第十二話
区民センターの二階に予約すれば誰でも使える小さな部屋があった。
澪がそこを選んだ。家では読めなかった。あの子のいる居間で、久世の資料を広げる気にはなれなかった。職場の近くも避けたかった。知っている人に会わない場所で、窓のある部屋がよかった。
長机が一つと折り畳みの椅子が四脚。窓の外に銀杏の木が見えた。まだ葉は青かった。
朝倉は先に来て、窓際の椅子に座っていた。澪が入ると立ち上がった。
「時間は、四時までにしましょう」
澪が言った。
「途中で休憩を入れます。私が決めます」
「はい」
澪は鞄から四冊のノートを出して長机に並べ、その横に久世から受け取ったファイルを置いた。
「先に自分の記録を読み直したいんです。久世さんの資料はそのあとで」
朝倉は頷いた。
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一冊目を開いた。
夜、居間の窓際に人が座っているように見えた。明かりをつけたら、いなかった。疲れているのだと思う。
最初の頃の字は乱れていた。一行の中に見たことと思ったことが混ざっていた。怖い。私の顔だった。あれは私なのか。眠れない。どうかしてしまったのか。
頁をめくるごとに、同じような行が続いた。
二冊目の途中で、字の並び方が変わっていた。
左の欄に見たこと。右の欄にそう思ったこと。
窓際に女。私と同じ顔。|私の病気なのかもしれない。
「おかえり」と言った。|私が自分に言わせているのかもしれない。
答えなかった。三十分ほどでいなくなった。|答えなくても消える。
「ここからです」
澪は言った。
「久世さんのところに行き始めてから。見たことと、考えたことを分けるようになりました」
朝倉は、頁を見ていた。
「分けてから、どうでしたか」
澪は少し考えた。
「……楽になりました。怖いのは同じでした。でも、自分がどうかしてしまったのか、という怖さは減りました。見たことは見たこととして、ここに置いておける。考えたことは、考えたことだって分かる。混ざらなくなったんです」
澪は、右の欄を指でなぞった。
「私が自分に言わせているのかもしれない。これ、今でもそう思うことがあります。でも、それを左の欄に書かなくなった。それだけで、ずいぶん違いました」
朝倉は何か書いていた。書き終えてから、顔を上げた。
「それは、久世さんに教わった方法ですか」
「一緒に作りました。久世さんが最初に言ったのは、見たことと解釈を分けましょう、ということだけで。欄の作り方は、私が仕事で使っているのと同じです」
澪は、自分の言葉を聞きながら思った。
役に立った。確かに役に立った。これを、なかったことにはしたくない。
頁をめくった。
日付の間隔が詰まっていく。毎日話すように勧められた日。そこから、左の欄が長くなる。
立ち上がった。
帰宅するとこちらを見ている。
夜、居間から「起きてる?」。
二時間話した。
右の欄は、だんだん短くなっていた。空いている日もあった。
「右が、書けなくなっていったんですね」
朝倉が言った。
「……はい。左に書くことが多すぎて」
澪は、二冊目の終わりと三冊目を並べた。
「助言を試し始めた時期と、あの子がはっきりしてきた時期は、重なっています。それは、ここに書いてあるとおりです」
澪は、ゆっくり言葉を選んだ。
「でも、同じ頃に、仕事が忙しくなりました。担当が増えて。帰りが遅くなって、疲れていた。それに、毎日話すようになってから、記録する量も増えました。前は、見たときだけ書いていた。毎日書くようになれば、書くことは増えます。はっきりしてきたように見えるのは、書く量が増えたせいかもしれない」
「はい」
「だから、助言のせいだとは言えません」
澪は、ノートを閉じた。
「言えないんです。前から、眠れない夜はありました。でも、助言を試してから、眠れない夜が増えた。夜に声がして、話が長くなって、仕事にも響くようになった。それも、本当です」
朝倉は、しばらく黙っていた。
