第十一話
雑居ビルの三階は、廊下の突き当たりに小さな窓が一つあるだけだった。
扉には、手書きの札が掛かっていた。久世相談室。その下に「ご予約の方はお入りください」とある。
水城が扉を叩いた。
「どうぞ」
穏やかな声だった。
部屋は思っていたより狭かった。六畳ほどの広さに、低いテーブルと椅子が四脚。壁際の棚にはファイルが背表紙を揃えて並んでいる。奥に小さな流し台があり、電気ケトルが湯気を立てていた。窓は高いところに細いものが一つ。午後の光が天井のあたりを薄く照らしていた。
男が一人、流し台の前から振り返った。
四十代の半ばくらいに見えた。灰色のカーディガンに襟のあるシャツ。眼鏡をかけている。髪には白いものが混じっていた。
「水城さん。お久しぶりです」
「ご無沙汰しています。延ばしてしまって、すみませんでした」
「いいえ。来てくださってよかった」
男は透の方を向いた。
「久世です。朝倉さんですね。水城さんから伺っています」
「朝倉です。今日は同席させていただいて、ありがとうございます」
「どうぞ、お掛けください。お茶を淹れますから」
透と水城は並んで椅子に座った。久世は湯呑みを三つテーブルに置き、向かいに座った。
テーブルの上にはノートが一冊と、ペンが一本だけあった。録音機はなかった。
「朝倉さんは、住宅の調査のお仕事をされていると」
「はい。事故物件を扱う会社で、調査をしています」
「そうですか」
久世はそれ以上、透のことを聞かなかった。水城の方へ向き直った。
「前回から、だいぶ経ちましたね。どうでしたか。眠れていますか」
水城は少し間を置いた。
「……あまり、眠れていません」
「いつ頃から」
「毎日話すようにしてから、しばらくして。夜にも声がするようになりました」
久世はノートを開き、何かを書いた。顔を上げた。
「声は、どんなふうに」
「起きてる、って。居間から。寝室にいても聞こえます」
「答えると、どうなりますか」
「話が続きます。長いときは、二時間とか、三時間とか」
「答えないと」
「……もう一度、聞かれます。しばらくすると止みます。でも、止んでも眠れないことがあります」
久世は頷いた。
透は水城の横顔を見ていた。水城は落ち着いて話していた。台所のテーブルで透に話したときよりも、ずっと滑らかに。
「仕事には、影響が出ていますか」
「……同じ書類を、何回も読み直すことがあります」
「それは、つらいですね」
久世は言った。慰める調子ではなかった。事実を確かめるような言い方だった。
「最近、いちばん困っていることは何ですか」
水城はちらりと透を見た。
透は口を開きかけた。水城が困っているのは、休めないこと。帰ってからも一人になれないこと。自分の知らない母の姿を、もう一人の自分が知っていること。透はそれを知っている。
けれど、透が言う前に、久世が穏やかに言った。
「水城さんの言葉で、聞かせてください」
透は口を閉じた。
水城は少し考えた。
「……家で、休めないことです。それと、あの子が、私の知らないことを覚えているのが分かったこと」
「知らないこと」
「母が、私の部屋で私の物を片づけている場面を、覚えているんです。そんなことは、なかったのに。私が帰ってこなかったときだって、あの子は言いました」
久世はペンを止めた。
「その場面について、もう少し聞かせてもらえますか」
水城は台所のテーブルで透と整理したことを話した。低い机、段ボール、布袋、母の手の動き。前後の記憶がないこと。どこから見ていたのか、あの子自身にも分からないこと。
久世は途中で一度も口を挟まなかった。水城が話し終えるまで、ノートにも何も書かなかった。聞き終えてから、少しだけ書いた。
「話してくださって、ありがとうございます」
久世は言った。
「そういう記憶を持つ人は、少なくありません。水城さんのところだけではないですよ」
水城の肩から少し力が抜けたのが分かった。
透も、自分の肩が軽くなったのを感じた。
ここへ来る前、透は身構えていた。何を言われても鵜呑みにしないように。水城の負担を軽く扱われたら、自分が言わなければならないと。
久世は水城の負担を一度も軽く扱わなかった。透より先に、透より具体的に、水城の生活を聞いていた。
---
「朝倉さん」
久世が透の方を向いた。
「水城さんから、朝倉さんも似たことに関わっていると伺いました。もしよければ、お話を聞かせていただけますか。差し支えない範囲で」
透は少し考えた。
「仕事で調べた物件のことです。住んでいる方や、前に住んでいた方が特定されない範囲でなら」
「もちろん、それで」
透は最初の物件のことを話した。
