第十話
水城のメッセージを受け取った二日後の夕方、透は水城の部屋を訪ねた。
居間には入らなかった。水城がそう決めていた。台所のテーブルに椅子を二脚寄せて、そこで話すことになった。居間の入口からは少し外れていて、窓際のソファは見えない。
「最初は、あの子を見ないで話したいんです。自分の考えを先にまとめたいので。……声は、たぶん届きますけど」
水城は言った。
「あの子に聞くかどうかは、そのあとで決めます」
「分かりました」
水城はテーブルに四冊目のノートを置いた。薄いノートの最後の頁が開いてあった。
透はそれを読んだ。
あの子の発言:「お母さんも、それ畳んでたよ」「そこで。その机で」「箱に入れて、また出して」「澪が帰ってこなかったとき」。
母がこの部屋に来たのは事故後の一度。机には近づいていない。段ボールはなかった。
私はこれ以上聞かなかった。
眠れた:
最後の行は空いたままだった。
「お母さんが来たのは、事故のあとの一度だけですね」
透は確かめた。
「越してきたときは」
「母はいませんでした。段ボールがあったのは、そのときだけです」
「では、水城さんが知っている訪問とは、合わないんですね」
「合いません」
「眠れましたか。その夜」
「少しだけ。でも、眠れなかったのは、あの子のせいじゃない気がします。自分で考えてしまって」
「何を考えましたか」
水城はすぐには答えなかった。
「……母が泣いていたのか。悲しんでいたのか。私がいなくなったら、母はどうするのか。そういうことです」
透は、ノートの一行目をもう一度見た。
「あの方は、泣いていたと言いましたか」
水城は口を開きかけて、止まった。
ノートに目を落とした。自分の字を指でたどった。
「……言っていません」
「悲しんでいた、とは」
「言っていません。畳んで、箱に入れて、また出して。それだけです」
水城は、自分の書いた一行を見つめていた。
「泣いていたのかどうかは、私が考えていたことなんですね。あの子が言ったことじゃなくて」
「考えるのは、自然なことだと思います」
透は言った。
「ただ、ここに書いてあるのは、あの方の言葉と、水城さんが知っていることです。お母さんが泣いていたかどうかは、どちらにも書いてありません。分けておけば、考えたことを消さなくて済みます」
透は手帳を開き、線を一本引いて二つの欄を作った。左にノートに書かれた言葉をそのまま写した。右の欄は空けておいた。
「右には、水城さんがあとから考えたことを書いておいてもいいですか。消すためではなく、分けておくために」
水城は少し考えてから頷いた。
「母が泣いていたかもしれない。悲しんでいたかもしれない。……私がいなくなったあとの話だと、あの子は思っている」
透は右の欄にそれを書いた。最後の一行だけは、左と右の間に書いた。あの子自身がそう言ったからだ。
「お母さんには、聞いていませんね」
「聞いていません」
水城は首を振った。
「聞けません。あなたが私の部屋で私の袋を畳んで泣いてたことはある、なんて。そんなこと、なかったのに」
「その場面が実際にあったと決めて、お母さんに尋ねる必要はないと思います」
透は言った。
「あの方の話は、お母さんが今どう思っているかとは、別のことかもしれません。まだ分かりません」
水城はテーブルの上で指を組んだ。
「分からないのが、嫌なんじゃないんです」
しばらくして、水城は言った。
「母が何を考えているか分からないのは、ずっとそうでした。そうじゃなくて、私が知らない母の姿を、あの子が知っている。私と同じ顔で、同じ声で。それが、嫌なんです」
透は何も言わなかった。
窓の外で、どこかの家の扉が閉まる音がした。
「あの子に、聞いてみてもいいですか」
水城が言った。
「何を見たのか。見たものだけ。意味は聞かないで」
「水城さんが決めてください」
「……聞きます。四十五分まで」
透は腕時計を見た。五時十分だった。
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居間へ移った。
水城は前と同じ椅子に座った。窓際が見える方だった。透はその隣に座った。
窓際のソファの端に女はいた。
いつからそこにいたのかは分からなかった。女は膝を抱えるようにして座り、テーブルの方を見ていた。
「話、聞いてた」