「分ける方法が役に立ったことと、話し続ければよくなるということは、別のことかもしれませんね」
朝倉は言った。
澪は、朝倉を見た。
「……そうですね」
分かっていた。言われて、改めて分かった。
分ける方法は、自分の手に残せる。話し続けるという方法は、もう一度考え直せる。二つは、同じ人から渡されたものだった。最初の方法が役に立ったから、次の助言も信じた。だから一つのものだと思っていた。
一つを手放すと、もう一つまで手放すような気がしていた。
「久世さんの資料を、見てみましょうか」
澪は言った。
---
ファイルは、思ったより厚かった。
事例ごとに一枚か二枚。表題は、事例A、事例B、と記号になっている。年代と性別がおおまかに書かれ、それ以外の情報は伏せてあった。
どの事例も、書き方が同じだった。相談の経緯。接触の状況。相談室での対応。経過。まとめ。
澪は、何枚かめくった。
「休んでからまたやった人の例を探したいんです」
朝倉も、ファイルの別の束を手に取った。
しばらく、二人とも黙ってめくった。窓の外で、銀杏の葉が風に揺れていた。
「これは、どうですか」
朝倉が一枚を差し出した。
事例F。三十代、男性。
事故後、自宅の一室に自身と同じ顔の人物を知覚するようになる。相談室にて継続的な接触と記録を開始。接触に伴い、不調を訴える時期があった。一時休止の後、接触を再開。その後、睡眠と日常生活の安定が得られた。
まとめ:継続的な接触を経て、生活の改善に至った事例。
澪は、それを二度読んだ。
「改善した、んですね」
「そう書いてあります」
朝倉は言った。
「ただ、いつ改善したのか」
澪は、もう一度読んだ。
一時休止の後、接触を再開。その後、睡眠と日常生活の安定が得られた。
「……再開したあとに、よくなった、と読めます」
「はい。そう読めます」
「でも」
澪は、その一文を指でたどった。
「安定したのは再開のあと、と書いてあります。でも、いつから楽になり始めたのかは書いてない。休止していた間に、もう少しずつ眠れるようになっていたのかもしれない。再開してから何をしていたのかも、分かりません」
朝倉は頷いた。
「休止は、どのくらいの期間だったのか。再開は、何回だったのか。それも分かりません」
澪は、頁を見つめた。
継続的な接触を経て、生活の改善に至った。
まとめの一文は、はっきりしていた。けれど、その上の経過の欄は、肝心なところが抜けていた。いつから楽になり始めたのか。休止していた間に何があり、再開のあと何をしていたのか。
もし休止している間に楽になり始めていたのなら、この事例は、話し続ければよくなる、という話にはならない。
もし再開してから楽になったのなら、久世の説明とは矛盾しない。けれど、それだけでは、何がよかったのかまでは分からない。
分かっていても、澪はそちらであってほしいと思った。
「悪く書いているわけじゃ、ないと思うんです」
澪は言った。自分に言い聞かせるように。
「要約ですから。短くまとめると、こうなるのかもしれない。久世さんが見た順番では、これで合っているのかもしれない」
「そうかもしれません」
朝倉は言った。
「ただ、これだけでは、どちらとも言えません」
澪は、頁の下の方に目を落とした。
小さな字で、注記があった。
※ご本人による体験記(匿名にて公開)あり。巻末参照一覧7。
澪はファイルの最後の頁をめくった。参照一覧の七番に、体験記の題と、掲載先の名前が一行で書いてあった。
「体験記」
澪は声に出した。
「ご本人が書いたものが、公開されているんですね」
朝倉が、頁の注記を手帳に写していた。事例F。本人の体験記、匿名公開、あり。参照一覧七に題と掲載先。
「探しますか」
朝倉が尋ねた。
澪は、少し考えた。
「……今日は、やめておきます」
澪は言った。
「今日は、自分の記録と、この資料を見に来ました。体験記まで読み始めたら、また別のところへ行ってしまう気がする。それに」
澪は、ファイルを閉じた。
「この人の体験記を探して読むのは、この人のことを調べることになります。私が今、知りたいのは、私の家のことと、あの家のことです」