扉を閉めると声がする部屋。廊下側に立つ人影。火災で亡くなったのは夫で、姿は生きている妻の若い頃に似ていたこと。その妻本人が、部屋の呼び名や家具の理由を、透が教える前に自分から話したこと。そして、姿の方は、救い出されずに終わった火災の記憶を語ったこと。
話しながら、透は自分の声が少しずつ速くなっているのに気づいた。仕事の報告ではなく、同じようなことを扱ってきた人に、最初から順番どおりに話すのは初めてだった。報告書には書けなかったことが多かった。
久世は黙って聞いていた。
透が話し終えると、久世はしばらく湯呑みを見ていた。
「朝倉さんは、それまで、見えるものは亡くなった方だと思っていらしたんですね」
「……はい」
「その前提が崩れたときは、どうでしたか」
透は少し間を置いた。
「仕事の常識がなくなった気がしました。でも、仕事は終わらなかった」
久世は小さく笑った。
「そうですね。終わらない」
それから久世は湯呑みを置いた。
「私は、そういう存在のことを、便宜上『残存者』と呼んでいます」
残存者。
透はその言葉を口の中で繰り返した。
「学術的な言葉ではありません。私が勝手にそう呼んでいるだけです。ほかに呼び方がなかったので。私が見てきた範囲では、朝倉さんの物件と同じように、生きている人に対応する姿がいくつもありました。亡くなった方ではない。生きている人と同じ過去を持っている。そして、その人が死にかけた場面と、何かしらの関わりがある」
「死にかけた場面」
「火災や、事故や、病気や。その人が実際には助かった。けれど、助からなかったかもしれない。その、実現しなかった死に関わる存在なのではないか。私はそう考えています」
透は黙って聞いていた。
「考えている、というだけです」
久世は付け加えた。
「証明はできません。私が相談を受けた方々の話と、自分の経験から、そう理解している。それだけです」
透はそれを聞いて、かえって信じたくなった。証明できないと言う人の言葉の方が、言い切る人の言葉より、確かに聞こえることがある。
「水城さんのところの、お母さんの場面のような記憶も」
久世は続けた。
「私は、仮に『不在の記憶』と呼んでいます。その人がいなかった場合の、縁のある場所の場面。前後を思い出せなくて、どこから見ていたのか分からない。鮮明なのに、どこか欠けている。多くの方が、そう話します」
「それは、実際にどこかで起きたことなんですか」
水城が尋ねた。
久世は首を横に振った。
「分かりません。どこかに別の世界があって、そこで起きたことなのか。そうでないのか。私には確かめようがない。ただ、そういう記憶がある。それだけは、たくさんの方から聞いています」
不在の記憶。残存者。
名前がついた、と透は思った。
最初の物件の扉枠の脇に立っていたもの。水城の部屋の窓際にいる女。どちらも、これまで透の中で名前のないものだった。見えるけれど、何と呼べばいいのか分からないもの。
それに、名前がついた。
名前がついただけで、何も分かっていないのに、何かが分かったような気がした。透はその感覚を、少し用心深く眺めた。それでも手放したくはなかった。
---
「久世さんは、どうしてこの活動を始めたんですか」
久世はすぐには答えなかった。
湯呑みを両手で持ち、しばらくその中を見ていた。
「私も、生き残ったんです」
久世は言った。
「数年前に。事故でした。私は助かって、妻は助かりませんでした」
水城は知っていたのだろう。表情を変えなかった。
「そのあと、私にも、似たことが起きました。私と同じ顔の、事故に遭ったときの私が、家にいるようになった」
久世はそれ以上は詳しく言わなかった。
「その人と話すうちに、いろいろなことを考えました。同じようなことが起きている人は、ほかにもいるんじゃないか。誰にも話せずにいるんじゃないか。それで、話を聞く場所を作りました。小さな場所ですけど」
「その方とは、今も」
透が尋ねると、久世は少しだけ笑った。
「ええ。今も」
それだけだった。
透はそれ以上聞かなかった。話したくないことなのだろう、と透は受け取った。今日の相談の方が先だと考えたのかもしれない。どちらにしても、久世はそこで止めていた。
それでも透の中で何かが動いていた。
この人も、生き残った人だった。大切な人を失って、自分だけが助かった人だった。
十年前から透は同じことを何度も言われてきた。助かってよかった。あなたのせいじゃない。前を向いて。どれも正しい言葉だった。どれも、透の中の一番奥までは届かなかった。
その一番奥にあるものを、この人なら知っているかもしれない。