女が言った。
「台所で。聞こえたよ」
水城は答えなかった。透を見た。透は頷いた。
「この前の話を、もう少し聞かせてください」
透は女に言った。
「見たことだけ、教えてもらえますか。何があったのか。何が見えたのか」
女は、窓の外に目をやった。
「あの机」
女は、居間の隅の低い机を指さした。水城の仕事の道具が並んでいる。布袋は今日は机の端に畳んで置いてあった。
「あそこに、段ボールがあった。二つか、三つ。机の上にも一つ。床にも。蓋が開いてた。本が入ってた。服も」
「はい」
「お母さんが、机の前に座ってた。正座じゃなくて、横座り。その袋を持って」
女は、机の端の布袋を見た。
「半分に折って、もう半分に折って。箱に入れた。それから、また出した。広げて、また半分に折って。二回か、三回」
「そのあと、どうしましたか」
「……箱に入れた」
「その箱は」
「分からない」
女は言った。
「箱に入れたところまで。そのあとは、ない」
「その前は。お母さんがここに来て、座るまでは」
「ない」
女の声は平らだった。
「座ってるところから。袋を持ってるところから」
透は手帳に書いた。直前の記憶:なし。後:箱に入れたところまで。
「その場面を、どこから見ていましたか」
女は、少し黙った。
それから、首を傾けた。
「……分からない」
「ここからですか。そのソファから」
「分からない。お母さんの手は見えてた。袋も。段ボールも。でも、自分がどこにいたのかは、分からないの」
女は自分の膝を見下ろした。
「変だよね。いつもは、ここにいるって分かるのに。あのときだけ、分からない」
透は、ペンを持ったまま少し待った。
女は嘘をついているようには見えなかった。隠しているようにも見えなかった。ただ、そこに穴が空いていることを、女自身が不思議がっていた。
穴を埋めるための問いを透はいくつも思いついた。窓は見えたか。光はどちらから来ていたか。時計の音はしたか。
透は、そのどれも口にしなかった。聞けば、女は答えようとするかもしれない。答えようとして、覚えていないところを想像で補ってしまうかもしれない。
「分かりました。分からないところは、分からないままで大丈夫です」
透は言った。
手帳に書いた。観察位置:本人も分からない。
書いてから、その一行を見た。
低い机、段ボール、生成りの袋、横座りの母、畳んでは広げる手。それだけが、見ている者のいない場所に浮かんでいるように、透には思えた。
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「……母は」
水城が言った。
透は水城を見た。水城は女の方を見ていた。
「母は、悲しそうだった?」
言ってしまってから、水城は唇を噛んだ。
女は、すぐには答えなかった。
「泣いてたかどうかは、分からない。顔は、よく見えなかった」
「……そう」
「でも、捨てられなかったんだと思う」
女は言った。
「袋。何回も出したから。入れては出して。捨てたくなかったんだと思う。澪が毎日持ってたの、知ってたから」
水城は黙っていた。
透は、水城の横顔を見ていた。水城の視線は、女ではなく、机の端の布袋に落ちていた。
「私は」
水城が言った。
「入れたところが、気になる」
女が水城を見た。
「何回出しても、最後は箱に入れたんでしょう。片づけてたんでしょう。私の部屋を。私の物を。箱に詰めて」
「それは、そうだけど」
「捨てられなかったのかもしれない。でも、片づけは進めてた。……ちゃんと、進めてた」
水城の声は、責めているようには聞こえなかった。どこか、それを確かめて安心しているようにも、傷ついているようにも聞こえた。透には、どちらなのか分からなかった。
「一つ、確認させてください」
透は言った。
「あなたが見たのは、お母さんが袋を畳んで、箱に入れて、出して、また畳んで、最後に箱に入れたところ。顔はよく見えなかった。何か言っていましたか」
「……何も」
「ため息や、声は」
「覚えてない。聞こえなかったのかもしれない」
透は手帳に書いた。発話の有無:不明(声の記憶なし)。表情:不明。
「それなら、お母さんが悲しんでいたのか、ほっとしていたのか、ただ片づけを進めていたのか。そのどれなのかは、この場面からは決められないと思います」
女は、少しむっとしたように透を見た。