「分かりました」
朝倉は手帳に、もう一行書き足した。後日。
澪は、自分のノートにも書いた。
事例F:安定は再開後と記載。楽になり始めた時期と、休止中・再開後の経過が不明。元の記録が必要。本人の体験記あり(匿名、参照一覧七)。今日は読まない。
それから、時計を見た。三時を少し過ぎていた。
「休憩にします」
澪は言った。
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資料は部屋に置いたまま、鍵をかけて出た。区民センターの向かいに、喫茶店があった。
古い店で、窓際の席はソファだった。店の奥から、コーヒーを挽く音がした。
座ってすぐ、朝倉が鞄に手を入れた。手帳の角が見えた。
朝倉は、自分の手に気づいたようだった。手帳を半分出したところで止まった。
「……すみません」
「何飲みますか」
澪は、メニューを朝倉の方へ向けた。
朝倉は手帳を鞄に戻した。メニューを見た。
「……お腹が空いているかもしれません」
「お昼、食べてないんですか」
「食べ損ねました」
「じゃあ、何か食べてください」
澪はメニューをめくった。ココアのところで指が止まった。生クリームが乗っている、と書いてあった。
「私、これにします」
「甘いものが好きなんですか」
「疲れたときだけです。普段は飲みません」
朝倉は、ホットサンドとコーヒーを頼んだ。
注文を終えると、少し間ができた。
何を話せばいいのか、澪には分からなかった。調べることの話なら、いくらでもできた。けれど、今はそれをしないと決めて、ここに来た。
「朝倉さんは」
澪は言った。
「仕事で、つい確認してしまうこと、ありますか」
朝倉は、少し考えた。
「……部屋に入ると、天井を見てしまいます」
「天井」
「染みがないか。それから、窓の建て付けと、コンセントの位置。友達の家に行っても見ます。この店に入ったときも、見ました」
澪は、思わず天井を見上げた。古い木の天井だった。梁が黒ずんでいた。
「染み、ありましたか」
「あそこに、少し」
朝倉が指さした先に、確かに薄い輪があった。
「雨漏りの跡だと思います。古いもののように見えます」
澪は、少し笑った。
「水城さんは」
朝倉が尋ねた。
「私は」
澪は、ココアが運ばれてくるのを見ていた。
「面談のあと、帰り道で、自分が言ったことを全部思い出してしまいます。あの言い方でよかったのか。あそこで黙った方がよかったんじゃないか。電車の中で、ずっと」
「毎回ですか」
「毎回です。直せたためしはありません」
ココアが来た。白いクリームが、茶色い表面に丸く浮かんでいた。
澪はスプーンでクリームを少しだけすくった。甘かった。甘さが喉の奥に落ちていくのが分かった。
朝倉のホットサンドが来た。朝倉は、半分に切られた片方を手に取った。チーズが細く伸びた。朝倉は困ったように、それを指で切った。
澪は、それを見ていた。
調べものの話を、していなかった。あの子の話も、久世の話も、母の話も。ココアが甘いこと。天井に染みがあること。チーズが伸びること。
ここ何か月も、こういう時間がなかった、と澪は思った。
家に帰れば、あの子がいる。職場では、人の話を聞く。帰り道では、自分の言葉を点検する。どこにも、何も考えずに座っている時間がなかった。
今、ここにあった。
朝倉は、黙ってホットサンドを食べていた。窓の外を見たり、コーヒーを飲んだりしていた。何も聞いてこなかった。
澪は、ココアを半分ほど飲んだ。
体の奥のどこかが、少しだけほどけた。
---
「朝倉さん」
澪はカップを置いた。言おうと決めていたわけではなかった。ほどけたところから、言葉が出た。
「あの家に、行きたいです」
朝倉が顔を上げた。
澪は、自分の言葉を聞いていた。行きたい。そう言った。
「子どもの頃に住んでいた家です。お姉ちゃんと遊んだ家」
朝倉は、黙って聞いていた。
「あの子に言われたからじゃありません」
澪は言った。先に言っておきたかった。