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「僕も」
透は言った。
自分の声だと思えないほど、小さかった。
「十年前に、事故に遭いました」
水城が透を見た。透はテーブルの木目を見ていた。
「友人と歩いていて、車が歩道に入ってきました。友人は死にました。僕は助かりました」
久世は何も言わなかった。待っていた。
「そのとき、名前を呼ばれた気がするんです。衝突の音がして、そのあとに。誰の声なのか、分かりません。友人だったのかもしれない。そうじゃないのかもしれない。僕はその声で体が動いて、気がついたら、全部終わっていました」
透は息を吸った。
ここで止めることもできた。事故の話は、ここまでで十分だった。
「……一瞬だけ」
透は言った。
「助かった、と思ったんです。あのとき。友人がどうなったのかも分からないうちに。自分が生きていることが分かって、ほっとした」
言ってから、透は顔を上げられなかった。
十年間、誰にも言ったことがなかった。家族にも。蓮の家族にも。自分にさえ、はっきりとは言わなかった。
部屋が静かだった。電気ケトルが、かちりと小さな音を立てた。
「朝倉さん」
久世の声は、変わらず穏やかだった。
「私も、そうでした」
透は顔を上げた。
「妻がどうなったのか分からないうちに、自分の体が動くのを確かめて、ほっとしました。そのことを、何年も責めていました。今でも、ときどき」
久世は透の目を見ていた。
「助かったと思ったことと、相手が死んでよかったと思ったことは、別のことです。私は、そう思えるまでに時間がかかりました。朝倉さんに、今すぐそう思えとは言いません。ただ、その二つは別のものだと、私は思っています」
透は何も言えなかった。
喉の奥が熱かった。
水城は隣で、黙っていた。何も言わず、何も書かず、ただそこにいた。透はそのことを、ありがたいと思った。今、誰かに分析されたら、耐えられなかった。
しばらくして、透は湯呑みに手を伸ばした。茶はもう冷めていた。
「……ありがとうございます」
それだけ言えた。
久世は小さく頷いた。
透は冷めた茶を飲んだ。
楽になった、と思った。ほんの少しだけ。十年間、誰にも触れさせなかった場所に、誰かが触れた。それでも何も壊れなかった。
そして、別のことも思った。
あの声が誰だったのか分かれば。あのとき何が起きたのか、もっとはっきり分かれば。もっと楽になれるのではないか。
もし自分にも、久世の言う残存者がいるのなら。その人は、あのときのことを、自分とは別の側から覚えているのかもしれない。
透はそこまで考えて、湯呑みを置いた。
---
「久世さん」
水城が言った。
水城はノートの端を指で押さえていた。透と台所で書いた三つの項目が、そこにあった。
「今日聞きたいことがあって来ました。一つは、さっきの記憶のことです。もう一つは、話すようになってから、あの子が出てくることや、私の負担が増えたことです」
「はい」
「それから止めることについてです」
水城は少し言葉を選んだ。
「朝倉さんと一緒に、あの子と話すときは、私がやめたいと言ったら、そこで終わりにしています。でも、終わりにしても、あの子は不満そうで。私も、途中で終わらせて悪いことをしたような気がして。止めることは、よくないことなんでしょうか」
久世はしばらく考えていた。
「接触が増えたことは、心配です」
久世はまず、そう言った。
「眠れないのは、よくない。水城さんの生活が壊れてしまっては、意味がありません。それは、はっきり言っておきます」
「はい」
「今夜は、もう話さずに休んでください。記録のために会話を増やす必要もありません。書くのは、眠れたかどうかだけで十分です」
水城は小さく頷いた。
「止めることについては」
久世は湯呑みを脇へよけた。
「その場で水城さんがやめたいと思ったら、やめていいんです。無理に続ける必要はありません」
水城の表情が、少し緩んだ。
「ただ」
久世は続けた。
「やめたくなる、ということにも、意味があることがあります。私がこれまで話を聞いた方の中には、話が大事なところへ近づいたときに、強い拒否や不快感が出る方がいました。逃げたくなるのは、そこに何かがあるからかもしれない」
透は手帳を開きかけて、やめた。
「もちろん、そうでないこともあります」
久世は言った。
「ただ疲れているだけのことも。ですから、その場ではやめていい。やめて、休んで、落ち着いたら、もう一度向き合ってみる。そういうやり方もあります。私が見てきた範囲では、語られるべきことが語られたあとに、落ち着いていく方が多かったので」