「捨てられなかったんだよ」
「あなたにはそう見えた。それは、分かりました」
透はそれ以上、言わなかった。
水城は、机の端の布袋から目を離さなかった。女は、納得していない顔で透を見ていた。二人とも、同じ袋を思い浮かべているはずだった。
「じゃあ、どうすればいいの」
女が言った。
「続き、思い出せばいい?お母さんが何か言ってたか、もっと考えれば」
「いいえ」
透は首を振った。
「無理に思い出さなくていいです。分からないところは、埋めなくていい」
女は黙った。
水城は、机の端の布袋から目を上げた。
「……同じ袋でも、思い浮かべることが違うんですね。あの子と、私」
水城はそう言った。女に向けてではなく、半分は自分に向けて。
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しばらく、誰も話さなかった。
透は時計を見た。五時三十分だった。
女が、ぽつりと言った。
「お姉ちゃんのときも、そうだったよね」
水城が顔を上げた。
「紐のとき」
女は、自分の両手を膝の上に出した。何も持っていない手だった。
「澪が、袋の紐を結ぼうとしてて。うまくできなくて。お姉ちゃんが、こうやって見せてくれた」
女は、何も持たない両手の指を動かした。紐をかけ、輪を作り、くぐらせて、もう一度。二重に結ぶ手順を、空中でなぞった。
「澪が、自分で紐を持って、真似して結んだ。お姉ちゃんは見せてただけ。触らなかった」
水城は、女の指を見ていた。
「……覚えてる」
水城は言った。
「窓辺で。折り紙を入れておく、巾着の袋だった」
「そう。それで、澪が言ったんだよ。お母さんも、そうやって結ぶって」
透はペンを止めた。
水城は、ゆっくり頷いた。
「言った。お母さんも同じ結び方する、って。指の動かし方が、お母さんと同じだったから」
「そしたら、お姉ちゃん、何て言った?」
女が水城に聞いた。
水城は、少し考えた。
「……『そう?』って。それから、何か言いかけて」
「うん」
「言いかけて、やめて。『折り紙の続きしよう』って。『次は何折る?』って」
「うん」
女は頷いた。
「覚えてるよね。同じだよね」
「同じ」
「私は、お姉ちゃん、何か言うのやめたんだと思ってる」
女は言った。
「言いかけたの。何か。それで、やめた。やめて、折り紙の話にした」
水城の表情が、わずかに固くなった。
「遊びに戻っただけだよ」
水城は言った。
「子どもが飽きないように。私が結べたから、次の遊びにしただけ。お姉ちゃん、いつもそうだった。私が退屈しないように、次のことを考えてくれてた」
「そうかもしれない」
女は言った。
「でも、あのとき、お姉ちゃんの手、止まってたよ。見せてた手。途中で」
水城は、すぐには答えなかった。
「手が止まっていたのは、覚えていますか」
透が尋ねた。
「……覚えていません」
水城は言った。
「止まっていたかもしれない。止まっていなかったかもしれない。私が覚えているのは、『そう?』って言われたところからです」
透は、手帳の新しい頁に書いた。
二人とも覚えていること:姉が紐の結び方を手で示す(実物には触れず)。澪が実物の紐で結ぶ。澪「お母さんも同じ結び方をする」。姉「そう?」。そのあと何か言いかけてやめ、折り紙の話へ移る。
あの方だけが覚えていること:示していた姉の手が途中で止まった。水城さんは覚えていない。
受け取り方:水城さんは、遊びに戻しただけ。あの方は、何かを話さずに終えたように感じた。
書いてから、透は一行目の頭に括弧をつけた。二人が同じことを覚えているのは、もともと同じ時間を過ごしたからだ。二人がそろって頷いたからといって、それが二つの証言になるわけではない。
同じ場面でも、覚えている細部が少し違い、受け取り方はもっと違っていた。
水城は、窓際の女ではなく、窓の外を見ていた。
「……疑いたくないんです」
小さな声だった。
「お姉ちゃんのことを。あの人と遊んだ時間を。何か隠してたとか、そういうふうに見たくない」
「疑ってないよ」
女が言った。
「私も、お姉ちゃん好きだよ。会いたいよ。でも、あのとき、何か言いかけたのは本当だと思う。それだけ」
水城は目を閉じた。
透は時計を見た。五時四十一分だった。
「水城さん」
透は言った。
「そろそろ、時間です」
