた。疑問符のついた、短い一行だった。澪の位置からは、最初の二文字しか見えなかった。窓辺。
朝倉はそのペンを、手帳の上に置いた。書きかけの一行はそのままだった。手帳を閉じた。
朝倉の目が、一瞬だけ窓際へ向いた。それから戻った。
澪にはそれが、何かを置いていく人の目に見えた。本当にそうなのかは分からなかった。
「ありがとうございました」
朝倉は窓際に向けて言った。それだけだった。
女は、何も言わなかった。ソファの端に座ったまま、朝倉と澪を見ていた。消えなかった。
「……窓辺のこと、まだあるのに」
しばらくして、女が言った。責める声ではなかった。独り言のようだった。
澪は答えなかった。朝倉も答えなかった。
澪には、女が話の途中で置き去りにされたように見えた。自分がそうさせた。朝倉に止めてもらったのではなく、自分で止めた。
追い出したわけではない。それでも胸の奥が痛んだ。
「玄関まで、送ります」
澪は立ち上がった。
廊下で、朝倉は靴を履いた。
「今夜は、どうしますか」
朝倉が尋ねた。
「……いつも通りにします。ご飯を食べて、明日の準備をして、寝ます」
「分かりました」
朝倉は頷いた。それ以上は聞かなかった。
「また、何かあったら連絡してください」
「はい」
扉が閉まった。
澪は、しばらく玄関に立っていた。
朝倉は帰った。調べることは、今日はもう終わった。
けれど、澪はここにいる。居間には、あの子がいる。話を途中で終わらされた、あの子が。
調査は終えられる。この部屋は、終わらない。
---
澪は台所で食事の支度をした。
居間を通るとき、窓際を見なかった。見なくても、いるのは分かった。女は何も言わなかった。それが、話しかけられるより重かった。
食事を終えて、皿を洗った。
それから居間の隅の、低い机の前に座った。仕事の道具を置いている机だった。明日使う布袋を、机の上に広げた。
厚手の生成りの袋で、面談の資料を入れて持ち歩いている。昨日使ったままで、底に紙の角が残っていた。澪はそれを出して、袋を裏返して埃を払った。
縦に半分に折った。さらに半分に。
「お母さんも、それ畳んでたよ」
窓際から声がした。
澪の手が止まった。
「そこで。その机で。半分に折って、もう半分に折って。それから広げて。また折って。箱に入れて、また出して」
澪は振り返らなかった。
母がこの部屋に来たのは、事故のあとの一度だけだった。食べ物を持ってきて、ソファに座って、一時間ほどで帰った。この机には近づかなかった。布袋には触れなかった。
「箱って」
澪は言った。聞いてしまった。
「段ボール。いっぱいあったでしょう。本とか、服とか。机の上にも床にも。お母さん、その袋を畳んで、箱に入れて、また出して」
この部屋に、段ボールが積まれたことはない。越してきたときを除けば。そのとき母はいなかった。
「いつの話」
「澪が帰ってこなかったとき」
女の声は静かだった。当たり前のことを言うように。
「帰ってこなかったとき、お母さんが来て、片づけてた」
澪は、手の中の布袋を見た。
半分に折られた生成りの布。毎朝これを持って家を出る。毎晩これを持って帰ってくる。
帰ってこなかったとき。
この袋は、ここに残される。誰かが来て、これを畳む。どこかへ持っていくのか、捨てるのか、決めかねて。
澪は袋を机に置いた。
もっと聞くことはできた。いつ。どんなふうに。母は何を言っていたのか。どんな顔をしていたのか。女はたぶん答える。答えられるところまでは。
聞けば、また夜が長くなる。
澪は袋をもう一度畳み直した。半分に。もう半分に。明日の資料と一緒に、鞄の横に置いた。
それから寝室へ行き、四冊目を開いた。
今日の日付の下に書いた。
朝倉さん来訪。二時四十分に私が終えた。
あの子の発言:「お母さんも、それ畳んでたよ」「そこで。その机で」「箱に入れて、また出して」「澪が帰ってこなかったとき」。
母がこの部屋に来たのは事故後の一度。机には近づいていない。段ボールはなかった。
私はこれ以上聞かなかった。
眠れた:
そこでペンを止めた。
それから携帯を手に取った。
〈朝倉さん。今日はありがとうございました。
お帰りになったあと、あの子が一つ話しました。母がこの部屋で、私の仕事の袋を畳んでいた、と。私が帰ってこなかったときに、と。私の知る限り、そんなことはありませんでした。
あの子と私は同じことを覚えていると思っていました。でも、あの子は、私の知らないことを覚えているみたいです。
今夜はこれ以上聞きません。次のことは、また相談させてください。〉
送信してから、澪は灯りを消した。
居間から声はしなかった。
目を閉じると、あの子の言葉から組み立ててしまった部屋が浮かんだ。見たことのない、段ボールの積まれた自分の部屋。低い机の前に、誰かが座っている。想像だと分かっていた。分かっていても、消えなかった。
顔は、浮かばなかった。
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