「あの子は、ずっと行けって言っています。約束したでしょうって。でも、あの子に言われたから行くんじゃない。お母さんに、お姉ちゃんはいたって認めてもらうためでもない」
澪は、カップの縁を指でなぞった。
「私が、知りたいんです。あの家に何があったのか。お姉ちゃんが何だったのか。私が覚えていることが、何だったのか。自分で確かめたい」
言い終えて、澪は少し息を吐いた。
怖かった。言ってしまったことが。言ってしまえば、行かなければならない。
「一緒に来てもらえますか」
澪は言った。
「調べるのを手伝ってほしいんです。あの家で、何を見て、何を聞いたか、分けて残したい。一人だと、混ざってしまう気がする」
朝倉は、しばらく澪を見ていた。
「行きます」
朝倉は言った。
「ただ、一つだけ」
「はい」
「お姉さんに会えたとしても、それで水城さんの家のあの方が消えるとは、僕には言えません。あの家のことと、水城さんの家のことは、別々に考えたいと思います」
「分かっています」
澪は頷いた。
「家で眠れるようにすることは、それはそれで続けます。久世さんに言われたとおり、今は眠れたかどうかだけ書いています。それとは別に、あの家のことを調べたい」
「はい」
朝倉は、少しだけ笑ったように見えた。
「それで、最初に何をしますか」
澪は、ココアの残りを見た。
「家があることは、もう分かりました。次は、中に入れるかどうかです」
澪は言った。
「……母に、連絡します」
朝倉は何も言わなかった。
「最後にするって言ったのに、先にしますね」
澪は、自分で笑った。
「でも、あの家が今どうなっているか知っているのは、たぶん母です。誰が管理しているのか。鍵をどこに預けているのか。入れるのかどうか。それを聞かないと、中には入れない」
澪は携帯を取り出した。画面を見て、しばらく指が止まった。
母に、あの家のことを聞く。それだけなら、何でもない用件だった。親戚の家の話。管理の話。
けれど、母はきっと聞く。なぜ急に、と。
そのとき、自分はお姉ちゃんの話をするだろうか。
子どもの頃、お姉ちゃんの話をすると、母は怒った。そんな子はいない。想像のお友達でしょう。もう大きいんだから。
二十年経って、同じことを言われたら。
今、澪を怖がらせているのは、あの家でお姉ちゃんに会えるかどうかではなかった。母にもう一度否定されることだった。
「……送ります」
澪は、文字を打った。
〈お母さん、久しぶり。急にごめんなさい。前に住んでいた家のことで聞きたいことがあります。今、誰が管理しているのか、入ることはできるのか、教えてもらえますか。〉
お姉ちゃんのことは、書かなかった。
送信した。
画面を伏せて、テーブルに置いた。朝倉は、窓の外を見ていた。澪の携帯を見ないようにしてくれているのだと、澪には思えた。
ココアは冷めていた。澪は、それを飲み干した。
「戻りましょうか」
朝倉が言った。
「資料、まだ片づけていないので」
「そうですね」
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区民センターの部屋に戻り、ノートとファイルを鞄にしまった。四時の少し前だった。
建物の前で、朝倉と別れた。
駅までの道を歩きながら、澪は携帯を見なかった。見たら、返事がないことを確かめてしまう。
電車に乗った。いつものように、今日自分が言ったことを思い出し始めた。
あの家に、行きたいです。
私が、知りたいんです。
あの言い方でよかったのか、とは思わなかった。
電車を降りて、改札を出たところで、鞄の中の携帯が震えた。
着信だった。
画面に、お母さん、と出ていた。
澪は、改札の脇に立ち止まった。人の流れが、澪の両側を通り過ぎていった。
出ないこともできた。あとで、かけ直すこともできた。
澪は、通話の文字に指を置いた。
「……もしもし」
「澪?」
母の声だった。
「どうしたの、急に。あの家のことなんて」
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