水城は目を開けた。
「……今日は、ここまでにします」
透は手帳を閉じた。女に向けて頭を下げた。
「ありがとうございました」
女は膝を抱えたまま、何も言わなかった。窓の外を見ていた。消えなかった。
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台所のテーブルに戻った。
水城は、しばらく黙って湯呑みを持っていた。透も黙っていた。
「朝倉さん」
「はい」
「久世さんに、会いに行こうと思います」
透は水城を見た。
「疑って行くわけじゃありません」
水城は言った。先にそう言っておきたかった、という顔だった。
「あの人には、本当に助けてもらいました。記録の分け方も、否定しないで聞いてもらえたことも。でも、今の私のことは、まだほとんど話せていないんです。眠れなくなったことも、あの子が私の知らないことを覚えていることも」
水城は、四冊目のノートを開いた。一冊目から三冊目も、横に重ねた。
「私が久世さんに話したのは、ここまでです」
二冊目の途中を指さした。毎日話すように勧められて、試し始めたところ。
「そこから先は、まだ話していません。話さなきゃいけないと思います」
「僕も、一緒に行っていいですか」
透は言った。
「水城さんの付き添いとしてではなく。僕も、聞きたいことがあります」
水城は、少し意外そうに透を見た。
「何を、ですか」
「記憶のことです」
透は、手帳の今日の頁を開いた。
「あの方には、見ている自分の位置がない場面がある。前と後ろもない。それでも、はっきり覚えている。そういう記憶を、久世さんはどう扱っているのか。それから、話すようになってから、出てくることや負担が増えたこと。それをどう見ればいいのか。それと、止めるときの判断です。いつ止めるのか。止めたあと、どうするのか」
水城はそれを聞きながら、ノートの端に書き留めていた。
記憶の欠けたところ。
接触と出現の変化。
止める判断。
「三つに絞りましょう」
水城が言った。
「たくさん聞くと、また終わらなくなるから」
「はい」
水城は携帯を取り出し、しばらく画面を見ていた。それから文字を打った。打っては消し、また打った。
「……送りました」
水城は画面を透に見せた。
〈久世さん。ご無沙汰しています。水城です。
相談の日を延ばしてしまい、すみませんでした。
あれからのことを、お話ししたいと思っています。
今回は、知人の朝倉さんに同席してもらいたいのですが、よろしいでしょうか。朝倉さんは、住宅の調査の仕事で、似たことに関わっている方です。〉
「返事が来たら、連絡します」
「お願いします」
透は帰り支度をした。玄関で靴を履きながら、居間の方は見なかった。見なくても、あの女が窓際にいることは分かっていた。
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電車の中で、透は手帳を開いた。
見ている自分の位置がない場面。前後の経過がない場面。鮮明な手の動きだけが残っている。
透は、自分の記憶のことを考えていた。
十年前の歩道。衝突の音。耳のすぐそばで名前を呼ぶ声。体が動いたこと。気がついたときには、全部が終わっていたこと。
あのあいだにあったはずのことを、透は思い出せない。思い出そうとすると、穴の縁だけが見える。
あの女は、水城が帰ってこなかったときの部屋だと言った。死んだあとの部屋、とは言っていない。確かめたわけでもない。それなのに透は、そう考えたくなっていた。見ていた位置のない記憶として。
もし、自分の事故についても、どこかにそういう記憶が残っているなら。あの声が誰だったのか。自分がどう動いたのか。蓮がどう動いたのか。
透はそこで考えるのをやめた。
自分に、あの女のような相手がいるのかどうかも、透は知らない。見たことはない。
それでも、久世ならそういうことを知っているかもしれない。
携帯が震えた。水城からだった。
〈久世さんから返事が来ました。明後日の午後三時、相談室で。朝倉さんの同席も大丈夫だそうです。〉
透は予定表を開き、明後日の欄に書き入れた。
久世相談室。十五時。水城さん同席。
その下に、小さく三つ書いた。
記憶の欠けたところ。
接触と出現の変化。
止める判断。
四つ目は、書かなかった。