透はその言葉に頷きそうになった。
筋が通っていた。自分も、最初の物件で似たことを感じていた。あと一言で何かが分かる、というところで、沢井がやめてと言った。あのとき止めたのは正しかったと思う。けれど、あの続きを聞きたかった気持ちは、今も消えていない。
沢井のことも思い出した。理由を聞いても、出口を示しても、声は止まらなかった。それでも沢井は、確かめるのをやめて、寝室で眠れる夜を取り戻していった。全部を聞かなくても、暮らしは戻った。
透はそれを知っていた。知っていて、今はそのことを持ち出したくなかった。あれは沢井の部屋のことだ。自分の事故は、違うのではないか。
やめて、休んで、落ち着いたら、もう一度。
それなら、どちらも守れるのではないか。
「……もう一度、向き合わない、というのは」
水城が言った。
透は水城を見た。水城は久世を見ていた。
「休んで、落ち着いて、それでもう向き合わないと決める。それは、どこに入りますか」
久世は少し間を置いた。
「それも、水城さんが決めることです」
久世は言った。
「ただ、向き合わないままでいると、残ってしまうものがあるかもしれない。私はそれを心配します。無理にとは言いません。水城さんのペースで」
水城は何も言わなかった。
ノートの端を押さえた指が、少しだけ白くなっていた。
透はその指を見ていた。それから久世の顔を見た。穏やかな顔だった。水城の負担を心配していると、さっきはっきり言った顔だった。
どちらも、同じ人の言葉だった。
透には、どこがどう引っかかるのか、うまく言えなかった。
---
帰り際に、久世は棚からファイルを一冊取り出した。
「もし参考になるなら」
久世は言った。
「これまでの相談の中から、ご本人の了承をいただいたものを、要約してまとめてあります。お名前や、どこの方か分かるところは伏せてあります。お持ち帰りいただいて構いません。コピーですので」
水城がファイルを受け取った。表紙には、相談事例要約、と印字されていた。
「水城さんの記録と一緒に、読んでみてください。休んだあとにもう一度向き合った方の例も、いくつか入っています。何か気づいたことがあれば、また教えてください」
「ありがとうございます」
水城は頭を下げた。透も頭を下げた。
「朝倉さん」
扉の前で、久世が言った。
「今日お話ししてくださって、ありがとうございました。事故のこと」
透は振り返った。
「もし、朝倉さんご自身のことで話したくなったら、いつでもどうぞ。水城さんとご一緒でなくても構いません」
「……ありがとうございます」
透はそれだけ言った。
---
ビルを出ると、外はもう夕方だった。
水城はファイルを胸に抱えて歩いていた。しばらくどちらも話さなかった。
「……久世さん、優しかったでしょう」
水城が言った。
「はい」
「私、最初に行ったとき、泣きそうになったんです。否定されなかったから」
「分かります」
透は言った。本当に分かった、と思った。
水城は少し歩いてから言った。
「でも、もう一度向き合わないって決めるのは、どこに入るのか。あれ、答えてもらえなかった気がします」
透は少し考えた。
「水城さんが決めることだ、とは言っていました」
「そうですね」
水城はそれ以上言わなかった。
駅の前で、二人は別れた。水城はファイルを読んだら連絡すると言った。
「休んでから、またやった人たちが、どうなったのか。いつ楽になったのか。それを見てみたいです」
水城はそう付け加えた。
透は電車の中で手帳を開いた。
今日聞いたことを書いた。残存者。不在の記憶。久世の事故。妻。拒否にも意味があることがある。休んでから、もう一度。
それから自分が話したことを書こうとして、ペンが止まった。
一瞬、ほっとした。
それを、誰かの前で口にした。久世はそれを悪意とは呼ばなかった。
透はその一行を書かなかった。
代わりに、久世の言葉を一つ書いた。
助かったと思ったことと、相手が死んでよかったと思ったことは、別のこと。
書いてから、しばらくそれを見ていた。
電車が揺れた。窓の外を、知らない町の明かりが流れていった。
あの声が誰だったのか。
あのとき、自分がどう動いたのか。
自分にも残存者がいるのかどうか、透は知らない。けれど、もしいるのなら。久世なら、その人と話す方法を知っているかもしれない。
水城は答えてもらえなかった気がすると言った。透も、あの答えのどこかが引っかかっていた。
それでも透はまた久世に会いたいと思っていた。
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